リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2006年12月~その2

2006年12月31日 | 昔語り(2006~2013)

12月15日。最近よく夢を見ているにしては、何の夢だったか覚えていない。目が覚めた瞬間は覚えているのに、起きてしまうとケロリと忘れている。たまにピンボケのスチール写真のようなシーンの記憶があったりするけれど、それもすぐに脈絡のないイメージになってしまう。精神的に落ち着いて、比較的ぐっすり眠れるようになったからかもしれない。

40才頃から10年以上も、何度も何度もしつこく繰り返し見続けた夢がある。ちょうどカレシとの夫婦のふれあいがなくなった頃に始まった。夢の中の設定は見るたびに違っても、展開は同じ。平凡だったり、楽しかったりする場面から、カレシがいつの間にか姿を消し、私は彼を必死で捜して回るのだ。迷路のようなところを走り回って、半狂乱になって叫ぼうとしたところで目が覚める。

二人の間に大嵐が吹き荒れるようになってから、あれほど長い間繰り返していた夢がぴたりと止んだ。その代わり、怖い夢を見るようになった。ドアから押し入ろうとする熊のような黒い獣を必死で押し返していた夢。得体の知れないものに抱きつかれて、叫びながらもがいていた夢。ふわふわとした黒い物体に足をつかまれて動けなくなった夢。影のような誰ともわからない男に付けまわされ、隠れ場所を必死で探した夢。どこへ行っても行き止まりの迷路のような廊下を出口を捜して走り回った夢。カレシに人っ子一人いない真夜中の道をパトカーに救助されるまで追いかけられた後は、暗闇の中を「ヘルプ、ヘルプ」と叫びながら、走ろうともがき続ける夢を何度も見た。はっと飛び起きるといつも今にも心臓が破裂しそうに鼓動していた。眠りに落ちるのが怖くて必死で眠るまいとしたこともあった。

嵐が過ぎて、曲がりなりにも「夫婦」の暮らしが戻ってきて、繰り返しの夢も恐ろしい夢もいつのまにか遠ざかって行った。ところが、今年の春、わずか3、4日の間にまか不思議な夢を2つも見たのだ。

最初の夢は、すごい群衆がいる中で、突然背後から襲われて殺されてしまった夢。恐怖も苦痛もなく、うつぶせに倒れて死んでいる自分を見ているうちに、すうっと目が覚めた。自分が死んだというのに妙に晴れやかな気分だったから不思議だ。

二つ目の夢は、スタジアムのようなところで、「3個目のメダル獲得」という声がして歓声が沸き、電光掲示板に私の名前(新しい名前)がカタカナで「カナダ」という文字と共にチカチカと流れ、顔のわからない大群衆を見回しながら「誰も私のことだと知らないだろうな~」と感慨にふけっていた夢。このときも目が覚めたときに妙にうきうきとしていた。

二つの夢は今でも鮮明に覚えている。自分が殺される夢って、いったい何を意味しているのだろう。3個のメダルって何だったのだろう。もしも2つの夢が未来を予言していたのなら、凶と吉の、いったいどっちなのだろう。いまもって不思議でしかたがない。

クリスマスツリー

12月16日。クリスマスまであと1週間。ちょうどよい頃合いとばかりにクリスマスツリーを飾る準備を始めた。

ベースメントの物置の奥深くにしまってあるので、溜め込んだ段ボール箱の類を運び出してから、ライトや飾りを詰め込んだ2つの大きな箱を運び出し、その下にある箱からツリーを引っ張り出し、また段ボール箱をしまい込む。カレシとバケツリレーの要領でやっても、これだけで二人とも大汗をかく。

リビングのいつもの場所にツリーを立て、飾りを取り出す。ひとつひとつティッシュを外してテーブルいっぱいに並べると200個近く。この数年に旅行先で見つけた飾りも増えた。パリみやげはノートルダム聖堂とサンタ、サンフランシスコみやげはクリスマスの飾り付けをしたケーブルカー、カクテルのシェーカーとマティニグラス2つ。ニューヨークみやげは自由の女神像に飾り付けをしているサンタ。ニューオーリンズみやげはカッコいいサングラスをかけてサックスを吹いているサンタ。そばで見物しているカレシと旅の思い出話が弾む。

高さ6フィートのツリーの飾りつけはけっこう重労働だ。ライトをつけるだけで、上の方は踏み台を上ったり下りたり、下の方は腰をかがめてツリーの回りを歩き回るから、腰が痛くなる。それはそれで季節の楽しみのひとつのように感じる。子供のときに父が飾ってくれたサンタや星の形をしたライトを思い出す。点滅するたびにかすかにチン、チンと音がしたものだ。あれは厳寒の北国のクリスマスの音だったのだろうか。小さい頃からいろんな年中行事を家族で楽しんだ思い出があるから、ツリーを飾っているとあのわくわくするするような童心がわき上がって来るのだ。

ライトをツリーに巻きつけている間、カレシは外野席からああだ、こうだとまことにウルサイ。でも、昔はまるで無関心だったことを考えると、これもきっと彼流の「共同参画」なのだろう。今の私たちにとって、二人でツリーを飾ってクリスマスを祝うことには私たちだけの大きな意義があるのだ。

クリスマスの頃はあっという間に日が暮れる。今夜はライトだけまたたくツリーを眺めることにして、飾りつけは明日の仕事にしよう。

THE HOURS

12月17日。クリスマスツリーにライトが点ったところで、一杯やりながら映画を見ることにした。前にまとめ買いしたDVDがまだ5、6本残っている。カレシが好きなのを選べというから(もともと全部私が店で選んだのだけど)、『The Hours』を選んだ。(邦題は『めぐりあう時間たち』となっている。)

アカデミー賞の候補になったときに聞いて何となく興味を持って覚えていただけで、設定も筋書きも知らなかった。オープニングから女性が自殺するシーン。不思議に静かな、まるで夢を見ているような入水シーンに思わず引き込まれてた。ヴァージニア・ウルフが壊れてゆく自分の精神と格闘しながら『ダロウェイ夫人』を執筆する中、別の時代に生きるローラとクラリッサがそれぞれに人のために生きて来たような自分の人生の見直しに直面する。

ヴァージニア・ウルフが住む1923年のイギリス、ロンドンの郊外、平凡な主婦ローラが住む1951年のロサンゼルスの郊外、元恋人の作家リチャードに「ダロウェイ夫人」とあだ名されたクラリッサが住む2001年のニューヨーク、マンハッタンのシーンが流動的に切り替わって、三人の女性が閉塞感や喪失感と戦う、ある1日の時間が流れる。まるで砂が容赦なく滑り落ちて行く砂時計が刻む時間のようだ。何かしきりと私の胸を突くものがあって、それが何か良くわからないままに見ているうちに涙が溢れてきた。

ヴァージニアが夫に言う、「誰かが死ななくてはならないの。残った私たちがもっと人生を大事にできるためにはね」と。それはダロウェイ夫人ではない。「詩人が死ぬの。Visionary だから」。Visionary。それは幻想家?妄想家?未来を見通せる人?エイズで死にかけている詩人リチャードがクラリッサの目の前で窓から飛び降りて死ぬ。彼はローラの息子だった。ローラが自殺を決意して、幼い息子をベビーシッターに預けるシーンがある。そのとき何かを感じた息子が必死で母を呼び叫び、走り去る母親の車の後を追おうとする。ローラは死ぬ代わりに人生のやり直しを選んだ。捨てられた息子は詩人になって死を選んだ。

なにか得体の知れない大きなものに思い切りぶつかったような映画だった。

原題と邦題

12月18日。日本で上映される外国映画には「邦題」があって、英語人と古い映画を語るときは原題がわからず、日本語人と最近の映画を語るときは邦題がわからない。どちらもあら筋を聞いて「ああ、あれか」ということになる。おととい見た映画は、原題が『The Hours』、検索にひと苦労してやっとわかった邦題は『めぐりあう時間たち』だった。

今どきの「邦題」は原題をそのままカタカナ化したものが多いようだ。見るとこういうカタカナ化したタイトルの映画にはどうもアクションやスリラーのような、どちらかという男性受けするものが多いように見える。もっとも、ハリウッド映画の大半が男のための殺し合いとカーチェースとどなり合いとセックスの映画なのだから、そんな印象になるのかもしれない。(アクションや戦争ものの邦題には「殺しの~」、「死の~」、「地獄の~」という語が多かった。)一方、明らかに女性受けするジャンルは日本語のタイトルになっている方が多いようだ。男と女の言葉に対する感性の違いがよく現れているようでおもしろい。

原題をそのまま訳したものやもう少し自由に訳したものがある一方で、誰が考えたのか原題と似ても似つかないものもある。原題よりもすばらしい邦題がついていることもある一方で、原題の持っていた意味とはまったく違う印象を与えるものになっていることもある。誰がどのように考えつくかと不思議だ。

たとえば、ジュリア・ロバーツ主演の『Sleeping with the Enemy』はDVをテーマしたサスペンス映画だ。邦題は『愛がこわれるとき』。何だ、これは・・・メロドラマかと思ってしまいそう。

邦題の方が効果的だった例が、ヴィヴィアン・リーとロバート・テイラーが主演した戦前の『Waterloo Bridge』。大メロドラマを「three-hanky movie」、つまりハンカチが3枚もいるくらい泣ける映画というが、この映画はハンカチが3枚で足りないくらいの大悲恋物語だ。原題はロンドンにある橋の名前。邦題はずばり『哀愁』。邦題の名作中の名作といっていいだろう。

映画でも芝居でも小説でも、一番やっかいで難しいのがタイトルを考えることだ。タイトルをめぐって作者と編集者と出版者が三つ巴でもめることもあるらしい。作者としては作品を反映する深い意味を含ませようとする。でも、作品が商品として売れるためには、消費者の注目を引くタイトルでなければならない。作品が完成するまでにタイトルが何度も変わることが多い。映画で「赤い糸」の役目をしたヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」も最初に付けられたタイトルは『The Hours』だったそうだ。そう、作家マイケル・カニンガムが映画の原作となった小説につけたタイトルなのだ。

もしも、いつか私の小説が世に出て日本語に翻訳されたら、いったいどんな「邦題」が付くだろうか。

またひとつ「今年最後」

12月19日。今日は今年最後の掃除の日。実を言うとこの15年近く自分の家を掃除したことがない。フリーになって仕事が忙しくなりすぎて、週末もなく毎日10時間もキーを叩き続ける毎日。結婚以来ずっと共働きだったけど、カレシは「家事は女の仕事」と決め込んでいたから、フルタイムの仕事とフルタイムの家事に明け暮れていたわけだ。

それが、在宅稼業になって少しは楽になると思っていたのが、逆に両立が難しくなってしまった。料理はカレシのお弁当作りから始まって毎日のこと。洗濯も溜め込んでは仕事と並行して何とかこなせた。着るものがないと怒鳴られてカレシが寝た後の深夜にそうっとアイロンかけをした。でも、掃除には手が回らなかった。そんなときに何かで見たのがお掃除代行屋さんの広告。「自分で稼いだお金で払うから」とカレシの反対を押し切って、2週間おきに来てもらうことにした。

女性二人のチームが何度か入れ替わって、10年くらい前からシーラがチームに入り、やがて新しいパートナーを得て独立した。シーラはイギリス生まれでカレシと同い年。離婚歴3回の苦労人だ。私たちが旅行に出かけるときは毎晩泊り込んで、カレシの庭の水遣りをしてくれる。私が苦しんでいたとき、シーラはいつも黙って私をハグしてくれた。何かあったときに、とパートナーでさえ知らない携帯の番号をくれたこともあった。初めは私を「ミセス~」と呼んでいたのが、いつの間にかファーストネームで呼ぶ間柄になった。掃除や留守番サービスにはきちんと料金を払う。でも、仕事を離れるとかけがえのない友だちなのだ。

シーラはこの春に長年とパートナーと袂を分かち、夏からレベッカと新しくチームを組んだ。レベッカは近くに保留地を持つ先住民マスキアム族の出身。40才前後だろうか、北海道ならピリカメノコと言えるような、とても彫りの深い、きれいな人だ。子供は合わせて5人。中国系の最初の夫との間にできた子供たちはアジア顔で、イギリス出身の二番目の夫との子供たちは金髪の白人顔だからおもしろい。ナニーと間違われるのよ~と、屈託なく笑う。

二人が仕事している間、邪魔にならないようにレベッカが真っ先に手際よく掃除してくれたオフィスに引っ込んでいる。シーラとは同じ家の上と下を借りていることもあって、なかなか息の合ったコンビだ。始終にぎやかな笑い声が聞こえてくる。今年最後の掃除が終わったところで、シーラが持って来てくれたワインを開けて、カレシも交えてしばし打ち上げのおしゃべり。毎年のようにクリスマスカードにチップを添えて渡し、メリークリスマス、ハッピーニューイヤーとハグを交わして「仕事納め」。ピカピカになった我が家はクリスマスを待つばかり。

これってジェネレーションギャップ?

12月20日。読売小町に「若者に通じなかった日常語」というトピックが立った。あれよあれよという間に集まる書き込みをおなかを抱えて笑いながら読んでいたが、だんだんに何かヘンだぞという気がして来た。

「日常」の日本語が通じないと嘆かれている若者というのは、どうやら20~35才の世代を指すようだ。日常語どころか、幾世代にもわたって使われてきた慣用句やことわざも通じないらしい。日本語には明治以来「標準語」というものがあったはずだが、どうやら将来は世代間の「共通語」というものが必要になりそうな感じがする。

インターネットとケータイの普及で猫も杓子も「ジョーホーが欲しい、ジョーホーください」という時代だというのに、若者たちはそのジョーホーを伝達する手段を失いつつあるのだろうか。なぜだろう。ちょっと見には、若者たちは親の世代から「言葉」を受け継いでいないように見える。ひょっとしたら親たちが子の世代に知識を伝えることを怠ったのかもしれない。なぜだろう。

親たちがこの若者たちを育てていた時代、それは成金を生み、拝金主義、快楽主義を蔓延させたバブル経済の真っ最中だったはずだ。あの時代、日本は世界中から金満国ニッポンとおだて上げられていた。ここで大人たちはぽっと出のアイドルみたいにちやほやされて舞い上がってしまったのだろう。土地と金が命、高級ブランド品が命。努力しなくても、金余り、モノ余り。

そういうたがの緩んだ親たちの背を見て育った若者たちを漢字で表せば「飽」の一字に尽きるだろう。大人から何も学ばなかったのか、あるいは教えられなかったのか、一般常識も教養も乏しい。理性もかなりあやしい。世界でも水準の高い教育を受けたはずなのに「基礎知識」すらないような若者も多い。知ろうという意欲もあまりないらしい。一方で受動的な感覚は恐ろしく発達している。感覚でわからないものは知識にはならない。でも、わかるものや感覚が欲するものはジョーホーとして取り入れる。その意味でも若者たちは飽食世代なのだ。

子供たちに「大人の見識」を示さなかった大人は今さら大人の権威なぞ振りかざしても若者にバカにされるだけだ。でも、社会人になった子供たちから疎外されたくなければ、「友だち親子」だったときのように若者に迎合するしかないだろう。結局、大人は若者のレベルに自らを落とし、模範とする「大人」を知らない若者たちは年令は大人でも中身は子供のまま。その大人子供が親になっても子供に「大人の見識」を示せるのだろうか。そして、その子供たちは・・・。おやおや、この調子ではいずれ日本の社会から「大人」がいなくなってしまうではないか。

今日から冬

12月21日。今日12月21日は冬至。日本の暦では11月初めの立冬が冬の訪れを告げ、そのあとに小雪、大雪と続いて、冬至は本格的な冬の始まりという感じだけど、おもしろいことに、北米では冬至に冬が始まる。テレビの天気予報でも「今日から冬です」と大々的にアナウンスされる。(同じく、春は春分、夏は夏至、秋は秋分にそれぞれ始まる。)

バンクーバーの冬至は吹きぬける嵐を追っかけて来た。11月に入ってから何と9回目の嵐。わずか2ヵ月の間にミニ台風が9個も上陸したようなものだ。11月はどちらかというと雨台風が多く、12月は風台風が中心といった観がある。

11月は記録的な大雨が続いて、水源地の土砂崩れで貯水池の水が濁り、「水道水煮沸」のお達しが出て、みんなボトルの水を買いに走った。それが解除されないうちに今度はドカ雪とともに急な寒波の到来。最低気温がマイナス11度まで下がったりして、なかなか雪が融けないから街中で交通混乱が続いた。

12月に入ってやっと雪が消え、バンクーバーの生活は「正常」に戻ったけれど、今度は大風の波状攻撃。そのたびに倒れた大木が車を潰したり、家を直撃したりする。送電線が切断されると何万戸という大停電が発生し、それが復旧するかしないかのうちに次の嵐でまた大停電。何日も電気のない生活を強いられた人たちも多い。

ちょうど1週間前の夜半にやって来た嵐(3つ子の3番目)は台風並みの暴風雨で、また10万戸以上が停電。特に被害が大きかったのはバンクーバーの観光名所スタンレー公園だった。面積400ヘクタールの原生林の20%、約3000本の針葉樹が根こそぎ倒れたり、折れたりしたという。横倒しになった樹齢何百年という木は露出した根周りが直径4、5メートルもある。空から見るとまるで木材の伐採地のような光景だ。海沿いに公園を一巡する遊歩道も高波であちこちが削られ、崩れ落ちてしまった。春の観光シーズンまでに復旧できるかどうかわからないという。

そして冬至の朝の第9号。我が家はこれまでのところ実質被害がゼロでとっても運が良い。水はほとんど濁らなかったし、お隣のトウヒが消えて大雪でも電気の引込み線は無事。停電はまだ一度もない。でも、このあとクリスマスイブを手始めにまだ2つや3つは来るらしい。庭の木々をトントンとノックして回ろうかな。

それにしても、さすがのバンクーバーっ子もいい加減うんざりの冬。春が始まる春分の日までにいったいあといくつ嵐が来ることやら・・・

土壇場ショッピング

12月22日。カナダではクリスマスの25日とボクシングデイの翌26日が祝日で連休。祝祭日が土曜日でも月曜日が振り替え休日になるので、クリスマスが週末にかかると4連休になる。イブの24日は「早じまい」が不文律?になっている職場も多く、どっと土壇場のショッピングに繰り出す。今年はカナダ全国でこの日1日のクレジットカードVISAの売上がざっと2千億円になる予想とか。

我が家はツリーも飾ったし、プレゼントも食料もお酒もすべて用意万端・・・のはずだった。二人だけのクリスマスディナーの定番は鴨のロースト。そろそろフリーザーの底から出して解凍を始める時期だ。容量約200リットルのフリーザーはけっこう深い。肉や魚を詰め込んだバスケットを2つ、よっこらしょと取り出して・・・あれっ、鴨がない!一時は2羽あったのに、影も形もない。1羽は解体して料理に使った。あと1羽は?

地下から上がってきたカレシに「あると思った鴨がないのよ~」と叫ぶ。カレシは「そういえばイースターの時に食べたっけ」。ああ、1足す1は2。2羽とも食べてしまったのだ。

さあ大変。胸肉はあるけど、やっぱりクリスマスは丸ごとローストの方がいい。時計を見ると午後1時。道路もスーパーもラッシュだろう。まだあるのかどうかもわからない。でも、そんなこと考えている場合じゃないと、二人して「鴨猟」に出かけた。近くの行きつけのスーパーは七面鳥の山とガチョウはあっても鴨は売り切れ。回れ右してもうひとつ行きつけのスーパーへ。駐車場の空きスポット探しはカレシにまかせて、店に駆け込み、冷凍肉の売り場へ直行。巨大な七面鳥や大きなガチョウの山をごろごろと押しのけて・・・あった!一番底に鴨が2羽。イースターの分も調達とばかりに、えいっと両脇に1羽ずつ抱えてレジに直行した。きっと耳から耳までの大ニコニコだっただろう。

帰ってきたら、「クリスマスのところ申し訳ありませんが」と仕事が2つも入っていた。でも、思いがけない土壇場ショッピングのスリルまで味わったクリスマスをたっぷり楽しまないでどうする。夕食後、久しぶりにイブニングドレスで盛装して、恒例の『四季』を聞きに出かけた。ああ、これでクリスマス気分は万全・・・

クリスマスイブ

12月24日。日本では、クリスマスイブがいつの間にか「恋人たちの夜」になっているらしい。バレンタインデイという日があるのになんとも欲張りな、と思ったら、どうやらルーツはバブル時代にあるようだ。

バブル時代に大人は金儲けに踊り、若者たちは不相応の贅沢に酔っていた。少なくとも狂騒を日本の外から眺めていた人間にはそう見えた。あのときの不相応の贅沢が若い日本人の恋愛観、結婚観まで変えてしまったようだ。1991年の英文記事によると、「高級レストランで5コースのフランス料理を食べ、ヘリコプターで東京湾上を観光して、一流ホテルで一夜を過ごす」のが最先端のクリスマスイブデート。いくら金余りの時代でもこれでは財布が悲鳴を上げただろうが、豪華なディナーと一流ホテルでの(おそらくは情熱的な)一夜には手が届いたのだろう。東京湾を臨むホテルは1月から予約が満杯だったと書いてある。(もっとも本番まで愛が続かなくてキャンセルやすっぽかしもけっこう多かったらしい。)

バブル時代はまた成金OLが三高(高身長、高学歴、高収入)を結婚の条件にしていた頃だ。逆玉という言葉もあった。何かの雑誌で「八王子の資産家の息子では格がちょっと・・・」と渋るお嬢サマの話が載っていたのを覚えている。

外野席から見ている限りでは、その「恋愛も結婚も金しだい」の風潮はバブル崩壊のとばっちりを受けずにしっかり生き延びたようだ。たとえば、「婚約指輪は月収何ヵ月分ならお返しは何割」と迷うかと思えば、「彼が大好きなのに収入が低いから将来が不安で結婚できない」と嘆き、「好きになれないけど医者だから結婚したほうがいいのか」と悩んでいる。さて、この人たちは今年どんなにロマンチックなクリスマスイブを過ごすのだろうか。金欠時代で、あんがいどこかでご飯食べて、後はラブホテルという「日常」的なデートだったりして・・・

もっとも、若い独身者の7割以上がクリスマスを恋人と過ごしたいといいながら、半数近くは肝心の恋人がいない、という調査もある。日本のクリスマスイヴは、しょせん日本人流の「こうあるべき主義」に則ったレンアイと、女性雑誌に煽られてセレブ気分で甘いロマンスを演じる幻想の夜というところか。

MERRY CHRISTMAS TO ALL

12月25日。NORAD(北米防空総司令部;アメリカとカナダの共同防衛組織)が出発したサンタクロースを追跡している。北極から出発して、現在は中央アジアのどこかを西へ進んでいるそうだ。

泣く子も黙るNORADが大まじめでサンタの追跡を始めたのは1955年。コロラド州のデパートがサンタクロース・ホットラインの宣伝に間違って当時のCONAD(大陸防空総司令部)の司令官の直通番号を印刷してしまった。もちろん指令部の電話回線は子供たちからの電話でパンク状態。でも、わけを知った司令官は部下にすべての子供たちにサンタの位置を教えるように命令したという。その粋な計らいが追跡情報を流すHPも持った世界的な大作戦に発展し、今ではカナダ、アメリカ全国の放送局がサンタの動きを刻々と報じ、大勢のボランティアが子供たちの問い合わせに答える。

クリスマスが近づくとメディアがNORADのサンタ追跡システムの準備状況を取材に来る。担当者は大まじめにレーダー網や最新技術の追跡システムを説明してみせる。もちろん架空のシステムだが、大のおとなたちがそれを承知で実に生き生きと一夜のファンタジーを楽しんでいるのがほほえましい。

サンタが北米の制空権内にさしかかると、カナダとアメリカの空軍がジェット戦闘機をエスコートとして飛ばす。1年間いい子だった子供たちへの大切なプレゼントを護衛するためと、搭載した特殊カメラで飛行中のサンタの様子を伝えるためだ。護衛役に選ばれた精鋭パイロットたちも有名なトナカイたちと並んで飛ぶのを楽しみにしているそうだ。

バンクーバーはまた嵐が接近。サンタのソリが「欠航」なんてことになりませんように。

メリークリスマス!
Merry Christmas!
Joyeux Noël!
Froehliche Weihnachten!
Buon Natale!
Feliz Navidad!
Feliz Natal!
Srozhdestovm Kristovim!
God Jul!
Wesolych Swiat Bozego Narodzenia!
Nollaig Shona Dhuit!
Nadolig Llawen!
Mele Kalikimaka!
Maligayang Pasko!
Gajan Kristnaskon!

クリスマスの1日

12月26日。嵐一過、今年のクリスマスも1日中食べて、飲んで、ビデオを見て、後でちょっとしたハプニングはあったけれども、静かにのんびりと過ごせた。

朝11時起床。朝食はフランス風。絞りたてのオレンジジュース、夜のうちに焼いておいたバゲット、チーズ(ブリー)、ラディッシュ、メロンとブルーベリー。フレンチコーヒーを飲みながらプレゼントを開ける。カレシにはカシミアのセーター。カレシが好きなジッパー式の開襟型。カレシからのプレゼントはシアトル交響楽団のチケット。(シアトルへ行こうといったのはこのことだった。)私がいつも一度行ってみたいといっていたベナロヤ・ホールで、私の一番好きなモーツァルトのピアノ協奏曲第20番。ピアノと指揮はフィリップ・アントルモン。2泊3日で行こうという。うれしい!

午後3時、イブの残りのワインを飲み、スモークオイスターをつまみながら、鴨のローストの準備にかかる。今年は大きめに切ったオレンジとにんにくを丸ごと2つ詰め込んだ。

午後3時半、鴨をオーブンに入れて、オードブルをテーブルに並べる。チーズ三種、紅鮭スモークサーモンとラディッシュのもやし、サーモンキャビアとトーストしたバゲット、鴨の胸肉の燻製、それと自家製のグラヴラックス(大西洋のサケで作ったもの)。カレシがマティニを作る。少し食べたところでテレビの前に移動して、私が一番好きな『くるみ割り人形』のビデオを見る。ソビエト時代に録画されたものをテレビから録画した古いもの。画質も音質もかなり劣化している。カレシはと見ると、さっそく居眠り・・・。

クリスマスディナーのメニュー: オニオンスープ、鴨、オレンジソース、カリフラワーのガレットと蒸したアスパラガス、サラダとカレシの特製ドレッシング、ローヌ川のワイン。ダブルエスプレッソ。(おなかが一杯でデザートは後回し。)

またテレビの前に戻ってディズニーの『ファンタジア』を見ながら消化。人の手でセルロイドに着色していた頃のアニメーションには、CGでは出せない温もりが感じられる。最後のムソルグスキーの『禿山の一夜』からシューベルトの『アヴェマリア」』につながる場面が何とも感動的。ちょっと広重を思わせる構図もある。終わったところでデザートのティラミスとレートハーベストワイン(アイスワインではなくて遅摘みのもの。甘すぎないのが好き。ぶどうはケルナー。)

クリスマスの「饗宴」がひと通り終わって後かたづけ。ここでディッシュウォッシャーが漏れ出すというハプニング。古いバスマットと紙コップで応急処置。どうもガスケットが問題のようだが、水曜日までは修理屋も休みだから修理は当面おあずけ。

何とか食器を洗い終わって、夜中を回ればクリスマスも終わり。1日チェックをサボったメールを見たら、真っ赤な「大至急」マークつきで仕事が入っていた。納期は明日の午後3時。いつもの「ま、いいか」でOKしたら、「クリスマス・プレゼントをもらったみたいです」と返事が来た。まあ、いいか・・・と、ファイルを開いて仕事モードに戻る。でも、心はまだホリデイ・モード。ブログなんか書いていていいのぉ?

クリスマスの大事件

12月27日。クリスマスの夜にディッシュウォッシャーが漏れ出した。それでも何とか食器は洗い終わったけど、朝になって空のままで試してみたら、今度は排水ポンプの音がいつまでも続くだけで、サイクルの表示ダイアルも一向に先に進まない。問題は予想外に深刻なのに、案の定、修理屋は休み。

どうもクリスマスには奇怪な事件が起きるらしい。20年前、建て替える前の家(1946年築)では2年連続してクリスマスに大事件が起きた。

最初は1986年。イブから続いた大雨で雨漏りが始まった。カレシが押入れの天井の大人がやっとすり抜けられる大きさのハッチから天井裏に上った。雨漏り箇所は暖炉の煙突のあたり。天井裏に古いバケツを持ち込んでその場をしのいだ。ついでに天井裏にはあまり断熱材が入っていなかったこともわかった。(建て替えのために家を取り壊したとき、天井裏のバケツが見えた。)

翌1987年。キッチンの水道管が破裂した。壁から出ている旧式の蛇口で、破裂したのはお湯の方。給湯タンクの元栓を閉めて噴き出す水を止めたのはいいけれど、それでは家全体でお湯が止まる。しかたがないから当時クリスマスディナーに家族が集まっていたカレシの弟のところでシャワーを借りた。何とか拝み倒して配管屋に来てもらったら、水道管は古い鉄パイプで、中にたまった錆で完全に詰まってしまったらしい。修理は壁を壊しての大仕事になる。新居を設計中だったこともあって、修理は諦めてパイプを詰めてもらった。翌年の建て替え工事まで、食器洗いのお湯はバスルームで大鍋に汲んでキッチンに運んでいた。

あの2年に比べたら、今度のハプニングは最悪の場合でも買い替えれば済むことだから、スケールは小さい。でも、修理が済むまでは手で食器を洗わなければならないわけで、こっちの被害の方がずっと大きいのだ。なにしろディッシュウォッシャーの故障と示し合わせたかのように大き目の仕事がぞろぞろと入って来てホリディ返上のスケジュール。食器洗いはけっこう時間がかかるし、機械化のせいで洗った食器を乾かすかごもない。当面は私が洗ってカレシが拭く、二人三脚モードで行くしかなさそうだ。

ああ、めんどうくさい・・・

今年のン?なカタカナ語

12月27日。イッケンエイゴフウカタカナゴ

ナイスステップな研究者: ダンスの研究家のことかと思ったら、どうもそうではないらしい最新意味不明語。
ビールサーブ: 結婚式用語らしい。どうやら「ビールのお酌」を実にすなおにチクゴヤクしたものと見える。「辞書あり、翻訳します」の典型例!
マリッジブルー: おやおや、まだ結婚式も挙げないうちから「結婚生活のユーウツ」にお悩みとは、先が思いやられるなあ。
ウォーキングダイエット: ダイエットは食事のこと。とすると、「歩きながら食べてやせよう!」という日本流の「ながら式」ダイエットのことだ!
ブライダルチェック: 昔は親が結婚相手を決めて、婚礼の日に初めて花嫁の顔を見たということもあっただから、ちょっとのぞき見チェックしたくなる心理もわかるなあ、と思いきや、なんと性病検査のことなんだそうな。まあ、最近は婦人科の病気がないかどうかも調べるそうだから、昔のように「生殖能力」を確認してから結婚を決めることもありなのだろう。
クレーマー: クレーム(Claim)にerはいいけれど、そもそも「claim」の意味がわかってない。昔あった名作『クレーマー、クレーマー』は苦情主同士の争いではないから誤解のなきよう。
セカンドライフ: 日本語で検索すると退職後の「第二の人生」のこと。英語で検索すると別の自分になって仮想現実の世界で「第二の人生」を生きるオンラインゲーム。まあ、年金の財源にも事欠く未来社会では、セカンドライフも「仮想現実」で我慢することになりそう。
メアド: ついこないだまでメルアドっていっていたものらしい。ナノ秒の進化だ。「アド(Ad)」は広告のことだけど、メアド交換なんていうから、名刺交換のような軽い「自己宣伝」なのかも。

ギブアップ(オテアゲ)カタカナゴ

デザイナーズレストラン: レストランはシェフのものかとおもったけど・・・。
ブーケプルズ: 新デザインのドアの取っ手・・・?
スウィートテン: たしかに10才のお子ちゃまはカワイイけれど・・・。
デコルテ: 王侯貴族の晩餐会はローブデコルテ。でも、「デコルテがやせない」って・・・?
マクロビスィーツ: これってホントに食べられるの・・・?

カタカナ語、されどカタカナ語。でも、どんどんカタカナ語が増えたら、めんどうな漢字変換も不要になって、カタカナ入力でラクラク、ということになるか・・・な?

心に残る出会い

12月28日。ボニーからのクリスマスカードが遅れて届いた。今年は私がカードを送る番だったけどと思いつつ封筒を見ると住所が変わっていた。新住所への転送に時間がかかったのだろう。

バンクーバー島のポートアルバーニに住むボニーと出会ったのは1993年の2月、バンクーバーのセントポール病院婦人科病棟の病室だった。私は日本で父の葬儀を済ませて帰ってきたばかりで、前年秋からテニスボールほどの大きさになった卵巣膿腫の内視鏡手術のため緊急入院した。卵巣膿腫は幸い良性だったが、子宮内膜症と大きな筋腫が見つかって、そのまま再手術で子宮を摘出することになった。この二度目の手術の日、ボニーが同じ手術のために隣のベッドに来た。

入院というのは何しろ退屈なものだ。同年代だったし、ボニーも私もおしゃべり好き。私が仕事でポートアルバーニの製材工場へ行ったことがあったので話が弾んだ。私が退院する前の夜、なぜか四人部屋に二人だけになった。面会時間が終わった後、私の友人が差し入れてくれたお弁当で「最後の晩餐」をすることにした。テーブルを窓際に寄せ、お見舞いの花を飾り、ナースステーションから舌を押さえるへらや紙コップを失敬してきて、きれいな夜景をながめながらのディナー。何とも楽しいひと時だった。今でも「あれですてきな音楽とキャンドルがあったら申し分なかったのにねぇ」と二人して思い出している。

あれからなぜか再会する機会がないまま、ずっと1年おきくらいにクリスマスカードで近況を知らせ合ってきた。共に教師だったボニーも夫君のスティーブもすでに引退してドライブ旅行を楽しんでいるという。先日の大嵐では庭の木が家に倒れかかって屋根の一部が壊れたとか。家族は全員無事。被害は思ったより軽かったので、今は応急修理でしのいで、年明けに修理するという。ハイキングにいらっしゃいよとのお誘い。ポートアルバーニはバンクーバー島の西側、フィヨルドの奥深くにあるこじんまりとした町だった。まわりはぐるりと大自然。いつかゆっくりとボニーに会いに行きたいな。

ファミリーパーティ

12月29日。12月29日。日本はすでに仕事納めが終わって、今年最後の週末。どこでもお正月の準備に追われている頃だろうか。

今日は久しぶりに遠い郊外に住むカレシの次弟ジムとパートナーのドナ、ジムの娘夫婦と2人の子供がバンクーバーまで出てきた。ジムは従業員20人の会社を経営し、ドナは州政府職員。次弟の娘セーラとフレンチカナディアンの娘婿ロブは共に(跡継ぎ候補として)次弟の会社に勤めている。私たちが結婚したとき、セーラは1才の誕生日を過ぎて歩き始めたばかりだった。そのセーラの結婚式もつい昨日だったようなのに、長男エイダンは4歳、長女アナベルは1歳半(私とカレシの末弟の誕生日を15分過ぎて生まれた)だ。私たちには甥孫と姪孫にあたるけれど、カレシが家族とごぶさただったせいで、二人の顔を見るのは今日が初めてだった。二人ともかなりしつけが良くて、しかも自然によく笑うのがかわいい。

幼児がいることを考えて作ったメニューは、いろいろな(ほぼ大人向けの)前菜に続いて、クリームスープ2種(実験的なコーンスープと、ニンジンとしょうがのスープ)、骨付きラムのロースト、ミントソース、キノコ3種類のリゾット、ローストしたビート、ポテトのガレット、赤ワイン。デザートはトライフル。アナベルはスープが気に入って2種類ともおかわり。シェフ冥利に尽きるというもの。エイダンは取っ手のような骨がついたラムが気に入ったらしい。ついでにミントソースを全部食べてしまった。ひどい偏食で両親をてこずらせたママとは大違いだからおかしくなる。

カレシの両親の話になって、ママは杖だけで悠々自適を楽しんでいるけれど、パパの方は次々と問題を引き起こしているらしいことがわかった。女性の介護者が手を握ってあげるとご機嫌でにこにこというところはいかにもパパらしい。でも、介護の人たちに怒鳴り散らすのは日常茶飯事で(ずっと昔からそうで、嫁や孫たちまで、みんな経験済みなのだけど)、介護者に何度か殴りかかって、警察を呼ばれたこともあったというのはちょっと問題だ。常用していた抗不安薬を認知症を促進するからと中止されたせいかもしれないとジムはいう。

ひとしきりあれこれおしゃべりをしているうちにワインが3本、ビールが1ダース空になった。おなかいっぱいの子供たちが眠くなり、ゲストは車で優に1時間以上かかるメープルリッジへ帰宅の途。玄関先でハグしながら、これからはちょくちょく集まろうと約束。カレシは、「年が開けたらママに会いに行くから、そのときいっしょに食事をしよう」と提案。年子で生まれて昔からあまり折り合いがよくなかったという兄弟が、ママの骨折という思いがけない事故をきっかけに近しく行き来するようになったのは、まさに「塞翁が馬」。こんな良い事はない。

みんな、またね。ハッピーニューイヤー!

大晦日まで秒読み

12月30日。2006年はあと1日だけ。ホリディ気分でダラダラとやっていた仕事は、1月2日が納期だというのにまだ終わっていない。

日本は時差が17時間も先(だからブログの日付もいつも1日先になっている)。オフィスの東京時間の時計を見ると、今はもう大晦日の夕方。おせち料理作りも終盤というところだろう。バンクーバーにやっと新年が来る頃にはもうお屠蘇の酔いもとっくに醒めて、元旦の夕方だ。

新年は日付変更線の向こう側から西へ西へと回ってくるから、バンクーバーはほぼしんがり。午前零時が近づいて、さてシャンペンを抜いて秒読み!という時に、テレビに映るトロントやニューヨークの「宴の後」のシーンを見ると、ちょっぴり盛り上がりに勢いがなくなってしまう。地球が丸いせいだから仕方がないとはわかっているんだけど・・・

さて、私の2006年を振り返ってみると・・・

良かったこと:
  仕事が前の年よりも多かった。
  大学の最初の課目が思ったより好成績だった。
  ブログを始めて少しずつ自分像が明瞭になってきた。

残念だったこと:
  絵を描く時間がなかった。
  芝居を書く時間がなかった。
  ピアノのレッスンを止めざるを得なかった。
  また土壇場で日本へ行くことを断念した。

何よりも、カレシとの毎日がとっても平穏だった。ちょっとばかり危なそうな場面があっても、かってのように振り回されずに、一歩下がって対応できるようになった。「ここまでは私、そこから先はカレシ」というはっきりした精神的な境界線ができ、まだその境界線が分かっていないかもしれないカレシが「私」という人格の領域に侵入するのを阻止できるようになったのだと思う。これは心を閉ざすということとは逆に、心を開いて相手を1個の人間として受け止めるということ。たぶん自我の確立にもつながるのだろう。それだけ成長できたと思えることはうれしい。

さて、2007年はどんな年だろう。1年の計は元旦にありというから、さっさと仕事を片付けて、明日はシャンペンが冷えるのを待ちながら、ゆっくりNew Year’s Resolutionを考えよう。

こちらまだ2006年・・・

12月31日。テレビのニュースでシドニーと台湾の年越しのカウントダウンを見ながら大晦日の朝食。いつもなんか地球時間に後れを取っているような感覚もしなくはないが、グローバル時代は行く年、来る年の境目までぼやけているようだ。でも、地球は丸い。せかせかしなくとも2007年はちゃんとこっち側まで回ってくる。まあのんびり行こう。

家にいた頃は家族そろって紅白歌合戦を見ながらすき焼きの夕食、続いて『行く年、来る年』という1年の総集編みたいな番組を見て、元旦の新聞が来たどさっという音を聞くのが年越しだった。成人してからは父と熱燗を酌み交わしていて、寝込んでしまい、二階の部屋まで担いで行かれたことがあった。二人で1升ビンの半分くらい空けたらしい。

こっちのテレビも今日は朝から全国版とローカル版の「行く年」の総集編。へぇ、今年もいろいろあったんだと思い起こすにつれ、時間の足がどんどん速くなっていることを思い知らされる。子供の時間はゆったりと、もういくつ寝るとお正月。大人の時間はせかせかと、正月まであと何日しかない!

大晦日のディナーはテーブル一杯にいろいろ並べて二人だけのゆっくりバイキング。バンクーバーでは公式のカウントダウンがなくなってしまったので、同じ時間帯のシアトルのカウントダウンに加わって、シャンペンで新しい年に乾杯。

さて、忘れずにシャンペンを冷蔵庫に入れておかなきゃ・・・


2006年12月~その1

2006年12月31日 | 昔語り(2006~2013)
あしひきの

12月1日。やっと大学の必修講座2つ目、国語(=英語)Ⅱの教科書を開いた。前半は詩、後半は戯曲だ。戯曲のウェイトが大きい。テーマはシェークスピアの「オセロ」。詩は好きだし、戯曲は短いコースを2度取って、一幕ものの芝居を2つ書いたことがある。芝居はわりと評価が良かった。そんなだから、結局またちょっと高をくくっているところもあって、気をつけないとまた慌てそう。

詩はどんな言語でも響がすばらしい。言葉で奏でる音楽というところかな。

日本の短歌も好きだ。万葉集や古今集はすばらしい。宮廷詩人が職務として作ったようなのはちょっと歯が浮くようなものもあるけど、相聞歌のような恋歌の熱情はわずか31文字に凝縮されているだけに、甘さも怨念も悲嘆もみごとに増幅される。

特に、宮廷の女官だった彼女との禁断の恋に落ちたばかりに流刑となり、遠くへ送られて行く恋人中臣宅守(なかとみのやかもり)に贈った狭野弟上娘子(さののおがみのおとめ)の歌はすごい気迫だ。

 きみがゆく みちのながてを くりたたね やきほろぼさむ あまのひもがも

「最愛のあなたが行く、遠い長い道をたぐり寄せて、折りたたんで、焼きつくしてしまうような天の火があったらなあ」という、いても立ってもいられない気持にこっちまで胸が熱くなってしまう。

万葉集ではないけど、お坊ちゃん育ちの大伴家持が16才の時に歌った能天気な歌も好対照でいい。

 ふりさけて みかづきみれば ひとめみし ひとのまゆびき おもほゆるかも

「三日月を見上げるとさぁ、一度だけ見かけたあのコのさぁ、眉がすんごくきれいだったな~なんて思い出しちゃうんだよねぇ」と、粋がっている。青春まっ盛りの男は今も昔もけっこうかわいいのだ。

冬の夜のあったかスープ

12月2日。不思議の国のアリスに、公爵夫人も赤ちゃんがいるそばでコックがスープを作っていて、これが胡椒の効きすぎ。その上さらに胡椒を振り回すから、くしゃみの大合唱になってしまう、という愉快な場面がある。

世界のどこにでもスープがある。簡単に作ろうと思えいたって簡単で、凝ったものにと思えばレストラン並みの凝ったものにできる。冷たいスープもあるけど、やっぱり一番は冬の夜の温かなスープ。体の芯までほかほかして、気持もほのぼのとする。実だくさんのスープもいいし、とろりとしたスープもいい。シチューやチャウダーもスープのうちだ。この地球上の生命が生まれたのは原始のスープ(Primordial soup)だった。まあ、ここまでつながっているとは思わないにしても、スープは心地良くて元気が出る「コンフォートフード」の最たるものだろう。

我が家ではよくクリームスープを作る。いわゆるポタージュのこと。ハロウィン用に買った大きなかぼちゃの残りで作ってみたのがきっかけだった。カレシがことのほか気に入って、冬の間いろんな野菜で作る。玉ねぎとバターをベースにして、かぼちゃ、リークとポテト、ニンジンとしょうが、ニンジンとオレンジ、ブロッコリ、グリーンピースなどなど、たっぷりと生クリームを入れて、大きな鍋にまとめて作る。ポタージュは冷凍できるから、二人だけなら一回作って何度か食べられる。日本ではクリームスープといえばコーンスープだけど、北米には粒々が入ったコーンチャウダーというのはあっても、なぜかコーンのポタージュはない。スーパーにはクノールのスープがあっても、コーンは見たことがない。

ベートーベンはスープをおいしく作れない女はあばずれだと思い込んでいて、出されたスープがまずいとテーブルごとひっくり返したとか。カレシに味見をさせるたびに、「ベートーベンもキミに恋をすることうけあいだよ」という。これがカレシ流の最高の賛辞なのだ。

そのうちコーンや枝豆を使って自分のオリジナルレシピを作ってみようっと。

ひのき舞台の夢

12月3日。たまたま芝居に関わる仕事があって、芝居を書きたい!という意欲がまたむらむらと燃えてきた。

トレッドミルで走っていたらふとアイデアが浮かんだ。道を歩いていて躓いた石ころと哲学論議を始める男の話を芝居に脚色してみよう。我ながら気に入っている荒唐無稽な話だ。オールビーの作品のような感じになるかもしれない。

近くのカレッジで映画脚本の講座を取ったことがる。集中ワークショップが終わるまでに1時間半の映画のシナリオを書き上げた。書きかけの自作の短編を脚色した中年男女の束の間の出会いのストーリーで、海面から跳躍するシャチのイメージをふんだんに使った、一種の「ご当地」ものだった。先生から売り込んでみたらと勧められたけど、元のイメージとは違うありきたりのハリウッド映画に仕上がったのが気に入らなくてお蔵入りした。もっとしっとりした話にしたかったのに・・・。

毎年何万本もの脚本が書かれるけど、実際に映画になるのは数百本。映画館で上映されるのはそのまた何分の一だという。

映画界は性に合わないとわかって、次に劇作の講座を取った。2度も行って一幕の芝居を2本書き上げた。舞台というデザインされた空間でストーリーが語られる芝居は性に合っているようだ。「処女作」は4人の男が互いに足を引っ張ろうとする話。軽いタッチのコメディのつもりだったのに、先生には緊張感のあるダークコメディだと評された。2度目のときは「もしもモーツァルトの病が治っていたら」という前提で、12年経って落ちぶれたモーツァルト、劇場主のシカネダー、「エロイカ」を完成させたばかりのベートーベン。発想はユニークだけど二人の作曲家の確執をもっと前に出すように、といわれた。書き直して地元の演劇フェスティバルの作品募集に応募するつもりが、仕事に追われているうちに締切が過ぎてしまった。先生に約束した3本目は遅々として進まない。

創作には自分の身を削るようなところがある。自伝を書いているわけではないのに、自分の中の何かがいたるところに織り込まれる。短編、小説、映画、芝居と、どの講座でも初日に「自分が心で知っていることを書きなさい」と黒板に書かれていた。心で知っていることだから読む人、見る人の共感を呼べるのだと。でも、これが言うは易しで・・・

大雪後遺症

12月4日。水の配達が滞っている。予定は先週の金曜日だった。いつもなら朝のうちに来ておいて行くのに、午後になっても来ない。ためしに電話してみたら、「雪のせいで遅れています」とのこと。結局暗くなっても来なかった。月曜の朝を待ってもう一度電話したら、のっけから「サービスの遅れをお詫びします」とアナウンス。なるほど、遅れているんだ。メニューのカスタマーサービスの番号を押すと、「切らないでそのままお待ちください」。なるほと、問い合わせが殺到しているらしい。待つこと5分。

「金曜日に水が来なかったんですけど・・・」「先週の大雪の影響で、金曜日の予定分は月曜日に繰り延べました」「つまり、今日配達ってことですね。今日一日分くらいしか残ってないので・・・」「は、できる限り手を尽くしております」

だけど、とうとう水は来なかった。今日は、「先週、小包を配達できませんでした、どうしましょう」という電話が2度もあった。こちらはいつも朝の寝ている時間に来るので、「明日取りに行きます」。

先週は雪の影響でトラックが通れないところもあったら無理もない。それに我が家の一帯は地下鉄工事の影響で通せんぼだらけ。近くの主要交差点は右折も左折も禁止で、スーパーまで行くのにぐるぐる回り道しなければならない。配達業務も大変だろうということはわかる。

だけど、なのだ。雪はほとんど融けたし、普通の郵便は先週からちゃんと配達されている。やっぱりトラックが大きいからかなあ。まあ、水道水の注意が出ているときでなくてよかった。なにしろ、雪のバンクーバーはひたすら忍耐なのだ。明日に配達がなければ、とりあえず4リットルくらいのボトルを買いに行くとするか。大雨と水騒動以来、お役所も「緊急時のために72時間分の水や食料、電池など備蓄しましょう」と熱心に宣伝しているし・・・

さびしいニッポン人

12月05日。読売やローカルの掲示板を見ると、海外での友だち探しに悩むさびしがりや人が相変わらず多い。

気の合う人がいない。同じ環境の人がいない。価値観が合わない。常識のない人が多くて疲れる。変な日本人が多すぎる。海外が(自分より)長い人は気が強くてプライドが高いからいや。でも、友だちがいないとさびしい。どうしたらいいの。私が見ると答は簡単なんだけど・・・

募集条件を「同じ日本人」に限定するから見つからない。海外の日本人社会は日本の社会とはスケールが違う。その小さな枠の中で実にいろいろな事情の人間が暮らしているのだ。初めから価値観が同じ人、環境が同じ人と限定してしまったら、干草の中から針を探すようなものじゃないだろうか。さびしいから友だちが欲しいといいながら、細かな条件をつける方がおかしいように思えるのだけど・・・。

相手にも自分と「同じ日本人」を求めるから続かない。長いこと日本を離れていた日本人はつい最近の日本を知らない。共通の話題がなくて当然なのだ。長く住めばその土地であたりまえなことがその人にもあたりまえになる。そうならないと暮らしていけないだろうに。海外在住が短い人にとってはまだ日本のあたりまえがあたりまえ。その日本のあたりまえが通用しなくてイライラしているときに、その土地のあたりまえに通じた日本人に出会うとイライラが高じるらしい。気が強い、プライドが高い、外国かぶれ、変な日本人・・・とっても付き合えないと嘆く。

私は気が強い(自分を支えられる)し、プライドがある(がんばったのだから)し、それに変な日本人(これは生まれつき)。カナダのあたりまえをあたりまえとして暮らしている帰化カナダ人。「やだ~何ぃ~この人ぉ」とまっさきに不合格になる「JIS規格外」日本人の見本みたいなものだろう。でも、私の友だちはそれが私だとわかってくれているけれどなあ。

自ら小さな、小さな世界に閉じこもって友達が見つからないと嘆いてもしょうがないだろうに。友だちの条件があまりにもミクロなのだ。さびしいから友だちが欲しい。でも、自分と違う人は疲れるからいや。クローンでもない限り自分と同じ人間などいるはずがないのに・・・

外国へ行くと何かが変わる?

12月6日。バンクーバーには常に万の単位で英語留学生がいるといわれる。日本人も減っているらしいとはいえまだ相当な数だ。

外国に行けば何かが変わる・・・これが語学留学やワーキングホリディで海外へ出る日本人の多くが抱く期待感であるらしい。「留学」、「ワーホリ」、「何かが変わる」をキーワードに検索すると、留学エージェントやワーホリエージェントがぞろぞろとヒットする。自分像や将来の方向が見えて来なくて鬱々としている若者たちに、「外国に行けば何かが変わりますよ。行きさえすれば・・・」と、バラ色の甘い夢をささやいているのだ。

外国へ行けば何かが変わる・・・これは虚言ではない。もちろん風景が変わる。言葉が変わる。習慣が変わる。食べ物が変わる。生活環境が変わる。とにかく周りのものがみんな変わる。あたりまえのことではないか。だけど、なのだ。外国に来た日本人が期待する「何かが変わる」というのはどうもそんなことではないらしい。

あそこがおかしい、ここがヘン、あれがムカつく、ここがサイテー。こいつらはダサい、あいつらはルーザー。あれもこれも、日本では考えられな~い。

(・・・お客様、遠い日本からわざわざお越しいただきましたのに大変恐縮でございますが、こちらでは日本文化のご用意はいたしておりません。きめ細やかな日本的習慣も、寸秒きざみの効率的なサービスも、残念ながらこちらにはございません。その代わりといっては何でございますが、こちらの独特の文化、習慣、サービスというものがございまして、おかげさまを持ちまして、この国なりにけっこう満足して暮らしております。どうぞ、いちどお試しになってはいかがでございましょうか。)

外国に行けば日本では考えられないことが山ほどあってもあたりまえなのに、それをあたりまえと受け止められない人たちがいるらしい。どうも自分の「日本の常識」をまるで「ライナスの毛布」のようにしっかりと抱えて来たとしか思えない人が多い。それが順応性が高くて、「何でも見てやろう」という好奇心に溢れているはずの若い人たちだから、こちらはつい「ン?」と思ってしまうのだ。

「何かが変わる」・・・Something will change?これはどうみたって他力本願だ。外国に行きさえすれば「何かが変わる」というのは神話にすぎない。何かが変わるのを待っている人たちには、外国でも日本でも、なんにも変わってはくれない。

英語を話したい

12月7日。日本の英語産業は年間3兆円の規模で、学校の数は万の単位だという。いや、10兆円市場だという記事もあった。それにしても、何と3兆円!日本のGDPは名目で500兆円だそうだから、一産業業としてはすごい規模だと思う。でも、英語の習得にこれほど莫大なお金を注ぎ込んで、費用効果のほどは果たしてどうなのだろう。

日本人は英語が苦手だという。日本人自身がそう喧伝するのだから本当なのだろう。義務教育で6年、大学へ行けばさらに4年。卒業して10年というならまだしも、大学から出てきたばかりなのに「英語ダメ」。母国語を習得できたのだから言語能力がないはずはないのに、どうしてなのだろう。

高校時代の私は国語、漢文、英語だけ成績が良かった。なかでも英語はダントツにできた。2年のときに英語の先生をさしおいて英検2級に合格し、大学入試の合同模擬試験で3年生をさしおいて全校1位になって、上級生に睨まれてしまった。英語が「好き」という感覚はなかったように思うし、特にガリ勉をしたわけでもない。学校そのものがあまり好きでなかったから、大学にも進学せずじまいだった。

社会人になってからの英語は秘書学校での1年と、外資系の会社が授業料を払ってくれた英語学校での数ヶ月。秘書学校を卒業して地方営業所の事務職の面接に行き、スウェーデン人の重役を相手に、その頃興味を持っていた法医学についてしゃべりまくって、何十人もいた大学卒の応募者をさしおいて採用された。英語学校では中級の上のクラスに途中入学し、リピートを希望したら「しゃべりすぎる」と上級クラスに追いやられてしまった。そこでは定員8人なのに生徒は私一人。おかげでカナダ人の先生と1対1で存分におしゃべりして「卒業」した。

英語に興味を持ったのは、中学1年のとき。英語の教科書を見て、「言いたいことを表現できる方法が他にもあったんだ」と身震いするほど感動したからだと思う。教科書に書いてあることがわかって、「相手のいいたいことがわかるんだ」と感じたときの戦慄は忘れられない。NHKでスペイン語、フランス語、ドイツ語とかじったときも、同じ感動があった。(今はちびちびとラテン語をかじっている。)

英語を学ぶ日本人はだいたいが口を揃えて「英語を話したい」という。でもいざとなると「何を話したらいいのかわからない」という。何となくこのあたりに英語が上達しない理由がありそうに思えるのだけど、どうなのだろう。私は「よくそんなに話すことがあるなあ」と感心されるほどおしゃべりだ。いつもいろいろなことが頭の中を駆けめぐっていて、いろいろな感動が心の中に溢れていて、それを表現せずにはいられないのだ。相手にわかって欲しい、そして相手の反応や考えをわかりたい。そうやって人間とつながっていたい性質なのだろう。

でも、日本の「いわなくてもわかるはず」という他力本願なコミュニケーション文化は言葉を使わない。自分の言葉で自分を表現する習慣をつけて来ていなければ、英語どころか、日本語でも何語でも、話したいといったところでちょっと無理というものだろう。

困ったちゃん

12月8日。困ったちゃんで思い出したことがある。

5年くらい前だった。日本にいる同業者から「移民希望の知り合いの相談に乗ってもらえないか」と打診された。移民のために転職を目指して、大学院留学を考えているということだった。

まだ移民希望の若い日本女性ときいただけで拒絶反応が起き、おまけにHPの日本語ページを通して移民の相談やビザのスポンサー依頼、はてはカナダ人男性を紹介しろという信じられないようなメールが来て閉口していた頃だった。顔見知りではないといえ互いに名前を知っている同業者の頼みだし、若い女性がまじめに自力で移民しようとしているのであれば、カレシのコレクションとはちょっと違うかもしれないと思って引き受けた。

さっそくメールを送って来たそのコは23才。英語もけっこう達者で、カレシのギャルたちのメールのようなwanna、gonnaもなく、汚いスラングもなく、私の色眼鏡を通してみてもまずまずの第一印象だった。

ところが、なのだ。何度か質疑応答のような形でメールのやり取りがあった後、突如ぶっち切れメールが来た。何か私が書いたことが気に入らなかったらしい。(何が気に障ったのかは今だによくわからない。)同じ人が書いたとは思えないほど口汚い罵詈雑言が何ページも続いていた。思いやりがない、傷ついた、人の自由を邪魔するな、性格悪すぎ、最低、最悪、地獄に落ちろ・・・などなどなど、キャンキャン吠える声が聞こえて来るようなメールだった。

なにしろお育ちが良さそうな印象だった若いお嬢さんが、Fワードだらけの、まるでスラムの不良そのままの英語でわめいているのだから、その豹変ぶりに仰天したのはこっちの方だ。いったい誰からそんな英語を学んだのだろう。いくら商売でも英語学校が教えるような言葉ではなかった。カレシにメールを見せたら、ちょっぴり気まずそうな顔をして、ひとこと「Slut」。

いきり立っている相手に何をいってもしょうがないから、最初に依頼して来た同業者に「彼女のご要望には添えませんでした」と報告してその一件は幕を引いた。HPから日本語ページを削除したのは言うまでもない。爾来、困ったちゃん候補にはさわらぬ神に祟りなし・・・。

カノジョたちのプロフィール

12月9日。ブログを書き始めて、少しずつ、少しずつ、今まで見えていなかった何かが見えてきたように思う。カレシとの過去を書き出して、何かが見えた。掲示板をのぞいているとまた何かが見えてくる。それが単に見えなかったことなのか、あるいは目をつぶって見なかったことなのかはわからない。ただ、1998年の終わりから2001年の初めまでの短い期間に集中的に起こったできごとが、私の日本観や日本人観をまったく変えてしまったことは確かだ。

離婚訴訟の証拠にと思って書き留めたものがある。あの頃のものはお互いに全部捨てたのだけど、これだけは小さく畳んで残してあった。(彼の重なる嘘に対するささやかな仕返しなのかもしれない。)でも、そろそろこれもシュレッダにかけてしまおうかなと思う。それがカレシの「カノジョたち」だ。狂乱バブルの絶頂期に中学生か高校生だった彼女たちはもう私が知らない国の人たち・・・。

年令20才~35才。9割が20代半ば。常に10人から15人いて、総数で約30人。OLやフリーターがほとんどだけど、前妻が教師だったカレシは教師が大嫌いなはずなのに小中学校の教師が数人(ただし、英語の先生はゼロ)。あと、水商売と思われる人1人。既婚3人。バツいち2人。

「ユ」で始まる名前が約20人。でも、私と同じ名前はなぜかゼロ。名前のどこかに「ユ」があったのが6人。みんな似すぎていて、カレシでさえ名前を取り違えることしばしば。

写真を送って来たのはほぼ全員。郵便で送って来たのも10人前後。ほとんどが本人だけ写っているもの。何枚も小さなアルバムにして送って来たのが1人。ビキニ姿の写真3人。ヌードはゼロ。写真の裏にメッセージが書いてあったのが4人。「Lova ya!」、「I wanna be with you」、「With love」など。ちなみに、カレシが送ったのは20年近く前に私が撮ったちょっとピンボケの写真1枚。

クリスマスでもないのにプレゼントを送って来たのが数人。中身はなぜかぬいぐるみやカワイイ飾り物。もちろんカレシは家の中に飾るわけにも行かず、みんなそのままゴミ箱に放り込んだ。

カレシに妻がいると知っていたのは約半数。ほとんどは数回ほどで途絶えたけど、なおもめげずに積極アタックを試みたのが(人妻を含めて)4人。カレシを30代半ばの独身だと思い込んでいた残る半数のうち、あけすけなラブレターを送って来たのは5人ほど。ほのめかしのメールは数知らず。たった1人だけ、本気でカレシに恋をし始めたまじめそうな人には事実を伝えた。私の二の舞はさせたくなかった。返事から彼女だけは本当に誠実な人だったと思う。そんな女性を傷つけたことについては、今でもカレシを許せない気持が残っている。

あれからもう数年。カノジョたちも今はほとんどが30代。はたして何人がそれぞれの「夢」を手に入れたのだろう。ひょっとしたら同じ空の下に住んでいるカノジョもいるかもしれない。私はバブル日本を知らない。その後の日本も知らない。だからカノジョたちはその異国から来て、たまたま私の精神空間を通り過ぎた異人さんたち。たとえ同じ空の下に住んでいてもすれ違うことさえないだろう。さっさとシュレッダにかけてしまった方が良さそうだ。

異文化って何だ

12月10日。シュレッダの音は予想に反して小気味良かった。紙のリサイクルボックスの中に紙ふぶきになったカノジョたちがいる。何の紙になって生まれてくるのか・・・と思わずクスリ。私もイジワルばあさんになりつつあるのかもしれない。

カレシも所詮は男だから若い女との恋愛ごっこはおもしろかっただろうが、目的が私という人間を潰すことだったから、カノジョたちはただの道具。思春期の男の子のような「テストステロンのぼせ」以外に相手に興味があったのではないことは明らかだ。

たぶん彼は「女」を潰してしまいたかったのだろう。それが「私」だったのか、別のある「女」だったのか、あるいは「女」という種すべてだったのかはわからない。一番身近にいた「女」が自分が勝手に描いた日本人妻の理想像に添わなかった「私」だったから、私の存在の何もかもを否定し、アイデンティティを破壊することで潰そうとしたのだろう。自分の手を汚さずに、私が彼が「hooker、whore、slut」と呼んだカノジョたちと「同じ」日本人だといえないようにしたのだと思う。それは自分という存在に自信のない人間がすることなのだけど、私はその罠にはまってしまった。バカといわれれば確かにバカだった。

カナダに帰化して深く根を下ろしても、日本国民でなくなっただけのことで、日本人という人種であることには変わりがなかった。誰にでも胸を張って「日本から来た」と言えた。それなのに、私は自分の中の「日本」を胸のずっと奥の奥に押し込んでしまった。でも、デラシネになっても、きっとどこかで拒絶した祖国と和解したいと思っていたはずだ。台風は女の子がなくした片目を泣きながら半狂乱で探し回っている姿だという伝説がある。私もそんなところだったかもしれない。私の片目「日本」はどこへ行ったのかと・・・

でも、何だか「日本」は見つかりそうにないような気がして来た。ふと、私の中の「日本」というのは、実は生まれ育った北海道のことだったのではないかと思ったから。考えてみると、私は北海道以外の日本を肌で知らないのだ。親たちの世代が「内地」と呼んだ、津軽海峡以南の島々は自分の原風景には存在しない異文化の世界だ。ひょっとしたら私がなくしたと思った片目はなくなっていなかったのかもしれない。もう泣きながら探さなくてもいい、そんな気がして来た。

クリスマスが来るぞ~

12月11日。クリスマスカードが郵便受けに舞い込み始めた。いつものことながら、急に待ったなしの気分になる。

めずらしく年内は仕事の予定がない。急ぎの仕事はいつ降って沸くかわからないけれど、やっとクリスマスカードを買って来て、大雪に降り込められて・・・と自分に言い訳しながら、ぼつぼつと書き始める。優先順は海外向けの業務用、海外向けのプライベート用、国内の業務用、そして最後が国内の家族や友だち。実のところ、最後のが一番数が多くてぎりぎりまであせって書くのが常。

カードは宗教色のないもの(Season’s Greetings)と手作り風のちょっとしゃれた「クリスマスカード」の両方を用意する。みんながみんなクリスチャンとは限らないからだ。カードの送り先リストにはプロテスタント、カトリックはもとより、ユダヤ教徒やヒンズー教徒もいる。移民大国ならではの気遣いなのだ。シアトルの空港ではユダヤ教のラビが訴えると言い出して、恒例のクリスマスツリーを全部撤去したという。これはちょっと偏狭すぎるというものだけど、それでも毎年あちこちで摩擦が起きる。

バンクーバーでは、昔から中国系がにぎやかに旧正月を祝い、春のキリスト教の復活祭の頃にシーク教開祖の聖誕祭があり、秋にはヒンズー教のディワリ祭がある。クリスマスの頃にはユダヤ教のハヌカ祭の巨大なメノラが美術館前の広場に立つ。いたって鷹揚な雰囲気なのだ。いつだったか、バンクーバーでも進歩派と称する活動家が、「クリスマス」を「光の祭」に呼び代えてキリスト教色を払拭しようとした。これは市民がそろって失笑して終わったのだけど、そういうおせっかいな輩はどこにでもいるものだ。でも、クリスマスは「クリスマス」というホリディなのだ。商業的でも宗教的でも、それぞれが新年に向かう北国の長い夜を楽しめばいいのだ。よけいなおせっかいは野暮というものでしょうが・・・

クリスマスパーティのシーズン

12月12日。クリスマスパーティのシーズンだ。大きな職場だと何百人もの大パーティになるし、小さな職場だとレストランでのディナーだったりする。いずれにしても、夜のパーティならパートナー同伴が普通。友達同士のホームパーティやクリスマスの家族の集まりはまず「お二人様」が原則だ。パートナー抜きで出てもいいけれど、周りは口には出さないまでもあらぬことを想像してしまうかもしれない。

この時期になるとゆううつになる日本人妻たちが多いようだ。言葉が不自由で会話についていけない。ダンナはそんな私をほったらかして、あっちこっちで仲間との話に夢中。そばにいってもかまってくれないし、話の輪にも入っていけない。ホームパーティだって、ダンナの友だちも家族も自分たちの共通の話題に夢中で、外国人の私、まだこの国に慣れていない私、言葉の不自由な私に誰も気を遣ってくれない。おもしろくない。つまらない。行きたくない。

12月は日本ならさしずめ忘年会シーズン。昔は芸者を呼んだり、ホステスを侍らせたり、とにかく日本のパーティは男の遊びだったのだ。斜めに見ると、なんだか「社交の場」というより子供の誕生会のような感じもあるけど、女は世話係か遊びの対象だったのだ。だから、夫婦同伴の習慣のなかった日本から来た妻たちが欧米流の社交を苦手と感じるのも不思議はないだろう。

フランス宮廷が華やかなりし時代には、ご婦人たちも社交の場でウィットに富んだ会話をしなければならなくて、かなりしんどかったようだ。「ウィット」をレベルアップするために家庭教師まで雇ったとか。清少納言がフランスにいたら、才気煥発ぶりを発揮して宮廷の殿方たちの憧れの的になったことだろう。北米の現代女性は自分の考えることを発言するのがあたりまえになっているし、結婚してもそのまま仕事を続けるから、会話のネタはけっこう豊富で、誰とでも話ができる社交性が培われている人が多い。

もうオフィスパーティは無縁になったけど、生まれつきおしゃべりな私はパーティが楽しい。わりともの怖じしない性格なのが幸いして、百科事典式の三行知識であちこちの話の輪に首を突っ込む。私が話に夢中で、ほったらしかになったカレシの方が退屈してしまうこともある。

でも、社交技術はやはり場数を踏んで身をもって習得するしかない。初めのうちは群れから離れて「人間模様」の観察を楽しむのもいい。パーティの中に入れないからつまらないと愚痴っていないで、社交のハウツービデオを見て勉強しているところなのだと考えてみたらどうだろう。

兄弟よ、あれが国境の灯だ

12月13日。カレシが急に1月にシアトルへ行こうと言い出した。どこか行きたいところがあるらしい。車でせいぜい3時間。1泊なら1人50ドルの免税枠もあるから、いいかなあと乗り気になる。

シアトルは南隣のワシントン州にある。ワシントン州はアメリカ合衆国の1州で、アメリカはカナダにとって外国だ。ところが、カナダ人にもアメリカ人にも互いの国が「外国」だという感覚があまりない。というのも今まで互いにパスポートなしで往来して来たからで、いわば国境の検問所を有料道路の料金所を通過するような感覚で行き来していたのだ。

カナダとアメリカの国境は五大湖に突き当たるまでは北緯49度線に沿って一直線。世界一平和な国境といわれ、どこかで誰かのベッドルームを通過するという嘘みたいな本当の話もあるくらいで、フェンスも武装もない。(もっとも最近はアメリカがフェンスを設置するという噂があるけれど・・・。)バンクーバーから一番近い国境通過点では、アメリカの入管事務所がなぜかカナダの領土の側にあるそうだ。でも、「あれは測量エラーでした」と肩をすくめるだけで別に「国外退去」させようという動きはない。

その国境を越えるのに来年からパスポートの提示が求められるようになるから、今両側で大騒ぎしている。カナダでもアメリカでも、パスポートが必要なのは「海外」へ行くとき、つまり北アメリカ大陸の外へ出るときだけだったから、生まれてこのかた一度もパスポートというものを持ったことのない人が大多数なのだ。

空路でのアメリカ入国については来年1月23日から施行されるが、ダントツに交通量の多い陸路については2008年1月頃まで延期ということになった。どうやらアメリカではカード式の簡易パスポートのようなものを考案中らしい。

カナダでは2001年の同時テロの後で市民権カードの申請がどっと増えた。ペラペラの紙で顔写真がついていない出生証明書では(民族によっては)アメリカ入国で問題が起きるようになったからだ。でも、現行の市民権カードは永住者カードとは大違いで、写真をラミネートしただけの安っぽいものだし、特に理由がなければ更新の必要もないから、いずれは永住者カードと同じように磁気テープにデータを記録した形式になるのかもしれない。

それまではパスポートを持って歩けば良いわけで、私たちもちょっとサンフランシスコまでというときでも必ずパスポートを所持して行く。だけど、手続きがしちめんどくさい、安くない手数料を払わされる・・・互いに批判しあい、悪口を言い、ときには(経済的な)けんかもするけれど、国境のアーチに「同じ母から生まれた子供」と書いてあるように、やはり兄弟同士だから、心情的には素直に既得権を手放す気になれないらしい。

市民サム

12月14日。先ごろのウィスラー映画祭にカナダ国立映画局が制作した「Citizen Sam(市民サム)」というドキュメンタリーが出品された。昨年秋にバンクーバー市長選挙に立候補したサム・サリバン市会議員の選挙戦中の素顔を追ったものだそうだ。トリノ五輪の閉会式で車椅子で五輪旗を振って見せたあのサム・サリバン市長のことだ。

サリバン市長は今年46歳。19歳のときにスキー事故で首を骨折して四肢が不自由になった。その年頃の若者にありがちな無謀なトリックを試みて失敗したのだそうだ。7年もの間うつ病と闘い、自殺を考え、死んだ自分の姿を想像した。死んでしまったサム。そのときに新しいサムが生まれたという。

わずかに機能が残った手を使って電動車椅子を操作し、特別仕様の車を運転し、ひとりで自立した生活を送って来た。大学でビジネスの学位をとり、障害者用のスポーツ器具やボートを考案して非営利企業をいくつも立ち上げた。1993年にバンクーバー市議会選挙に立候補して初当選、4期勤めて去年市長になった。フランス語、イタリア語のほか、流暢な広東語を話すだけでなく、読むこともできる。今はプンジャブ語も勉強中とか。エネルギーの塊のような人だ。

ヨットを操ったり、超軽量飛行機で空を飛び回ったり、冒険好きは今でも変わっていないらしいが、サムにはそれを見守るパートナーがいる。幼馴染で高校までいっしょだったリン・ザナッタさん。市長は「9才のときからずっと好きだった」と公言してはばからない。数年前にばったり再会して、友情が愛に変わった。サムの「しっかりと今を生きている凛々しさ」が魅力とか。公式行事にはバンクーバーのファーストレディとして同伴するリンさんの姿がある。

カナダでは政治家が車椅子に乗っていてもそれ自体はさしてニュースにならない。連邦議会にも車椅子の議員はいるし、昨年の選挙では落選したものの、バンクーバー市議会には車椅子の市会議員がもう1人いた。定員10人の議会に2人。道でもモールでもスーパーでも車椅子の人とすれ違うのは珍しいことではないから、特に注目を引かないのだ。それだけ「バリアフリー」の街づくりが進んでいるということだろう。サリバン市長の任期は2008年秋まで。2010年の冬季オリンピックでは開催都市の市長としてまたあの大きな五輪旗を振ってもらいたいと思うけど、こればっかりは「市長サム」のがんばり次第だろう。

政治家としてのサム・サリバンはともかく、自らの力で絶望から這い上がったサバイバーの驕りもひっくるめて、市民サムのエネルギッシュな前向き人生に、私は限りない尊敬を感じる。