リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2011年7月~その2

2011年07月21日 | 昔語り(2006~2013)
察しの文化?察してちゃん文化?

7月12日。火曜日。ゴミ集のトラックの音にも目を覚まさなかったくらいぐっすり眠ったらしい。午後12時半に目が覚めて、2人して「今日は忙しいのに!」と跳ね起きた。今日も何となく涼しい。東部は暑いし、アメリカ南部は酷暑だし、日本も暑そうなのに、こっちは20度を超える日があっても1日。か2日。ですぐにぐずぐずと涼しくなってしまう。ちょっと不公平じゃないかと思うけど。

きのうは気の滅入るような仕事を1日。がかりで仕上げて、どよ~んと疲れてしまった。供述書のようなものは、ビジネスでもめているときは頭が疲れるだけでけっこうおもしろいけど、人間同士がもめているときは心の方が疲れてちっともおもしろくない。(リコン関係だったらゴシップ雑誌のようなおもしろさがあることはあるけど。)元々人間関係のもつれから始まったもめごとなもので、「気持」を描写する表現がてんこ盛り。しかも最近蔓延っているらしい過激化した表現があちこちにあって、それが本当にその人の気持のレベルなのかどうかがわからないから困る。「泣く」にしても、目がウルウルしたのか、しくしく泣いたのか、よよと泣き崩れたのか、手放しでわあわあ泣いたのかによって、それぞれの泣き方を表す単語を選ばなければならないのに、しれっとした語調で「号泣しました」って、ほんとはど~なのよ。勝手にもめてていいよ、もう、・・・。

まあ、日本の「察しの文化」が問題の根っこであることは間違いないだろうと思う。「自分の気持ち」、「自分の気持ち」の一点張りで、その「自分の気持」が相手に伝わっていないと口説いてみても、伝わっていないものは伝わっていないんだからしょうがない。「察しの文化」とか「思いやりの文化」というのは本来は自分「が」相手の気持や反応を推測して言葉や表現を選ぶものだと思っていたけど、今やどう見ても相手が自分「の」気持や反応を推測して(自分に都合の良い、あるいは心地の良い)言葉や表現を使うということが前提になているとしか思えない。だから、自分にとって心地の良くない言葉や物言いは自分の人格を否定するものであって、許しがたい行為と言うことになるのかなあ。何だか生きにくそうな世の中のような感じがするけど・・・。

いつの間にか日本人が誇る「察し」のエネルギーの流れが逆になっているということなのかなと思ったけど、だいぶ前に比較言語学者の論文に、英語は意思を伝えるというコミュニケーションの責任を話し手に負わせるのに対して、日本語では「聞き手」が話し手の意思を慮るという責任を負わされているというくだりがあったから、相手に察してもらうことを期待するのが元からの「察しの文化」、「思いやりの文化」だったのかもしれない。だから、話し手は好きなだけあいまいな表現を使ったり、論旨を意図的に隠したりすることができるのに、聞き手の方はその不完全な情報から話し手の言わんとすることを正しく察することができなければ「気の利かない人間」と評価さ
れることになるんだろうし、言わんとすることを筋道を通して主張しても「気の利かない人間」と評価されるんだろう。つまるところは「物言えば唇寒し」か。ワタシには日本人の心のひだのそんな深いところまで理解できるような「察し力」がないんじゃないかと言う気になって来る。

ま、「察し力」や「思いやり力」はあまりないかもしれないけど、この人はどうしてそういうことを言うんだろうという心理分析はしていると思う。それでも、日本では「空気が読めない」ということになるんだろうけど、少なくとも、言うべきことをはっきり言わなくても、相手がワタシの思うところを察して対応して「くれる」はずとも思っていない(と思う)から、いうなれば精神的な収支はトントン。不思議なことに、カレシのはかなり「察してクン」的なところがあって、批判されるのが怖くて結婚したくないことをはっきり伝えなかったからしたくない結婚をするはめになり、妻にさえ自分の気持を素直に言わないで腹の底にため込んだから人生に立てなくてもいい荒波を立てるはめになり、どれもこれも相手が自分の気持ちを「察してくれなかった」からと、なんか小町に立つトピックのようだな。あんがい、ワタシたちって、生まれるべきところが逆だったのかも・・・。

夢に妹、グーグルに我が家跡

7月13日。水曜日。正午のぎりぎり前に起床。雨のはずだけど、降っていない。ずっと不思議な夢を見ていたような気がする。ストーリーが切れ切れでまとまりがないけど、ある点で、妹が夜明け前の空のようなきれいな青のドレスを着ていて、出かけるというので化粧して行ったら?と言っていた。で、しないと言うから、ワタシのアイブラウペンシルを持ち出して来て、せめて眉を引いた方がいいよと一生懸命に「姉の権威」を発揮しようとしていた。このあたりのシーンで最後に覚えているのは、すっきりと眉を引いた妹が「じゃあね」と出かけていくのを、ワタシは「きれいだなあ・・・」と感嘆して見送っていたところ。

周りに他にも何人かいたんだけど、顔すら思い出せない。まるで、ワタシと妹だけにスポットライトが当たったようだった。(ワタシに当ててもしょうがないんだけどな。)高校時代は英語だけダントツで後はほぼ底辺レベルだったワタシに比べて、妹の方がオールラウンドに成績が良かったし、その頃にぐんぐん背が伸びてワタシを追い越したから、長幼の序も何もあった、もんじゃなくて、3つしか違わないのにずっと大人びていた妹に頭が上がらなくなってしまった。(と言うよりは、おてんばなワタシの方が年の割に子供っぽかったのかもしれないけど。)だけど、夢の中で青いドレスを着ていた妹は若くて、すごくきれいに見えたなあ。(元から色白できれいなんだけど。)

その後も不条理劇のようなつじつまの合わない夢を見て、目が覚めて一番先に思い出したのが仕事。またもや閉店間際の駆け込み注文。んっとに日本のビジネスってどうしこうせっかちなんやろうねえ、とぶつくさ言いながらキーを叩いているうちに午後の2時間があっというまに消えてしまった。今日の夕食はオヒョウとヤムいものてんぷら。てんぷらは揚げ物だから、オヒョウを対のスパイスで蒸して、蒸しインゲンを添えようと思っていたら、カレシが「これもてんぷらにできる?」と菜園から大きな青しその葉を2枚。うは、大きすぎてミニフライヤーに入らないかも。しょうがないから2つに切って、インゲンはメニューから外し、ヤムいもと青しそのてんぷらをメインにして蒸したオヒョウをサイドに添える変則的な形になった。(フライヤーの火力が足りないのか、しその葉はあまりカラッと揚がらなかった。)ヤムは天つゆがなくてもそのままでおいしい。

日本の英語写真ブログサイトに広島のストリートビューへのリンクがあったので、来年行くことだしと思って覗いてみたけど、なんかイマイチぱっとしない。まあ瀬戸内海は津軽海峡から遠すぎて、お城はいくつも見た「どこそこ城」と区別がつかないし、厳島の鳥居も陸地から見ると思ったよりも小さくて、おまけにアングルを回してみたら商店らしい建物のそばにコカコーラの赤い自動販売機が見えたので、「こんなもんなの?」と言う感じ。まあ、実際にそこに立って見たらまた印象が違うのかもしれないけど。

その弾みで何となくグーグルマップを札幌にズームインして行ったら、5本の道路が星のように合流しているところが見えた。かって実家が建っていたところで、さらにズームインしたら、屋根が見える。去年見たときはまだ更地だったのにと、ストリートビューに切り替えたら、わっ、我が家があった土地いっぱいに新しい家が建っている。長年噂されていたところに地下鉄の駅ができていたし、砂利道だった道路はダウンタウンから貫通する広い舗装道路になっていたし、となりの土地に「何とかハイツ」と言う小さなマンションが建っていたから、たぶん同じようなものが建つんだろうと想像していたけど、どう見ても戸建ての注文住宅だな。そうか。何年か前に不動産屋?に売ったあの土地を買って、終の棲家を建てたんだろうな。それにしても、敷地の境界すれすれに建っていて庭がないし、二階の正面にベランダはあるけど、なんだかのっぺりした感じの家だなあ。

カレシ曰く、「来年見に行こうよ」。え?ヘンな2人組が人さまの家を観察してうろうろしていたら、警察を呼ばれてしまうかもよ。だけど、行って見てみたい気もするな・・・。

職業性情動障害(またはナマケモノ症候群)?

7月14日。木曜日。なんかたら~んとした気分で、そのまま寝てたいかったけど、また駆け込み仕事があるのでしかたなく正午ぎりぎりに起きた。昨夜から降っていた雨が上がって、玄関のドアを開けると清々しい空気がさっと入って来た。でも、ポーチの温度計はなんと摂氏13度・・・。

天気予報では未だに「夏は来ます!」と言っているけど、環境省の気象部には連日「まだですか」と夏の到来を催促する電話がかかって来るんだそうで、「こちらは天気情報をお伝えするだけで、お天気メーカーではありません」と答えているとか。観光地やキャンプ場、自転車レンタル、アイスクリーム売りと言った夏のビジネスは閑古鳥が鳴いているらしい。昼のニュースでは、夏休みに入る子供たちのための「おうちピクニック」のアイデアを紹介していた。要は、ピクニックのご馳走を作って、家族でリビングの床に座って食べようということらしい。ふむ、おにぎりを作って、水筒にお茶を入れて、おうち遠足をやってみるとか・・・何だかなあ。

冬に日照時間がぐんと少なくなる高緯度地域では季節性情動障害(SAD)というのが問題になるけど、夏になると毎日じっとりと重い霧がかかるところで生まれ育ったワタシにとっては日照不足はちっとも苦にならない。でも、どうやら夏に発症するタイプもあるようで、冬型と夏型では症状が違い、冬は倦怠感、気力の低下、寝すぎ、過食、夏は食欲低下や不眠が主なんだそうな。どっちにしても、体がだるくて疲れた気分になり、鬱々とすることには変わりはないらしい。まあ、夏場の食欲低下や不眠は暑さや湿度とも関連した一種の「夏ばて」じゃないかと思うけど、元々あまり暑くならない乾いた夏のバンクーバーでのSADは何が原因なんだろう。

とにかく近頃はな~んか気合が入らない。でも、食欲は減るどころか寝酒とおつまみのおかげでじわじわと体重が増えて来たし、1日。中でも眠っていたいくらいだから、天邪鬼のワタシらしく、夏に冬型のSADというところかな。いろいろと精神的に動揺したり疲れたりすることが多くて、気合が入らないだけなのかもしれないけど、まっ、そこは名前のあるビョーキのせいにした方が気分的にいいから、季節性情動障害になってちゃってぇ・・・な~んて。

それでも気を取り直して、またもや閉店間際に飛び込んできた仕事にまじめな気分で対応。こんどは無味乾燥なビジネス上のけんかだから、ロンドンはオールドベイリーで馬の毛のかつらを被り、黒い法服をなびかせるランポール先生をイメージして、「したがってすべからくむにゃむにゃするべきところ・・・」とやる。商売の世界も何かともめごとが多いけど、少なくともこっちは感情的な主張はないし、言い分を通すためには「言わなくてもわかるだろう」では裁判で負けかねないから、文章は(回りくどかったりするけど)実に明瞭明確明快で、いったい何を言いたいんだ!と悩まずにすむから楽なもの。いつもこういう日本語の原稿ばかり来るるんだったら、ルンルンの気分で楽しく毎日の食い扶持を稼げるのになあ。ひょっとして、「職業性情動障害」みたいなものがあるのかな(別名「ナマケモノ症候群」とか?)。あるとしたら「一過性」だといいけどね。

まあ、日本はそろそろ金曜日の午後。あと2時間くらいの間に駆け込みの置きみやげ仕事が飛び込んでこなければ、新しい1週間が始まる日曜日の夕方まではワタシの「週末」。心ゆくまでだらだらとへたれていたいので、神さま、仏さま、どうか何も入って来ませんように・・・。

人間が記憶することをやめたら?

7月15日。金曜日。目が覚めたときにはカレシはとっくに起きていた。きのう夕食後にテレビの前で2時間も眠ってしまったもので、午前10時には目が覚めて全然眠くなかったんだとか。今日はがんばって眠らないようにするから2時くらいには寝ようねと言うから、10時に起きようと思って先に起きたんだから、2時に先に寝ようと思えば寝られるんじゃないのとやり返した。まあ、就寝時間が午前4時過ぎにずれ込むたびに「せめて2時に」とリセットを試みるけど、なにしろ「超」がつく宵っ張りのカレシのこと、成功した例はないから、どうなるか・・・。

何かよくわからないテレビドラマみたいな夢を見ていた。カレシとワタシと、どこかよその国っぽいところの、市場なんだか遊園地なんだかデパートなんだかよくからないところで、泊まるところがないからとソファのようなところで夜明かしを決め込んでいたら、何だか知らないけど重大なヒミツ情報を耳にしたらしく、不思議と「重大情報」ということはわかっていたようで、逃げたのかどうか知らないけど、最後はお役所の受付のようなところでおじさんに「どうやって手に入れた?」と聞かれて、カレシが「女房が・・・」とワタシを指したところで目が覚めた。ふう・・・。ヘンな夢ほど支離滅裂に手の込んだ筋書きになることが多いけど、これはちょっとスリルがあったな。

今日は仕事なしの「週末」。目頭の結膜炎?がまだ完治しないので、今日はコンタクトレンズなしで過ごすことにした。(コンタクトを入れると沁みるから黒目(茶色いけど)との境目のあたりに傷ができているんだと思う。)テーブルの向こうのカレシの顔も目と口があることしかわからないけど、住み慣れた家の中にいる限りは良く見えなくてもまったく困らない。でも、一歩外へ出たら話は別で、不在通知が入っていた小包を引き取りにメインストリートの端の郵便局まで行ったのはいいけど、車の方向指示ランプが見えないし、道路標識もぼやけて読めないからけっこう危険。帰り道には家に通じる道路に曲がらずにそのまま通り過ぎてしまったから、大汗をかきながら坂道を上って来た上によけいな何十歩・・・。

メールのチェックは鼻先を画面から10センチくらいまで近づけて、小町横町の散策は150%に拡大してちょっと身を乗り出し、ブログ書きは250%に拡大して(乱視を軽減するために)目を細めて、それぞれに何とかなるから、技術の進歩はありがたいもんだと思う。初めてコンピュータを買ってからもう25年近いけど、あの頃のは小さい画面にオレンジ色の文字だけで、それがいかにも「コンピュータ」という感じだったから、画面の表示を自在に拡大したり、縮小したりできるようになるとは思ってもみなかった。当時、視覚障害者に認定されていたカレシの叔父さんがカナダ視覚障害者協会に勤めていて、文書を作るのに画面の文字を拡大する特殊なソフトウェアを使っていると言っていた。今ではそんなソフトも過去の遺物になっているんだろうな。

この四半世紀のコンピュータ技術の発展はすばらしい。たしかに、ビジネスも日常の暮らしもいろいろと便利になった。でも、あんまり便利になりすぎてしまって、人間が誰もが持って生まれて来る「コンピュータ」を使わなくなりつつあるのもたしかだろうな。グーグルのような検索エンジンの発達で、人間は情報を自分の脳に記憶する代わりにコンピュータを「外部記憶装置」として扱うようになって来ているらしい。ハーヴァード大学での実験で、情報は「消去される」と言われた人たちに比べて、「保存される」と言われた人たちは情報の内容を忘れる傾向が強いという結果が出たという記事がBloombergに載っていた。コロンビア大学での実験でも、情報そのものよりもその保存場所の方を良く覚えていたそうな。アインシュタインはかって「どうしてそんなに多くのことを知っているのか」と聞かれて、「何にも知らないよ。どこで調べたらいいかは知っているけどね」と答えたそうだけど、アインシュタインはそうやって知識の記憶を「外部委託」することで頭の中にできた空き容量を使って相対性理論を考え出したけど、普通の人間の世界では単に「教えてちゃん」の増殖に次いで、今度は「覚えてちゃん」が蔓延るだけかもしれないな。

そのうち、使われなくなった頭の中にコンピュータを移植するなんてことになったりしてね。もしもそうなったら、もう画面の表示を拡大する必要もなくなるだろうな。目をつぶるだけでコンピュータに接続、おでこを指先でポンポンとやればたちどころに知りたい情報が瞼の裏に表示される・・・何だかゆうべのはちゃめちゃな夢みたいな話だなあ。まあ、そういう技術の発達が人類にとっていいことなのかどうかは別として、少なくともハッカー対策だけはしっかりやっておかないと。

思いがけず三連休のお相伴

7月16日。土曜日。雨。寒い。こんなんじゃ、へたをすると最高気温が平年並みの最低気温に近くなってしまいそう。ロッキー山脈の向こう側はえらい猛暑だそうで、ずっと東のトロントは湿度が高いから体感温度は40度にまで行ってしまうらしい。あんまりいつまで経っても夏らしくならないもので、東部やアメリカ南部の猛暑を伝えるテレビに向かって、やけっぱち半分で「お気の毒にぃ」なんて言っていたら、トロントのデイヴィッドから電話。「もう、暑くて、暑くて、暑くて、いやんなった」と言うのに対して、「だったらこっちへ帰って来いよ」とカレシ。まあ、この兄弟は、冬には「もう、雪が降って、降って、降って、いやんなった」に対して「だったらこっちへ帰って来いよ」とやっているので、定番の掛け合い漫才といったところかな。でも、ほんとに、猛暑の気温と冷夏の気温を足して2で割れたらみんなが快適な夏なのに・・・。

仕事のない「週末」の2日。目。実は日本では三連休の週末なんだそうで、やった~。たまたま仕事を置いて行かれなかったから、ワタシも三連休のお相伴。つまり、月曜日の夜までは完全にフリー。自由!雲のごとく、風のごとく自由・・・はちょっとはしゃぎすぎだけど、まあ、期せずして三連休の中日はうれしい限り。今日はさっそくデスクの山のように積み上がってしまったカタログやらDMメールの片付け。2週間ほど郵便が止まってくれたおかげで、デスクは積載荷重超過でつぶれないで済んだのかもしれないな。雑誌購読の勧誘がぞろぞろ。カタログもぞろぞろ。ついに去年の固定資産税の明細書まで出て来た。

とにかくレター状のものをまず封筒から出して、シュレッダにかける必要のあるものはシュレッダでジャッ。そうでないものは住所氏名を「消しポン」で隠蔽してリサイクルボックス行き。次はどうも過去1年分はありそうな通販の送付明細書。これも住所氏名を判読不能にしてリサイクルボックスへ。最後にカタログの類。一度注文するといつまでもカタログが送られてくるから、あっという間にすごい数が積み上がる。裏表紙の印刷してある宛名を隠蔽して、中の注文用紙にも宛名を印刷してくるとわかっているものはページをめくって宛名を消しポン。悩ましそうな下着のカタログまである。大手のVictoria’s Secretあたりはまだ品は悪くないけど、聞いたこともない会社のはポルノ風の写真が満載だったりする。よくテレビで宣伝販売しているような「ネズミ捕り以来の最大の発明」みたいな、一見便利そうでたぶん2回使ったら壊れそうなものばかりのカタログもある。ふむ、いつも利用する通販カタログにはどれも「厳選した一流企業にアナタの住所氏名を譲渡することがあります」と書いてあるけどなあ。もっとしっかり「厳選」して欲しいもんだ。

コンタクトレンズを入れていないから、全部片付けるのに午後いっぱいかかって、やっとデスクの表面が見えるようになった。やれやれ、背中が痛い。こんなにた~っぷりとしたデスクを作り付けにしたのに、めったにスペースが空いていることがない。ふだんから、まじめにシュレッダにかけるものはその場でかけ、興味のないカタログはその場で宛名を消してリサイクル箱に放り込み、ファイルすべき書類はその場でファイルキャビネットにしまう習慣をつけておけば・・・あはは、言うは易しの見本みたい。かくしてせっかくの三連休をオフィスの整理整頓に費やす羽目になる。そういえば、今月末は第2四半期の売上税の申告期限だぞ。売上税と言えば、住民投票の用紙、まだ返送していないぞ。やたらと購読更新のDMをよこすもので半年分ほど購読注文が重複してしまった高い雑誌に手紙を書くのもまだ。そういえば、新年に手紙を書くからねとクリスマスカードだけ送った小学校時代の友達にまだ約束の手紙を書いていないぞ。でも、再来週の芝居の席はちゃんと予約した。ふむ、他に忘れていることはないかなあ・・・?

そうやって午後が風のごとく過ぎて、すぐに夕食の準備の時間。魚をさばくのに細身の鋭利なナイフを扱うのがちょっと怖くて、コンタクトを入れることにした。きれいに手を洗って、そろ~っと入れてみたら、あら、沁みなくなった。まだ異物感が残っているけど、きのう1日。コンタクトを入れないでいたのが良かったんだろうな。(しまいにはちょっと頭痛がして来たけど、がまんしてとうとう寝るまで入れなかった。)今日は白目もほんとど充血がなくなったし、何よりもコンタクトを入れたとたんに沁みて涙がでるほど痛かったのがなくなってうれしい。黒(茶色なんだけど)目との境界にできたポチッとした濁りらしい点が気になるけど、まっ、いつまでも残るようだったら眼科に行けばいいか。世界がすっきりと見えるのはやっぱりいいもんだ。つい鼻歌が出て来そう。

さて、明日も丸一日休み。うまく行けば、日本で連休明けになる月曜日も夜までは何も起きないかもしれない。あしたは日曜日。天気予報は雨、予想最高気温は20度。さあて、あしたは何をしようかなあ・・・。

人間には品質保証書が付いてこない

7月17日。日曜日。10時くらいに咳で目が覚めて、ひとしきり咳き込み、それでカレシが目を覚まして、ひとしきりもぞもぞして、だけど2人の頭の上に吹き出しの中に「起きるにはちょっと早すぎて中途半端だなあ」と書いてあるのを読んでいる(気分でいる)うちに、2人ともぐ~っすり眠ってしまった。どうも最近は8時半から10時くらいまでの間にいったん目を覚まして、その後で爆睡してしまうことが多くなったような気がする。昔のワタシは寝入り端は火事でも起きなかったんだけど、年とともに睡眠パターンが逆転するのかな。とういわけで、起床は午後1時・・・。

カレシがきのう朝食用のパンを焼くのを忘れた(さぼった)ので、今日はベーコンとポテトと目玉焼きの「ブランチ」。今日のポテトはさいの目に切って、シャンテレルきのこを入れた。ひと口食べて「おお、ホテルのレストラン並みの朝食だ~」とカレシ。じゃあたっぷりチップを置いてってね。朝食が終わればもう午後2時過ぎで、思いついてシーツの洗濯。カレシが英語教室のディスカッションの教材に使う「ストーリー」のネタを探していて、普遍的な日常の人間関係のテーマとしてどんな「問題」がいいだろうかと聞いてきた。ある状況を示して、「どうしたら良いか」を聞き、その答について「なぜか」を説明させるんだそうな。(英語社会でやって行くには「説明力」が重要だということらしい。)人間関係のトピックなら小町にずらりと並んでいるから、これはと思うものをメモしておいてあげることにした。

まあ、職場の関係や家庭の関係はそれぞれの国や民族の人間観の違いや文化的、社会的な要因による表層的な違い違いはあっても、根本的にはどこへ行っても似たりよったりだという気がする。そのレベルの人間関係では、言語や文化にかかわりなく、わかり合える人とはわかり合えるし、わかり合えない人とは所詮わかり合えないんだと思う。どんなレベルでも完全にわかり合えそうにないのは男と女の(逆説的だけど)親密な関係くらいかな。わかり合えない相手が異民族の場合は、人種や言語、文化の「壁」を理由にして、退却するもよし、相手を一把ひとか
らげにくくってこき下ろすもよし、猛然と立ち向かうもよし。だけど、自分の民族、言語、文化の環境にいる場合は退却というわけには行かないだろうから、後は相手をこき下ろすか、相手に立ち向かうか。立ち向かうことで「ある日わかり合えた」ということもあるだろうけど、こき下ろしは百害あって一利なしか。

アメリカでの実験によると、完ぺき主義と言われる人は、ムカつく相手のことをいくら同僚や友人に愚痴ろうが悪く言おうが、それで胸がすっきりするどころか逆にストレスが高まるらしい。完ぺき主義も努力やがんばりの動機付けになったり、逆にエネルギーの空焚きのような状態になったりするけど、そのエネルギーが自分に向かわずに他人に向かったときは「誰もかれもムカつく、非常識、いい加減」と苛立つことになるんだろうな。自意識や自尊感情と何らかの関係があるんだろうけど、相手は自分の完ぺき基準に合わせようとはしないし、基準に合うようにその人を変えることもできないから、よけいにイライラが積もってストレスになるだろうな。小町横町にはそういう完ぺき主義者がたくさん住んでいて、飽くことなく「完ぺき」を追求したり、要求したりしているけど、そういうところは人種や国が変わっても似たりよったりの「所変われど品変わらず」のようだから、人類に普遍的な人間性なんだろうな。

それにしても、人類が「完ぺき」を追求して来たことはたしかだし、ギリシャ神話なんかではその完ぺきさ故に神さまたちの怒りを買って悲劇になる話も多い。古代ギリシャでも完ぺきは神さまたちの専売特許なんだけど、自分たちと肩を並べそうな人間を見るとやきもちを焼くなんて、これまたえらく人間的な完ぺき主義だなあ。まあ、人間には「完ぺき」なんてあり得ないということだろうな。この際、ストレスの多い完ぺき主義は神さまたちに任せて、人間は欠点、短所、大小の瑕疵が満載のままでもいいんじゃない?よく考えたら、誰も「品質保証書」付きでこの世に生まれて来たわけじゃないんだし・・・。

マナーが悪いのはネアンデルタール人のせい?

7月18日。月曜日。正午の気温は摂氏17度。ああ、眠い。カレシがやたらとドタン、バタンと寝返りを打つし、その弾みで一回は危うくベッドから押し出されそうになるしで、まともに寝つけなかった。カレシが早くに起きたのでやっとつかの間の熟睡。と思ったら、今度は防犯装置をオフにしないで外へ出るから、突然のアラームでがばっと跳ね起き、カレシがアラームを解除したところでまたひと眠り。何だか1時間くらいずつの小出しの睡眠ではさっぱり寝たような気になれない。朝から疲れるなあ、もう。

女子サッカーのワールドカップで日本が優勝して、『日本にやっと歓喜の花が咲いた』と言う見出しがあちこちのメディアで躍っている。大震災と原発/放射能問題で暗い気分になっていた日本にもたらされた明るいニュースと言うところで、体格負けしている日本選手たちは良くやったと思う。なんたって足の長さが違うから、走るにも、転がるボールを横から奪うにも、歩幅の大きな相手チームよりもずごいエネルギーがいるんじゃないかと思う。ま、最近の(たぶんバブル以来の)日本は女の活力で持っているような印象がないでもないけど。でも、「日本は世界一になった」とナデシコの七光りに浴して浮かれるだけで、「よ~し、我々もやるぞ~」と被災地の復興や社会経済の活性化に腕まくりをして取り組もうという気風が生まれなければ、せっかくナデシコたちが奮戦して咲かせた「歓喜の花」もあだ花で終わってしまうように思うけどな。

ネアンデルタール人は今の人類とはまったく別の種ということになっていて、数十万年前にアフリカで出現して、その後ヨーロッパやアジアへ移動して約3万年前に絶滅したと考えられている。「動物界後世動物亜界脊索動物門羊膜亜門哺乳綱真獣亜綱正獣下綱霊長目真猿亜目狭鼻猿下目ヒト上科ヒト科ヒト下科ホモ属サピエンス種サピエンス亜種」というギネス級の長ったらしい学名の今の人類がアフリカで共通の祖先から別れたのは15万年前だそうだから、ネアンデルタール人はホモ属としては大先輩と言うことになるかな。そのネアンデルタール人のX染色体のDNA配列が解析されて、そのデータを今の人類のX染色体と照合したら、サンプルの約9%がネアンデルタール人の遺伝子の断片を持っていたという研究結果が出たという。交わらなかったと考えられていた2種類のヒトが実はどこかで出会って交わったということだけど、ちょっと考えたらそれは当たり前じゃないのかなあ。要するに、国際結婚の先史時代版というところかも。

何らかの理由で現人類と共存できずに死に絶えたのはたしかだろうけど、現人類はネアンデルタール人を野蛮で粗野な低脳人間の代名詞みたいにしているけど、実は脳の大きさは現人類と同じで、言語をつかさどる遺伝子を持っていたそうな。装飾品を作ったり、葬礼や儀式も持っていたらしい。つまり、現人類と同じように「人間の感情」を持っていたということだと思う。あんがい現人類よりも豊かな情緒を持っていたかもしれないな。だって、動物のように野蛮で粗暴だったら、数万年経った今地球の生物界の頂点に君臨しているのはネアンデルタール人で、「大昔に絶滅したサピエンス人の遺伝子の断片が現代ネアンデルタール人のX染色体に見つかった」という新聞を読んでいるかもしれない。

カナダ自動車協会の調査によると、カナダ人の道路マナーは5年前の調査に比べてかなり低下しているらしい。割り込みをしたり、携帯をいじりながら運転したり、車間距離を十分にとらなかったり、右折左折のシグナルをしなかったり、窓からゴミを捨てたり、スピードを出しすぎたり。一番迷惑なのはroad rageと言って、他の車のちょっとした動作でカッとなってぶっちぎれるドライバー。見境がなくなっているから何をするかわからない。後ろからホーンを鳴らされたことに逆上して相手を殺してしまったというような事件は日本でもあったような。現代人は精神的な余裕がなくていつもカリカリしているのか、あるいは自尊感情が低くて、他人の言動を自分への侮辱と感じて反射的に報復的な行動に出るのか。まあ、どうなのかわからないけど、ネアンデルタール人が見たら何と思うだろうな。「粗暴で低脳で、そのくせオレ様なところは間違いなくサピエンス人の遺伝子だな」なんて、ハンドルの向こうで笑っていたりして・・・。

老後の暮らしはもう始まっている?

7月19日。火曜日。ごみ収集日。午前7時過ぎにリサイクル品収集車がガチャン、ドシャンと通って行って目が覚め、8時前後に「上り」のごみ収集車がゴゴ~ッと通り、30分ほどして「下り」がゴ~ッ。寝ぼけた頭でやれやれと安心した気分になって、ぐっすり眠って午前11時55分に起床。2人とも正午前に起きたのはエライな。今日は薄曇りだけど、予想最高気温は20度。でもまた今夜からずっと金曜日まで「雨」の予報で、最高気温も17度とか18度。トロントでは35度とか37度という猛暑で、けっこう湿度の高いところだから大変らしい。よく歩道で目玉焼きができる暑さというけど、テレビのレポーターが冷た~いフラペチーノを炎天下の歩道に置いて実験したら、2分ほどで普通のコーヒーになったとか。それでも、7月中旬を過ぎてもまだ20度前後では、猛暑に辟易している人たちに「涼しいよ~」と自慢したい気分にもならないな。夏、どうしちゃったの・・・?

今日も仕事がないから、朝食後はリビングのテーブルに貯まった雑誌の類を片付ける「家事」。ふむ、家事と言えるようなものじゃないけど、何も置いていない平面があるとものを起きたくなるのがカレシで、ほうっておくと雑誌だけじゃなくていろんなものがテーブルの表面を埋めることになる。まあ、ディナーのお客があるときくらいしか使わないテーブルだから不便はないけど、手が空いているときに片付けたほうがいいだろうから、一応これで今日の「家事とする。毎日起きている時間のいったい何割くらい「主婦」をやっているんだろうな、ワタシ。仕事か遊びが9割くらいで、主婦は1割くらいかな。つくづく専業主婦になるように生まれ付いていないんだなあと思う。毎日、家の掃除をして、洗濯をして、アイロンをかけて、買い物をして、子供がいれば子育てもして、家族のご飯を作って・・・ということができる専業主婦はえらいと思う。家の中や身の回りを整頓したり、きれいにしておくのが好きじゃないと、毎日やるのは精神的にしんどいだろうなと思う。ワタシにはとってもできそうにないから、それを何年も毎日やれる人はすごいなあと思う。ほんと。

カレシを英語教室に送り出して、ふと思いついてオフィスの配置転換。といっても、L字型のデスクの隅にまだある古いコンピュータ一式と新しいコンピュータの置き場所を入れ替えるようなものなんだけど、それでも、「足のやり場」に困らないように、デスクの下にびっしりと置いてある段ボール箱や古いプリンタ、たまに使うときだけ接続するファックス機、シュレッダといったものも配置転換することになるから、けっこうな重労働。あれをこっちに動かして、これをあっちに動かして、あれをちょっとこっちに置いて、これはちょっと向こうに置いて、と大汗をかきながら1時間ほどかかって、作業エリアは右へ90度方向転換。山積みしてあった不用品を片付けたせいもあるけど、ずいぶん広くなった感じがする。部屋の反対側に「オレのドメイン」を持っているカレシとは背中合わせの形になるので、英語教室から帰って来たカレシに「お互いにバックミラーをつけて、ときどきハ~イと手を振れるようにしようか」と言ったら、即座に却下。ま、たしかに。互いに回転いすをぐるっと回せばいいわけだし・・・。

ワタシのオフィスはデスクが「コの字型」に作り付けになっていて、総延長は5メートルちょっと。そのままさらに壁に沿ってカレシのオフィスに続いて、そっちは一辺が広がった変形「コの字型」で、少し短くて4メートルちょっと。2人の間は天井に届く高さのIKEAの本棚2つで隔ててあるけど、デスクの方は新しいプリンタが「隔壁」の代わりになっている。用紙の補充などでアクセスしやすいように本棚の端との間を空けておいたら、いつの間にかカレシが床に段ボール箱を置いてしまったので、カレシの側に「遠征」するときは本棚の反対の端を回って行く(つまり、正面玄から行く)か、えいっと段ボール箱をまたいで行く(つまり、裏口から奇襲をかける)か、そのときの気分しだい。

まあこんな風に、ご隠居さんのカレシと現役稼働中のワタシは、同じ部屋で日がな一日(今日からは背中合わせに)コンピュータに向かって、それぞれの仕事や趣味に没頭したり、時には互いにネットで見つけた話や音楽を聞かせたり、「腹へった~」、「ランチにするか~」、「そろそろ寝るか~」と合いの手を入れたりしているうちに毎日が過ぎる。ワタシが時間と競走で仕事をしているときにカレシが「かまってチャン」になるとイライラすることもあるけど、平穏と言えばいたって平穏な毎日。ワタシは引退しても専業主婦はできそうにないから、カレシと同じ「ご隠居さん」になる。10年前には想像すらできなかったけど、ワタシとカレシの「老後の暮らし」の形が確実にできあがりつつあるということだろうな。いや、2人そろって60代なんだから、老後の暮らしはすでに始まっているか・・・。

もてなすも地獄、もてなされるも地獄

7月20日。水曜日。シーラとヴァルが掃除に来るので、目覚ましを午前11時55分にセットしておいたら、なぜか11時53分にパッと目が覚めた。さっそく目覚ましを止めて、カレシを肘鉄でやさし~く起こして、しばしぐずぐず、いちゃいちゃ。またまた何だか冴えない天気。玄関ポーチの温度計、正午の気温は14度。これって、今頃の平年並みの「最低気温」じゃないの・・・。

今日は仕事日なんだけど、まずは小町横町を散策。カレシの英語教材にうってつけのトピックを見つけた。毎年のように休みが近づく頃になると海外在住の人が立てるトピックで、「故国からの訪問客」。家族やごく親しい友だちが来て泊まるのはうれしいけど、悩みの種はあまり親しくない「知人」で、要するに海外の、それも大都市や観光地に「知っている人」が住んでいるということで、ホテル代その他の経費を節約できてラッキーという図々しい人たち。すごいのになると、その知人の親戚や友だちまでが登場する。いくらやんわりと断っても、平気よ、気にしないで、気を遣わないで、おかまいなく・・・。ほんとに「おかまいなく」ならいいんだけど、向こうも日本人。あそこに行きたい、ここに行きたい、あれを買いたい、これを食べたい、あのショーを見たい・・・。根負けしてOKしたら、上げ膳据え膳、おんぶに抱っこ。ガソリン代、食事代、観光地の費用はすべて「ホスト」持ちで、「楽しかった~」と言って日本に帰った後はなしのつぶてで、自分たちが日本へ行くことになっても、「泊まってね」どころか食事のお誘いさえない、と。やれやれ・・・。

日本の慣習だと客は上げ膳据え膳とおんぶに抱っこでもてなされるのが当然ということになっているらしい。それでも、日本国内なら訪問する側は手土産だの何だの、ホスト側は家中の掃除やご馳走の準備だの何だのと、双方がひと騒ぎするんだろうけど、訪問客の方はたぶん日本の礼儀作法に従ってかなり行儀良く振る舞うんじゃないかと思う。それが海外となると、友だちの見ず知らずの友だちのさらにその友だちまで「利用」するという構図になるらしく、掲示板に書き込まれる経験談を読んでいると、(ふだんはたぶん「外国暮らしです~」と吹聴しているかも知れなくても)海外在住組の悩みは深刻なんだなあと思ってしまう。いやはや、「旅の恥は掻き捨て」流の強心臓ぶりにはほんっとに驚愕することしきり。

我が家はある意味設計ミスで客室がない。ないんだけど、泊まって行ってほしい親しい人たちには「キャンプみたいだけど泊まってね」と言うし、ひとりで観光や買い物に行きたい人には玄関の鍵を渡して自由行動してもらう。ワタシは元々日本的に一から十まで世話を焼かれると窮屈で逃げ出したくなるたちだし、カレシにいたっては鼻先をつかんで引っ張りまわされているように感じるそうだから、我が家に来るお客にも窮屈な思いはさせたくない。家の中はちょっと片付ける程度で普段のままだし、世話が必要なところは世話を焼き、必要でないところはどうぞご自由にということになるんだけど、カナダ国内でも日本からでも来るのはそういう環境でも気にしないで楽しんでくれる人たちばかりなのはラッキーなのかもしれない。

一度だけ、語学留学する息子をホームステイさせてくれと頼まれたことがあったけど、こちらはワタシの仕事の都合で生活時間が変則的だから、それを変更して1ヵ月も朝食、弁当、夕食のめんどうを見るのは無理。でも親が安心できるからということで、本人が(大学生なんだし)自分で朝食を作って食べて行くならOKと言う条件を出した。結局は、本人が半自炊に難色を示したようで、よそでホームステイしてもらい、週末に夕食に呼んだ。(せっかく英語留学に来たのだからと、我が家でも日本語は一切なしで通した。)本人はそれなりに楽しんだようだけど、親の心証はきっと良くなかっただろうと思う。カナダもアメリカも(たぶんヨーロッパも)けっこう気軽に親類や友だちを家に呼んだり、泊めたりするけど、客もホストもぐったりと疲れてしまうような、がんじがらめの「もてなし」はあまりしないから、こっちも気軽に「おいで」、「行くよ」と声をかけられるのがいいな。

親しいはずなのに客が来るとなると(散らかっているところを見せるのは恥ずかしいと)大汗をかて家中をピカピカに掃除したり、山ほどのご馳走や帰りのお土産まで用意して、一方で客の方は晴れ着を着ておみやげを持って行って、(少なくとも表面的には)おかまいなくと遠慮しいしいかしずかれてもてなしを受ける。人間関係の文化の違いと言えばそれまでなんだけど、やっぱり打ち解けていないような、窮屈な気がするな。それで、呼んだ側が「(招待したのに)手ぶらで来た」、「(手間とヒマとお金ををかけてもてなしたのに)お礼がない」と愚痴り、呼ばれた側が「(わざわざ行ったのに)ごちそうが出なかった」、「(呼んでおきながら)家の中が散らかっていた」等々と愚痴るトピックを立った日には、もう何をかいわんや。人間関係の潤滑油になるべき「ホスピタリティ」が大きなストレスになったんでは本末転倒だと思うな。共に寛いで楽しいひとときを過ごしたいので、ワタシにはどうぞほんっとにおかまいなく。ワタシも窮屈なおかまいはしないので、どうぞ気兼ねなくごゆるりと・・・。