リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2009年4月~その2’

2009年04月30日 | 昔語り(2006~2013)
トートバッグとエコバッグ

4月17日。やった~。午前5時。納入期限まで余裕の2時間を残してめでたく完了。校正担当者の現地時間では午前8時。自宅とは別に相棒を持ってオフィスを構えているから、そろそろ出勤時間かなあ。ま、とにかく「結果」を出せたわけで、めでたし、めでたし。ちょっとひと休みして、次、行こう。

とどのつまりは、やろうと思えばやれるわけなんだけど、なぜかさっさとやってしまわないで道草を食ってばっかりいるから、ぎりぎりで(薄くなる一方の)髪をふり乱しての大騒ぎになる。毎日一心不乱に10時間も働きづめだった10年前までのあの集中力はどこへ行ってしまったんだろう。まあ、あの頃はすでにうつ病のあり地獄に滑り落ちつつあって、唯一「自分」の存在を確かめられる仕事空間にしがみついていたようなもので、ほんとうの集中力とは別ものだったんだろうな。納期まであと何日/何時間あって、仕事があとこれだけあるから、∴このくらいはサボってもいっか、というのが本来の極楽とんぼのスタイルだったんだという気がする。もっとも、禅問答の「コップの水」は、のんきにまだ半分あるからいいかと思っているうちにどんどん蒸発してしまうんだけど。

正午を過ぎてからのんびり起き出して、朝食のあとは散歩がてらの野菜ショッピング。夜光虫みたいなとんぼだってたまには燦々とした太陽の光を浴びないとね。でも、春の日ざしはサングラスをかけていてもまぶしい。デパートの地下にある郵便局の私書箱から郵便を出して、モールの外側にある青果屋まで歩いていたら、角のコーチの店になんだかしゃれたトートバッグ。元々グッチだのヴィトンだの、イニシャルをちりばめていかにも「ブランド品なのよ」的なバッグは嫌いで、コーチもそのクチなんだけど、春らしく軽快で派手なトートにはひと目ぼれ。う~ん、欲しい気がする。

野菜の買い出しはメイシーズのエコバッグに詰めて、二人で持ってぶらぶら。秋にニューヨークに行ったらメイシーズに駆けつけて、あと3つくらいは買って来ようと決めているほど気に入っているトートバッグで、せいぜい4ドルのものなんだけど、東京にはなんとその5倍の値段で売っているところがある。でも、その値段ならこっちではもっとがっちりしたLLビーンのトートバッグが買えるなあ。どうも日本では「エコバッグブーム」のようなものがあるらしいけど、スーパーなどが1~2ドルで売っている不織布のバッグは破れやすくて困る。もう少し素材とデザインを工夫したら、値段は高めでもメイシーズのバッグのような「ヒット作品」になるかもしれないのに、これでは結局ゴミを増やしているようなもんじゃないかと思うんだけどなあ。

そろそろ夕食のしたくを・・・という頃にゲートのチャイム。こんな時間に誰だろうと思ったら、会計事務所からの納税申告の書類を届けに来たクーリア。いくら戻ってくるのかな、と早速開けてみたら、うはっ、ほっぺたをつねってみたくなるような金額・・・。年金をもらっている人がその一部を年金をもらっていない配偶者の所得に移して二人の合計納税額を減らせる制度があるおかげで、源泉徴収のない年金をもらうようになって追加払いを覚悟していたカレシにもけっこうな額が戻って来る。単に払い過ぎた税金が返って来るというだけなんだけれども、なんだかずっと無縁だったボーナスをまとめてもらったような感じ。う~ん、コーチのトートバッグ、買っちゃおうか・・・

がきんこ騒動とスカンク騒動

4月18日。大仕事が終わって、二人ともよ~く眠って、なんとなくリセットした感じ。カレシが「今日は庭仕事に専念するからな」というのでベーコンと卵でたっぷり燃料を補給。早くに二階の窓際で育て始めたトマトをひと回り大きな鉢に植え替え、初めて順調に育っている緑と紫のしそも植え替え。さっさと花を開いてしまったブロッコリは思い直したのかまた新しい花芽を出してきた。バジルの種を蒔いたら全然違う葉が出てきたのがあって、どうやらカリフラワーの可能性が出てきた。同じ色の種の袋がいくつもあるのに、カレシは名前を確かめずに蒔いて「バジル」の名札をつけたらしい。まあ、フリゼーのつもりが普通のエンダイブだったり、きゅうりのつもりがとうなすかぼちゃだったり、カレシの園芸はびっくり要素が多いけど、カリフラワーだったら怪我の功名かなあ。

予定変更でとりあえずのスペシャルになった夕食のあと、次の仕事にかかっていたら、カレシが出たり入ったり。そのうち外が騒がしくなって、消防車がやってきた。サイレンを鳴らさなかったし、すぐに帰ったので火事ではないなと仕事を続けていたら、カレシが興奮して戻ってきた。話を聞いてみて、びっくり仰天。十数人のティーンがゴルフ場で騒いでいるので、様子を見に行ったら、火のついたたいまつを持ったひとりが道路を渡って我が家の方へ近づいて来るところ。カレシと出くわして「何をやってる」と怒鳴られてあわてて引き返し、たいまつをゴルフ場にポイ。枯れ草に燃え移って炎が上がり、逃げ遅れた数人があわてて踏み消している間にカレシが消防車と警察に電話。

消防車は火が消えていたのでそのまま帰って、カレシがとなりのパットと話をしているところへ、別のティーン集団が現れて「ローゼンバーグさんちはどこ?」となりのブロックの真ん中の家のことで、フランスからの交換留学の高校生の世話をしていて、プログラムが終わったので帰るということでお別れパーティがあるという。ふむ、ローゼンバーグ家はユダヤ教の法事などで人が集まるときは必ず近所に予告して回る律儀な人たちなんだけど、そんな何十人もティーンが集まるなんて話はきいていない。そこでカレシは「大人と話したい」と、家まで出かけていったら、15、6才のガキンコたちがうようよ。どうやら高校生の息子が両親が留守の間にパーティを企んだらしい。(カレシにも前科がある・・・。)まあ、警察と消防署に通報したからと言っておいたそうなので、もうこれ以上の騒ぎはなさそうだけど、それにしても今どきのガキンコは質が悪い。パットは「近頃の若いもんは5才児並みおつむなのさ」と肩をすくめるけど、人さまの生垣に火をつけて、燃えているのを携帯カメラで撮ってYouTubeに投稿しようって魂胆だったんじゃないだろうなあ。

ひと騒動がおさまって、やれやれと仕事に集中・・・のはずが、今度はポーチでなにやら「コトン」。玄関脇の窓からのぞいて見たら、いた~!スカンクがいた!せかせかとポーチの端で穴を掘っている現行犯。だけど、相手はスカンクなもので、ドアを開けて「こら~っ」とやるわけにはいかない。しょうがないから、懐中電灯を持ってきて窓越しに照らしたら、「うっせぇ~なあ」という顔で見上げて、「しゃ~ねぇ~や」とふてくさった態度でのそのそと退散。初めてご対面したスカンク、メタボの猫がでれ~んとへたっているような形で、思っていたより大きい。何となく愛嬌があって憎めないし、ホームレスなのはわかるんだけど、ポーチの下に居候されては困るのだ。ここは、仕事の手があいたら、カレシのお尻を叩いて金網を入れないとなあ。去年からそういってるのに・・・。

今日もまた騒動つづきで・・・

4月19日。きのうから一転してなんとなく湿っぽい日曜日。毎年恒例の10キロマラソン「Sun Run」がある日。今年は去年よりも参加者が減ったそうだけど、それでも5万5千人も走る北米でも有数のイベント。極楽とんぼが出場した最初で最後のは55才を記念してだったから、もう6年。半月板を痛めた膝の手術をしてから7ヵ月だったけど、けっこう余裕で走って、ゴールインしたスタジアムでは用意されたバナナやオレンジやヨーグルトでたらふく朝ごはん。今の生活時間帯では早朝のマラソン参加はちょっときついけど、65才の年には記念にまた走ろうかなあ。

ホッケーの試合を見ながら、あめ色に炒めた玉ねぎとひらたけ、ひまわりのもやしをたっぷり挟み込んだ分厚いハンバーガーの夕食の後、急に入ってきたラッシュの仕事をしていたら、煙探知機が鳴り出した。いけない!焦げ付きを取ろうと水と洗剤を入れたフライパンをレンジにかけたまま。キッチンにはすごい煙が充満。トイレから飛び出してきたカレシと、窓もドアも開けて、ファンを回して、換気装置を高速モードにして・・・ああ、やれやれと思ったら、警備会社から電話。「すんません!フライパンをレンジにかけっぱなしで焦がしちゃって。すぐリセットしま~す」と、パネルに飛びついて、PINを入力してオフ。一時は止まったてもまだ煙がすごいからまた鳴り出す。またPINを入力してオフ。やっと鳴らなくなった。電話に戻ったら、あら、切れている。ま、アラームが止まったことだし、いっか・・・。

と、仕事に戻ったら、あら、サイレンが近づいてくる。「消防車が来ちゃった」とカレシ。外へ飛び出したら赤いライトがくるくる。急いでゲートを開けたら、フル装備の消防士が3人も。警備会社から「電話が切れたから」と通報があったんだそうな。ふむ、同じ回線につながっているアラームのパネルを操作したら電話の方は切れてしまうのか。すいませ~ん、あわくっていたもんで。すごくハンサムな消防士さん、「よくあることさ。一応チェックするからね」と、家の中に入って点検。火の気はなし(OK)。煙もほぼ排出(OK)。安全確認(OK)。ありがとうございました!「煙を吸って倒れていることもあり得るからねえ」と消防士さん。はい、以後気をつけます!

やれやれと仕事に戻ったら、今度は警備会社のパトロールの人。また平身低頭で一部始終を説明して、「ごめんなさ~い」。出動報告書のコピーをもらって、やっと一件落着。これが全部わずか30分の間のできごとだから、カレシは怒りたいのか泣きたいのか笑いたいのか、困った顔。「きのうの今日ってこんなのをいうのかなあ。ストレス、多すぎ!くたびれた、もう」と。そうだねえ、なんかすごいどたばた続きの週末だったねえ。「でも、ボクは何もしてないのにこの騒動だったんだぜ~と言えるから、まあ、いいか」と、カレシ。はあ・・・?

ま、どたばたしながらも急の仕事も間に合って、めでたし、めでたし。だけど、ほんと、極楽とんぼとしたことが・・・じゃなくて、この極楽とんぼぶり!まだボケてもいい年にはほど遠いんだから、気をつけなくちゃあかんぜよ、この春とんぼ。

若気の至りは忘れた頃に

4月20日。なんともエキサイティングな週末の後、やっと平穏な1日。まあ、人生がごく「普通」なんだったら、たまにはそういうアドレナリンがバンバン出るようなできごともアクセントになって悪くはないと思うんだけど、カレシにそう言ったらもろに「だらかそういうノー天気なやつは・・・」という顔をされた。現代日本語で言うと極楽とんぼは「テンションが高すぎ!」ということになるのかな。カレシの方は「どっと疲れた」んだそうな。あれ、それは日本人が小町みたいな掲示板でいっつも言ってるせりふだけど。ふむ、やっぱり神様がコウノトリに運ばせる「宅急便」の宛名を間違ったということはあり得るかもしれないな。ということは、カレシと極楽とんぼは「取替えっ子」同士の異文化カップルってことか・・・ん?

BC州は総選挙のまっ盛り・・・のはずなんだけど、みんなの関心事はホッケーのプレーオフの方。バンクーバーカナックスが久しぶりに熱い。いつも尻すぼみでプレーオフを逃し、うまく勝ち残っても第1ラウンドでしょぼってしまうチームがメジャーなメディアにまでスタンリーカップ獲得の有力候補に挙げられて、えらいフィーバー。第1ラウンドの対セントルイスブルース戦はホームゲームでまず2連勝。昨日の日曜日はセントルイスに移って第3戦。キャプテンでゴールテンダーのルオンゴが熱い。双子のセディン兄弟も熱い。若手のビエクサもバローズもケスラーも熱い。ほんと、総選挙なんかやってるどころじゃないよ。(きのうの試合は第3ピリオドぎりぎりでのセントルイスの追い上げを振り切って3勝目。あと1勝で第2ラウンドへ進める。スタンリーカップをかけた決勝戦は・・・なんと6月の終わり。まあ、それでプレーオフのことを「セカンドシーズン」というんだけど。

それでも時には総選挙関連のニュースがトップになる。今回は、野党の若い候補者が2、3年前にFacebookに載せた「プライベート」な写真が表沙汰公になって、立候補を撤回したと言う話。この候補者、何才だか知らないけど、新聞にでかでかと公開された写真を見る限りでは、ネット時代の典型的なバカなおにいちゃんという印象。女性と抱き合っておっぱいもみもみしているところとか、パンツを下げて女性が下着のあのあたりをもみもみしているところとか・・・「判断力の欠如だ」というけど、そんな写真を得意になってネットに載せるような「おこちゃま思考」の人間を候補者として立てる政党の方が(支持政党じゃないからいいとしても)問題のような気がする。だけど、ネットの空間と自分の身の回りの空間の区別がつかない人間が増えているんだろうな、きっと。

情報時代、インターネット時代の幕開けの頃にこんな箍の外れたような状況を予言した人はいなかったなあ。検索エンジンで世界中の知識が身近なものになるということは、夢のようなわくわくする展望だったけど、人間を人間足らしめたはずの理智的な思考がここれほどまで視覚的な刺激と反射神経に取って代わられるとは想像もしなかっただろうな。うん、振り返ってみれば、なんとなくばら色の夢のような未来を期待して浮かれていたようなところもある。あんがい産業革命の十八、九世紀や、家電や自家用車が普及した二十世紀の「ばら色の未来」と同じで、新しいユートピアに対するうきうきした期待感だったのかもしれない。ま、これからは仮想の空間に気を許して、(実年令に関係なく)若気の至りのバカをやっては、後で現実社会で悔やんでも悔やみきれない思いをする人が増えて来そうだなあ。

外見から万事を判断する愚

4月21日。イギリスのオーディション番組で一躍世界に注目されたスーザン・ボイル。世の中にはこんな人があちこちに埋もれているんだなあと思うとため息が出る。出演者をサイモン・カウエルが毒舌で苛めるのを売り物にしているオーディション番組はアメリカにもあるし、そのカナダ版もあって、出場者は各地での(本当の)オーディションに長蛇の列を作るタレント志望の中から選ばれる。つまり、この手の番組は純然たる「ショー」だから、選考する側はスーザンの「意外性」、イジワルに勘ぐれば「冴えない独身の中年おばさんにしてはけっこう歌えるじゃないの」という「お笑い要素」を見て選んだのだろうし、彼女がステージに出た時の反応を見ればその思惑は当たったことになる。

だけど、スーザンが歌い出してからの審査員や聴衆の反応が意外性とはまったく無関係の純粋な「感動」だったことは間違いない。漫然と見ていたテレビのニュースで番組のクリップが流れたときは、何のニュースなのか理解する前から目頭が熱くなってしまった。番組の事情がわかってから聞きなおしても、やっぱり涙が出て来る。彼女が10年前にチャリティCDに録音したと言う『Cry Me a River』も聞いてみたけど、やっぱりわけもなく涙が出てきてしまう。元から好きな曲だということもあるけど、歌がうまいとか、声がすばらしいとかいう前に、彼女の歌唱には心の深いところにぐっと迫って来る「何か」がある。その何かに心を動かされた人たちがあまりにも多かったからこそあれほどのセンセーションが巻き起こったのだと思う。

もちろん、人間の感じ方は千差万別だから、「なんであれが受けるの?」という人たちも世界中にごまんといるわけで、小町にも「何でこれが世界の称賛を浴びるの?」とか、「そんなにうまいと思えない」、「あのくらい歌える人はいくらでもいる」といった意見もかなりある。はては「テレビに出るなら普通は髪を切ったり、メイクくらいはするはず。あれは受け狙い。独身ならそれなりに自分を磨く時間もお金もありそうなもの」というのもあったけど、まあ、この人は外見とファッションのチェックに夢中で歌の方は聞いていなかったんだろう。たしかにマスコミが「容姿」と「歌声」のギャップを強調しているきらいもあるけど、外見の美醜と歌声と才能には何の関係もあるはずがない。

それでも、容姿が美の基準に合わなければ歌もうまさの基準に合わないだろうと思ってしまうのは、「包み紙」で贈り物の価値を判断する表層的な人なのかもしれないし、視覚から反応的に判断するように感情機能が配線されている人なのかもしれない。番組の制作者が狙ったであろう「見てくれの冴えない中年おばさんでも歌えるんだ」という意外性はそれを「意外」と感じた一瞬だけのものなのに、そこに囚われてしまった人たちもいるだろう。でも、次の一瞬にその囚われから自由になった人たちは、彼女の歌声から伝わってくる「何か」に心を動かされたのだと思う。番組で歌った曲と『Cry Me a River』はまったく趣が違うのにそれでいてどちらもすばらしいのは、彼女がプロの歌手を目指して努力して来たという裏づけがあるからで、ただの「のど自慢おばさん」なんかではないという証拠。プロになって才能がいっそう磨かれるとすばらしいなあ。

ちなみに、バンクーバーのArts Club劇団が来月から公演する『レ・ミゼラブル』はチケットが飛ぶように売れ出したそうな。オープンチケットがまだ2枚残っていると言ったら、ミュージカルには興味のないカレシまでが「観てみるか」。それってちょっとミーハー的な感じがするけど・・・。

日/日翻訳機がほしい

4月22日。またまた予定が詰まって来たような感じがするけど、運転免許証の更新と肉類の買出しをまとめてやってしまうことにした。これから5年間付き合わなければならない写真を撮られるから、今日はきちんとメイクをしておめかし。といっても、免許証やパスポートの写真はなぜか「駄作」が多いんだけど、「こんどこそは」に期待をかけるか。ポーチの温度計を見たら、午後1時過ぎで11度。どうやら春の陽気が定着したということで、七分袖のニットシャツ1枚のままでおでかけ。

週中の午後のせいかもしれないけど、免許証のオフィスはがら空き。順番待ちの番号札をもらって座ったと思ったらほどなくして表示版に番号が出た。過去5年の間に住所変更はなし、免許停止もなしで運転に影響する健康問題もなし。身長も変更なし(縮んでないだろうな)で、体重は、う~ん、ちょっとだけ増えたかな。「けさは○○ポンドでした」と申告。クレジットカードで75ドルなりを払って、床の「足跡」のところに立って、カメラの上の目玉の絵を見る。そばに「スマイルはだめ」と大きな字で書いてあるけど、この「目玉」、笑ってるじゃん。はて、どんな写真が撮れたかなあ・・・

スーパーでは肉や魚をど~んと仕入れ。帰ってきて、フリーザーに入れるための処理をするのにほぼ1時間。もう夕食のしたくの時間。メールをチェックしたら、あ~あ、またラッシュ仕事と大きな仕事。これで4月どころか5月も暮れてしまいそう。「お誕生日までに原稿をお届けします!」って、喜んでいいのかどうか・・・。

やっと取りかかった現在進行形の仕事・・・そうだ、夕べは「ファイルその1はあと少し」というところで、うは~っというようなセンテンスに引っかかって、さんざん頭をかきむしったあげくに諦めたのだった。始まりから最後の「。」までなんと530文字もあって、括弧の注記があって、その中にまた「ところで」とか「つまりは」のような括弧の注記がなんと8つも入っている。最後まで通して読んだら何がどうなのかわからなくなってしまうもので、大括弧を中の小括弧もろとも取り払ってみたら、残ったセンテンスはたったの70文字。すごい道草文学だなあ。なんとかもうちょっとまともな文章を書けないものかなあ、この人たち。そもそも、書いた人自身はちゃんとわかっているのかなあ。
去年やった書類にはワンセンテンスが700文字以上ってのもあったよねえ、たしか。

下から読んだり、上から読んだり、右から読んだり、左から読んだりの悪戦苦闘。なんだかちょっとばかり光明が見えてきたような、見えないような。じゃ、頭のくもの巣を払って、もう一度・・・

日本語の感情表現

4月23日。とにかく終わった。迷路にはまったネズミのような気分にさせてくれる仕事の最後までたどり着いて、「はい、おしまい!」という気分でENTERキーをバン!と叩くと、わっと開放感が沸いてくる。もっとも、日本では金曜日の夕方で、あとほんのちょっとの間何もなければ週末は羽を伸ばせる。あとちょっと・・・結局はまた埋められてしまったけど、誕生日くらいは「休業」の札を下げてもいいかなあ。

このキーボード、キーの文字がほとんど消えて新調したのはそれほど前じゃないはずなんだけど、なんだかNのキーが心なしかもう薄くなっている。やっぱり力を入れて叩きすぎるのかなあ。そんな自覚はなくても極楽とんぼは手動のタイプライター育ちだからなあ。おりよく小町に上がっていた『パソコンを力強くたたく人っていますよね?』というトピック。うん、いるいる、ここに。だけど、よく読んだら全然良いことを書いていない。どうやら日本では「力強く」キーを叩くのは嫌われるらしい。「お仕事してます」という嫌味に取られたりするようで、とんぼが日本のオフィスで働いたら袋叩きに遭うかもしれない。くわばら、くわばら。臭いの次はキーを叩く音がうざい。ほんとに他人が気になってしかたがなくて、他人のことでイライラしている人が増えているのかなあ。

読売の別のセクションで読んでいた連載の中にこんな一節があった。「外国で5、6年勤務して帰国した時に街で出会う人達の表情が非常に気になりました。口をヘの字に結び、きつい目をして、不満そうに口を尖らせている人がたいへん多いのです」。そういえば、電車の中では、たまたま目が合った人に怖い目で睨まれたっけ。長いこと知らない人とでも目が合ったらスマイルを交わすのに慣れていた極楽とんぼは「にこっ」。向こうは「ぎろっ」。いや、びっくりしたのなんのって。すごく鬱屈した感情があるのかもしれないけど、見るなと言われても、お互いに同じ空間に存在しているわけだし、消えろといわれても走っている電車の中だし、「謝罪」すべき罪も犯してないしねえ・・・。

ふむ、この「謝罪」という言葉もちょっと乱用されている印象がある。ちょっとしたことでも「謝罪しろ」。言葉の持つ重みが感じられなくなったのか、もうちょっと怒ったときは「土下座して謝罪」。この調子で「死んでお詫び」にエスカレートしないといいけど。人に頼み事をするのに「懇願する」と書いていた人がいたし、友達関係に疲れたというのに「疲弊しています」と書いた人や、意外なことで驚いただけなのに「吃驚した」と書いた人がいた。まるで言葉がどんどん軽くなって行くみたいで不気味な感じもするけど、ひょっとしたら逆にもやもやした閉塞感の中で、感情が激しくなって来て、これまでの普通の言葉ではもの足りなくなって来たのかなあ。日本語、ほんと変だよ、この頃・・・。

本質的にうつっぽい人たち

4月24日。週末にやるはずだった仕事の入稿が遅れてくれたおかげで、少なくとも日本で月曜日の夜が明ける日曜の午後までは安全圏。久々にのんびりの週末になった。もうすぐ午後1時という時間におきだして、午後はのんびりとニュースを読んで、夕食後は3月までの帳簿を整理してGSTの申告。済んだところでニュースめぐりと小町のぞき。

極楽とんぼの「お気に入り」には「ニュース」フォルダの中に30近いサイトが登録されていて、その日のいの一番はいつも地元の新聞。それからGoogle Newsで世界各地のめぼしいニュースを拾い読み。その後で、Reuters、Bloomberg、BBC News、New York Times、Financial Times、Japan Times、UPI Asia、Japan Todayと回って来たところで、娯楽ページをめくる感じでJapan Probe、Japundit、読売小町と進み、Google Newsに戻ってブックマークしていないニュースサイトをあれこれのぞいて、ちょうど日本が朝になる頃に読売、朝日、毎日、産経と回る。こうやって並べたら、まるでニュースを読むのが趣味のように見えて来るけど、まあ、毎日飽きもせずに、この世界にはほんっとにいろんなことが起こっていて、いろんな人がいて、いろんなものがあるもんだと、ひとりで勝手に感心しているところを見ると、やっぱり趣味なのかもしれないなあ。

昨日は妙に感情を誇張したような表現をするのはどうしてかと通りすがり程度に考えてみたけど、小町のキーボードの音がうるさいというトピックの書き込みを通して読んでいるうちに、他人がキーを叩く音がうるさい、迷惑だと言っている人たちは、必ずしもその「音量」そのものが嫌なのではなくて、キーを叩いている「人」に対して何らかのネガティブな「感情」を持っているのではないかと思えてきた。「自分は大きな音で周りに迷惑をかけないようにこんなに努力しているのに」、「仕事もできないくせに、仕事しているとアピールしている」、「がさつな人」、「デリカシーがない」と。しまいには「自覚している人は言い訳なんかいいから職場では気をつけなさい。ほんっとに迷惑なんだから」とお叱り。はいはい、し~ずかに、し~ずかに、ひっそり息をひそめて打つんですね。

日本の職場には「タイプライター時代」がなかったからこれほどまでに「神経質」なのかとも思ってみたけど、どうしても他人の存在そのものが嫌な人が多いのではないかと思えて来る。小町には他人のことが気になってしかたがない人が立てたトピックがずらっと並んでいるけど、ほとんどがその「気になること」に対してネガティブな感情を持ち、「同感」を得ることで自己を肯定しようというもくろみが透けて見える。「同感」と「共感」の違いがわからないのかもしれない。自分を肯定できていないのは、ひょっとしたら自我ができていなくて、そのために自分と他人の境界がはっきりせず、自分が受け入れられていないと感じるからかもしれない。ネガティブな感情や攻撃、批判はそんな閉塞した空間から生まれてくるのかもしれない。ひょっとしたら、本質的に鬱っぽい人たちなのかもしれないなあ。ふむ・・・

日本語の表現に戻れば、いつから始まったのか知らないけど、ニュースでも多用(濫用?)されている「元気をもらう」、「勇気をもらう」、「感動をもらう」といった表現も不思議な言い回しだと思う。極楽とんぼが覚えている日本語では、元気や勇気は「出す」、感動は「する」という能動態なんだけど、いつの頃からか、元気も勇気も感動も自分の中から沸いて来なくなって、人さまから「もらう」という受動態になってしまったのかなあ。でも、この「もらう」は、「してもらう」のとは違って、「命、もらいます」のように自分から手を伸ばして取るような、能動的な感じがするなあ。まあ、勇気も元気も欲しいという人に「分けてあげる」ことには異存はないんだけど、「元気をもらいました」と言われたら、「えっ、その元気、私のなんですけど」と言ってしまうかもしれないなあ。もっとも、返してちょうだいとはいわないけど・・・。

極楽とんぼはLⅩI

4月25日。すばらしく晴れ上がった土曜日。今日は61回目の誕生日。ローマ数字で表すと「LXI」。なんだかスタイリッシュなスポーツカーみたいに聞こえて、うん、かっこいいじゃないの。極楽とんぼは未だに誕生日が大好き。プレゼントをもらうとか、ごちそうを食べて祝うとか言う前に、自分がこの世に生まれて「生き始めた」日だから。

予定日をめちゃくちゃに過ぎて、大変な難産の末にやっと生まれたけど、へその緒を首に巻きつけていたので、なかなか自発呼吸をしなくて、危うく新生児死亡率に貢献するところだった。その赤ん坊が今日満61才。この年令がまだ若いのか、もう年寄りなのか。その判断は当人にはつきかねるので人さまに任せるとして、60年といえば人間の平均寿命の4分の3。それだけの年月を生きて来たんだから、それなりに「成果」はあったと思う。振り返ってみて、一度しかない人生はどんなことがあっても生きる価値があると思えるようになったのは、やっぱりよる年波のせいなのか・・・。

今とんぼの心の目に映る世界は、20才の頃とも、40才の頃とも、確実に違っている。それが視野の広がりだし、人間としての成長というものだと思いたい。視野というのは自らの働きかけと経験によって広がって行くものであって、20才と40才と60才ではそもそも経験の絶対値が違うから、世の中も違ったものに見えて当然なんだと思う。また、視野は視点がどこにあるかによっても違いが出てくるだろうな。ひとつの国、文化圏、生活圏の中と外では「見え方」が違っていて当然だろう。中にいると無限の空間のようでも、外から見ると有限であり(というよりも、「外」が存在すること自体がその「空間」が有限であることを示している)、外から見えるものは離れるほどに小さくなって見える。小さくなるにつれて、別のものが同じ視野の中に入ってくる。心の中に宇宙が見えてくる。それをどこまで広げるかは、まさに人それぞれ。だけど、自分の宇宙がどれだけ広いかは、中にいる自分にはわからないし、こればかりは外へ出て見るわけにもいかないし・・・。

平均寿命まで、「あと20年ある」と見るか、「あと20年しかない」と見るか、それとも「まだ20年もある」と見るか。う~ん、極楽とんぼとしては、あと39年、。ノンシャランにいい風に乗って100才を目指そう。人生は有限の時空間。だからこそ、どんなことがあっても生き抜いてみる価値があると思うよ。

丸い穴に四角い杭

4月26日。誕生日から一夜明けた(は大げさだけど)日曜日。今日も天気が良い。カレシは午後いっぱい庭仕事。iPodのイアフォンの上に産業用の防音イアマフをして、きっとそこはカレシにとって一番気持が落ち着く時空間なんだろうな。

極楽とんぼは、大学の講義のDVDのカタログをぱらぱらとめくって、何を思ったか2つも注文してしまった。ひとつは「楽しい科学」とでも言えそうな、物理学、化学、地学、地球物理学、生物学と広く俯瞰する全部で30時間の講義で、もうひとつは「人間の言語史」という18時間の講義。「言語とは何か」に始まって、人工言語まで。先週のTIME誌にはYouTubeやiTuneが教育分野に乗り出したという記事があった。一流大学の授業を無料で受けられるようなもので、インターネットもやっと「門前大学」として人類の役に立てるところまで来たという感じもする。科学やそのた諸々の知識の世界を垣間見ては目を輝かせるのは子供の頃からちっと変わっていないのかもしれない。理屈はいろいろこねたけど、大学に行かなかったのは、とどのつまりは「学校」そのものが嫌いだったんだろうな。

居心地が悪かったのは学校だけではなかったように思う。世間一般というところもかなり居心地が悪かった。居心地が良かったのは家庭と最後に勤めたスウェーデン系の会社くらいだろうか。どうしてもしっくりとこなかったと言うほかない。今どき風に言えば、常に空気が読めない状態にあったというところだろうか。あのまま日本を離れなかったら今頃はどんな暮らしをしていたか、見当もつかないのは長い年月のせいなのか、それともまだしっかり根を生やしていなかったせいなのか。

逆にカナダは初めから不思議なくらい居心地が良かった。言葉や文化の壁がなかったはずはないのに、何もかもひっくるめてその心地の良さは今も変わらない。日本以外の国に旅をするようになって20年足らずだけど、どこへ行っても「着なれた服」に近いような心地良さを感じていた。自分が素のままでいられるという微妙な安心感のせいかもしれない。不思議なことに、というよりは今になって考えると不思議でもなんでもなかったんだけど、唯一なんとなく漠然と居心地が良くなかったのが「家庭」。学校時代のあの気の休まらなさのような感じだったのかもしれない。去年の春に10年ぶりに東京を訪れた後でその理由がわかったように思う。

要するに「Square peg in a round hole(丸い穴の四角い杭)」。日本でしっくりしなさを感じながらも無意識に世間一般に合わせようとしていたのと同じように、無意識にカレシの(日本人)妻の型に合わせようと、ある意味無理をしていたのだと思う。その無理に気づくきっかけがカレシの大爆発。そのときの状況や「ヒロインたち」への反発もあったけど、「自分」を取り戻すために自分の中にあった(であろう)「日本人」を剥がして捨てた。でも、捨てたのは「日本」という国家や文化に属する「日本人」なんだけど、日本の中から見ている日本人には「日本人という人種でなくなったわけではないし、なくなるはずもない」と説明しても通じないことが多い。その違い(二人について言うならば「国際」結婚ではなくて「異人種」結婚だということ)に最初に気づいてくれたのがカレシだったのはちょっと皮肉でもある。

窮屈な「満員バス」から降りたたような気分で、胸いっぱい深呼吸をして大手を振って歩き始めたのが今の極楽とんぼ。還暦は10年の苦闘が終わった大きな、大きな節目の年でもあった。東京の空の下でどこへ行っても感じる居心地の良さを感じることができたのは、四角い杭が丸くなったわけではなくて、その穴に自分をはめ込まなくても良くなって、初めて素のままの自分でいられたからだと思う。あれから1年経って、カレシがくれたカードには「そのままのキミが一番いい」と書いてあった。理想郷としての「日本」にはまだ未練があるらしいけど、少なくとも私という人間からその「日本」を剥がして、素のままで受け入れてくれているらしいのが何よりもうれしい。

このブタやろー

4月27日。引き続き好天。仕事いっぱい。日本はゴールデンウィークだから静かになるともくろんだのになあ。元原稿が原稿用紙にして270枚分くらいある巨大な仕事も全量確定。おもしろそうだからと飛びつく極楽とんぼもとんぼなんだけど、あ~あ、せっかくの初夏の候もベースメントのオフィスでモニターとにらめっこしているうちに過ぎてしまいそう。いっそ還付される税金でラップトップを買って、日当たりの良い二階で仕事しようかなあ。

メキシコで始まったSwine Flu(豚インフルエンザ)が世界的流行の一歩手前のフェーズ4に指定された。BC州は今のところ患者2人が確認されて、数人が検査の結果待ちだという。確認された2人のうちの1人は川向こうのリッチモンドの若い人。メキシコはカンクンでのバケーション最終日に体調を崩して、水曜日の帰りの飛行機の中で猛烈な寒気が始まり、それ以来ずっと寝込んでいたんだそうで、「想像のつく限り最悪の食中毒が4日も続いた感じだった」とか。メキシコはカナダ人にとって人気バケーションスポットだから、これから患者が増えるだろう。でもカナダにはSARSで何十人もの死者を出した時の苦い経験があるから、防備体制は大丈夫だと思うけど。当面は、保健所勧告の通りに、やたらと鼻や口を手で触らない。しっかり手洗いを励行。あとは鼻が乾燥しないように生理的食塩水のスプレーをシュッシュッ・・・こんなところでいいんじゃないのかな。

新型インフルエンザの大流行は今に始まったことではないけど、呼吸器は健康なのに慢性的に咳をしている極楽とんぼは気をつけないととんでもないとばっちりをこうむることがある。SARSのときはダブリンでの会議に行くのに、入国拒否を食らわないようにとドクターに「まったくの健康体」という証明書を書いてもらった。そういえば、出発ゲートに向かう途中で、吹き抜けになっている下の入国管理フロアを見たら、ちょうどアジア便が続々と到着する時間帯で、見渡す限り白いマスクの海。あれはかなり異様な光景だったけど、SARSは原因不明の死亡率の高い新型の病気だったから、深刻度は相当なものだった。

今回の新型インフルエンザは40年前の「香港インフルエンザ」以来の大流行になるかもしれないという話もある。日本でもたしか「香港かぜ」といって騒がれていたような記憶もあるけど、北米では学生たちが冗談に「毛沢東かぜ」と呼んでいたと、カレシは言う。世界での死亡者数は推定50万人と言われる。当時に比べたら今は人の往来が増えたし、移動のスピードも昔の比ではないから、流行が広まるのもずっと早いだろうな。

スペインかぜが世界に大流行したときの死者は5千万人とも1億人とも言われるから、中世の「黒死病」大流行に匹敵するくらいの規模だったのだろう。この黒死病は腺ペストではなくて、現代アフリカでときどき猛威を振るうエボラ出血熱のようなウィルスによるものだったという説もあるけど、人間も地球上の動物界の1種で、どこかで遺伝子のかけらを共有しているだろうから、鳥や豚からインフルエンザをもらっても不思議はないだろうな。逆に人間からウィルスをもらって病気になる動物だっているだろうし。

だけど、病気の流行を阻止できるのは今のところ人類だけなんだから、ここはあわてずに自分でできる最善のことをするのが一番の防御策かな。大変、大変、怖いよ~と大騒ぎしてあとで笑われるのはチキンリトルだけでいいと思うけど。あ、そろそろ怪しげなオンライン薬局がパニックを利用して、タミフルやリレンザを安く、翌日にお届け!なんてスパムを大量にばらまいてくるんじゃないかな。You swine!(このブタヤローが!)。でも、引っかかる人、きっといるだろうな・・・

ほんとに世の中って

4月28日。世の中にはほんとにいろいろとヘンな人、困った人、呆れた人、ど~しょ~もない人がいるもんだ。

州議会総選挙の真っ最中だというのに、与党の大物候補の法務大臣が辞任。なんとスピード違反の切符を5年間に9枚ももらって、とうとう免許停止になったのが明るみに出たからなんだけど、実は州の道路交通法はこの人の管轄だから、スピード違反で免停なんてもってのほか。投票日まであと2週間では候補をやめるわけにも行かず、閣僚ポスト辞任となったらしい。足が重くてアクセルから離れなかったっての?んっとにまあ、困ったお人だねえ。

ニューヨーク上空を大型旅客機がジェット戦闘機に追われて低空飛行。まだ7年半前の9/11のトラウマが癒えないニューヨーカーはパニック状態でオフィスを飛び出し、道路に避難。聞いてみると、なんと旅客機は大統領専用機エアフォースワンの予備機で、ジェット戦闘機にはカメラマンが乗っていて、「ニューヨーク上空飛行」の写真撮影。ホワイトハウスの担当部署はニューヨーク市警察に通知したというけど、ブルームバーグ市長にも市民にもなしのつぶて。記者会見に臨んだ市長の額には青筋が立っていた。だいたい、写真Shopを知らないの?動画がいるなら、飛行機を飛ばさなくても、民主党びいきのハリウッドに合成できるテクニシャンはごろごろしているだろうに。んっとにまあ、無神経きわまりない、呆れた人たちだなあ。

メキシコにある日本企業の駐在員の家族が続々と「脱出」することになるらしい。たしかに「豚インフル」が怖くて、怖くて、いても立ってもいられないと気持が逸っているんだろうけど、「脱出」ねえ。豚インフルの地獄に残る「メキシコ人」についてはどう思うのってききたいなあ。「カナダに行っても大丈夫ですかっ」て、もしもこっちで流行し始めたら、パニクっている外国人なんかじゃまっけだから、来てくれなくてもいいけど。ついでに、あたふたする人が少ないほど対策を実施しやすいので、カナダで豚インフルの患者が出たから「怖い!」という人は、どうぞ安全な日本へお帰りください。どれだったか、日本の新聞に「日本の報道が一番過剰だ」と書いてあった。マスコミが率先しておたおたと騒ぐから、国民もおたおた騒ぐんじゃないの?んっとに、ど~しょ~もない。

東京のどこかの公園の真ん中で夜の夜中に素っ裸で騒いでいて、逮捕された何とか言うタレント君。それをトップニュースで報道する日本のメディア。どこかのテレビ局なんか、現場の模型まで作って、レゴのピースみたいな人形とパトカーまで動かして、オジサン解説者たちがていねいに説明。へえ~、これって「識者」が解説するような重大事件なのなかあ。日本ではそうらしいから、海外のメディアも「ン?」と思って報道。んなの、ハリウッドのおバカスターたちが年中やってるけど、芸能ゴシップでよいしょするくらいかな。んっとにまあ、ヘンな人たちだなあ。

ちょっと著書に触れたら、ほめたわけでもないのに、どこをどうやって探し出して来たのか、しつこい人。どうやら、どこでもかしこでも、ところかまわずリンクを貼って自著の販促をやっているようだけど、あんたがどうやって女をナンパしたかなんて興味ないんですけど。あんたのようなのはこっちにもわんさといるし、どこでどんなふうに出会おうが、そういう相手と出会ったってことには変わりないだろうし、どういう関係であろうがとんぼの知ったことではないんだけど。それを何でとんぼが世の中に説明してやらなきゃなんないの?知りたい人が本を買って読めばいいだけじゃないの。わずらわしくなって来たから記事をそっくり削除しちゃったけど、んっとにまあ、しつこい人だなあ。どっかよそで相手になってくれる人をつかまえなっつうの。

ほんと、世の中にどこを見てもあたりまえにいるらしい、いろいろなヘンな人、困った人、呆れた人、ど~しょ~もない人に、今日のとんぼはただただ感心のいたり・・・。

笑う門に福が殺到すると

4月29日。今日はまあなんといろんなものが来る日だったこと。起きる前にピンポン鳴っていたなと思ったら、注文してあったキッチン用品の配達を逃して「不在通知」。郵便公社がメールで送ってくる通知では、配達予定は30日だったんだけどなあ。まあ、予定はあくまでも予定ってことだけど。

ひと山の郵便の中にカレシがケーブルテレビの会社に請求書のことで文句を言ったついでに「売りつけられて」しまったデジタル放送のコンバータ。いくつチャンネルがあるのか知らないけど、これで月3ドル料金が増える。デジタルに移行したらリビングにあるメインのテレビを買い替えるつもりでいたから、ま、いっか。

郵便の中に小さな小包がもうひとつ。おあずけになっていたカレシからの誕生日プレゼント。アマゾンだけど、本にしては封筒が薄い感じがするけど・・・と思いつつ開けてみたら、だいぶ前にネットでたまたま見つけて、「買おうかなあ」と言っていたDVD。それはかっての人気バラエティ番組『エドサリヴァン・ショー』のうちの、ネズミの「トッポジージョ」が出演したエピソードのコレクション。日本にいた頃にときどき『エドサリヴァンショー』が見られた時があって、表情が豊かで愛嬌たっぷりのトッポジージョが大好きだった。ふむ、あんがい「ゆるキャラ」の元祖かもしれないなあ。

早く仕事を終わらせてDVDを見ようとやっきにキーを叩いていたら、またゲートでピンポン。今度はFedExが「ヴァージニアからですよ~」と、注文したばかりの大学講義シリーズを持って来た。ちゃんと教科書のような「コースガイド」がついていて、コース内容の要約と、講義ごとに推奨文献と、テスト質問みたいなのが2つか3つ。なるほど、ただ漫然と見ていないで、ちゃんと学んだかどうか自分でテストしてみなさいってことか。おもしろいのは「Report Card(成績表)」の用紙が入っていたこと。ただし、評価されるのは先生の方(といっても正確には講義についてだけど)。なかなか内容の濃い講義のようだから、これでぼちぼち勉強しておいて、後で通信コースでまとめて単位を取るというのもありそうかなあ・・・と、取らぬ狸の皮算用。ま、いくつになっても「学ぶは楽し」で、極楽とんぼは楽して雑学。そこが門前大学のいいところなのだ。

もうひとつ届いたすきてなもの。イアンとバーバラの双子の孫息子の洗礼式へのご招待。日曜日の午後にポーランド人カトリック教会で洗礼の儀式があって、そのあとで会員制のクラブで(おそらくお婿さんの両親が主催する)昼食会。親族でもなければカトリック教徒でもないのに、招待されるのはすごく光栄だなあ。まあ、私たちはアンにとって小さいときから「名誉おじ・おば」だから、双子のジュリアンとマテオにとっても「名誉親族」ということになるか。プレゼントを買っておかなくちゃ。アンとブライアンの結婚式は、花嫁側のポーランド人教会を式場にして、花婿側のフィリピン人教会の司祭がフィリピン式に執り行ったけど、洗礼式もポーランドとフィリピンで慣習が違うのかな。ともかく、洗礼式に参列するのは初めてだから、粗相のないように、どういう流れなのか少し下調べをしておいた方がいいかなあ・・・。

それにしても、今日はまあなんといろんな「いいもの」が我が家の門に来る日だったこと。笑う門に福が殺到すると笑いが止まらなくなる・・・かな?

ホッケー熱は上がるけど

4月30日。今日も良い天気。庭のライラックのつぼみがふくらんできた。週末には咲き始めるかな。桜にはさしたる感慨はわかないけど、ライラックの開花を見てああ春もたけなわだという気分になるのは、やっぱり極楽とんぼが根っからの道産子だからなんだろうか。ライラックはフランス語で「リラ」だけど、どんなに記憶をかき回してもライラックを「リラ」と呼ぶのを聞いたことがない。ライラックはお雇いアメリカ人が故郷のニューイングランドから持って来たものだと言われる。敗者の幕府を支援したフランス語の呼び名がアメリカ人の指導で開拓が進められた北海道で普及するとは思えないんだけどなあ・・・

更新した運転免許証が届いた。まあ1週間しかかかっていないんだけど、近頃はクレジットカードで買い物をするときにちょっとした金額がはると写真入りの身分証明を求められることが多くて、免許証を持っていないと困ることがある。肝心の写真は・・・う~ん、まあまあと言っとこうかなあ。はなぜかカラーから白黒になって、なんだか疑心暗鬼のきつね目に見えるような気がするけど、あんがい、警察に止められて、「免許証を見せてください」と言われるときには、みんな大方こんな顔つきになるのかもしれないな。偽造を難しくするために材質やデザインを一新したそうで、前のに比べるとなんだかごちゃごちゃして見えると思ったら、今まで裏にあった体重、身長、目の色、髪の色が全部表に移っていた。なにしろ、いろんな大きさ、色、形の人間がいるからなあ・・・

豚インフルエンザがとばっちりを受けた養豚・豚肉業界に配慮して「H1N1インフルエンザ」と名前を変えたけど、感染者が全国で40人近くになっても、バンクーバーではプロホッケーのプレーオフに熱中していて、そんなのにかまっていられないような雰囲気。テレビのニュースもほんの2、3分でカナダと世界の状況をアップデートするくらい。日本でカナダから帰った高校生が「感染疑い例」になったと報じた新聞も、「人口過密な日本では急速に広まりかねない」とさらり。となりのパットに、日本では厚生大臣が夜中の1時に記者会見して発表したんだってと言ったら、きょとんとしていた。ちなみに、高校生が乗った帰国便はメキシコ発のバンクーバー経由成田行き。帰国時期から見てもカナダ国内で感染したとは思えないけど、それ以来急に新聞報道の見出しに「カナダ」が増えた
ような感じがする。

人間社会はどうやら根本的に二項対立らしく、常に物事に対して「反応」する人と「対応」する人がいる。「反応」は赤ん坊でもできることだけど、「対応」には基礎データと意思的な決断が必要になる。早く言えば、反応は幼児的、対応は大人ということもできるけど、人間はそんなに単純なものではないから、どっちのタイプかはいろんな要素の後の隠れてわからないことが多い。それがてきめんに表面化するのが「危機」。生きるか死ぬかの火急のときは建前なんか言ってられないから、その人の本音が出る。目が「お星様キラキラ」状態の恋愛の最中にはなかなか相手の本性を見抜けないのはそのためかもしれない。でも、反応的であるか、対応的であるかによって生死を分けるような状況もあるんじゃないのかなあ。

カレシを英語教室に送り出して、歩いてモールまで。途中でカレッジに寄って、受講生の数が最低に満たなくてキャンセルになってしまった演劇クラスの払い戻しの手続き。今のような不景気だと、就職やキャリアに結びつかない、趣味の範疇に入るクラスは受講者が減るのかもしれない。モールでは双子の洗礼式のプレゼント探し。アイデアもないまま、ぶらぶらと歩いていて、何となく入ったのがスワロフスキーの店。そこで見つけた哺乳瓶を持っているクリスタルの小ぐま。なんともかわいかったもので、淡いブルーのビブの男の子のを2つ。

後はママとパパへのお祝いのカード。特にカトリック教国でもないせいか、洗礼式のはあまりないけど、それでも1枚だけ「babies」と複数になっているのを見つけた。最近は多胎児が増えているそうだから、ニーズはあるだろうな。レジへ持って行ったら、あら、誰もいない。店のどこかで客の相手をしているのかと思ってしばらく待ったら、「すいませ~ん」と若いおにいちゃんが外から駆け込んできた。何のことはない、向かいの携帯ショップの宣伝用のテレビでホッケーの試合を見ていたんだそうな。で、試合はどうなの?「第3ピリオドで3対3」だったけど、「We scored(我々が点を入れた)」と興奮して言ったおにいちゃん。ははあ、キミも相当に熱が上がってるなあ・・・。


2009年4月~その1

2009年04月16日 | 昔語り(2006~2013)
客が欲しいといってるのに

4月1日。今日はまた一転して雨。4月にしてはやたらと寒いなあと思ったら、掃除に来たシーラとヴァルが「ダウンタウンは雪が降っていた」と言うからびっくり仰天。まさか、エイプリルフールのジョークじゃないよね。違うと言ってえ。だけど、冗談じゃなくて、ちょっと高いところは本格的に雪景色になっているらしい。

掃除をしてもらっている間に、トヨタディーラーの整備工場から電話があって、カレシとエコーを引き取りに出かけた。「オルタネータは問題なし。バッテリもひと晩充電したら問題なし」だって。つまりバッテリは取り替えてくれなかったってこと。「トヨタは故障していない部品は取り替えないんです」と。へえ。自動車用品店に応急で充電できるものがあるからそれを買って、できるだけ車を「外へ連れ出しなさい」と。最近の電子機器や防犯機器満載の車はまとまって走らないとバッテリが上がってしまうらしい。ハイブリッド車などはコンピュータ装置がいくつもあるからもっと大変で、「うちの親父は充電器を手放さないんですよ」ということになるらしい。へえ、そうういことなら・・・と、考え直す方クラクラとに傾いて行くカレシ。こら、待て・・・

あのねえ、家にこもって仕事をしている極楽とんぼは時間とガソリン代をかけて当てもないドライブにでかけるのはめんどうなの。(カレシがひとりでまめに行ってくれるとは思えないしね。)たとえ月に一回でも、極楽とんぼの時間の価値とガソリン代を合計したら、毎年バッテリを取り替えた方がずう~っと安上がりなの。そもそも、最初の2年はひと月使わなくてもぜんぜん問題なしだったの。一度完全に干上がってから問題が起きるようになって、だんだん間隔が短くなって来たの。次にでかけるときにエンジンがかかるって保証がないの。あのね、充電器も買うし、たまには遠出もするから、とにかくつべこべ言ってないで新品のバッテリに換えろっつうの!

あっちの方へ傾いていたカレシ、「彼女の車だから・・・」と変な援護射撃。待つこと10分ほどで新しいにバッテリを取り付けてもらい、外した方を「予備」にするつもりで持ち帰った。まあ、トヨタとしても、資源の「ムーダ」をなくすのが使命だそうだし、車の整備工場は長年に不要の「修理」をしてぼったくるという悪評が定着していることもあるし、近頃の消費者は不景気の前から「高い!許せない!」みたいに安くて当然という風潮(ウォルマート主義)があるから、「取り替えましょう」と積極的には言えないのかもしれない。でも、ものやサービスの価値は「値札」だけじゃなくて、時間や必要性やふところ具合や、その他いろんな要素の兼ね合いで判断するのが極楽とんぼの財政方針だから、頭の中でそろばんを弾いて「OK」と決定したら、後出しの文句は言わない主義なんだけど、まあ、向こうも客商売だから客が望んでいそうなことを言うのはあたりまえかもね。

これで当面は、いざ出かけるというときに「!」ということがなくなって安穏かな。ほんとにたまには二人で遠出するのもいいね。雪だの何だのといっても、春たけなわの4月。極楽とんぼは春とんぼだもんなあ・・・。

言霊に祟られないように

4月2日。良く眠れないままで正午を過ぎてしまった感じがする。ニュースを見たら、株価は上がる、カナダドルは上がる、住宅販売戸数は上がる。景気まで春の気配なのかな。不動産の価値が暴落すると騒いだ割にはメトロバンクーバーでは8%しか下がっていないそうな。そのせいかどうか、3月は住宅の販売戸数が急増したという。模様眺めをしていた人たちが「もうこれ以上は下がりそうにない。金利が低い今のうちが買いどき」と判断したのかもしれない。ニュースで見る限りでは世界規模の不況なのはたしかだけど、どこへ行っても深刻さがほとんど感じられない。このまま不況前線が消滅するんじゃないのかなあ。

夕べ久しぶりにでかけた芝居が深層で何かを触発したのか、頭の中をいろんなことが駆け回って、なかなか眠りに落ちることができなかった。演目はトム・ストッパードの『The Real Thing』。劇作家でインテリのヘンリーと女優で活動家のアニーのカップル。いきなり劇中劇で始まって、おしまいまで現実のストーリーと劇中劇がめまぐるしく交差する。アニーが釈放運動をしている若い反戦活動家が書いたドラマの脚本をめぐってヘンリーとアニーが口論するシーン。(後でわかるけど)この活動家は粗野で尊大な若造でしかないから、原稿はどうにもならない駄作。それをアニーはヘンリーに手直しするように要求して断られる。作家は神聖だと思っていると非難するアニーに、ヘンリーは「作家が神聖だとは思わないが、言葉は神聖だ」とやり返す。

うん、これはすごく意味深遠なせりふだ。言葉は人間が与えられたもうひとつの「火」だとすれば、その神聖な火を人間のためになるエネルギーに変えるのが書くことなんだと思う。キリスト教では「風」になぞらえて「風の吹くところ命が生まれる」と言った。この風は「息」でもあり、「気」でもある。日本にだって「言霊」という霊気がある。洋の東西で共通しているのは、「言葉」を得た人類がそのパワーを知ったときに同じように「畏怖」の気持を持ったからだろう。言葉というのは、書いた人のいろんな想いや感情を運んでくれる「風」なんだ。霊気だからこそ、心地よいそよ風にもなれば、大樹をも根こそぎに倒せる暴風にもなる。言葉をおもちゃにして、粗末に扱っていたら言霊の祟りがあるかもしれないなあ。人間同士の意思の疎通が難しくなって行くのは、その祟りなのかな?

久しぶりにかなりの脳内活動を要求されたけど、やっぱり芝居にはテレビや映画では得られない、大きなパワーがある。それはきっと、テレビや映画は映像やコンピュータによる特殊効果のような機械的かつ恣意的に編集可能な手法で作られた視覚中心の二次元の世界で、リアルさを追求するほど虚構が目立つのに対して、芝居は物理的に限られている三次元の虚構空間で無限にリアリティを追求できるからかもしれない。その根底にあるのは息をしている人間が発する「言葉」。だから、心に残る芝居の後はいつも「芝居を書きたい」という火が燃え盛って来る。うん、とりあえず、来月から始まる即興演劇講座の受講申し込みをしなくちゃ・・・。

より軽く、より慇懃に、より激しく

4月3日。言語を生業の種としているもので、毎日のように日本語と英語を見比べていると、否応なしに二つの言語の背景にある心理や社会文化、思考の視点や流れといったことを推理させられる。日本語の文書を英訳して、日本人の校正者から英語表現について、「なぜそういう訳になるか」という質問が飛んでくると、まず原稿の日本語の趣旨を探ることから始めなければならない。なにしろ向こうも言語が生業の種だから、「そういうことになってるんです」では説得力ゼロ。あれこれ考えているうちに、日本語と英語の「視点」や、論理の「重点」のおきどころの違いが少しだけど見えてくる。

ひと口に言語といっても、学問の領域となるとびっくりするくらい多彩な言語学の分野があるけど、極楽とんぼはそういういくつもの分野の言語学をごっちゃにして独学させられているようなもので、教科書を1ページから読んで、教室で教授と向き合って、第1課、第2課というように順序良く学ぶのに比べたら、つまずいて転んだり、袋小路で行き詰ったりの危なっかしい冒険ということになるかもしれない。まあ、それが極楽とんぼ流の学習法で、また楽しからずや。有名な「門前大学」の優等生なんだから。

どんな国でも「国語」という土台があって、そこにはその民族の思想や価値観が凝縮されている。言語は意思伝達の手段だから、それぞれの言語を生み出した人たちが伝えようとした「情報」の意義によって文法や表現法が形成されて行き、その言語集団が地球上を移動して個々の民族を形成して行く過程で、言語も環境や価値観の変化に合わせてそれぞれの民族の言語を形成していったのだろう。その民族がやがて定住して国家を形成すると、その言語に凝縮された価値観が環境や気候といった要素とあいまって民族/国家独特の思想や文化の形成過程を支配する・・・と、門前大学の言語価値観文化論は教える(わけ、ないか)。

いかにも極楽とんぼ流の茫洋とした考察だけど、言葉は民族の「根っこ」だから、地上に茎や葉を伸ばし、花を咲かせ、実を落とす能力がある。身近なところで見ると、言葉や表現はそれを使う個人の思想や価値観、心理状態を反映すると思う。実際には礼儀や序列、社会秩序といった要求条件によって、もろには露呈しない仕組みになっている。でも、隠蔽されるほど露出したくなるのが人間で、だから文芸と言う「花」が咲くんだし、匿名掲示板に書き込まれる言葉に(たとえ作り話であっても)その人の思想や人間観、心理状態がそのまま現れて来る。まあ、隠蔽されるほど見たくなるもの人間の性というもので、小町の井戸端会議がおもしろいのは、そういう一種ののぞき趣味を満足させられるという面もあるのだろう。

文芸が言葉が咲かせる花であれば、新語や流行語も「花」のようなもので、その言葉や表現を使う集団がその時の社会環境や心理状態を吐露していると思う。日本語は昔から「省略語」を多用する便利な言語だけど、今どき流行の省略語には元の言葉から感じる「ストレス」を軽くしようという心理が見える。同時に多くなったなあと思うのが、(子供にまで)「お願いする」、(モノに対しても)「~してあげる」といった実質のない「ていねい表現」。ワンランク上の自分を見せたいのかもしれないけど、浮かんでくるのはユライア・ヒープのような「卑屈な人間」のイメージでしかない。さらに最近は喜怒哀楽を誇張する表現が目立ってきた。感情を制御する「たが」が外れてしまったのか、機械を通した平板なコミュニケーションに依存する反動なのか・・・。

3つの現象を重ね合わせると、すごくストレスがたまっている社会だなあと思うけど、その社会の外で「言葉」だけを見ているからそう感じるのであって、実際には今どきの流行語や用法を潤滑油にして軋む社会を回しているのかもしれないな。

春の陽気に誘われて

4月4日。おお、やっとこさ「春だ!」という実感がする天気。この分だと桜も一気に満開になりそうな勢いだ。今日は朝食もそこそこにトラックの「運動」。郊外のコクィットラムにある園芸センターへ春の庭仕事の材料を買いに出かけた。カレシの両親が住んでいた頃は週末に顔を出すついでにときどき行っていたけど、さらに遠い、遠い郊外に移ってからはとんとご無沙汰だった。

フリーウェイに出てみたら、なぜかバンクーバー方面行き車線がラッシュアワー並みに混んでいて、見える限り果てしなく車の列が続いている。ふむ、何かイベントでもあるのかな。こっちは100キロでぶっ飛ばしているのに、どんどん追い越される。土曜日だというのになんでそんなにせかせかしてるんだろうなあとこぼしながら、一番内側の「HOVレーン」に移った。HOVはHigh occupancy vehicleの頭文字で、要するに運転手以外の同乗者のいる車のこと。標識を見ると、バスと車の絵が描いてあって、車の中に頭が2つあれば2人以上、3つあれば3人以上乗っていなければ利用できないしくみになっている。

HOVレーンは「ホヴレーン」と発音する。あは、英語のイニシャル語は日本語の漢字やカタカナの略語に対応する短縮形式なんだ。突然に合点がいった感じ。日本語の役所や部署、委員会などの正式名はずらりと漢字が続く。(先週やっていた報告書には漢字がなんと25個も並んだお役人の肩書が出てきて、名刺に納まるのか心配になった。)その長い名称もたいていは漢字3つか4つに短縮される。そういう便利さのない英語では昔からイニシャルを使っている。最近は名前よりも先に機能的なイニシャルを考えるくらいで、文字を個別に読まずに「つづり」として発音されるものも多い。9月に開通する地下鉄はリッチモンド、エアポート、バンクーバーを結ぶ線だからRAV Lineで、「ラヴライン」と読む。政府が正式に「カナダライン」と命名したけど、「ラヴライン」の方がすっきりして言いやすい。なるほど・・・話が脱線。

フリーウェイを走っていくと、コクィットラム方面とサレー方面に出口が分かれる。改善されたとはいえ、出口の標識が突然出現するもので、気をつけないと車線変更が間に合わずにサレー方面に行ってしまうことがよくあるけど、長い橋を渡ってから、どこまで行っても回れ右できないから困る。サレーの中心部には行きたくないから、ほんとに「どこま~でも行こう」となってしまう。今日はそれをやってしまったから、30分以上も回り道して、やっとのことのろのろ運転の反対車線に。土曜日でこれなんだから、週日の朝夕のラッシュはさぞかしすごいんだろうなあ。「どうりで運転しながら携帯したり、食べたりするはずよなあ。1時間もじっと前を眺めていられないよ」と、カレシ。

めざす園芸センターはいつのまにかでっかいショッピングセンターの中に取り込まれていた。農地が残っていた周辺も住宅化の波がひしひし。それでも、屋外に並んだ苗や鉢物を見て歩いていたら、どこかで雄鶏のけたたましい声が聞こえた。おお、久しぶりに太陽の光を浴びながら「田園」の気分!カレシの買い物は鶏の糞の堆肥6袋。なぜかホッケー選手の写真。なんかの洒落のつもりかなあ。分厚いビニールの袋に入っているけど、それでもちょっと臭い。トラックだから車内には臭ってこないけど、まあ、これも田園の空気の一部と思えばいいか。

外に出て体いっぱいに日光を浴びるのは本当に久しぶり。道路が混んでいるのは、みんな陽気につられて「どこでもいいから外に出よう」といっせいに動き出したからかもしれない。春というのは、人の気持を軽くする魔力がある。この冬は異常に寒くて長かったから、魔力も強いんだろうな。

ピアノ弾きをいじめないで

4月4日。さて、午後いっぱい春の陽気を満喫して、帰り着いたらもうディナーにでかけるしたくをする時間。今日は久々にBacchus。去年の夏に個室を借りてのディナーパーティ以来というごぶさただけど、いつものようにピアノのそばのテーブルに案内してもらった。不況のはずなんだけど、ラウンジは相変わらずいっぱい。(バカのひとつおぼえみたいだけど、郊外のショッピングセンターでも広大な駐車場には車が溢れていたし、ほんとうに不況の実感がない。)

BacchusがあるWedgewoodはチェーンではない、いわゆるブティックホテルで、有名人がよく利用するらしい。まあ、極楽とんぼは映画やテレビをほとんど見ないから、隣のテーブルにハリウッドスターが座っていてもぜんぜん気がつかないけど、ホテル側はどんなセレブが泊っていても黙っているので、スターたちもパパラッチに煩わされずに落ち着けるから人気があるという。ホテルの向かいが州の裁判所で、周りのビルには法律事務所が星の数もあるので、平日のラウンジは弁護士たちで溢れ、夕方ともなればおしゃれに着こなした男女でいっぱい。

今日のメニューは、カレシはサラダにフィレのローストビーフ。極楽とんぼは鴨のレバーパテにラムのフィレ。ワインはイタリアのバルベラダルバをグラスで注文。パテはスライスした切り口が台形で、そのパテの形と同じ形にクリームで縁取りしたシャンペンベースのソース。もう手をつけるのが惜しいくらいの芸術作品。しばし鑑賞して、やっとパテをひと口。う~ん、口の中でとろけるような感触。鴨は内陸のオカナガン地方の産。そのうちに地物の鴨のフォアグラも出てくるかもしれないな。

今夜のピアノ奏者はBacchusとしては珍しく、かなり若い男性。曲の合間に話をしたら、こてこてのオージー訛り。シドニーから来ているという。年は23才。即興で自己流にアレンジしながら弾き語りするのが「ボクのスタイル」だとか。スタンダードの曲目も思いっきりアレンジして歌う。若いのになかなかいいぞ。ルックスもドイツのお友だちがよろっとしてしまいそうなタイプ。「なんか好きなの弾いてあげようか?」とため口なのもかわいい。じゃあ、サイモン&ガーファンクルのを何か弾ける?「こんなぐあいでどう?」と弾き出したのが『Sound of Silence』。かなりおもしろいアレンジで、今アレンジがどうのこうのと凝っているカレシをうならせた。

休憩が終わって戻ってきたとき、ラウンジのマネジャーが寄って来て何か耳打ち。どうやら声が大きすぎるといっているらしい。アンプを調節して2、3曲歌ったところで、またマネジャーが来て「音量を落とせ」。すぐそばのテーブルで聞いている私たちには大きすぎる音量ではないし、ラウンジではみんな飲みながらぺちゃくちゃとおしゃべりに忙しくて、誰も聞いてなんかいないと思うけど、レストランの客がうるさいというのかな。「ボクの声、大きすぎるかい?」と聞くから、「客のおしゃべりの方がうるさいくらいよ」。(ほんとにそうなのだ。)

だけど、マネジャーが通りすがりに怖い顔で睨んだときは、さすがに若きピアノ奏者はつむじを曲げてしまった。「やってらんねえ」と言いながら、それでも私たちにはにこにこサービスしてくれる。デザートが終わる頃、休憩時間になったとき、アンプやマイクを外してバッグに詰め込んで、「ボク、アレックス。これで帰るけど、あんたたちに楽しんでもらえてよかった。ありがとう」と。えっ、演奏をやめて帰ってしまうの?「ボクだってプロのプライドってもんがあるさ」。うん、わかるなあ・・・。

というわけで、アレックス君は私たちと握手して、あっけに取られた顔つきのマネジャーを尻目に、意気揚々と職場放棄したのだった。若き熱血オージーに拍手!

午前5時のリスク管理論

4月5日。あらら、カレシと飲みながらの話がなんかしんみりとして、やっとベッドにもぐり込んだら午前5時すぎ。TIMEの記事(不況は経済観念をリセットするチャンス)について人間の消費性向についておしゃべりしていたのが、計画性や注意力の話になって、今日のドライブで3度も目的地への出口を見逃した話になって、カレシが「ボクの人生はいろいろと選択の間違いばかりだった」と言いだし、いつのまにか人生哲学の方へ発展して行った。

カレシが大学を出たのはオイルショックの不況のさなかで、すでに二十代後半。公務員試験のようなものを受けておいたおかげでオタワから声がかかった。その時、オーストラリアの政府機関からのオファーを受けるかどうか迷っていた。保護国の経済開発を指導するというもので、専攻分野ではあるけど、やれるという自信がなくて「安全な」の仕事の方を選んでしまった。オタワにいる間にはOECDに転職するチャンスがあった。上司にも勧められたけど、異言語異文化のパリでひとり働くことに自信が持てなくて、迷っているうちにたぶん人生最大のチャンスだった話は消えた。もしもあの時、勇気を出していたら・・・。

オタワでは貧乏を絵に描いたような暮らし。まともなアパートに住めない。車も買えない。すっかりホームシックになって、将来のある職を放り出して帰ってきてしまった。あの時、上司が「本当に辞めていいのか」と何度も念を押しに来た。あの時、昇給を要求できたのに、どうせだめだと思ってしなかった。他の部署に引き抜きかれていきなり3人の部下を持たされたくらいだから、交渉できただろうに。バンクーバーに帰ってきて一からやり直し。そこでも「安全な」選択をしているうちに好きでもない会計士の道に入ってしまった。もしもあのままオタワにいたら・・・。もしかしたら・・・。

でも、過去は変えられないし、不満足な過去を思い出さないようにできても、消すことはできない。やっかいなことに不満足な過去ほどいつまでも記憶に残る。それは不満足な結果に終わった経緯から何かを学んで未来の成功につなげるためだと思う。でも、失敗したときは自分がつらいから、できることなら「なかったこと」にしたい。そこで「エスケープ」キーや「リセット」ボタンを押す。PCやゲームのような機械にとっては理に適った動作でも、人間の行動心理にとってはどちらも逃げの手段でしかないから、ある意味、人間は便利さと引き換えに経験から学ぶチャンスをひとつ失ったのかもしれない。

日本には「石橋を叩いて渡る」ということわざがある。人間の行動には大小のリスクがつきもので、決断の過程というのはそのスペクトラムの上でスライダーを動かすようなものだと思う。たとえば、川の向こうに宝の箱(機会)があって、「石橋」がかかっているとする。渡るか否か。スペクトラムの一方の端から順に、1.初めから橋を叩いてみようともしない、2.安全だと納得できるまで石橋を叩き続ける、3.安全という保証があれば渡る、4.形状や強度、川幅、水流といった要素を分析して、壊れる危険は小さく、万一壊れても泳いで岸に上がれると判断したら渡る、5.橋のことなどは考えずに宝の箱めがけて猛進する。どの選択にもその人なりの価値観が反映される。

1の場合は失敗しないけど成功の可能性もゼロ。2の場合は、大丈夫という自信が持てないまま叩き続けているうちに橋を壊してしまうこともある。3の場合は他力本願で楽だけど、「万が一」の備えはゼロで、4の場合は過去の経験や情報というデータの分析が必要。最後の5にいたっては無謀のひとこと。だけど、スペクトラムの性質上、スライドするにつれてリスクの「濃淡」が変わるというだけで、どの点が一番危険/安全なのかという基準はない。結局は、人間は決断を迫られるたびに、経験や価値観に基づいて最善を尽くすしかない・・・

てな具合に講釈をたれているうちに、半分あったはずのレミが空っぽになってしまった。カレシがどうして急にしんみりと「深い会話」をする心境になったのかはわからない・・・。

春の日の月曜日

4月6日。今日も陽光燦々の春景色。月曜日だし、1週間も「勝手ながら休業」だったから、そろそろ仕事にかからなきゃ、と準備を始める。でかい方は来週の木曜日が期限。5日はかかるかな。小さい方はその後の予定だから、ふむ、まだ余裕がありそう・・・(しめしめ)。

メールの指示を読み直すと、作業対象は50何ページまでとある。Wordファイルの作業用原稿は100ページ強だから、その半分か。その部分だけを別のファイルにコピーして推定した作業量は当初予想の半分!なあんだ、これならまだ焦ることないか・・・だけど、春の陽気でポカミスをするといけない。もう一度よ~くメールを読んだら、元のPDFファイルのページ数で50何ページまで。あらら、Wordファイルだと100ページ目前のところまで行ってしまうじゃないの。というわけで、「休み延長」はつかの間の白日夢で終わってしまった。

午後いっぱい春の庭仕事にいそしんでいたカレシが入ってきて、「桜を植えたからね」と報告。もう5年くらいパティオを作る予定になっている場所の、梨の木があったところに、北海道みやげの桜が植えられていた。持ち帰った種から芽を出して、十何年も鉢に植えられたまま窮屈な思いをして来たもので、桜の「木」というよりは「枝」を地面に突き立てたような姿。のびのびと根を張って、幹や枝を伸ばして、キッチンの窓に届くのはいつだろうなあ。春にはピンクのカーテン、夏には緑のカーテン・・・。それにしても、パティオができるのはいつかなあ。こればかりはカレシしだい。ほんとにいつになるのやら。

カレシが「今日は良く働いたから、凝りをほぐすんだ」と、マティニを2杯も作ったもので、夕食の準備はなんとなくいい加減。夕食が終わって、オフィスに戻ったのはいいけど、目の焦点が合わない。今のうちに去年の決算を済ませようと思って、「ええと、あとは減価償却と為替の差額調整だっけ」とぼやけた頭を小突いていたら、今度はやたらとメールが飛んでくる。え、受注したら日本時間の明朝までにできるかって?最近は失注という報告を良く聞くから、ま、いっか。え、あさっての朝までにどれくらいできるかって?う~ん、がんばって3千語でどうだ!やれやれ、マティニ2杯はまずかったよ、カレシ・・・(テレビの前で高いびき)

結局、「受注しました」と感嘆符が2つもついたメール。明日の朝とあさっての朝とで、でかいのはまたお預けだなあ。おまけの休みを取り損なったけど、ま、鉢巻を締めなおして、がんばるか。

ボランティア先生に乾杯

4月7日。週末から続いた初夏のようないい天気で、桜並木は一気に満開に近い状態。二階から見るとピンクのベルトが2本、一直線に地平線まで盛大に続いている。どうやら冬はもう戻ってこないだろうなあ、という実感がうれしい。

今日はカレシが英語教室をやっているネイバーフッドハウスで「ボランティアに感謝する会」とでもいうイベントがある日。まあ、おつまみと飲み物が出て、「よいしょ」のスピーチがあって、ボランティアに感謝状が配られるささやかなパーティだけど、去年から夜に移動した英語教室の時間と重なるので、カレシは欠席ということになった。週に2回、午後の時間を費やして教材を作り、早めの夕食をして、いつも「遅れそうだ~」と大騒ぎしながらいそいそと出かけて行く。カレシのボランティア英語教師歴はこの秋で10年目に入る。

カレシが突然英語教師を目指し始めたのは1999年だから、もう10年も前か。カレッジの夜間コースを取り始め、やがて職場のすぐ近くにある「会話クラブ」に出入りするようになった。この「クラブ」は日本人夫婦の経営で、ネイティブの英語教師を「ボランティア」と称して集め、テーブルごとに2、3人の「生徒」を相手に無償で1時間足らずの「会話」をさせる。生徒たちは「月謝」を払うけど、「ボランティア」教師に無償で日本語を教えるとその時間数に応じて月謝が安くなるというしくみだった。(英語が発展途上の日本人が自分でも良く理解していない日本語を英語で説明できるのかどうかは甚だ疑問だけど。)

カレシは職場を抜け出してその「クラブ」に通っていた。生徒のほとんどはワーキングホリデイや語学留学で滞在中の若い日本人。この「会話クラブ」が日本人のオンナノコをナンパする絶好のスポットという評判になっていたことを知らなかったはずがない。そこに集まって来る大半の「ボランティア」と同様、カレシも生身のオンナノコと「交流」しに行っていた。毎日だったらしいから、まさに「通い詰めていた」と言えそうな熱の入れようだった。それが早期退職の一番手の槍玉に挙げられて隠居の身になってからは「入りびたる」つもりだったらしい。大げんかの末の最終通告は、「そんなに英語を教えたいのなら、せめて世の中の役に立つところでやって!」

あれからもう9年が経とうとしている。初めのうちは生徒の中に国際結婚の日本人女性が混じることもあったようだけど、カレシにとっては非現実世界で作り上げた自分の理想像と比べて見る「目からうろこ」の機会になったらしい。でも、それは副作用のようなものにすぎなくて、カレシを大きく変えたのは、何よりも「新天地の社会の一員として生活基盤を確立するためには少しでも早く英語を習得したい」という現実的な動機に裏づけされた生徒の「やる気」だった。生徒が就職が決まったとうれしそうに教室をやめて行くたびに、カレシもいっしょに達成感を味わって、人間として成長して来たのだろうと思う。

ナイトキャップを傾けながら、教室でのことやレッスンのアイデアのことを話してくれるカレシは10年前よりもずっと若々しくて、輝いて見える。人生はほんとうに「塞翁が馬」なんだと思う。でも、私たちの冬はもう戻ってこないだろう。

花曇りの空の下

4月8日。はっと目が覚めたら午前11時50分。「ねえ、起きなきゃ~」と高いびきのカレシを小突いた。午後5時までに納品のファイルと、日本時間で午後3時まて待てます(が、できるだけ早く)というのがあって、その間に酒屋へ行って、野菜の買出しをして、スーパーで買い物。ど~すんのという過密スケジュールの日の幕開け。

起きてみたら、電話の発信番号表示に「BC政府」の番号がある。ははあ、酒屋だな。カレシがぶっちぎれて談判しに行ったのはついこの間。ボイスメールのメッセージは、注文のリキュールが届いたから、「いつでも取りに来てください」。オーダーの記録がないとかなんとか言いながら、「あのねえ、きみ」と詰め寄るとあわててやることをやってくれるのがお役所の商売。それでも待ちに待ったマラスキノ。これがないと「アビエーション」というお気に入りのカクテルを作れない。さっそく、朝食→仕事1→酒屋と青果屋→仕事2→夕食→仕事2終了→9時ごろにスーパーという、せわしない日程が決まった。

今日はほぼ平年並みの気温。ちょっとグレーの空模様で、こういうのを花曇りというのかな。でも、桜の花は、まぶしい青空と対照するよりも曇り空を背景にしている方がなんとなく引き立って見えるような気がする。この角地に引っ越してきてから、桜並木をながめる春も26回目か。向かいの桜はかなりの大木になって、キッチンで食事をしながら窓越しに花見ができる。夜は街灯にライトアップされた夜桜を鑑賞しながらの真夜中のランチ。我が家にいながらにして花見なんて、日本の人が聞いたら垂涎の的かもしれないけど(でもないかな?)、二人とも桜が咲いたから「花見」という発想がない。それでも、カレシが植えてくれた北海道の桜が大きくなって、いっぱい花をつけるようになったら、その下のパティオで池の水音を聞きながら、「花見マティニ」を酌み交わせるかもしれないなあ。

とにかく、せかせかと「仕事1」を片づけて送り出し、酒屋で特注最低単位の1ケース(6本入り)のマラスキノを引き取り、この間しんみり会話で空にしたレミを補充し、料理用に安めのカルヴァドスを買い、マティニ用の(1.4リットル入りの大瓶の)ジンを2本仕入れて、「おうちバー」は当面安泰。と思いきや、「財布がない」とカレシ。落としたかもしれないって、家からそのまま車に乗って、外の駐車場に止めて店に入るまでずっと財布を出してないでしょうが。家に忘れて来たんでしょ。「いや、財布だけは忘れたことないよ」とカレシ。(ほんとぉ~?)まあ、極楽とんぼのカードで決済して事なきを得たけど、ひとりだったらかっこ悪いよねえ。大丈夫なの、ほんと?(財布はいつも入れておくカレシ専用のボックスにちゃんと入っていた。車のキーだけ出して、財布を忘れるなんて、senior momentかなあ・・・。)

冷蔵庫2つを野菜でいっぱいにして、夕食前は久しぶりのアビエーションで乾杯。(これでシアトルの酒屋までひとっ走りの「運び屋業務」も必要がなくなって、やれやれ。)特急で作った夕食(また魚)を済ませて、「仕事2」を片づけて、買出し第2ラウンドへ。せわしないなあ・・・

メディアの洗脳力

4月9日。きのう1日のバタバタのあとだけど、でかい仕事に手をつけようか、つけまいか。そういえば経理業務もお預けになっていた。納税申告の期限は30日。今年度第1四半期の消費税の納付期限も同じ日。あ~あ。

きのうはスーパーから帰ってきた後はもうすっかり気が抜けた気分。「早退」ということにして、(それでも、メールの方はちらちらと気にしながら)ブログの上にある「ランダム」ボタンをなんとなく押してみた。仕事の資料の検索でよくいろんなブログがヒットするけど、ふだんは「招待状」をもらったブログしか読んでいないので、行き当たりばったりで見るブログには驚きの連続。最も多く出てきたテーマはスポーツ、芸能(映画、音楽、芸能人等々)、ゲーム、グルメ、車/バイク、ネット商売。大きな写真満載のサイトも相当数あって、今の季節はもちろん桜づくしの観。顔文字やふわふわ動く絵文字を満載した記事もテキストも多いけど、読みにくいと思うのは極楽とんぼの年を考えたらしょうがないだろうな。

いわゆる「ほっこり」系ブログにも行き当たったけど、小町などで「やめてくれ~」と槍玉に挙げられる言葉がほんとうに使われている。さすがに買い物をして「この子をおうちにお連れしました」というぞくっと来そうなのには遭遇しなかったけど、どれを見ても紋切り型という感じで、日記的に書いているにしては無機質的で生活感がない。まあ、その生活感のなさで「(あくせくしている)一般庶民と違って、(ハイソサエティの)優雅な暮らしをしているステキな私」をアピールしているんだろう。ここは「スローライフでなければ人にあらず」みたいな態度を取るエコ気取りと似たようなものかな。だけど、そのわりにはやたらと「癒されました」とのたまわっている。そんなにほっこり、まったりした暮らしをしているんだったら、癒されたいような苦悩とは無縁だろうと思うけどなあ。

へえ、これがほっこりと暮らすことか・・・と感心しているうちに、そのほっこりぶりを絵に描いたような(と思う)トピックを見つけた。自宅ショップとやらを始めたら友人たちのテンションが低くなった、という相談。やたらと「~で」、「~て」と舌足らずな止め方をする文章からして、20代後半か30代前半のセレブ妻かな。義親の援助で新築の自宅に今流行らしい「雑貨屋」を開いて、夫の稼ぎがいいものでお金の心配がないから、好きなものを置いて「のんび~り楽しく」商売して、「ほっこ~りした空間と、人とのつながりや素敵なご縁を感じれて毎日幸せ」だったのに、店が雑誌で紹介されたりして、「新しい縁とかつながり」で忙しくしていたら、数年来の友達の態度が消極的になった。せっかくだから昔の友達とも「仲良しでいてあげたいけど・・・」。そっか、ほっこり族でも人間関係の苦悩があるってわけか。

予想に違わず、「仲良しでいてあげたい」の一見傲慢なひと言に轟々の非難が集中。それでも、「自分のしてることが良くないみたいだけど、何だか考えてもどう悪いかよくわからない気がして」とまたまた「て」で文を止める「ほっこり生活」さん。空気が読めないってこういう人のことを言うのかなあ。人柄をほめられるとか、人好きする雰囲気を羨ましがられるとか、まるでかわいく小首をかしげて「なのにどうして?」と上目使いに潤んだ目で・・・というイメージが浮かんできたけど、「私は今44才だけどすごく若く見られるほう」。えっ、44才。よく見たらハンドルネームの横のアイコンが「ひよこ」。う~ん・・・。

気の毒にも読者に「浮かれポンチな44歳はイタイ」と言われてしまっているけど、ファッション雑誌や女性雑誌のようなメディアが(売上を伸ばすために)作り出しては売り込みをかける夢見心地の「イメージ」を売られてしまった人なんだろうなあ。仲良しで「いてあげる」という表現も、マスコミに洗脳されて考えもせずに使ったんだろう。言葉使いは「ほっこり」と丁寧でも、実はイメージで理解しているだけなのかもしれない。だからなぜ非難されるのかわからくて、「凹みました」とすねて見せるんだろうな。先月小町でお目にかかった「宇宙人サンペイ君」の女性版みたいでもあるけど、最近はこういう二次元的な人が増えているんだろうか。メディアの洗脳力、恐るべし・・・。

復活祭の金曜日のあれこれ

4月10日。予想に反して青空ものぞく復活祭。今年もまたチョコレートのバニーを買いそびれてしまった。ま、たいていはカレシがいつの間にかぜ~んぶ食べしまうので、極楽とんぼとしてはどっちでもいいようなものなんだけど。カレシは信仰心はゼロだし、とんぼは神の存在を信じても組織的な信仰は嫌いときている。そうでなくても、子なしの熟年夫婦の祝祭日というのはだいたいがこんなところらしい。

カレシはかっこいいデニムのお百姓さんスタイルのつなぎに身を固めて庭仕事。前庭の隅を整理していたら出てきたと、泥んこのゴルフボールを2つ持って来た。家の向かい側が市営ゴルフ場なもので、よく我が家の庭でボールが見つかる。現在の手持ちは40個。ときどきゴルフをする友達にきれいなのを引き取ってもらうけど、洗って売ったらけっこうなお小遣いになるんだそうな。それにしても、背の高い生垣で囲んだ庭の外には歩道があって、広い道路があって、向こう側には並木があって、遊歩道があって、その向こうがやっとフェアウェイだから、どんなへぼゴルファーでもここまで飛ばせるはずはないと思っていたら、隣のパットが「飛ばすやつがいるんだよ」と言う。
へえ、そんな並木の間を縫って、生垣を越えて来られるようなひょろひょろ玉を飛ばす人もいるんだ。まあ、たいていはカラスが拾ってきて落として行くんだろうけど。ゴルフをしないのに、40個もたまってしまったボール、どうしようか・・・。

日本は週末に入って静かでいいけど、もう次の仕事に手をつけないと最後には徹夜になりそうな予感。その前にはなんとしても決算を完了しなければ・・・と言っても、最近はろくに設備投資をしないから減る一方の減価償却費を計算して、外貨建ての売上をカナダドルに換算して、帳簿との差額を計上すればおしまい。Eメールが登場してからクーリアの経費がなくなり、聖グーグルのおかげで辞書や事典の費用もほとんどなくなって、経費そのものは創業時代に比べると激減。海外での会議に行かない年はすごい利益率になって、自宅でひとりでやっている限りはけっこうぼろい商売だと思うこともある。去年はカナダドル建ての収入は全体の6%ほどで、あとはアメリカドル建てと日本円建てがほぼ半々。習慣的に月末に請求処理をするので、カナダ中央銀行のサイトにある換算プログラムを使って各月最終日の換算レートでカナダドルの金額を出す。これがけっこうめんどうくさいから、決算のたびにちゃんと毎月レートをチェックして換算して記帳しておけばいいのにと思うけど、なぜか、やらないんだなあ、これが・・・。

設備投資といえば、バンクーバーの「スカイトレイン」にとうとう「改札口」ができるそうな。来年の春に100億円に相当する工費をかけて設置工事を始める予定ということだけど、1986年の万博のために開通してから25年もの間「良心を信頼する」とか何とか言って改札口なしでやってきた交通機関はまず世界のどこにもないだろうな。しかも自動式の公共輸送機関としては総延長が世界で一番長いんだそうな。こんなお人よしのシステムだから、無賃乗車率は相当なものらしい。これで大赤字が出なかったら不思議で、その赤字は長年ガソリン代や固定資産税、電気料金に「補助金」を上乗せして補填してきたけど、足りるわけがない。交通警察を新設して取締りを始めたものの、全員の切符を調べるわけじゃないから無賃乗車は減っているとは思えない。(最近は「正直」なはずの日本人までがけっこう無賃乗車して摘発されているそうだけど、自分に都合のいいことであれば「郷に従う」のはやぶさかではないってことらしい・・・。)まあ、改札口の設置は一歩前進ではある。でも、初めから設計に入れておけば今になって100億円もかからなくて済んだんじゃないかなあ。そこがBC州の政治のずっこけたところなんだけど・・・。

メープルリッジ物語

4月11日。雨がちで薄ら寒い土曜日。今日はシーク教徒のヴァイサキの祭りの日。2ブロック離れたメインストリートで恒例のパレードがある。ここは何ブロックかを「パンジャブマーケット」といって、インド系(最近は南アジア系という)の商店が並んでいるところ。引っ越してきた頃はそうじゃなかったけど、あっという間にほぼインド系一色の商店街になった。それが、どうも去年あたりから様相が変わってきている。見物人の車が住宅街を埋め尽くし、違法駐車やごみの問題が起きていたのが、車の数は激減したし、あたりも静かになったような感じがする。インド系コミュニティの中心が郊外のサレーに移って、パンジャブマーケットが衰退しつつあると言うのはどうも本当なんだろう。サレーでのヴァイサキパレードには10万人の人出があるという。

多民族都市なんだから誰のお祭りでもパレードでもかまわないんだけど、。「ヴァイサキおめでとう」とか何とか言うバナーを引いて飛び回る飛行機には閉口する。インド系社会で内紛があった頃には4機!も飛んでいたことがあった。何時間もぐるぐる低空飛行されては、さすがの極楽とんぼも仕事に集中できないもので、毎年ぶつぶつ文句を言いながら連休の中日を遠出して過ごすことになる。今年も、静かだなあと思っていたら案の定、正午を過ぎて飛行機が登場。郊外のメープルリッジの園芸センターに行き、ママを訪問して、カレシの弟のジムと夕食してこようと言うことになった。仕事の予定は詰まりつつあるけど、なにしろ頭の上を蝿のようにぶんぶん飛び回る飛行機には殺虫剤RAIDも効かないからなあ。

今回はコクィトラム側への出口を見逃さずに出て、一路メープルリッジへ。ショッピングセンターに大型量販店にカレシが「ハイウェイレストラン」と呼ぶチェーンレストランが並び、メタボのSUVやトラックがビュンビュン飛ばしていく典型的な郊外風景。「ああ、郊外に住まなくて良かったなあ」と、またカレシ。だけど、園芸センターだけは土地が安くて広い郊外まで行かないとまともなのがない。前回の遠出で見つからなかったフレンチタラゴン(エストラゴン)の苗と、ペパーミントの苗を買って、「これ、いいね」とカレシが目をとめたコブシの花の絵をママのプレゼントに買った。

次にママがいるホームの場所探し。郊外で行き先を探し当てるのは住所がわかっていても「都会のネズミ」には至難のわざ。道路は見つかったけれども、肝心の建物の前を通り過ぎてしまった。郊外の道路ではブロックをぐるっと回って元の道路に出られる保証がないどころか、とんでもない方向へ逸れて迷子になることが多いから、車が途切れたのを狙ってえいっとUターン。建物を見つけて、フロントで出入りの記録にサインして、ママの部屋へ。パパは1日ほとんど眠っているそうだけど、ママは92歳とは思えない元気さ。カレシが昔の写真をスキャンする話を始めて、ママが出してきたのが、子供のカレシとパパの写真。昔は街頭写真家がいて、通行人の写真を撮ってプリントを売っていたそうな。その日は特別なお出かけだったのだろう。金髪だった4才のカレシはネクタイをしておめかし。丸出しの膝小僧がとってもキュートで、ほんとにかわいい坊や。(5才になる年の春の終わりだそうだから、未来のおよめさんが太平洋の向こう側で生まれた頃か。運命と言えるようなものがあるとしたら、人間の縁とは不思議なもんだなあ・・・。)

帰りがけに目を覚ましたパパが寝室から出てきた。私たちを見て「誰だ、おまえは?」ママが教えても「誰だって?」と繰り返す。大きな声で「息子ですよ」と言ったらニコッとしたものの、あまり意味がわかっていない様子。ママが介助してトイレに連れて行くので、私たちは「じゃあ、またね」。家族の顔がわからないときが多いと聞いてはいたけど、やっぱりカレシにはちょっとショックだったらしい。医者の診断では正真正銘の老人性ボケで、アルツハイマー症ではないんだって・・・といっても、自分はボケないという保証は誰にもないし、カレシ、心配事が増えてしまったかなあ。

ジムの家では地下室で段ボール箱4つに入っているパパの古いレコードコレクションを点検。割れないで残った厚ぼったい78回転のレコードも多くて、エルビスプレスリーの処女作という貴重なものもあるからすごい。(レコードから直接CDを焼けるプレーヤーは78回転もかけられる。)コピーしたいものをひと抱え借りて、とんぼはママが子供のときに読んだという本を借りた。夕食はジムのガールフレンドのドナが合流してから。ドナも好きだけど、離婚のきっかけになったフィリスもまだ好きで、どっちとも決めかねて(公然と)両方とつき合っているそうで、「この父にしてこの子あり」のダブル版とは、なんてこっちゃ、もう。う~ん、家族はみんなドナの方がずっと好きなんだけど・・・。

外国通の半可通は世界共通

4月12日。荒れ模様のイースターサンデイ。日本語で言えば「彼岸荒れ」のようなものか。今日からはねじり鉢巻をしっかりと締めて、金曜日の丑三つ時の期限を目指してまっしぐらでいかなければならない。ならないんだけど、ふむ、どうも寄り道、道草、油売りに悩まされそうな予感・・・

ソーシャルブックマーキングのサイトに「あちゃ~」というような本のニュースがあった。メンバーが著者のブログから見つけて来たようだけど、タイトルは、知っている人なら内容がすぐにピンと来る『Black Passenger Yellow Cabs』。著者はジャマイカ系のアメリカ人だそうで、俗に言う「黄熱病(=アジア人フェチ)」にかかり、「セックス中毒」を満足させるために日本へ行き、英会話教師で生計を立てながら、外国人向けの「出会い」サイトに登録してくる日本の「セックスに飢えた人妻たち」との体験を回顧録に書いて、アメリカでの出版にこぎつけた、ということらしい。(ところかまわず、なりふりかまわず、売り込みまくっている形跡がある・・・)

表向きは「日本社会の深部に関する考察」てな触れ込みだけど、著者自身がサイトに書き込んだコメントによれば、全米サイン会ツアーをすることになっていて、すでに日本語訳の出版も決まっているんだそうな。この手の本が日本で売れるのかどうかわからないけど、日本語訳の売込みをした経験からすれば、出版社は売れると思うものにしか手を出さない。ということは、日本でも売れると踏んだ会社があるんだろう。これで日本人だけが使っているとされてきた「イエローキャブ」というスラングが本格的にアメリカ英語に浸透するかもしれないし、本を読んで「じゃ、オレも日本へ行こう」というアメリカ男が出てくるかもしれないし、日本まで出向かなくても、日本人は北米中どこにでもいるご時世だから、どういう展開になるのか興味があるところ。

この本で思い出したのが、『Bachelor’s Japan(独身男のための日本)』という本。50年ほど前にアメリカで出版されて、けっこう売れたらしい。著者はボイエ・デ・メンテ。終戦後に占領軍の諜報部員として日本に行き、サムライ精神に魅せられたとかで、日本に関する本を大量生産して、「日本文化の紹介者」ということになっている。たしかに日本とビジネスをする上で役に立つ本もけっこう書いているし、日本では英会話本も出していたけど、アジア買春ツアーの宣伝かと思うようなタイトルのものも多く、「日本人の愛人を囲う方法」というのもある。中でもおそらく一番売れたのは「ワイルドな日本女性」を売り込んでくれたこの『Bachelor’s Japan』で、北米の多くの男たちにかなりのインスピレーションを与えたらしい。

ボイエ・デ・メンテは今はもう80代半ばになっているだろうけど、サイトの前身であるソーシャルブログサイトに登場して、長々と日本女性についての「昔語り」を書き込むようになって、メンバーを閉口させたものだ。自分のビジネスサイトへのリンクがあったところを見ると、老後の生活費稼ぎにカムバックを図ったのかもしれないけど、若きボイエ君が日本で出会った「魅力的な日本女性」は敗戦国で進駐軍の相手をした水商売の女性たちだったと想像がつくし、ブログのメンバーは多くが普通の日本人と結婚してごく普通に日本で暮らしている中年の人たちなもので、メンテ氏の売り込みはお呼びじゃなかったというところかな。

つらつらと考えてみると、日本だって生半可な「西洋通」が書いた西洋事情紹介の本やブログが大量にあって、けっこう読まれているから、西洋の生半可な「日本通」が書いた日本事情紹介の本やブログもけっこう読まれていて当然だろうな。まあ、洋の東西を問わず、半可通の外国かぶれほどその生半可な知識をひけらかしたくなるものらしい。

4月もけっこう地獄だなあ

4月14日。ぽかぽか陽気で桜もレンギョウもコブシも満開。向かいの赤いモクレンも咲き始めた。4月も半ばなんだから、こうこなくちゃ。

今日は州議会総選挙の公示。来月の投票日に向けて、これからテレビでの政策PR合戦や与党と野党の中傷貶し誹謗合戦がうるさくなる。それでも名前だけ連呼しながら走り回る「選挙カー」というものがないから、同じお祭り騒ぎならこっちの選挙の方が落ち着きがあってよろしい。

なんとか去年の帳簿を閉めて、納税申告の書類をまとめて、ひとっ走りダウンタウンまで。古巣の会計事務所に届けてとんぼ返り。おととしはやたらと仕事が多くて、去年の申告の時にがっぽりと追加を取られたけど、おかげで所得控除できる退職貯蓄プランへの払い込み限度額がぐんと上がったし、去年は旅費などの経費が多かったから、今度はがっぽりと戻って来ると胸算用・・・。

重要案件を1件片付けて、さてもう半徹夜も辞さずの体勢待ったなし。予定はどんな具合かと聞かれても、「来週まで待ってくださ~い」。大きな声でいえないけど、一寸先も見えない「ど~しよ~」の状態で、どうもすみません。

来週はもうひとつの重要案件、運転免許証の更新が待ったなし。5年ごとに更新される顔写真が、ちょっと気になる。(この5年でどれくらい老けたかなあ・・・。)それが終わったら残るひとつの重要案件、消費税の納付申告。還付か、納付か・・・1月分だけ帳簿をつけて、う~ん、微妙なところ。還付ならぎりぎりでもいいけど、納付があれば期限までに小切手を送らなければ利息を取られてしまう。怒涛のような「魔の3月」の後、春爛漫の4月もけっこういろいろと地獄だなあ。

毎日キーを叩き続けて関節炎の指が痛い。なぜか、英語キーボードでのローマ字日本語入力は英語入力よりも指への負荷が大きい。おまけに座りっぱなしで腰まで痛くなって来た。やれやれ、ノー天気ながんばりやの極楽とんぼではあるけど、身体の方はやっぱり「60代」が厳然と現れてくるらしい。まあ、仕事量を半減しようともくろんでいる年金受給開始まであと4年。ここのところは、ねじり鉢巻をもう1本追加して、ひとがんばりするか・・・

達成感を満喫する方法

4月15日。今日もすご~くいい天気。カレシは外へ出て、秋に刈り込んで積み上げてあった枝を、堆肥にするためにシュレッダにかける作業。騒音もすごいけど、芝生刈り機の何倍も馬力のあるエンジンがすごい熱を持つので、聴覚保護の産業用イアマフ、目を守るためのゴーグルといういでたちでは、夏でなくても汗だくの仕事になる。

極楽とんぼは、きのうがんばってとうとう2日分の仕事をしたせいでストレスがたまってしまったのか、なんか「うつ」っぽい。納品期限まであと2日。普通なら3日分の量が残っている。モニターの横においてある(安眠やリラックスに役立つ脳波を出すという)サウンドマシンを寄せては返す波の音にセットして、ひたすらリラックス、リラックス。リラックス用には他になんとも幻想的なものもあるけど、海のそばで育ったからか、単調に繰り返されれる波の音の方がすごく気分が落ち着く。(ちなみにベッドルームのマシンはしとしと、ぴちゃぴちゃと降る雨の音に設定してある。催眠効果があるんだそうな。)

ちょっとだけのつもりでのぞいた小町。「仕事が速くて、丁寧で評価の良い同僚。普通の人が3日かかる作業を2日で終わらせ、急ぎのときは1日でやれる。1日でできるのにいつもは2日かけてやっている。これはさぼりではないのか。1日でできるのにさぼって2日かけて、評価が高いのは納得できない・・・」。トピックの主は「普通」の人だから精一杯やって同じ仕事に3日かかってしまうんだそうな。「1日でやれるのにさぼって給料をもらっている同僚に納得がいかない・・・」。なんかよくわからない論理だけど、自分だってがんばっているのにそれを評価してもらえないのが悔しいのかな。それにしても、仕事ができる同僚を「さぼっている」とは、理解しにくい感覚だなあ。

「がんばったこと」がすべてで結果はどうでもといいという教育方針を掲げた時期があったらしい。できなくてもいいの。できないならやらなくてもいいの。できる人はできない人の気持を傷つけないように、せめてできるってことは隠しておきなさい。それよりも、できる人ができない人のレベルまで降りて来てあげるのが万人平等の優しい日本・・・「出る杭は打たれる」の文科省版てなところか。極楽とんぼはちょろっと杭の先を出してしまう方だけど、それはあまりにもKYってことなのかな。でも、学校で結果より過程を強調するのは、学校が結果を出すための過程(知識やスキルやその応用方法)を学ぶところだからなんであって、大人の社会では学校で学んだことを活かして結果を出すことが強調される思うんだけど。う~ん、日本て、ほんとにわかるようで、わからない・・・

昔、父の勤め先で名簿作りのアルバイトを頼まれたことがあった。予定はたしか2日間だったけど、なぜか1日で終わってしまった。がんばったわけじゃなくて、あれこれ効率化の工夫をして楽しんでいるうちに「あれ、終わっちゃった~」というのが真相なんだけど、「2日分の仕事を1日でやってしまったら、1日分の賃金しかもらえないだろうに」と言われて、初めて自分のノー天気ぶりに気がついて「ばっかじゃなかろ~か」。まあ、会社がなぜか2日分の賃金を払ってくれてハッピーエンドだったんだけど、若くて世間なれしていなかった極楽とんぼは、そのときに「働く」ということについてかけがえのない何かを学んだのだろう。

さあ、胸突き八丁の心臓破りの丘が目の前にある。ゴールに飛び込むまでの過程は自分だけの挑戦であって、クライアントにとっては結果あるのみ。だけど、そこにはなんともいえないスリルがあるし、「やった~」という達成感は爽快のひと言に尽きる。さあて、もうひとがんばりするか・・・