リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2008年6月~その2

2008年06月30日 | 昔語り(2006~2013)
大山鳴動して・・・

6月16日。前日の夜は体中がチクチクと痒かったり、咳の発作が出たりしてあまり眠れなかったせいか、ゆうべは早寝したにもかかわらず今朝?の目覚めは12時15分。よく眠れた気がするけど、8時前後にチェーンソーの音で目を覚ましたような夢うつつの記憶がある。ウェーン、ウェーンと2度くらいだったか・・・

そういえば金曜日に市役所のトラックが来て、家の外に「街路樹の剪定作業のため駐車禁止」の標識を立てて行った。その前日は向かいの桜の木を剪定して行ったっけ。じゃあ、月曜の朝は早起きか・・・と思ったら、標識には「月曜から金曜まで、午前7時から午後3時」とある。カレシは「なんだ、これ?」 ワタシも「ええ、なんだ~?」 我が家の横に沿った歩道には街路樹が2本ある。たったの2本。それを剪定するのに1日中、月曜日から金曜日まで5日間もかかるわけがないじゃん!毎日トラックを別の場所に動かすなんてめんどうなことができるかっ。無視するっ!はい、ごもっとも。まあ、憤懣やるかたなかったカレシだったけど、日曜の夜遅くに「いったいどれだけ場所がいるってんだ」と、木のそばに止めてあったトラックをちょこっとだけ前進させた。お役所にイジワルをしかけてもしゃあないでしょうに。

早朝にトラックの防犯アラームが鳴り出さなかったところを見ると、それで十分だったんだろう。チェーンソーの音は2度しか聞かなかったような気がする。その後1度だけバリバリというチッパーの音がした。音に敏感なカレシが目を覚まさなかったのはそのせいかもしれない。ワタシもその後はなんか遠ざかる音を子守唄代わりにまた眠ってしまったらしい。さっそくカレシはトラックを元の位置に戻しに行った。わずか1メートルくらいでごていねいなことと思うけど、そこがカレシ流のこだわり。口笛を吹き吹き入ってきて、「枝を1本切って行った」。そっか、だからチェーンソーの運転2回でせいぜい1分の仕事か。ま、月曜から金曜というのは、その5日間のどれかにやるつもりってことで、それで住民が不便したっててんで気にしないのがお役所流のノンシャラン。それを、あっち見て、こっち見て、どっちも好きにせえと、もよう眺めをするのが極楽とんぼ流のノンシャラン。

カレシの一見して理解しがたいこだわりは今に始まったことじゃない。自閉スペクトラムのどこかにあるのかとも思ったけど、こだわるのは周囲のことで自分のすることにはこだわりらしいパターンがないから、まあ違うのだろう。あんがい、つかまえどころのない自分にはこだわるものかという「こだわり」が自分の周囲の環境へのこだわりになっているのかもしれないけど、これってただの不安神経症じゃないかなあ。まあ、こだわりも人それぞれの事情だろうから、危ないこだわりじゃなければ、いいか。そんなことにこだわらなくたってと苦笑しているワタシのほうがどっか変だったりするかもしれないし。

それにしても大山鳴動して枝1本かあ・・・

縁の切れ目でお金は?

6月17日。せっかく初夏らしくなったと思ったのに、ポーチの温度計はお昼を過ぎても摂氏11度。今にも雨が降りそうな空模様。今日は銀行のフィナンシャルアドバイザーとのアポイントメントでダウンタウンへ。途中で雨が降り出したけど、並木の葉が茂っている歩道なら傘なしでも大丈夫。でも、6月も中旬になってまだジャケットがいるなんて、マザーネイチャーのつむじ曲がりも相当なもんだ。

金の切れ目が縁の切れ目とよく言うけど、銀行はまさにお金を扱う商売。別の銀行にあるRRSP(退職年金積立)が満期になるので移したいといったら、まだ満期まで2週間あるのに、「手続き書類の用意をしておきましょう」と速攻でアポをくれた。今どきはチョンチョンとキーと叩けば、話をしながら客の口座のデータがわかる。預金口座にいくら、小切手口座にいくら、RRSPにそれぞれいくら、合わせていくらで、いっぱしの高額口座になるらしい。そこへさらに400万円分くらい持って来たいというわけで、担当者は張り切ってしまう。うん、張り切ってくれなきゃねえ。というのも、やっと別の銀行に残っていたRRSPの残りを引き上げられることになったのだ。こっちは縁の切れ目が金の切れ目じゃなかったケース。

数年前、この別の銀行においてあった預金とRRSPの残高が増えたのを狙って、投資アドバイザーが登場。投資運用してくれるというので最低額10万ドルを預けたら、カレシが「これならオレにだってできる」というような単純な投資でわずか半年に10%も目減り。呆れはてて残った資金を引き上げて、預金口座を閉じたのはよかったけど、定期に入っていたRRSPは満期まで解約不能。しょうがないから、満期になったら現金口座に入れろと指示しておいたら、さっさとまた2年入れて「解約はできませ~ん」。談判して二人の定期の満期を同じ日にさせたけど、いくらお金が商売とはいえ、人さまのお金を抱えて離さない困ったちゃん銀行。その満期がやっと近づいたので、今度は「絶対」に更新せず、「必ず」現金口座に入れると確約させたのだった。この間、「うちの銀行」はカナダ第2位になり、ちょんぼ続きの別の銀行は2位からビッグ5のびりっけつに転落。ああ、これで私たちもせいせいするなあ。

というわけで、けっこうややこしい書類の準備もとんとん拍子で、後は30日の満期の日を待つばかり。その足で、右のコンタクトレンズの「点」を濃くしてもらおうと、銀行と同じビルにある眼科へ。コンタクトは右と左の処方が違うので、逆に入れると宇宙遊泳のような気分になる。左右を見分けるための黒点は毎日のクリーニングでだんだん薄くなってしまうから、インクを足して濃くしてもらわなければならない。処理してもらっている間にコリアンスーパーに行こうと思って、右レンズだけを預けた。両方とも外したら、鼻先20センチから先は完全にぼやけて、とても街中は歩けない。だけど、近くを見るように処方されている左レンズと大ボケの右目だと、うわ、ピンボケどころじゃないのだ。右目だけ開けて見ると1メートル先のカレシの顔立ちがわからないし、左目だけ開けて見ると距離感がなくてじわっと不安。そのうちだんだん頭痛の気配・・・。

なんとか買い物を済ませて、眼科でくっきりと黒点が見えるレンズを入れて、何もかもがはっきり見えたときの、幸せ~な気持。目がちゃんと見えるってすごいことなんだと実感。大切にしてあげなくちゃ。

しっかり者と言ってくれ

6月18日。まさか寝坊をするとは思わなかったけど、目が覚めたらほぼ正午。ああ、大変。今日はピアノの先生とランチの日。約束の時間は午後12時半。しらない、しらない。がばっと起きて、超特急で身支度をして、メークをして、バッグを掴んで、キーをつかんで、カレシにすれ違いざまのチューをして、外へ飛び出した。携帯のスイッチを入れて、車に乗り込んだところで、先生からの電話。途中で地下鉄工事による渋滞に遭遇して、少し遅れるとのこと。そこはワタシが想定していたルートでもある。走り出す前の知らせはラッキー。逆の方向から行くことにした。ガソリン代の高騰のせいか、近頃は交通量がなんとなく減ったような・・・

落ち合ったのは小さな台湾料理の店。不思議な香りのするお茶で、先生の「離婚」をお祝いした。まあ、実際の離婚手続きはこれからだけど、夫氏から家の権利を買い取って、その手続きがやっと完了したところ。話がまとまってから2度書類へのサインをすっぽかされたので、三度目の正直。破綻してからほぼ7年。人の離婚を喜ぶのは変な話だけど、先生にとってはモラハラからの勇気ある脱出なのだ。ワタシ立の小学校に通う子供を2人抱えてシングルマザーになる先生は家の権利を買い取るのに多額のモーゲージを組んだという。子供の養育費を要求しないことと引き替えに半分以下で済ませたけど、45才の先生はこれからが大変。それでも、久しぶりによく眠れるようになったとか。

夫氏は先生のお母さんに「彼女の愛を取り返してみせる」と言ったそうだけど、おいおい、勝ち取ってどうするんだ。トロフィーみたいに棚に飾って悦に入ろうっての?離婚の話になるたびに見たこともないほど優しくふるまったそうだけど、暴君の父親の前でいい子を演じてきたらしい夫氏も、いい人を演じて周りを騙すのはお手のものなのだ。ワタシが苦しんでいたとき、先生は黙って愚痴や泣き言を聞いてくれて、黙ってハグしてくれた。ワタシが立ち直ってきた頃、たまたま夫氏が失業して前からあったモラハラ傾向が一気に表面化した。カレシの爆発とよく似ていた。今度はワタシが話を聞いてあげる番。カレシもこうだった、ああだった、それは気をつけないと危ないよ・・・忙しくなってピアノのレッスンをやめてからも経験を語り続けた。先生は夫氏が好きだった。ひとつ屋根の下で愛する人に無視され、疎外されることほど苦しいことはない。ほんとうに気が狂いそうなほどつらい。二人して泣いたときもあった。そうやって7年かけて先生は「離婚」という結論を出した。今日の先生はすごく輝いていた。おめでとう!

帰ってきて、仕事をひとつ片付けて、小町を散策。『海外で仕事をしている女性の特徴』というのがある。またか~と思うけど、ちょっとのぞいてみる。ああ、またか~。まあ、キーワードは「海外」だからしょうがないんだけど、気が強い、気が強いの大合唱。あのねえ、気が強いんじゃないの。しっかりものなのよ。でも、そう言ってくれる人はほとんどいない。みんな気が強いと自己申告。ほんとうにそうなのかなあ。それよりも、外国に行ってまでそこで見かける日本人女性を微に入り細にわたって監視してるってのはちょっとストーカーっぽくないのかなあ。それで、ファッションがダサいとか、日本人の良さを忘れたとか言って、日本で暮らしていない人に(日本人がこだわる)日本人らしさを求めているとは、ほんとに人のことに対するこだわりの強い人たちが多い国なんだなあ。

ま、この人たちの目にはワタシも気が強くて、ファッションセンスがなくて、日本人の良さを忘れた「変人」に映るんだろうけど、ワタシは「海外」で働いていないもので、太平洋の向こうの「海外の人たち」に反論しても意味がないなあ。ここにたむろしている日本人たちは中国人は「気が強いから嫌だ」と言うけれど、そのステレオタイプで見ると香港生まれのピアノの先生も気の強い女になるのかなあ。同胞にも気が強いと思われているのかなあ。中国人がステレオタイプの中国人像にどれだけこだわるのかは知らないけど、私たちは運命に導かれて来て根を下ろしたところでひたすらがんばっているだけ。

どうしても何かにこだわらなければ気がすまないんだったら、自分のことにこだわった方が、いろいろと楽しいと思うんだけどなあ。たとえば、自分ブランドの日本人を追求・・・とか。

何ごとにも時がある

6月19日。まだまだ余裕はあると思いつつ、飛び込み仕事をはめ込みながら、大きな仕事をたらりたらり。う~ん、ちょっとばかりダレ症状が昂進しているような。季節感がおかしいせいかなあ。源泉税だの著作権だの派生的な問題が出てきたせいかなあ。まあ、ここはちょっと視界を広げて見れば、今はたまたまそういう「時」ってこと。早く言えば文章のコンマかピリオドみたいなもの。そうやって自分で納得して・・・

旧約聖書の伝道の書に「何ごとにも時がある」で始まる節があって、フォーク歌手のピート・シーガーが曲をつけ、フォークロック全盛時代にByrdsの「Turn! Turn! Turn!」とうレコードになってヒットした。輪廻転生だの茫洋とした宇宙の摂理に思いを馳せたがるワタシには心の奥底で共感できるところがあって大好きな「言葉」なんだけど、実際には自分で何かをする時に、それがまさに「その時」なのかどうかはわからない。どっちかというと、「Hindsight is 20/20(後知恵は目が良い)」、つまり後で振り返って「なるほど」と思うことが多い。そこが人間たるところなんだけど、そうでなかったら、「占い師」になって、セレブになって、今ごろは左うちわの大もうけでウハウハだ、きっと。

さて、きのうはクライアントのクライアントから来るたび重なる質問と修正要求にとうとう切れて、きっつい返事を出してしまった。もうだいぶ前に完了して、クライアントが校正と編集をして、発注元に納品されている仕事があって、普通はその時点でワタシはお役ごめんのはずなんだけど、翻訳がおかしいとクレームするでもなく、あちこち変更しては「これでいいか」と聞いてくる。どうやら発注元のほうで書き直しをしているらしい。で、自分の英語に自信がないから、「これでいいか」と聞いてくる。ちょいと待てよ。それって添削じゃないの。発注元の業界が業界だから、いわゆるアフターサービスのつもりでいるんだろうけど、自分たちの気に入る英語に書き直したいなら、そうしてくれてけっこう。それがコテコテの日本語英語になってもワタシはしりません。あたしゃ、翻訳をやってるんであって、教えているんじゃないから、書き直しの添削なんかやってられないっつうの。はっ!

まあ、今回だけはということで、ダメ、ダメ、ダメとコメントを返して、次回からは料金を取ると言ってくれとコーディネーターさんに言っちゃったわけ。業務の内容が違うんだから別料金になって当然だと思うんだけど、「英語知らずの英語読み」の英語屋に校閲させて「この翻訳は誤訳だらけで文法もなってない」とクレームして来た某クライアントのクライアントに比べるとまだましな方かなあ。あの英語屋センセイにはカレシの「Do you understand English?」みたいなレポートを送ってすっきりしたんだけど、人にお金を払って翻訳させておいて、それを我流に書き直したいから手伝えなんて、どんな神経なんだろう。けっこうあるなあ、こういうの。日本国政府某省の仕事も、HPに載ったのを読んで見たら、実にみごとな日本語英語に「翻訳」されていたっけ。「英語人は英語を知らんなあ」とか言いながら、せっせと「正しい英語」に書き直している(たぶん下っ端の)お役人さんのイメージが浮かんでおかしかったけど、オレは英語わかるんだってこだわりなんだろうなあ。でも、昔から「生兵法は怪我のもと」と言うじゃあないの。

伝道の書のくだんの節は「a time for war and a time for peace」と言って終わっている。「戦いの時、平和の時」。戦わなければならないときもある。「戦うべきときは戦うべし、平和のときは仲良くすべし」とコヘレトは言っているのだ。戦うべきときは戦う・・・自分という人間性を守るためにはあたりまえのこと。神さまは決して「争いは絶対にダメ」とか「けんか両成敗」とか、二股膏薬みたいな「なあなあ」でお茶を濁すようなことは言っていない。人間という小さな存在にはその時(タイミング)を計るのが難しいということなんだ。まあ、正しくタイミングを計って人生を運営できたら神さまクラスになっちゃうけど、神さまは人間の力が及ぶべくもない宇宙のどこかで「神さま」として鎮座していてくれなくちゃ・・・

こだわり屋のスカンク

6月20日。夏至。ベッドに入ったのがそろそろ鳥のさえずりが聞こえる頃。そういうときに限って、どこかで早くからブィーンと甲高い機械の音がして来る。カレシがあまり勢いよくはね起きたもので、てっきり朝寝坊したかと思ってしまった。寝ぼけまなこで「起きる時間?」と言ったら、すでにムカついているカレシ、「これじゃどうしようもないだろ!」 たしかにちょっと耳障りな音だなあ~むにゃむにゃ・・・とまどろんでいると、今度はゲートのチャイムが鳴っている。ん?と思いつつまたとろとろ・・・チャイムはしつこくなり続ける。うるさいなあ。配達だったら不在通知でも入れてってよ・・・

だけど、このしつこさはどうも配達じゃあなさそうだ。目をこすりながら、下へ降りてインタフォンを取るとカレシの顔が大写し。「入れない!」と怒鳴っている。ははあ、あんまりムカついたもので、ゲートにストッパーをかけないで道路へ飛び出してしまったんだ。それじゃあ入れない。我が家のゲートは鍵がなければ外からは開けられない。チャイムを鳴らして、家の中からロックを解除してもらうしくみになっている。だから、思い立ったが百年目みたいな勢いで外へ飛び出すカレシはそのたびに締め出しを食ってしまうわけ。伸び放題の生垣の後ろにもぐりこんで内側にある塀を乗り越えるという手もあるんだけど、だいたいは手っ取り早くチャイムを鳴らして「入れてくれ~」 あ~あ、ひと騒動のおかげで起床は午前9時半。1年で一番日の長い日だというのになんてこっちゃ。

ゆうべはまたポーチの端でゴリゴリ、ガサガサと音がし始めた。またか~とうんざりした気分で、ポーチから裏庭へ通じるゲートを開けてみたら、ふむ、また何ものかが穴を掘った跡。持ち出した懐中電灯で通路を調べていたカレシ、「スカンク!」 あわてて家の中に飛び込んで、ドアをバタン!そっかあ、やっぱりスカンクかあ。もっとも、掘っていたところはベースメントがある部分だから、スカンクにとっては骨折り損でしかないんだけど、こっちは穴を埋めたり、塞いだりの大仕事。それでは困るから、さっそく害虫害獣駆除の会社に電話してみた。罠を仕掛けてもらって、つかまったらどっか遠くへ持って行ってもらえばいいかと思ったわけなんだけど、どっこいそうは問屋が卸さないのがバンクーバーの市条例。人間に危害を及ぼす動物は別だけど、相手がスカンクごときなら神経戦で諦めさせるしかないそうな。あの、スカンクのあれって、人畜無害なわけがないでしょう?もろにぶっかまされたら、すごい危害だと思うんですが・・・ねえ。

考えたら今は不動産バブルでどんどん古い家が取り壊されて、あっちでもこっちでも新築工事だから、ホームレスになってしまったスカンクがうろついているのだろう。スカンクにしてみれば「家がなければ、子供を作ることもできない」ってわけで、たしかに迷惑なことだと思うけど、だけど、だけど・・・やっぱり、何とかしなくちゃ。庭のあちこちに野積みしておいて使いものにならなくなった廃材がたくさんあるから、ポーチの周囲を掘り下げて、壁を埋め込んでからセメントブロックを置いて、塀の下の隙間は角材でブロック、と。それでも「どうしても」というこだわりスカンクだったら塀を越えては行ってくるかもしれないけれど、とりあえずは廃材の処理もできて一石二鳥ってことになるかもしれない。まあ、塞翁が馬というからなあ。それにしても、納期が迫って焦りだしたときに限っていつもこうなるのは何なんだ・・・?

経済は日替わりメニュー

6月21日。前の日のロスを取り戻してやる~といわんばかりに、10時間もぐっすり眠ってしまった。それこそ爆睡。今日は土曜日だから、勤め人がいても同じだけど、このあたりが時間に融通の利く暮らしのいいところ。まあ、変則的ではあってもかなり規則正しい生活をしているわけで、それが工事騒音のような「外圧」に乱されて不規則になる。だけど、この「外圧」が問題になるのは生活が変則的だから。変則的といっても、本人たちにはいたって規則的・・・堂々めぐりみたい。寝すぎたのかなあ・・・

プチ休暇中のカレシは来年のオーストラリア行きの計画を立てている。会議の開催地はシドニー。おりしも燃料費高騰で、各航空会社はあの手この手での対応におおわらわ。採算の取れない路線から撤退する計画も多い。ということは、今からあまり細かく予定を組んでも、年が明けてみたらどんなことになっているかは明けてのお楽しみ。何にしても不透明な時代だなあ。エアカナダは秋にバンクーバーから関西空港への直行便を廃止するという話で、「きゃあ、困る~」の大合唱。JALには関空への便がないらしい。バンクーバー→名古屋の路線はだいぶ前に廃止されたし、トロントから成田便も直行便はなくなったらしい。インチョンのハブ空港化が本格稼動したら、成田からも撤退するところが出てくるかもしれないなあ。まあ、「困る~」といわれても、日本の価値が相対的に低下したってことなんで・・・

私たちのお気に入りのアラスカ航空もバンクーバー・サンフランシスコ線を廃止するらしい。昔よくあったように、週何便という運航はできないものかと思うけど、機材を効率よく使い回す時代だから、かえって非効率なのかもしれない。数年前に乗ったマルタ航空は小さな飛行機13機で「世界39都市」に飛んでいたけども。人間、年を取ってくると長時間飛行はきつくなるもので、できるだけ6時間以下に抑えたいけど、オーストラリアは太平洋を南半球まで斜めに横切るし、中継地もあまりないからどうしても長いフライトになる。細切れにするとかなりの割高になるんだけど、やっぱり楽な方がいい。どうやら今一番楽そうなのは、バンクーバー→サンフランシスコ→シドニー→シンガポール→(ソウル)→バンクーバーというルートらしい。これなら路線廃止のリスクも少なそうだけど、ソウルは行っても真冬だなあ・・・。

ガソリンスタンドのデジタル化された看板に表示される値段はまるで日替わりメニュー。今日は1リットル1ドル43セント。去年の夏に急騰して1ドルの大台を突破したときには、上へ下への大騒ぎをしたけど、1年足らずの間に50%の値上がりということになる。まあ、我が家には車が2台あるといっても、1年に3、4回カードで払って給油する程度なもので、高くなったという実感はほとんどないけど、郊外から通勤する人にとっては大変だろう。誰かがアジア系スーパーの米の値段が倍くになったと憤慨しているけど、それは世界的にそういう状態になっているんであって、小売店が値段を釣り上げているんじゃないのだ。アメリカのアイオワ州での大洪水でトウモロコシや大豆が大被害を受けた。どちらも世界の3割以上がアメリカで生産されるというから、日本のラーメンやピザからコーンが消える日は近い・・・かな?

そうなるとまたぞろ出てくるのが「アメリカのせいだ」、「ブッシュのせいだ」。過激ムスリムの受け売りのようなことを言っているけど、仮に来年の1月にオバマ大統領が就任して、それでも世界市場の情勢が変わらなかったら、「オバマのせいだ」というのかな。まあ、こういう人たちがカナダに来てもまだ不満が募るのは「カナダのせい」・・・つまり、誰かのせいだなんだろうけど、日本とカナダの往来がもっと不便になったら、果たして、美しい国からジェット気流に乗って流れて来て、バンクーバーに漂着して吹きだまるhuddled masses(なんかスギの花粉みたいに聞こえるけど)は減るんだろうか。なんかこっちの方がある意味で大きな影響があったりして・・・

激カワ、激キモ

6月22日。今日あたりから月末までねじり鉢巻の大車輪・・・ということは百も承知でまだたらりたらりとやっている。やっとそれらしい季節感のある天気なんだけど、おこもり状態。と、思ったら、カレシが突然「野菜が何にもない!」とパニックっぽい声。ええ、今ごろ気づいたの~?金曜日に買出しに行くはずが、結局は青果屋のKin'sは閉まった後のスーパーへ牛乳を買いに行っただけ。翌土曜日はディナーに出かけて、帰りに立ち寄ったのはグルメショップのMeinhardtだけ。だって、カレシは「まだいらない」と言っていたじゃん。それが慌てて腰を上げて、「混んでるってのに」。あったりまえじゃない、今の時間。

というわけで、トラックの荷台に前に野菜を詰めてもらった段ボール箱を放り込んで、いざ出発。その段ボール箱いっぱいの野菜を仕入れて来た。地物のイチゴがどっさり。もう25年位前になるかなあ。今の季節、バケツを持って郊外まで出かけて、何キロものイチゴを摘んできた。カレシがそばでイチゴを摘んでいた記憶はないんだけど、その夜遅くまで汗だくになって2ダースくらいのイチゴジャムを作った。(ふ~ん、カレシが手伝ってくれた記憶もない。体はいたけど心はやっぱり不在だった・・・?)今でもこの季節になるとカレシは「イチゴ取りに行こうか」などと言い出す。ただし、ワタシがうんと言うだけで動かないので結局はご当人も動かない。今では「~が欲しいなあ」と仄めかしても「買っちゃったら?」という返事しか返って来ないので、欲しいはずのもの何も買わないままになっている。さんざんおねだりをして買ってもらったものがたいてい使われないで埃をかぶっているところを見ると、「買ってもらう」ことに意義があるのかもしれないなあ。

ブログのサイトにログインするときに「激カワ」とかいうランジェリーの広告が出る。それがまるでアダルトビデオの小道具みたいなデザインで、あんなのつけて出かけるのは憚られると思うけど、今どきの若い日本人にとっては「勝負ランジェリー」なのかもしれない。「カワ」というのは「カワイイ」の略語らしいけど、「激」とのちぐはぐな対比がおもしろい。他にもいろいろな広告が出るけど、最もキモイと感じるのが無料ゲーム。ログインするのに視界の端っこにでんと居座る鎧を来た真っ赤な目の女のキャラが邪魔っけでしょうがない。鎧からバストがぼぃ~んと溢れているのに、顔はどうみても5才。これって、戦いのゲームなんでしょ?それにしては一番ガードを固めるべきところが露出しているのはどうして?鎧って硬いものだろうから、ひとりずつ胸のサイズと形状に合わせてカスタムメードだよねえ。経済的に戦いに負けてるじゃん・・・と、ツッコミどころはたっぷりある。これがオタクが萌えるという美少女なのかもしれないけど、やっぱりワタシの目にはキモイ。

目ざわりといえば、在日ガイジンがやっている2つの日本関連ニュースのサイトにある「Personals」という欄の写真。ニュースを読んでいる横っちょに縦にあるからどうしたって視野の端っこに入って来る。まあ、これがすっごいイケメンの男だったらちょっとばかり目の保養になるかもしれないけど、バナーにカーソルを置くと「Meet Japanese friends」と出てくるけど、最近までは「Meet Japanese girls」になっていたわけだから、要は若いオンナノコのガイジンBF募集サイトのようなもので、20代か30代の女性がほとんど。キュート風のハンドルネームから見ると大多数が日本人らしい。どれも携帯カメラで取った自写像らしいけど、なぜかそろいもそろって思いきりアニメ顔。少し年がいっているとキャバクラの広告みたいなポーズになる。たまに男が登場しても「おい、そこのネエちゃん」みたいな「ワル」気取りのポーズだったりする。まあ、これが今どき日本の風俗なんだろうけど、最近はかなり短いサイクルで同じ顔が2つのサイトに同時に登場するようになったらうんざり。サイトの主宰者が出会い系の印象を薄めようとした結果なのかもしれないけど、ガイジン向けのサイトと知っていてそういう上目遣いのポーズで載せているわけ・・・う~ん、キモイよ、やっぱ。

毎日新聞英語版サイトにあったWaiWaiというページが廃止になった。元々オジサンたちが電車の中で読んでいる週刊誌の記事を英訳して載せていたに過ぎないんだけど、それが日本について「おバカで嘘っぱちの情報」を世界に流していると、日本ネット界に絶大なパワーを持つ2チャネラーたちの逆鱗に触ったらしいという話。そっか、あれは本当だけど、世界の目に映る日本はあくまでも「美しい国日本」でなければならないってことなんだよね・・・

食洗機が壊れると

6月23日。けさはせっかくいい気持でぐっすり眠っていたところをカレシにたたき起こされてしまった。「なんでまだディッシュウォッシャーが回ってるの?」 ええ?「まだ回ってるんだよ」と、ちょっぴり怒ったような、ちょっぴりパニックしたような顔。ぐっすり眠っているところを起こされたんじゃ、こっちのシステムはまだ休眠中。のそのそとキッチンまで下りて見たら、あ、ほんとだ。ゆすぎサイクルの途中。いつも真夜中のランチが終わったところで1日分の食器をまとめて洗うので、午前3時くらいには全部終わっているはずなのに、まだ途中?てことは、8時間以上も回りっぱなしだったってこと?うは~、と目がぱっちり。

カレシは「出そうとしたらまだ回っていたんだよ」と、オレのせいじゃないよとでもいいたげな口調。わかってるってば。そうやってすぐに防衛態勢を取らなくたっていいってのに、そこはカレシなんで、故障の原因がわかる前から「オレが壊したんじゃない」と防衛線を張る。自分が壊したことを隠せない場合は「デザインの欠陥」(オレみたいな不器用なユーザーへの配慮がない・・・)ということになるからつい笑いそうになってしまう。きっと子供のときからそうやってきたので、今でもとっさにそう言い訳してしまうらしい。「三つ子の魂」のおそるべき真実・・・。

サイクルのダイヤルを少しずつ進めてみても、排水サイクルに切り替わらない。ふむ、つい3日前にクリーナーを入れて回したばかりなんだけど、排水口が詰ったとか・・・?ま、考えていてもしょうがないから、そうっとドアを開けて、食器を取り出して、カレシにざっとゆすいで拭いてもらっている間に、前に水漏れが起きたときに呼んだ修理屋の領収書を探してきて電話。明日の朝、修理の人が電話して来るという。その時に時間を設定するってことだけど、来てもらえるのは明日かなあ、あさってかなあ。

たった2人の暮らしとはいっても、兼業主婦(あるいは主婦兼業)にとってディッシュウォッシャーは大型フリーザー、冷蔵庫と並ぶ三種の神器。食器洗いというのは簡単なようで意外に時間がかかる作業で、納期に追われているときの故障は最悪のタイミング。とりあえず今日はできるだけなべやフライパンを使わずにやるしかないかなあ。おまけにごたごたしていてメインの食材を解凍するのをすっかり忘れてしまった。どうしよう?今夜は何食べたい?修理の算段ができて冷静になったカレシ曰く、「簡単でいいよ」。うれしいことを言ってくれるけど、フリーザーに「簡単」なんて入ってたっけ?みんなカチカチに凍ってるんだけど。う~ん、カチカチに凍ってるんだけど、魚だったら早く解凍できるかなあ。

こういうときに貯蔵用フリーザーが本領を発揮する。三種の神器のひとつたる所以。バスケットを出して、身を乗り出して底の方の在庫を調べて見たら、マグロがある。タコの足がある。サケがある。冷蔵庫には使いかけの大根とししとうの残りがある。そ、今夜は刺身ってことにしてしまえばいいんだ。ついでにスモークサーモンを前菜にして・・・ディッシュウォッシャーが故障したおかげでえらく豪勢な夕食になったもんだ。使った調理器具はまな板と包丁と小さいフライパン。前菜用の小皿1枚、わさび用の小鉢1個、サラダボウル、ディナー皿2枚にナイフとフォークが2本ずつ、コーヒーマグ2個。いやあ、簡単、簡単。これだったら毎日でもいいかなあ。だけど、豪勢なディナーも毎日では飽きるだろうし、いくら数が少なくても「カレシが洗ってくれるかも」なんて淡い期待を持つわけにもいかない。早く、修理屋さんが来てくれるといいけどなあ・・・

家事は好きじゃないの

6月24日。ベッドのわきにおいておいた電話が鳴ったの9時50分。今日の午前11時から午後1時の間に行きます、という話。おお、早いなあ。ああ、よかった~と安心したところで、もうひと眠りしようとしたけど、寝すごすわけには行かない。とろとろしているうちに11時になってしまった。カレシはぐうすか。しょうがないから、起きて身づくろいだけして、インターコムに近いベースメントのソファに横になった。これなら眠ってしまってもチャイムが鳴ったら飛び起きられそう、という胸算用だったんだけど、すぐに頭上のキッチンでカレシの足音。なんだ、おきちゃったのか・・・

修理屋氏は朝食の最中に登場。ダイヤルを少しずつ回して、排水サイクルのあたりで止めてはドアに耳をつけて聞き入って、「ふむ、これはシリアスかも」と。おやおや。買ってから8年近くなるから、寿命に近づいているらしいけど、しばらく底にたまったままの水の中に手を突っ込んでいて、「バッドニュース」。おやおや。サイクルをコントロールするタイマーが壊れているそうな。「へえ、脳卒中みたいなもの?」とカレシ。「まあ、そんなもの」と修理屋氏。そっか、うちのディッシュウォッシャーは脳死も同然なんだ。あ~あ。タイマーを取り替えると500ドルくらい。新しいのに買い替えるなら800ドルから千ドルくらい。寿命は9年から10年。「どうしますか?」と修理屋氏。では、今日にでも新しいの買いに行きます。ということで、ワタシの三種の神器のひとつは往診料?80ドルで御臨終を告げられたのだった。アーメン。

そういうときに限ってカレンダーに納期が並んでいるから困る。午後に納期の仕事を大急ぎで仕上げて送ったけど、そのときはもう午後3時。目当ての店は5時半までやっているけど、川向こうだからラッシュアワーに真っ向から突入するようなもの。結局は明日ということにした。「食器洗いなんか、23日くらい何とかなるさ」とカレシ。今日買っても、配達して取り付けしてくれるまで少なくとも1週間はかかると思うけどなあ。まあ、1日ずれたって、食器を手洗いしなければならないという現実には変わりないから、しばらくは「ワタシ、洗う人、あなた、拭く人」で行くっきゃない。あ~あ、なんだか今からくたびれたような・・・

どうもワタシは料理以外の「家事」という作業は好きではないらしい。だから、掲示板などで「家事が好き」と言っている奥さんに遭遇すると、「へえ、変わった人もいるなあ」と思ってしまう。上から下までお掃除をして家の中がピカピカになると気持がいい。ふ~ん。きれいに洗濯して、ピシッとアイロンをかけるのは気持がいい。ふ~ん。きちんと片付いた家は気持がいい。ふ~ん。たしかにそうだろうけどなあ。ずっと昔まだ親元にいた頃は週末に家族全員の洗濯をして、アイロンかけをした。食事のしたくも手伝ったし、後片付けも妹と交代でやった。自分の部屋もよく思い立って模様替えをしていたけど、かなり片付いていた方だった(と思う)。つまり、このワタシにだって「いいお嫁さん」になる兆しはたっぷりあったわけ。

なのに、今「家事か、仕事か」と二者択一を迫られたら、迷わず「仕事!」と言うだろう。どっちかというとぐうたらなところがあるけど、働くこと自体は好きだ。集団ルールに操られるのは嫌いだけど、ほうっておいてくれれば勝手にどんどん仕事をしてしまう。その点今の仕事はワタシにぴったり。もしもカレシが専業主夫になってくれたら、バリバリ仕事をして、もっともっと稼ぐかもしれないなあ。カレシが扶養家族になったって変だと思わないし、抵抗感なんかさらさらない。どういう風の吹き回しでこうなったのか知らないけれど、ワタシって中身はあんまり女らしくないのかなあ。ふむ、もしも男に生まれていたら、どんなオジサンになっていたんだろう・・・ヤダぁ!

ああ、加齢なるかな

6月25日。ゆうべはなぜか猛烈な頭痛とすごい疲労感で、どうしようもなくなって早寝してしまった。胸が苦しくて、息ができないような気分で、なんだかこのまま死んじゃうのかなあ・・・なんて漠然と考えるほど頭痛はガンガンと鳴り響くし、ベッドに横になって涙がポロポロ。どうなってんだろうなあ。自分で気づいていなかったストレスがたまりすぎたんだろうか。たかが仕事の予定がちょっぴり詰まっているときにディッシュウォッシャーが壊れた程度なのに。

元同僚たちとのランチに出かけたカレシが帰って来るのを待って、家電の店へ。なんだか白いのが少ないなあ。たいていはステンレス。黒もある。まあ、かっこいいかもしれないけど、うちのキッチンにはそぐわないなあ。などなど、それでも全機種を開けて中をのぞいて、ラックやトレイを引っ張り出してみて、Miele製のは一番上にカトラリーのラックがあって魅力的だけど、考えたら二人の食生活ではそんなに数は出ないしと判断して、結局は壊れたのとあまり変わらないBoschに決定。ところが白いのがなくて、ひとつ下のモデルでどうかという。値段は100ドル安い。何が違うのかと聞いたら、「残り時間の表示がない」。え、うちは寝てる間に回すんですよねえ。「水の汚れによってサイクルを調整する」。ええ、洗ってくれさえすればいいんですけど。まあ、そういうややこしい「ハイテク」機能ほどあんまり使い勝手がよくなくて、壊れると修理がえらく高くつくからなあ。

不要な機能なしで100ドル安くなってほくほく。配達と据付は別の請負業者がやるから200ドルくらいかかるとか。でも、古いのを持って行ってくれるそうなのでいいか。カードで払って、据付の人の名刺をもらって、運がよければ金曜日、でなければたぶん来週中。ああ、良かったと、なんだかグルメ料理に凝ってもいいかなあという気分で店を出たら、カレシが向かいに園芸店を見つけて、「土を買って行こう」。向かい側なのにけっこう回り道して、やっと駐車場へ。重さ50ポンドの園芸土の袋を抱えて、レジへ。レジのちょっとすてきなオバサンが「あなた、シニア?」 カレシは「シニアって何才から?」「60才」との返事にカレシ曰く、「おっ、それよりずっと上!」 というわけで1割引になった。「ほら、年を食うといろいろご利益があるよなあ」と、20キロ以上ある土の袋をえっさえっさと運ぶカレシ。そうだ、ワタシも割引してもらえるんだよね!ま、たいていのところは65才だけど、それでも「老人割引」ってなんとなく新鮮?な感じがする・・・

さて、これで気分を引き締めて仕事にとりかかろうと意気込んだところで、電話。カレシのパパが肺炎にかかって緊急入院したけど、持つかどうかわからないという知らせ。とにかくどんどん抗生物質を投与してもあまり効果が見られないんだそうな。ママの骨折事故以来、ライフスタイルの激変について行けなかったのか、急激にボケが進んでしまったという。最近はあまり歩くこともできず、1日中ぼんやりしているか眠っているかで、67年連れ添った妻の顔さえわからないことがあるという。まあ、89歳という長い一生を大人に成長する節目を悉く見逃すか、やり過ごして来て、まるで5才児のままで生きてきたような人だから、そのまま高齢になってなすべもなく下り坂を転げ落ちるという運命だったかもしれない。カレシは「オヤジとはあまり仲がよくなかったから」と平静を装っているけど、でもぽつんと言った、「体も頭もまじめに鍛えておかなくちゃ・・・」と。

だいじょうぶだよ、カレシ。来週からはまた英語教室が始まるじゃない。このカナダでまともに生きて行くためにカレシ先生を必要としている人たちがいるんだから。誰だってその気にさえなれば人間として成長するのに遅すぎるということはないんだから。

今日は何の日?

6月26日。電話がなっていたとかで11時前におきてしまったカレシ。こっちはまだ気持ちよく眠っているのに、ほっぺたを突っついたりするから目が覚めてしまった。時計は10時54分。「まだ11時前じゃな~い」と抗議しながら、とにかく起きる。カレシはなんかやたらと機嫌がよくて、やたらとべたべた。外は小雨模様の木曜日。朝の電話はディッシュウォッシャーの据付の人。ボイスメールの番号にカレシが電話して、どうやら明日あたり配達、据付をしてもらえることになった。めんどうな食器洗いもあと1日だ~。ちょっとうきうきした気分で朝食の後、今日は揃ってヘアカット。ワタシはジュゼッペの椅子、カレシはアントニオの椅子。並んで座って、鏡の中のお互いをちらちら。カレシとアントニオはいつものように園芸の話に熱中。今日のトピックはコンポストを作る赤い虫の話。聞き耳を立てていたジュゼッペは「詳しいねえ。参考になるよ」。ワタシに園芸はするかと聞くから、「ワタシは食べるの専門よ」といったら、「それが一番さ」と大笑い。二人とも伸びすぎた髪を切ってもらってさっぱり。別に買うものもないから、モールの道路向こうにある銀行に立ち寄って、政府から送って来た100ドルの小切手2枚を口座に入れた。来月から「炭素税」というものが始まるんだけど、1人100ドルは排出削減努力の配当の先払いなんだそうな。だけどなあ、炭素税でガソリン代が上がる。いろんなものも多分値上がりする。つまり、せっかく100ドルもらっても新しい税金でみんな取り戻されるのは時間の問題。まあ、お金は天下の回りものなんだけど・・・

カレシには65才の誕生日を控えて政府からいろんなお知らせが来る。年金受給の申請はとっくに出して確認状が来た。州政府職員組合の年金は公的年金の額が引かれるけど、振込みが2つになるだけで合計金額はほとんど変わらない。実際は老齢年金も出るので収入が増える勘定。悪くないなあと思っていたら、州の自動車保険公社から「シニアディスカウント」のお知らせが来た。誕生日が過ぎたら保険の更新期限を待たずに最寄の代理店で保険えの手続きをしなさい、と。内容にもよるけど、最高で25%くらい安くなるらしい。お知らせはトラックとエコーの両方のが来た。そっか、エコーはカレシと共同名義になっているから、まだ65才にならないワタシもご利益のおすそ分けに預かれるってことだ。

8月が楽しみだねえなんていっていたら、今度は「高齢者所得補助金」のお知らせが来た。これはうちは所得が多すぎてもらえそうにないんだけど、まあ、1度申請しておくと、毎年の納税申告を見て、必要であれば自動的に送ってくれるということで、じゃあ、出しておくか。これは個人ではなくて、夫婦の所得が基準になるので、カレシのといっしょにワタシの所得まで記入しなければならない。申告書のコピーを引っ張り出して書き込む。二人の所得、しめて・・・うへ、これじゃあ、ずっともらえそうにない。もっとも、年金だけで生活に困る高齢者への補助だから、もらえないほうがいいのかもしれないけど。

書き上げて、数字をチェックしていたカレシ、「あのさぁ、結婚証明書を付けろって書いてあるけど」きっと(法律婚、事実婚、同性婚を問わず)カップル単位の制度だから、ほんとうにカップルなのか証明しろということだろうけど、手元に結婚証明書を持っている夫婦なんてたぶんいないだろう。何十ドルか払って取り寄せなければならない。めんどうな話だけど、我が家にその証明書のオリジナルがあるのだ。ワタシが改名したときに、旧名までが新しい名前に変えて送って来たもので、その証明書に記録されている結婚の日は、1976年6月26日。そう、今日、6月26日は結婚32周年の記念日。パリで二人だけで銀婚式を祝った後でひとつの「章」を閉じたから、今は1日、ひと月、1年が過ぎるごとに記念日のようなもの。でも、カレシが朝からそわそわしていたのは今日が何の日かわかっていたからかなあ。せっかくだから、Happy Anniversary!(アズナブールのおかしくてしんみりとしたBonne Anniversaireを聞こうか・・・?)

こだわりのエネルギー

6月27日。今日はかなり気温が上がりそうな気配。新しいディッシュウォッシャーの据付は今日の午後ということになった。 ばんざ~い。これで三食ごとに食器洗いをしないですむぞ~。便利さにすっかり慣れてしまうとそれがなくなったとたんに手足をもがれたような苛立ちを感じるものらしい。地球を守るためにこれからどんどん便利さを縮小しなければならないときにこれではいかんなあと思っても、やっぱり便利なほうがいいってことなのだ。新しい機械はボタンが4つあるだけで、よけいなお世話の機能がない。全サイクル終了の「お知らせ機能」がないのが何よりいい。寝入りばなに「終わったよ~ピッピッピー」とやられたらたまったもんじゃない。

だけど、どうして近頃の便利道具はあれにもこれにもよけいな「お知らせ音」を付けたがるんだろうなあ。知らせてあげるのが親切と思っているのか、知らせてもらわないといつ終わったかわからないから不安なのか。おそらくは、PL法とやらに神経をとがらせるメーカーが、うるさい消費者の先回りをしてあれもこれも「リスク」と想定してのことなんだろうけど、過ぎたるは及ばざるがごとしというでしょうが。便利さも行き過ぎると逆に不便になる。なんだか「ライナスの毛布」のような感じもするけど、ある意味で誰かの「こだわり」が現れているんだろうか。

こだわりにもいろんな形があると思うけど、日本人は概してこだわりの強い人が多いように思う。それは一種の「完ぺき主義」なんだけど、職人や芸術家の「自分の技」へのこだわりとは違って、外部から供給されるものや事象に完ぺきを求める。だから、こだわりの強い人ほど他人の人間の容貌から容姿、服装、一挙手一投足にまであれこれイチャモンを付けたがる傾向がある。おそらく、自分が安心感を得られる世界があって、周囲にその実現を求めているわけで、だけどそれをそうと言えば自己中心的と思われるから、「こだわり」という、なんとなく芯が強そうな言葉で表すんだろうか。他人や物に完ぺき性を求めていることには変わりはないと思うけどなあ。

このあたり、「日本人は概して完ぺき主義の人が多い」と言い換えたほうがいいかもしれない。ちょっと肩の力を抜けば楽なのに、それができないのが他力本願性完ぺき主義症。それで離婚の危機にある人がローカルの掲示板で相談しているけど、あれもこれも夫には任せられない、家事を頼んでも結果に満足できないので結局自分がやる。温かい家庭を作りたいのにけんかばかり。その果てに離婚の話。離婚はしたくないけど、どうしたらいい・・・。ふ~ん、自分のものさしにこだわる典型的なタイプだなあ。何にしろ完ぺきでないと不安で、自分のスペック通りでないとイライラ。旦那に同情してしまうなあ。何をやってもダメ出しで、おまけに自分のやり方を押し付けてくるんじゃ、人格を否定されるのと同じで、やる気が失せて当たり前。自分と他人との区別ができていないから、人を自分の付属物のように扱うのかもしれないけど、なんだか典型的な日本の教育ママみたいな感じがするなあ。そうやって相手に自分の完ぺきさを見せつけたって、自分が疲れるだけだと思うんだけど。もっと楽にかまえたらいいのに。

こだわりはものすごいエネルギーを必要とするし、モノへのこだわりだったら相当なお金もかかるだろう。うわべを飾る「包み紙文化」が生まれたのはこだわりの強い人が多かったからなのか、そういう文化があったからこだわりの強い人が増えたのか、それはワタシにはわからないけど、この隠蔽志向の土壌から昨今日本全国を賑わしている振り込め詐欺や数々の偽装事件が生まれたんだろう。こだわりといっても他力本願なもので、結局はこだわらないヤツのカモにされやすいということじゃないんだろうか。他人や周囲の環境に完ぺきを求めて安心を得ることに費やされるエネルギーを、自分の羽ばたきに向けたらすごい力になると思うんだけど、もったいないよなあ・・・

美景、美観、美食、美味

6月28日。正午の気温が20度を超えて、やっと夏が来た感じ。夏至から1週間経って、日の出は午前5時10分、日の入りは午後9時21分。ただしこれはサマータイムでの時間。標準時間だったら日の出は午前4時過ぎということになって、朝日を拝んで眠りにつくような生活になってしまいそう。サマータイムにはこういうメリットもあるってことか。今日の午後の紫外線指数は過去最高水準だそう。予報では湿度はやや高めで、体感温度は26度。トマトが大喜びの天気。今日のおでかけはスリーブレスでもよさそう。

今日のディナーはバラード入江に面したパンパシフィックホテルのレストラン。1986年のバンクーバー万博で「カナダ館」として水上に建てられた施設で、元はカナディアンパシッフィック鉄道の埠頭があったところ。5つの帆の形をした巨大なテントがコンベンションセンター、これに直結したホテル、吹き抜けのホテルロビーを見下ろす形で取り巻くオフィス。スタンリー公園側から見ると、出帆する船のデザインになっている。クルーズ船のターミナルにもなっていて、殺風景な港湾施設にぐるっと取り囲まれた入江の華と言えるかもしれない。

ホテルは当初は東急が所有、経営していたけど、もうアジアのホテル資本に売却されてしまったらしい。(そういえば、サンフランシスコの一等地にあるパンパシフィックホテルもマリオットに売却されていた。)レストランの名前は窓から見える「帆」にちなんで「Five Sails」。できた時から超がつく高級レストランで、当時の上司が「今度連れて言ってあげるね」といいながらランチにも連れて行ってくれなかったところだ。(まあ、彼は空約束が得意だったし、ランチであっても秘書を連れて行くにはどうやら高すぎたらしい。)ホテルのレストランは昔から高くてまずくてサービスが悪いという観念があったけど、バンクーバーでは増える人気グルメレストランに対抗してかなりアップグレードしたのか、料理は人気レストランに劣らず、値段は少し低めのホテルレストランが増えた。

今日は満席ということで、取れた予約は5時45分。行ってみたら大きな会議があるらしく、首から名札を下げた人たちが大勢いた。何の会議だろうと案内板を見たらアメリカの移民法専門の弁護士の集まり。カレシ曰く、「急に怪しげな連中に見えてきたなあ」。そうだなあ。Ambulance chaserと呼ばれる交通事故専門の弁護士くらいのレベルに見られそうだなあ。それにしてもたくさんいるもんだ。それだけビジネスが繁盛しているんだろうなあ。まだ静かなレストランで案内されたのは窓際の一等席。アラスカ航路のクルーズ船が船出し、水上飛行機がひっきりなしに離着陸し、ノースショアとダウンタウンを結ぶシーバスが往復する中、その間を縫うように陽気に誘われたヨットやボートが行き交う。入江の向こうに聳えるノースショアの山並みはまだ頂上にわずかに雪が残っている。夜になればノースバンクーバーやライオンズゲート橋の灯りがきれいだろうなあ。独立するまでの6年間いつも上司のオフィスから眺めていた景色なんだけど、やっぱりいつ見ても「ああ、バンクーバーはいいなあ」と実感する。

Five Sailesのシェフはどうやらオーストリア人らしいけど、メニューはウェストコーストコンテンポラリーと言えるだろう。カレシはカニのサラダにメインはオヒョウ。サーバーの薦めるソーヴィニョンブランとペアリング。ワタシはまぐろのカルパッチョとタルタルのコンビに「グレーステル」というオーストリア風の田舎料理がメイン。ワインはオカナガンのピノノワール。こういうレストランでよく前菜の前にちょっと出て来るamuse boucheはハマチのカルパッチョとハマグリのビスク。これがえらくおいしくて、今日のディナーは楽しみだぞ~という気分になる。出てきたグレーステルは田舎風の料理とは言っても仔牛のスィートブレッドに仔牛のヒレ、炒めポテトにエビのグラタンを白い四角の大皿に上品に盛り付けてあって、予感どおりにおいしかった。溶けた砂糖を急速に冷やして作ったクリスタルのようにきれいな容器に盛ったチョコレートとバナナのガナッシュもとびっきりおいしくて、満足、満足・・・。

帰りに迷子になったイギリス人夫婦に道を教えてあげた。山のある方が北。ダウンタウンの道路は東へ行くほど番地が小さくなる。ゼロになったらまた大きくなるけど、そこまでは行かないほうが安全。南北の道路は南へ行くにつれて番地が大きくなる。交差点の標識を見ればそのブロックの番地の頭の数字がわかる。偶数の番地は道路の南側で奇数の番地は北側。これだけの基本知識があればあとは地図を見ながらダウンタウンのどこへでも行ける。夏到来、バンクーバーは観光シーズンの到来なのだ。

アキハバラのあと

6月29日。秋葉原事件の後、犯人の生い立ちや心理分析がちらほらと続いている。若い人たちの挫折感、孤独感、閉塞感という言葉に混じって、「彼女がいたら」、「日常の不満やうっぷんをぶつけられる相手がいたら」事件は起きなかったかも、といういわゆる「識者」の発言が並ぶ。文部科学省は近く有識者会議を招集して事件を研究するんだそうな。動機の見えない犯罪というけど、ほんとにそうなんだろうか。政治家も識者と呼ばれる偉い人たちも、たぶん大勢の日本人も、日本の特にバブル以来の社会の「見たくないところ」を見ようとしていないだけのように思える。

格差社会、格差社会と、まるで降ってわいた災害のように騒ぐけど、実は人もモノも縦のものさしで測らなければ気のすまない自分たちが作り出したものではないのか。失敗を許さない社会というのは弱肉強食の動物社会とさして変わらないように思える。出る杭を叩くのは「和」を重んじるあまりというよりも、杭の高さがきれいに揃っていれば安心する社会だからではないのか。見かけの整然さに安心し、そのみごとな整然さに対する外からの評価に慢心し、その評価を維持することにこだわって、神経質なほどのきれい好き、他力本願の完ぺき主義、異常な美醜へのこだわりと、みんなが表向きだけ「いい子」を演じることを強いてきたのが日本社会ではないのか。それは中国や北朝鮮でおびただしい人間が一糸乱れず整然と行進する映像を彷彿とさせる。日本という国は、建前は自由民主国家でも、本音は全体主義志向なのではないのか。

もしも日常の不満やうっぷんをぶつけられる相手がいたらというけど、掲示板を見れば、親しいはずの人の不満やうっぷんを聞きたくないという人間が溢れているではないか。みんな格差社会で脱落しないように、失敗しないように必死で他人を振り返る余裕がなさそうに見える。人の愚痴を黙って聞くだけの器量もないから、疲れると言ってさっさと切り捨ててしまう。仮想の人間関係は結べても、現実の人間に向き合えない人が増えすぎたのだろう。極端な表現だけど、社会の見えないところで互いの人格を否定しあっているようなものだ。東京の雑踏の中でなんとなく無機質さを感じたのは、歩いている人が纏っている目に見えない「鎧」のせいだったのかもしれない。

もしも望むとおり「彼女」がいたら、彼はあの事件は起こさなかったかもしれないけど、自分の苛立ちをその女性への暴力としてぶつけたに違いないと思う。なぜなら、今どきの日本には「三流短大卒で派遣労働者で将来性のない負け組」の男の彼女になるのは、心から彼を愛する優しい女性だけだろうから。もしも彼女がいたら、彼はモラハラやDVでその人の人格を殺したのではないかと思う。彼の心理にこれほど関心をそそられるのは、たぶん、ママにはいい子でなければ捨てられるという強迫観念を植えつけられ、パパには不器用な故の失敗を執拗にからかわれて屈辱感を味わって育ったカレシの心理とどこかで共通するところがあると感じるからだろう。臆病なカレシは社会から見えないところでワタシを相手にその怨恨を晴らそうとしただけのことで、無機質な世界に住んでいたあの若者は周囲に生身の相手がいなかったから秋葉原の雑踏を選んだということなのかもしれない。

いい子を演じることを強いられて育ったというあの若者は、実は都合の悪いところは見ない、見せない文化の「いい子社会」の覆いを剥ぎ取って見せたのかもしれない。あの事件が何かが変わるきっかけになれば7人の犠牲者の命をむだにせずにすむと思う。だけど、「アメリカだって」、「アメリカに比べたら日本はまだ安全な国」といったような、問題から注意を逸らすような発言に、あの男が自分の不幸せの責任を両親や社会、できなかった彼女に転嫁しているのと通じるものが感じられる。日本という社会はますます窮屈になって、いずれはブラックホールのように内部へ向かって崩壊するのだろうか・・・

セレブとワイワイ

6月30日。日曜日と祭日に挟まれた月曜日。休みを取った人が多いと見えて、なんとなくあたりがひっそりしている感じ。まあ、1日だけ有休を取って五連休だから、きわめて効率の良いカレンダーの配置というところ。勤めていたらワタシもカレシもさっさと休暇を取っていただろうけど、ワタシは自分が自分の雇い主。仕事が詰まっているから、「お休みください」のお願いにはコワイ顔で「NO!」 あ~あ・・・

東京に「自由が丘」という地域があるらしい。なんか昔風に颯爽としていて、のびのびとして、かっこいい名前だなあと思ったけど、小町のセレブ論議を読んでいたら、どうやらあまり自由闊達とはいいがたい場所という印象。この自由が丘に引っ越すといったら友だちに「セレブ、セレブ」といわれて嫌味だという愚痴なんだけど、嫌がっているようで心のどこかで「羨ましがられている」という満足感がありそうな感じ。自由が丘がどんなところなのか想像もつかないけど、やっかまれて困るとこぼしながら内心はうれしくて、だけどその本音を言うとほんとに嫌味を言われそうでいやだから、匿名掲示板に「どうしてそんなことをうのか理解できない」みたいなトピックを立てて「羨ましがられているのよ~」と自分の本音を代弁してもらわなければならないほど(ああ、まわりくどい・・・)、鼻っ面が天を向いた人たちの住むところらしい。

ここでおもしろいのは、海外在住組がセレブの語源である英語のcelebrityの本来の意味を書き込むと、それに対して「セレブは日本語、なぜ必死に文句を言うのか」というような反駁が出てくること。たしかにセレブはカタカナ語だから元の英語とは意味がぜんぜん違ってあたりまえなんだけど、そこはおそらく「海外在住日本人」に英語の講釈をされるとカチンと来て、いちいちうるせ~ということになるんだろう。まあ、そうカリカリしなさんな。英語だってcelebrityの省略形のcelebというのはジューシーなゴシップでタブロイド紙を賑わす人たちのことなんだから。日本のセレブっておセレブ雑誌にブランド品に囲まれて登場する単なる成金らしいけど、欧米のセレブはパパラッチに追い回されてスキャンダルをさらされる羨ましくもない存在なんだから。それにしてもなあ、「海外在住」とか英語の意味の講釈に何かにつけて過敏に反応する心理はおもしろい。「いかがなものか」と気取って、暗に「黙れ」と言ってるわけだから。

毎日新聞が英語版の「WaiWai」というコラムを「不適切な表現があった」という理由で廃止し、編集者を停職処分にした上、監督不行届きと幹部まで減給処分にした。「不適切な表現」というのは日本語版に載った理由で、英語版に掲載された理由とはかなり違っていた。だから、日本語のブログや掲示板では「日本について嘘っぱちの下品な情報を垂れ流していた」と憤慨し、英語のブログや掲示板では「言論統制だ」と憤慨。読者の反応がまったく違ってくるからおもしろい。元々このコラムは日本の通勤電車でおじさんたちが読み耽る週刊誌の記事を英語訳したもので、出所が出所だから当然セックスに関するものが圧倒的に多かった。まあ、かなりおもしろおかしく書いてあったけど、元の週刊誌名も掲載されていた。それを日本人は「日本人の恥を捏造して世界にばらまいた」かのようい怒っているけど、つまりは、「不適切な表現」そのものについて怒っているわけではなく、日本の週刊誌に載っていて、(その膨大な発行部数から推測すれば)膨大な数の日本人が愛読する卑猥な記事(日本の恥)を「世界にさらした」といって怒っているということになるなあ。

そっか。世界最大級のセックス産業、痴漢に美少女趣味に援助交際といったセックスへの執心ぶりが世界に知られたら、慎重に築き上げて来た「品行方正なニッポン人」のイメージが穢れてしまうと恐れているわけで、ここにも上辺さえきれいに飾ればそれでよしとする日本の「包み紙文化」が見えて来るからおかしくなる。な~んだ、臭いものにふたってことかあ。自分自身の嫌な部分は見たくない。見たくないから見ない。見ようとしないから、いつもそのふたを押さえるのに忙しくて、結局はどこかでボロが出る。こっちではとっくにボロが出ているみたいだけどなあ。近頃は何かにつけて「在日」の仕業。いくら注意を逸らしてみたって、臭いものはいくら蓋をしたって結局は臭ってしまうんだけど・・・


2008年6月~その1

2008年06月16日 | 昔語り(2006~2013)
おいしいものは命の素

6月1日。今日から6月。北海道はいい季節だったなあ。バンクーバーも気温はちょっと下がったけど、初夏の感。きのうはディナーで満腹したもので、真夜中のランチをスキップしたら、そろそろ寝るかという頃になって、二人とも空きっ腹になってしまった。じゃあ、ちょっとチーズかなんかつまんで・・・と言いながら、結局はカクテルにチーズとパテとクラッカー。ついでにカレシ製のココナツアイスクリームで仕上げ。それで、さあ、寝るかとなったのが午前4時半。空全体が何となく明るみを帯びて、東の空は夜明け色。昼間の青空とは光が違うし、夜空の青さでもない、なんともデリケートな透き通った色合いにしばし見とれた。

きのうの土曜日はワタシがレストランを決める番。選んだのはキツラノにある「Gastropod」。ネーミングがおもしろい。ストレートに訳せば「腹足類」で、巻き貝やカタツムリの類。フランス料理とアジアの食材を融合させたウェストコーストコンテンポラリー。シェフは台湾生まれのカナダ育ちだそうな。店の装飾はすっきり、あっさりした「ミニマリスト」スタイル。メニューもいたって品数の少ないミニマリスト。バーボンサワーにショウガのリキュールを加えたカクテルを飲みながら、カレシは生牡蠣の前菜、メインはビーフのハンガーステーキ。ワタシは「牛のタンとスイートブレッドのテリーヌ」の前菜と、同じメインコース。

牛のべろと胸腺・・・カレシは「またゲテモノ食い」という顔をするからおかしい。ゲテモノじゃなくてデリカシー。(出てきたテリーヌはすごくおいしかった。)ハンガーステーキは牛の横隔膜あたりの肉で、これもちょうどよく柔らかくなっていて美味!ワタシがデザートに選んだのは「オリーブ油のケーキ」。どうもめずらしいものの誘惑には勝てないのがワタシ。出てきたのは、オリーブ油を使ったケーキ地にニンジンのムースを重ねて、上に黒コショウの入ったソルベをのせたもの。お皿にさっと引いたキャラメルソースはコショウと黒ゴマの味がして、甘さを抑えたケーキにぴったり。うわっと思うほどおいしかった。

帰りにグルメスーパーに寄って買ったシャンテレルとぜんまい。そこで昨日の今日ということで、今夜のディナーメニューは、バッファローのサーロインステーキにポートワインのリダクション、シャンテレルのバターソテーと蒸したぜんまい。ワインはバコノワール。このブドウ、ひとクセもふたクセもあるもんで、取り合わせが難しい。残っていたポートが少しだったので、このワインを足してリダクションを作る。何せ二人分を作るのにかなりの量がいるけど、酸味を丸めるのに砂糖を少し入れたら、かなりこってり味のソースができた。バッファローの肉はビーフに比べてきめが細かい。ハーブとコショウだけを振りかけてグリル。白いお皿において、周りにさっとソースを流して、つけあわせをちょっと気取って盛り付けたら、おお、これなら「極楽とんぼ亭」もちょっとしたレストランに引けを取らないぞ~(は自賛しすぎかも)。ふむ、レストラン「Heavenly Dragonfly」なんてのも悪くないかなあ。

おいしいものをおいしいと楽しんで食べられるのはしあわせ。ああ、おいしいなあと感歎したその感動はしばらくほかほかと続いてくれる。○○はどこそこのでなくちゃ、なんてわかったようなことは言うまい。ワタシがおいしい!と思うものは値段にかかわらずおいしいし、まずいものは高かろうか安かろうがまずい。とどのつまりは、食道楽は自分の舌の判断が頼り。東京のビザハットの「もちポテ明太子ピザ」とやらがおいしいという人にとっては、それは最高のごちそうに違いない。人間、食べないと死ぬから、死ぬ瞬間まで食べ続けなければならないんだもん。せっかく食べるなら、自分がおいしいと思うものを食べられるのがシアワセに決まってるよなあ。

幽霊の正体は?

6月2日。夕方になって小さい飛び込み仕事があったけど、今日はヒマ。シーツを夏用のものに取り替えて洗濯。ついでに冬の間毛布の上にかけているアフガンも洗濯。あまり毛糸で鉤針編みしたカラフルなお手製。25年は経っているかなあ。ワタシにだって鉤針編みとか手編みとか刺繍とかやっていたときもあったのだ。物持ちのいいカレシは今でもあの頃に編んだセーターをときどき着ている。もの心のついた頃から母がいつもしていたように、夕食の後片付けが終わった後にせっせと愛しい人のセーターを編んでいた奥さんの?気持を、カレシはわかっていたのか、いなかったのか。もう・・・。

最近夜遅くなるとベースメントの外、玄関のポーチの下あたりで何かごそごそという音が聞こえていた。ちょうどワタシのデスクの位置だから、足元に何かがいるようで気味が悪い。カレシがポーチに出ると音は止まるけど、動物の姿はないし、去年スカンクに穴を掘られたところは合板を釘で打ちつけて石を置いたままだし、他にも掘り返した跡が見つからない。新築したときに埋め戻しをする前に支柱を立ててポーチを載せてしまったので、下にはかなりの空間ができたはず。もぐらかなあ。それにしても幽霊映画じゃあるまいし・・・と、二人とも首を傾げるばかり。

今夜もまたごそごそ、がさがさ。ポーチの上を大きな足音を立てて行ったり来たりしていたカレシが思いついて、スカンクの穴とは反対側の端を調べたら、あ~あ、2つも穴が開いている。ネズミにしては大きすぎるし、スカンクにしては小さすぎ。いったい何のケダモノなんだ。まあ、そんなことを考えているヒマにと、庭中にごろごろとある石をいくつも運んできて懐中電灯を頼りに穴を塞ぎ、合板の切れっ端を被せて、大きな石で重石をかけた。その後はしんとしているところを見ると、穴の主はカレシの足音に驚いて逃げたんだろう。ざまあみろ。戻って来たって入れないからね!

ひと騒動が終わって、どこかにぶつけたのか擦りむけたカレシの腕の手当てをして、二人とも何となく落ち着かない気分。そうだよなあ。たとえ動物だとわかっていても、正体不明の「侵入者」というのは気分のいいものではない。もっと恒久的な対策を考えないとだめだなあ、きっと。ポーチの周囲にもっと深く板を差し込んで、石を敷き詰めて、ちょっとくらい掘っても穴が開かないようにするしかないかなあ。大仕事だ、こりゃ。自然があるのはいいけれど、自然と共存もいいけれど、少なくともここは都会なんだけどなあ・・・

固定資産税の中身

6月3日。雨しょぼしょぼ。正午の気温は摂氏10度。おいおい、今は6月じゃないの?いつものように遅刻だ~と言いながら教室に出かけるカレシ、、「ジャケットは時間がないからいらないや」と飛び出したものの、ゲートまで行かないうちに「寒い!」と回れ右。改めてジャケットを着こんで出かけて行った。ワタシのほうは業務関連の郵便物を送るのに郵便局までおでかけ。土地っ子には傘をさすか、ささないかの微妙な雨。だけど、封筒が濡れるから傘をさすことにして、半袖のTシャツの上に毛糸のフーディーを羽織って出発。でも、半分も行かないうちに鼻の頭が汗びっしょり。汗を拭くのに傘がじゃま。ああ、バンクーバーの雨、濡れて行こうって粋がっていたほうがよかったかも・・・

カレシと落ち合ってどっさり野菜を買って帰って来たら、市役所から固定資産税の通知が来ていた。日本のように所得ベースの市民税がないから、固定資産税は市の主要財源。不動産ブームで土地の評価額が高騰したおかげで税金もうなぎ上りなんだけど、支払猶予の契約更新の用紙も入っている。所有者が60歳になると、固定資産税を州が立て替え払いしてくれる制度がある。つまり、年々増えて行く借金のようなものだけど、単利なので今後20年分くらい先まで積み上げても、家を売って返済してまだ余りあるはずと推算して、カレシが州政府と契約を結んだ。今年で3年目。「借金」の総額は今約5千ドルくらい。

BC州には持ち家に対する交付金の制度があって、現在の額は一律570ドル。だけど、その年に65才以上のオーナーにはさらに積み増しがあって、合計で845ドル。暦年中に65才以上の人と書いてあるから、おお、カレシも今年から該当する。(共同名義でも、どちらか一方が該当すれば適用される。)しめしめ。これで交付金の額だけ固定資産税が減るわけで、300ドル足らずでもなんだか得した気分。それでも、今年の固定資産税は正味2394.86ドル。その明細を読んでみると、これがまたおもしろい。

まず、学校税が989.92ドル。評価をする機関の手数料が40.48ドル。地方自治体の借入れ機関の分が13セント。(上下水道を管理運営する)バンクーバー地方行政区への納付金が43.57ドル。公共輸送機関への納付金が222.57ドル。バンクーバー市の一般市税が1267.19ドル。ごみの収集は120リットル容器で81ドルで、リサイクル料金18ドル。下水道料金が179ドル。水道料金が361ドル。刈った芝生や剪定した枝などの収集に37ドル。しめて3239.86ドルなり。持ち家であればこれから、今年は845ドルの交付金を引いて、税額は2394.86ドルというわけ。

子供がなくても学校税を取られるのは社会責任を果たすためにはしょうがない。バスは利用しないけど公共輸送の納付金を取られるのは道路整備も管轄のうちだから。(公共輸送機関への納付金は電気料金にもついてくる。昔は電気会社が電気トロリーを運行していたからってわけではないだろうけど。)ごみ収集料金は市に申請した容器のサイズで決まる。我が家は下から2番目に小さい120リットルで、年間料金約8500円が安いのかどうかはわからない。リサイクル料金はゴミと同じ日にリサイクル品も収集するのでその料金。回収品は売却するので、その分安い。庭のゴミは、我が家は一応120リットル容器があることになっているけど、実はカレシが自分でコンポストを作るのでもらってない。料金はそれでもちゃんと取られるのが決まりだそうな。

水道料金はメーター制度がないもので、1年中じゃんじゃん使って約38000円。最近は人口が増えて、使い放題だと水不足になるので、夏の間は芝生の散水は週2回決められた時間内に制限されている。メーターをつけて使用量に対して料金を徴収しようと言う案は出ても、なぜか「コストが高すぎる」という理由でボツになるから不思議。そりゃ、各戸にメーターを付けるとしたらものすごいお金がかかるだろうけど、水道料が固定資産税に入っていて目に見えないから「タダ」という錯覚で無駄使いをするわけで、隔月でも請求書が来るようになれば、少しは節約するようになると思うんだけど、お役所の考えることはほんとに摩訶不思議。去年の長期ストで節約した分で税率引き上げを抑えるとかなんとかいっていたから、まあ、こんなもんなんだろうなあ・・・

殺意の向くところ

6月4日。今日のアサヒコムにぞっとする見出しがある。『夫に殺意を抱くとき...見えないDV、受けてませんか』。 見えないDVというのは、精神的な暴力、いわゆるモラルハラスメントのこと。どうも「モラハラ」と端折られていささか軽くなってしまった感じがしないわけでもないけど、身体的な暴力以上に陰湿な、いわば「いびり殺し」のようなものだ。人目につかないだけに怖い。DV人間は家の外で極めていい評判を得ていることが多いから、相談しても信じてもらえず、へたをすれば「あんたに(も)非がある」と責められて、孤立無援に絶望し、「この人がいなくなれば、ワタシはやっと呼吸ができる」と思うまでに追い詰められてしまう。

記事の中の女性たちの夫のように、カレシも些細なことで怒り出し、繰り返し心ないことを言っては「冗談がわからないのか」と笑った。交差点の真ん中に車ごと置き去りにされたこともあった。家の外で起こるワタシの支配の及ばないことでも怒られるから、ひとりで家にいても何度も外を見てはカレシが怒りはしないかとびくびくするようになった。けんかになれば、夜中でも何でもワタシが謝るまで何時間も怒鳴られた。恋愛ごっこを巡るげんかで頬を平手打ちされて首を痛めこともあった。階段の途中に座り込んで通せんぼするカレシの横をすり抜けようとして突き落とされたこともあった。家の中を無言でつけ回されたこともあった。逃げ出して執拗に追いかけられ、パトカーに救助してもらったこともあった。あげくの果てに「○○はお前が何を言っているか全然わからないと言っている」と、言葉が通じないから外へ出ても助けは期待できないぞと暗に脅されもした。(この国の言葉を解するのが職業なのに・・・)

そんなカレシに対して「殺意」といえる恐ろしい感情を抱いたことはなかったと断言できる。けれど、どこかで誰かに絡んで事件に遭ってくれないか、無謀運転をして事故に遭ってくれないか・・・死んでくれたら胸いっぱいに深呼吸できるのに、という気持がふとわいたことは確かだと思う。それなのに帰りが遅いと心配でいてもたってもいられない。そんな自分の心の明と暗のせめぎあいに負けて、崖っぷちを踏み越えてしまったのか、最後は自分では記憶がないけれども発作的に自殺を図ってしまったらしい。死のうと思った自覚がないから、そのときの絶望感がカレシへの殺意となって噴き出した可能性がなかったとは言い切れない。たまたまひとりだったから殺意が自分自身に向いたというだけ・・・

気持を伝え合うためにあるはずの言葉を陰湿に脅しの手段にして相手の人格を殺すのが精神的DV。見えないDVで受けた「見えない傷」を癒すことは並大抵のことではない。その過程で高いところが好きだったはずのワタシが高所恐怖症になった。犬が向かってくると絶叫して凍りつくようになった。背後で突然大きな音がするとパニックが起きるようになった。そういった後遺症はほぼ2年続けたカウンセリングで消えたし、今ではカレシと一緒にいて心地良いと思えるようになったけど、今でも突然の大きな音やテレビの画面にクロースアップされる顔は苦手だし、罵声と怒声ばかりのアクション映画は見られない。「あなたが怖いと思ったら、それは暴力です」 この言葉をみんなが心に留めておいてくれたら・・・

外国人と異国人はどう違う

6月5日。日本各地は早い入梅で、おまけになんだか早すぎる台風シーズンのようだけど、バンクーバーもなんとなく梅雨のような。といっても、道産子のワタシは梅雨なんて知らない。小学校の社会科や理科の教科書にカタツムリのイラストつきで梅雨の話が書いてあったけど、子供心にピンとこなかったのも確か。未だに梅雨=アジサイとかたつむりのイメージがある。それにしても寒い。今日の気温は摂氏9度。「ちょっと涼しすぎやしません?カレンダー、めくりました?」とマザーネイチャーにメールしてみたいような天気だ。とうとうニュースまで「春はどうしちゃったの?」だって、6月に最高気温ひと桁はないよなあ。後2週間で夏至。正式に「夏」が始まるというのに、順調に育っていたトマトは大むくれ。きゅうりの芽はブルブル。カレシはやきもき。今年は冷夏だったりして・・・。

日本の最高裁判所大法廷が、現行の国籍法の条項は違憲であるとして、日本人の父と外国籍の母の間に生まれた婚外子に日本国籍を認めたという。あったりまえでしょうが。うん、あたりまえなんだけど、それが通らないのが戸籍や国籍に関して徹底して束縛的でよそ者嫌いの日本の法律。20年くらい前までは、子供に日本国籍を伝えられたのは父親だけ。カレシは外国籍だから、たとえワタシに子供が生まれても日本国籍を持たせることはできなかった。要するに、紅毛人のところなんぞに嫁に行くような女は「勘当」だと言っていたようなもので、このあたりもワタシが迷わずに日本国籍を手放した要因だった。

逆にいえば、父親が日本国籍でさえあれば母親はどこの国の馬の骨でもよかったわけで、まさに「腹は借りもの」の思想そのまんま。今は母親が日本国籍であれば子供は大人になるまで日本国籍を持てる。たとえ父親がどこの国の馬の骨であろうとも、母親が父親と結婚していようといなかろうと、父親が認知しようがしなかろうが問題なし。まあ、「種は借りもの」になったような感じだけど、それにしても男だけが「結婚」を出生後に認知した子に国籍を与える条件に課されているのは、どういう了見なんだろうなあ。300日の嫡出推定規定と同じように男尊女卑の「無責任オジサンの政治」なのかもしれないなあ。でも、数万人はいるといわれる日本男児の「落としだね」が日本人として認められるのは大きな前進だと思う。だって、それが男の「責任の取りかた」ってもんじゃないの。

遠くから他人の目で眺めていると、日本の顔がいろいろ違って見えてくる。それが素顔なのかどうかはわからないけれど、日本人として日本の日常生活を送っていたらまず見えなかっただろうと思うこともけっこう多い。よくマスコミなどで日本人をxenophobic(排外的)と評しているのを見るけど、たしかに日本は「礼儀正しい、親切」といった外向きの印象とは裏腹に、中に入ると法律も社会制度も異国人には冷たい。でも、それが異人種に対する差別なのかと言うとちょっと違うように思う。日本では人や物に対する態度がランキングによって決まるところがある。日本語自体が上下関係を表すようにできているから、自分との相対的な位置関係を確かめなければ口を開けないようなところがある。お互いに猜疑の目で見るようなもので、だから自分をsize upしているはずの「他人」がうざったい。それが異人種なら、「外」国人と呼ばれるように究極の「他人」ということになり、付き合うメリットがなければ排除していいという無意識が働くのだろう。異人種母の婚外子の日本国籍否定もそこから来ていると思う。日本人との子供を持つ異人種母の大多数はアジア人で、異人種父の大多数は欧米人だろう。つまり、ランキング意識が日本の法律や制度にも刷り込まれているってことなんだと思う。

チャンチャカ、ピッピ

6月6日。金曜日。雨がちで、正午の気温は摂氏8度。4月初めごろの気温みたい。なんでこう寒いんだろうなあ。でも週間予報は風向きが変わったようで、どうやら少しは暖まるらしい。乞うご期待ってところだけど。

またまた日本で翻訳報酬に対する源泉徴収の問題が起きている。日本の税務当局の側に統一された見解がないことが根本原因なんだけど、まあ、税務署は税金を取り立てるのが仕事だから、何が何であれ、とりあえず取れる方向に議論を持って行こうとするらしい。実務翻訳なんていうのは文芸翻訳や出版翻訳と違って単なる「役務の提供」にすぎないのに、それを翻訳原稿が著作権のあるものだからというだけで、翻訳原稿に「二次著作権」とやらが生じ、その納品は著作物の譲渡に相当するから、翻訳料金は版権料であり、源泉徴収の対象であるとぬかす。経済大国日本政府のふところ具合は厳しいと見えて、何とか解釈をこじつけてでも何がしかを徴収したいんだろう。ワタシに著作権が生じるんだったら、翻訳原稿の隅っこにでもちゃんとワタシの名前を入れてくれなきゃ。でなかったら、翻訳を一番高い値段をつけてくれるところに売ってもいいかな。だって、ワタシに著作権があるなら、ワタシが誰にそれを売ろうと勝手でしょうが。たとえ、買い手が発注元の競争相手だったとしてもね。だけど、そうなったら翻訳者は産業スパイに狙われるかもしれない。それは怖いなあ。まあ、ワタシの方は日本政府に納めた税金を外国税額控除で相殺できるから、さしたる経済的不利益はないんだけど、ああ、めんどうなこっちゃ。

読売小町で家電についているよけいなお世話の機能を愚痴を読んでいて目が点々になった。どうやら、何にでも音楽による「お知らせ機能」が付いてくるらしい。聞くところによると、ディッシュウォッシャーから、洗濯機、炊飯器、電子レンジ、冷蔵庫・・・。ピピッとやるくらいなら便利でいいかもしれないけど、携帯の着信音(楽)なみのメロディのオンパレードらしい。そうでなくたって、日本全国津々浦々どこへ行ってもあのぶりっ子ぶったやたらと甘ったるい声が、親切に、親切に、親切に一挙手一投足を誘導してくれる。まるで三才児をつれて歩いているママみたいだけど、それが家電にまで波及して、家庭に不協和音をまき散らしているってことかなあ。

日本には「ほめ殺し」という言葉があるけど、これは親切の押し売りによる「情けのかけ殺し」。どうやらPL法にびびった企業が、火の粉がかからないようにと注意に注意を重ねたあげくに「過保護/過干渉ママ」症状を起こして、それが過保護に慣れ切った日本人もさすがに「大きなお世話!」と言いたくなるほどの氾濫になったというところらしい。だって、食器を洗い終わるたびに「チャンチャカチャンチャカ」と好きでもないメロディを流されたらたまったもんじゃないもん。うるせぇ!と蹴っ飛ばして壊してしまうかもしれない。(そうすれば、買い替えになりそうだけど、あ、さては・・・?)

繊細な美意識を誇る国にしては、周囲の音や視覚に対する美意識がお粗末に見えるけど、ほんとうに繊細なのは一部の芸術家だけで、庶民の美的感覚ってのはこんなもんなのかなあ。侘び寂の神秘の国でビーピー、チャンチャカ、シャカシャカ、チンチンと無機質の騒音が鳴り響き、「言わずともわかる」が究極のコミュニケーションとされる国で人生の背景が違う人とは分かり合えないと嘆き、そのくせ言葉も文化の背景も違う「オトモダチ」を追い求めて「言葉の壁なんか」という。この矛盾。まあ、そこが日本はおもしろい国だなあ、「美しい国日本」の包み紙をはがして箱の中をのぞいてみたいなあと、大いに気をそそられるところなんだけど。

天子様のぜんそく

6月7日。明治初期に書かれた『開化問答』と言う本に、こういうが一文があるそうな。「このごろ天子様は喘息をおわずらいなさる。なにゆえというに、しきにりゼイゼイとおっしゃる」。天子様にあらずとも、まつりごとを掌るものは地球上のどこでも昔から喘息体質に生まれついているらしい。おりしも時は花粉症の季節。ほんとにしきりとゼイゼイと苦しそうなこと。

こと税金の話となると駄洒落もあまりおもしろくないけど、おおむねどこでも春は税金の季節でもある。確定申告の明細確認が来てみたら、2007年度分の所得税の追加納税分をオンラインで、しかも納付期限内にちゃんと払ったのに、とりあえず「2008年度事前分割納税の口座残高より振り替えました」と書いてある。頼みもしないのに勝手に振り替えておいて、(3ヵ月ごとに納める)事前分割納税の口座が「滞納」になっている可能性があるから、チェックして不足分を振り込みなさい、だと。頼みもしないのに、去年の所得税が二重払いで今年の前納分が不足。おいおい・・・

去年は小切手で送金したら、処理のタイミングのズレかどうか知らないけど、歳入庁から送られて来た明細を見たら2ドルとなんとかセントの利子が付いて来て目を白黒。たかだか2ドル(2百円ちょっと)で税務署に苦情を言うものめんどうだし、と51セントの切手を貼って2ドルなにがしの小切手を送ったら、しばらくして同じ額が「還付」されて来た。滞納ではなかったので利子はいりませんでしたってことなんだけど、なら初めからよけいな切手代を使わせるなっちゅうの!そこで、また忘れた頃に修正した明細をよこすんだろうと高をくくってほうっておいた。

そこへ持ち上がったのが、翻訳料を巡る源泉徴収の問題。それでクライアントとメールのやりとりをしているうちに、今度は去年の遺産処分を巡る税金の問題が持ち上がった。二度はあることは三度あるというわけで、こっちはあたふた、あふあふ。ほったらかしてあった確定申告の明細が急に気にかかって来て、あわてて金曜日の営業?時間が終わらないうちに、と歳入庁のトールフリー番号にかけてみた。ああ、めんどうくさい自動応答システム。はいはい、「1」を押して、次は、えっと、何番が該当するのか、メニューをもう一回「読み上げて」もらって・・・う~ん、わからない。そういうときは「*」を押せというから、はい「*」をポン。しばしクラシック音楽をゆ~ったりと聞かされて、やっと生身の人間に到達できた!

名前と住所と社会保険番号を言ったら、セキュリティのために本人を確認したいから「所得額」を読み上げてくれという。まあ、かなりフレンドリーな女性の声だからしょうがない。一番上の合計所得を読み上げて、そこでやっと「何かご用でしょうか」という質問。や~れやれ。かくかくしかじかで「二重払い」になった税金はどうなるのかと聞いたら、「ご心配なく、ちゃんと今年分の前納扱いになっています」だと。なんのことはない、税金の口座番号は社会保険番号。支払のルートは別でも入る口座はおんなじってことだったのだ。なあんだ。ま、金曜日の午後遅くということで税務署もひまだったのか、しばし関係ないおしゃべりをして、去年の2ドルとなにがしの顛末を話したら「それはないわよねえ」と爆笑。あのぉ・・・。ま、こっちもつられて笑って、「ありがとう。楽しい週末を~。じゃあね~」みたいな感じで一件落着。

さて、残る問題は2つ。こっちはどっちも後方支援しかできないからもどかしい。それにしても、まったくもって天子様の喘息ゼイゼイはうるさいことよ。いい薬はないのかなあ。

いるようでいない人たち

6月8日。なんだかこの頃日本では立て続けにおどろおどろしい事件が起きるなあ。人を殺して、遺棄の便ばかり考えて簡単に小さく切断してしまうなんてのは、人間を人間として見ていないというか、それよりも前に相手が生身の人間であるという認識さえすっぽり欠如してしまっているように見える。

無差別殺人なんてその最たるもので、根底にある理屈はテロリストの理屈と何ら変わらない。そもそも他人が嫌い。坊主憎けりゃの延長で、心の奥底にどろどろとわだかまっている恨みや怒りをその他人に向ける。元から他人を別個の人格を持つ人間として見ていないから、きっと自分の厄を背負って消えてくれる「流し雛」かなんかだくらいに思っているんだろう。いったいどこでどうしてそうなってしまったのか。バンザイ攻撃じゃあるまいし、そっとひとりで死ねないのは、よほど「自分の存在を見せつけたい」という欲求が鬱積しているからだろうか。そんなやつに道連れにされるのはほんとうにたまったもんじゃない。

今年何度目かの事件が起きたのは秋葉原。欧米のどのメディアにも「エレクトロニクスやコンピュータのソフト、アニメやゲーム、そしてオタク文化の中心として若者に人気」と書いてある。たかがまだ25才の分際で「生きるのに疲れた」と抜かすこの男はどういう理由で秋葉原を選んだのだろう。どうして渋谷や新宿ではなく、秋葉原じゃなければならなかったんだろう。わざわざ東京を横断して秋葉原まで行った理由はなんだろう。歩行者天国をやっていたから?渋谷も新宿も池袋も、若い人たちがどっと出ていただろうに。動機が何であれ、犯人は秋葉原を選んだ。

ちょうど2ヶ月前、ワタシはつくばへ行くために秋葉原の駅にいた。エクスプレスの乗り場まで降りる途中で場所を間違えたのではないかと不安になって、いったん地上まで戻った。新宿駅の雑踏の中で感じる心もとなさとはまったく違った、なんだか無機質な雰囲気に対する漠然とした不安と言ってよかったかもしれない。あの無機質さは電車の中でも感じたけど、不気味だ。周りにあれだけ人がいるのに、まるで誰もいないような感じ。ひたすら携帯の画面を見るか、眠ったふりをするか、そうでなければ口をへの字にして、遠いどこかを睨んでいて、たまたま目が合ったら、まるで領海侵犯をした敵国船か何かのように怖い形相で睨む。体はそこにいるけど心はそこにいない。自分がそうだから、きっと他人もそう見えるのだろう。みんなもぬけの殻。

アニメもゲームもマンガも、キャラはみんな同じような顔つきで同じような髪型で同じような怖い目つき。ゲームは殺すか殺されるか、それもナノ秒での決断を迫られる。セックスを誇張した体に五才児の顔をくっつけたような「美少女」を崇めて悦に入っている男たちなどは、カナダだったら周囲からpedophile(小児愛者)ではないのかと疑いの目で見られそうだけど、日本ではサブカルとしてもてはやされる。コスプレにしても、メイドカフェとやらにしても、幼児帰りの「つもり遊び」のようにしか見えないんだけど、若者のサブカルファッションともてはやされ、世界中に「発信」されて、似たような若者たちを引き付ける。そういった雰囲気がワタシには「無機質」と感じられて、ふと不安になったのかもしれない。鎮魂・・・

変、変、変・・・

6月9日。片目だけそっと開けたら、ああ、また薄暗い。午前11時20分でこの暗さ。また雨かあ。雨ならまた寒いだろうなあ。起きて出して、玄関の窓に貼り付けてある温度計を見たら、うわ摂氏8度!6月だよ、6月。テレビの天気予報は1月のJanuaryに6月のJuneをかけて「Junuary」としゃれてみたりしているけど、それはよけいに寒いよ~

秋葉原の事件は地元の新聞にはほとんど載らなかった。テレビのニュースも、その他の海外ニュースといった程度の扱いで、せいぜい30秒。犯人が掲示板に携帯で予告?を書き込みしていたということの方に関心があるような感じだった。(携帯メールはまだ日本ほど普及していないので珍しいと思ったのかどうかはわからないけど。)それでなくても、ガソリンは値上がりするばかりだし、アフガニスタンではまたカナダ兵が戦死したし、現職のサリヴァン市長が今秋の市長選に向けての候補指名争いで負けたし、世界中で地震、竜巻、洪水と自然は荒れ狂っているし・・・

だけど、毎日新聞の英語版に「Getting back to normal」というキャプションで載っている写真を見て、なんだかまた考えてしまった。「平常に戻りつつある」ということだけど、写真はメイドのコスチュームの若い女の子が3人。幼稚園児が持つようなかばんをかけているけど、お世辞にも幼げでかわいいとはいいがたい。説明によると、勤め先のメイドカフェのビラ配りをやっているんだそうな。まあ、それが仕事なんだろうから、いくら殺戮の事件のあった翌日でも「自粛します」というわけにはいかないのはわかるけど、あれが幼児愛だのエロゲーだのというオタク文化が栄える秋葉原の顔なんだ。あの国はどっかがおかしくなっている。

ほんとうに、何かが致命的なくらいにおかしい・・・と考えてしまうワタシのほうがおかしいのかなあ。

新幕藩体制

6月10日。雨がちでまだ寒いけど、どうやら週末に向けて暖かくなる予想。そうでなきゃ。だって、あと10日ほどで夏なんだから。今朝は9時ごろにニューヨークから電話があったらしい。朝の9時なんて夜中も同然で、この頃は朝方が一番睡眠が深いらしく、8時くらいを過ぎると、電話がなったくらいでは目が覚めない。ボイスメールを聞いたら、明朝東部時間午前9時までの仕事があるという。え、西部時間では午前6時。こっちにとっては寝入りばなみたいなもの。ご冗談でしょ。丁重にお断りして、楽しみにしていた、科学と哲学をごっちゃまぜにしたような仕事の段取り。大きめだけど、思いきり「実務」の仕事の後にはこういう仕事はなによりの息抜きで、ちょっぴり右肩下がりだったやる気もVの字になるからうれしい。

秋葉原の事件については、犯人の掲示板への書き込みが次々と報道される。育った家庭でもいろいろあったんだろうし、カメラの放列にさらされて「謝罪」した両親もいろいろと思いが入り乱れているだろう。だけど、あそこまで行ったら、日本のマスコミによる「謝罪シーン」の演出も、視聴者受けする儀式という一線を越えてしまっているように思う。日本では江戸時代に「連座制」という刑罰があって、凶悪事件があると家族までが一緒に処刑されたんだそうな。治安が良かったのはそのせいだったという話もある。あの謝罪シーンの写真を見て、ひょっとしたら「連座制」はまだ生きているのではないかという気がした。

いや、連座制だけではなくて、封建時代のさまざまな不条理が形を変えて残っているような気がする。明治に声高に叫ばれた「和魂洋才」はそういうことだったんだ。日本人の精神や思想、思考を失うことなく、西洋の学問と技術を学ぶ・・・まさに西洋思想と技術の「いいとこどり」。都合のいいところだけを取り入れて、都合が悪いところは「大和魂」で抑えつけたということだろう。ようするに、民主主義の近代国家の包み紙を剥がして、箱を開けたら「因循姑息」のちょんまげ頭が入っていたってことか。どうりで、民主主義だ、平等だ、人権だと教えて来たはずなのにさっぱり定着していないわけだ。

秋葉原事件の犯人は「派遣労働者」だったそうな。日本の「派遣」は、休暇などの臨時の欠員を埋めるこっちの派遣とは性質が違うらしい。企業が責任を負わずにお気楽に人員を増減できるように作られた道具としか考えられない。なのに、大学を出て直行で派遣会社に「就職」する学生もけっこういるらしい。企業が正社員を雇わないからしかたなくなのか、雇用形態の「選択肢」として定着してしまったのかは、わからない。バイト気分で気楽でいいと言う人もいるだろうし、どっちみち不安定なら中小企業の正社員よりは大企業の派遣社員と言う人もいるだろう。いずれにしても、企業にとってはこんなに便利なものはない。うわべは「企業は人」と言うけど、どうやら「人材」は「資材」であるらしい。アメリカの企業はすぐにレイオフや解雇をするけど日本の企業はそんな無情なことはしないと言う。そりゃそうだろう。初めから昔の年季奉公と同じようなつもりでいるんだから。

角度を変えれば、江戸時代の幕府と藩が官僚と企業に置き換えられただけのようにも見える。かっての○○藩が○○株式会社になっただけで、家老も下っ端サムライも相変わらず「お家大事」。企業は家族なんて甘いことを言われて、残業、残業と一心に「お家」に仕える。だから、日本のサラリーマン社会は「総母子家庭社会」になってしまっている。何百万という子供たちが事実上の父なし子になって、しかも安定した収入と引き替えに夫を奪われた母たちの全精力を注がれて育つわけで、官僚政治に守られて家族的な経営を標榜する企業が実は家族を崩壊させ、溺愛という形の虐待を生み、少子化を加速し、未来に夢の持てない若者たちを生んだ元凶だと言えそうだ。これが二十世紀の新幕藩体制・・・

点心の朝ごはん

6月11日。昼近くに起きて、コーヒーだけ飲んで、カレシの英語教室の生徒さんとのランチに出かけた。みんなレベルが上がってビギナーの人が入りにくくなったので、いったん「修了」ということにしたら、お別れのランチということになった。みんな中国系だからお決まりのdim sum。「点心」の広東語読みらしい。飲茶とどう違うのかよくわからないけど、今日の朝食は広東式の点心。広東系の生徒さんばかり6人。「Golden Swan」という名のレストランは週の中日というのに昼間から大入り。どのテーブルも数人のグループが囲んでいて、いやあ、にぎやかなこと。どこへ行っても中国人のバイタリティはものすごい。

テーブルの間を回っているカートから次々と料理を取っては、「はい、これ、おいしいよ」、「これ、食べたことある?」と、みんなしてどんどん取り分けてくれるので、ワタシの前の小皿はたちまち山盛り。おいしいという評判で週末には長蛇の列ができる人気レストランと聞いて、ワタシは張り切ってパクパク・・・といいたいところだけど、ツルツルした長くて重い中華箸はいつものように非協力的。ほぼ握り箸に近いフォームなもので、「あ~ら、先生の方がずっとお上手ねえ」と笑いながらフォークをもらってくれて、「今度はもっと食べられるでしょ~」とまたどんどん取り分けてくれる。どれもすごくおいしかったけど、こんなに朝食を詰め込まれた胃袋の方はさぞかしびっくりしたことだろうなあ。

点心は中国のどこでもあるらしいけど、生徒さんたちは広東のが「一番よ!」と声をそろえて言う。うん、「食は広州にあり」というもんね。上海のはおいしくない、どこそこのはつまらない、どこそこのは辛いと、なんだか点心の品評会。上海の人は広東料理をどう思うのか聞いてみたら、「おいしくないと言う」んだそうな。あはは、郷土料理の味自慢はどこへ行っても同じってことなんだ。特に上海と香港は日本なら大阪と東京のようなライバル同士なのだろう。さしずめ、あっさり気味の広東料理は浪速料理、上海は江戸前ってところかなあ。食い気満々のワタシは広東料理も上海料理も四川料理も好きだけど、アジアの料理はどこのでもおいしいと思う。日本料理だって、トージョーさんの「オマカセ」で出てくる料理はうなるほどおいしいと思うもの。

たらふくもはちきれるほど食べて帰って来たら、お隣さんからボイスメール。保険が切れたまま家の前に駐車してあった車に罰金250ドルのチケットと48時間以内に動かさないと撤去するという警告が貼ってあったんだそうな。カレシも古いトラックを保険を更新せずにそのまま路上駐車してあるから、気をつけた方がいいよというメッセージ。カレシはさっそく見に行ったけど、こっちはまだ無事。だけど、保険なしで駐車しておくと「廃棄物」と見なされて、気づいた人が持って行っても盗難にはならないんだそうな。カレシは「誰かが持って行ってくれたら、こっちは処分の手間が省けていい」とすました顔だけど、まあ盗もうにもエンジンがかからないから盗まれる心配はない。ほんとのところは、誰も家の外に車を止められないようにこのまま置いておきたいんだけど、罰金250ドルはやっぱり痛い。てなわけで、また腎臓財団に寄付して持って行ってもらおうということになった。やれやれ、やっと・・・

テレビをつけたら、バンクーバー水族館で生まれ育ったシロイルカのQilaに赤ちゃんが誕生して、母子とも健全というグッドニュース。体重50キロ、身長150センチ。ママのそばを泳ぎながらちゃんとお乳を飲んでいるそうな。今度も元気に育ちますように。

アイスホッケーのカナックスの人気選手トレヴァー・リンデンが引退を発表。ドラフトから十何年かなあ。いい選手というだけじゃなくて、選手組合の委員長をしたり、率先して慈善活動をしたりで人望がある。一時トレードされたときはファンが怒った。さっそく、市の道路に名前をつけよう、いやアリーナの名前を変えよう、と街中がわいわい。「トレヴァーを市長に!」という声も大きい。この秋に立候補したら圧勝は確実だけど、まあ、これからいろんなことで経験を積んで、いつかは政界に出てくるかもしれないなあ。背番号16番がいなくなるのはさびしいけど、う~ん、リンデン市長っていい感じだなあ。

ポンコツトラックが消えた

6月12日。木曜日。かなり暖かくなった。今日はカレシの英語教室の一応の最終日。夏の会話教室が始まるまでの3週間はカレシのバケーションということになる。やりたいこと、やるべきことのリストは長いけど、どれだけできるかはまったくもって(カレシの)お天気まかせ。裏庭のパティオ、5年目にして完成するかな?果たして、冷たいマティニを片手に水音を聞きながら夕涼みする夢はかなうのか?

カレシが出かけている間にお隣さんから電話。必要なサイズのソケットレンチが見あたらないので、あったら貸してくれという。ふむ、ワタシ、ソケットレンチなんて持ってたかなあ。うちの「工作室」はもう何年もすごいことになってるからなあ。とにかく来てもらって、探してもらうことにした。お隣さん曰く、「見つからないと新しいのを買うんで、いろんなものがいくつもあるけど、いつも肝心のものはないんだよねえ」。あはは、ワタシも見つからないとめんどうだとばかりに新しいのを買うもので、どんな道具がどれだけあるかわからない。おまけに整理整頓ゼロなもんでどこに何があるのかもわからないと来ている、とあちこちをかき回しながら、同病相哀れむみたいな会話。

結局ソケットドライバーはあったけどレンチはない模様。それからしばらくポーチの陽だまりで世間話をしていたらカレシがご帰館。市がお隣さんの車に貼っていったでっかいオレンジ色の警告のことをおもしろおかしく話していて、カレシがトラックを寄付するんだけどすぐ取りに来るかどうかが問題、いったら、お隣さんが「それなら今すぐに買い取って持って行ってくれる人がいる」。とにかく引き取ってくれるならただでやってもいいと言っていたら、30分もしないうちにその「買い手」が登場した。いくら?100ドルでいい。買った、と1分足らずで商談成立。まずバッテリを取り替えなくちゃと、道具箱を持って来てバッテリを外したのはいいけど、キーを道具箱に入れ、その道具箱を中に置いたままフードを閉め、ドアをロックしてしまったらしい。金庫にあったスペアキーを渡してのひと騒動の後、頭金だと25ドルを置いてバッテリを持って行った。カレシ曰、く「気が変わらないうちにってことかなあ」。うん、なにしろ走行距離13万キロの半トントラックがたったの100ドルなんてめったにない掘り出し物の大バーゲン。

けっこう近くに住んでいるんだそうで、買い手氏は使えるバッテリを持って、ついでに所有権移転の届出書類まで持参で戻って来た。この手際の良さからすると、たぶんポンコツを買って、修理、転売しては何がしかを稼いでいるらしい。カレシが保険証書片手に書類に記入している間、バッテリの取り付け。しばらくしてエンジンの轟音!お隣さんが「何でも修理屋」と言った通りだ。家に入って来た買い手氏は慣れた調子で書類に住所氏名、買取価格を書きこんで署名。はい、残りの75ドル。これ売買は完了で、さよならしたはずが、すぐにブザーが鳴って、「燃料ゲージがおかしい。ガソリンが満タンだった」。あれ、もうクレーム?と思いきや、何とガソリン代だと別に25ドルを置いていったから、さすがのカレシも目を白黒。根っから律儀なのか、何なのか・・・

保険が切れてから1ヵ月半。カレシがのら~りくら~りと処分方法を思案していたポンコツトラックが、買い手が現れてからわずか1時間半で姿を消してしまった。後に残った125ドルを見て、カレシ曰く、「おい、あした牡蠣を食べにいこうや」。うん、そうしよ~

勝負弁当はどんな味?

6月13日。今日は13日の金曜日。いわゆるバッドラックデイということだけど、今年は1回だけ。来年は何と3回もあるんだって。てことは、今年は運の悪い日がたった1日と少ないってことは、それだけ運がいい方だということになるのかなあ。それで肝心の今日はどうなのかなあ。カレシが朝食後早々にパン焼きをセットしてしまったので、時間的に牡蠣を食べに行く話はお流れ。まあ、あしたはシルクドゥソレイユのCorteoを見に行くし、その後のディナーの予約もしてあるから、今日はわざわざお出かけしなくてもいいんだけど。どうも、きのうはトラックの一件が急にうわ~っと進んでしまったもので、なんとなく拍子抜けというか、二人とも気分がだら~んとしている。まあ、13日の金曜日だし、ごろごろしていようか。

大学の担当アドバイザーが変わったということで、新しいアドバイザーのジーンさんから近況チェックの電話。はあ、まだ全然レポートを出してない。仕事が忙しすぎて、読むものはみんな読み終わったけど、レポートを書く作業がアイドリング状態。まあ、通信制大学なもんで、あちらにとっては聞きなれた言いわけだから、ふむふむと聞き流してくれる。8月の半ばが修了期限なので、その前に「延長」を申請するつもりだけど、と言ったら「ぜひそうした方がいい。グッドラック」と。はあ、そういわれたらやめられない。じゃないの。ここはひとつ、心を入れ替えて取っ組んでみようか、やっぱり。(どうも日本から帰ってきて以来いろいろと考えることがあって、ちょっぴり気迷いムードが漂っているような・・・)

小町のタイトルを眺めていたら、「勝負お弁当」という言葉に出くわした。そういえば、このごろは「勝負何とか」という言葉が目に付くようになったけど、いったい何のことじゃいな。ゲームに関係したことかと思って、ちょっとググって見たら勝負服。ふむ、やっぱり戦闘服に身を包んで、勇猛果敢に怪物と戦っているイメージだなあ。だけど、勝負お弁当って?勝負といいながら弁当に「お」がついていてちぐはぐなところが愛嬌なんだけど、いったいどんなお弁当なんだろうと思ったら、彼氏とのおでかけに持っていくお弁当のことらしい。え、恋人と食べるお弁当に「勝負」って、すごい意気込み。そこでちょっとググってみたら、「勝負弁当」が続々。夫の弁当も子供の弁当も、毎朝早起きして、張り切って必勝鉢巻姿で作るから「勝負弁当」なのかなあ。で、「勝って来いよ」と送り出される・・・?

他に日本語サイトでよく見かけるのが「グッズ」。商品や品物を意味する英語のgoodsがカタカナ語化されたものだろうけど、日本語としては妙にくぐもった感じで、おまけに「グズ」や「クズ」と韻が合うもので、語感としてははなはだよろしくない。まあ、今どきの日本人には違和感がないんだろうから、いいけれど。それはともかく、思いついて「勝負グッズ」で検索してみたら、ある、ある。「愛されモテ子の勝負グッズ」なんてすごいのもあった。だけど、勝負って「勝ち」と「負け」を決めることでしょうが。つまりは、勝ち犬と負け犬の区別をつけようってことでしょうが。そこのあたりがいかにも日本的な「二分法」なんだろうなあ。英語には日本語の「勝負」にぴったりと当てはまる単語がない。というのも、戦いは勝つか負けるかではなくて、勝つことが狙いで、勝たなかった結果が「負け」。だから「負けるが勝ち」という負け犬の遠吠えのような発想は出て来ないんだろう。でも、日本語の「勝負」はそういう関係じゃないような。

それにしても、「勝負弁当」ってどんなお弁当なのかなあ。美醜に敏感な人たちだから、よもや「どか弁」じゃないだろうとは思うけど。愛されモテ子ちゃんの「勝負グッズ」ってどれだけパンチ力があるんだろうなあ。並み居る男たちをノックアウトするくらいかなあ。「勝負ネイル」なって、どんな爪かなあと想像するだけでちょっぴり怖い。だけど、みんなすごい気合が入っているんだなあ。格差社会だから、落ちこぼれないようにいつも緊張していなくてはならないからかなあ。エネルギー満々のはずの若い人たちまでが「疲れた、疲れた」とこぼすのはそのせいなんだろうか。だけど、人間は太古の昔から個人差ってものがあって、その寄せ集めの世界は格差社会。それでも、「差こそあれ、根本的価値は同じだ」ということで社会が機能して来たんだと思うけどなあ。なによりも、勝負弁当を持たされるよりも、肩の力を抜かせてもらった方がよっぽどうれしいんじゃないかと思うんだけど。

ちょっと天国まで・・・

6月14日。ずいぶん前にチケットを買ったシルクドゥソレイユのCorteo。それだけ首を長くして待つ価値がある。すばらしい。シルクのショーはひととき現実の世界を忘れるためにある。道化師が自分のお葬式を見ているという設定。天使(道具係をかねている)が天井からふわりと降りて来たり、にぎやかな葬送の列がステージを行ったり来たり。道化の出番が多いので笑いっぱなし。シルクのショーは空中を人が舞っているという感じで、人間の体の限界をここまでプッシュできるんだなあと感心する。最初の頃のショーは旧ソ連のサーカス系統の演目が多かったけど、最近のはどうも「体操系」のが多くなって来たみたいで、古代ギリシャ人が見たら感動するかもしれないなあ。

休憩時間にラウンジに戻って、ギフトショップをぶらぶら。Corteoのテーマで背中に天使の羽の絵が描かれたTシャツが気に入ったけど、う~ん、ワタシのサイズがない。たくさんぶら下がっているクリスマスの飾りみたいなボールは「コスチュームボール」という。シルクで出演者が着る衣装は洗濯が激しいから何週間ももたない。そのお払い箱になった衣装を小さく切って、シークィンやプログラムの切れ端などといっしょにガラスの玉に入れたものなので、ひとつひとつデザインが違う。見ているうちに欲しくなって、とうとうひとつ買ってしまった。ついでに目に付いた縞模様の裾に縦に「Dare to Dream」とプリントしたTシャツが気に入って、たまたまワタシのサイズが一番前にかかっていたもので、レジを打ち終える前に追加。「クリスマスツリーにはもうかけるところがないぞ」とカレシ。な~に、だ~いじょ~ぶ。

午後のショーが終わったらシルクの会場に近いお気に入りレストランでディナー。だけど、道路が一方通行なもので、結局フォルスクリークをぐるっと回って、来るときに渡った橋を渡りなおすはめになった。おかげで予約の時間には少し遅れたけど、「先にシルク行く予定で、正確な終演時間がわからないから遅れるかも」と言ってあったので、20分くらい遅れたけど大丈夫だった。名前を言うと「ショーはいかがでしたか」と聞くので、「すてきでした」。メニューとワインリストを持ってきたサーバーのトレヴァーさんも開口一番に「シルクはどうでした?」と聞くので「すばらしかった」。どこかにメモしてあったのか、それとも今日は、午後の公演が終わったら、William Tellが近いからついでにお食事を、という予約がいくつも入っているのか、それとも、遠くからショーに来た人たちがレストランのあるホテルに泊まっているのか。まあ、いかにもさりげないところがうまい。

ショーの前にラウンジでワインを飲んでスナックを食べて、休憩時間にはまたワインを飲んでデザートを食べて、それでまたしっかりとディナーを食べたものでおなかがいっぱい。お天気も良かったし、とっても良い土曜日だった。さあ、あしたからはもちっとまじめに仕事をしなきゃ・・・

マニュアルを捨てられる?

6月15日。どうやら初夏らしい陽気になった日曜日。カレシは外へ出て庭仕事。ワタシは飛び込みの小さな仕事。プレゼンテーションだけど、ちょっぴりポエティックなところがいい。こっちもポエティックなフィーリングを出そうとちょっと自由に訳してみる。このあたりが実務翻訳何でも屋の醍醐味というところかもしれない。四角四面の契約書から華やな夢をぶち上げる広告まで、何が飛び込んでくるかわからない。弁護士になってみたり、ゴマすりおじさんになってみたり、白衣の科学者になってみたり、はてはコピーライターを気取ってみたりの七変化。それなりに言葉遣いが違うから、なんだか役者になったような気がしてくる。これで楽しくないわけがない。

大事件から1週間が経って、秋葉原は歩行者天国が中止になったそうな。物まね犯罪が起きないという保証はないけれど、ちょっと臆病な感じもしなくはない。こういう「誰でもよかった」という無差別な犯罪について「器物破壊化殺人」と表現する学者がいるけど、メディアには携帯依存、劣等感、挫折感、疎外感、孤独感といった言葉が踊っている。いい子を演じ続けて、気がついたら自分がいなかったということか。犯罪にはつながらなかったけどカレシの行状にも「誰でもよかった」という一面がなかったわけではない。携帯やネットの普及でコミュニケーションの空間が広がったように言われるけど、匿名掲示板には、「話を聞かされるのがいや、引く、疲れる」と、コミュニケーションを拒否する現代日本人がたくさんいる。

これを拒食症にならって「拒聞症」とでも言うのかもしれないけど、それでも「話の合う友だち」は欲しい。同じ背景、同じ環境、同じ年代、同じ趣味、同じ問題・・・まるで「自分」を探しているように見える。でも、何ギガバイトかの空間にいるのは文字だけの「匿名キャラ」。同じように「自分の存在を肯定してもらいたい」人たち。いくら仲間うちのネット語を共有したところでどこまで心のふれあいを感じられるんだろう。そうするうちに人を人と感じられなくなるほどに疎外感が深まって行くのだろう。必死になればなるほど孤独がつのってどんどん悪循環の深みに落ちて行くしくみなのかもしれない。現実世界にいない自分は結局はどこにもいないということなんだけど、仮想空間はいろんな錯覚を生む危ないところでもある。

どこでどうしてそうなったのか。80年代後半のバブル経済とその崩壊が大きな役割を演じたことはまず間違いないだろう。日本流TQCの隆盛にコンピュータの普及による情報化のかけ声が重なって、あの時代には何もかもが「マニュアル化」されていったような観がある。マニュアルには結果の均質化を図る狙いもある。つまり「誰がやっても結果は同じ」が目標だから、みんながマニュアル通りにやっていれば、同じ結果が出るしくみ。モノを作るのであればその方がいいんだけど、そのマニュアル化TQCを人間にまで拡大して均質化しようとしたのが当時もてはやされた「日本型経営システム」じゃなかっただろうか。自分で考えるということは自我の発達につながるから、その自我を組織の和を乱す「エゴ」として危険視する社会を動かすものにとってはマニュアル化は願ってもない統制手段だったろう。

だけど、日本のマニュアル化はその頃に始まったものではなさそうに思う。高度成長時代の核家族化で隆盛した「育児書」こそがその出発点だったのではないだろうか。マニュアルの通りにものごとが運ぶというのはすばらしく整然としていて、日本人の繊細な「秩序感」にぴったりのイメージだろう。マニュアル通りの結果さえ出ていれば安心していられるところも日本人向きなのかもしれない。逆に、マニュアルの通りに行かないとパニック状態に陥りやすいのも、失敗すれば「自己責任」と突っぱねられる非寛容な社会なればこそだろう。生まれてこのかたマニュアルで育って来た世代には、自分がいるようでどこにもいないような八方ふさがりは耐えられないほど孤独だろう。だけど、マニュアルを捨てるだけの勇気はあるんだろうか。