そういわれてもなあ・・・
5月16日。最後に残った仕事・・・期限まであと17時間。やれやれ、どうもまた徹夜になりそうだ。どうしてこう今年は仕事が多すぎるんだろう。日本の景気が本当に上を向き始めたのかなあ。それにしては円安だけど。
どんな仕事でもそうだけど、ときどき頭を抱えるようなものに出っくわす。それがおもしろくて、刺激になるのならいいけれど、ほんとうに頭を抱えて泣きたくなるようなこともある。最後に残った仕事はその最たるものだろう。ある文書があって、私に回ってきたのはその補足文書。親文書はすでに翻訳が済んでいるので、これを下敷きに使え、という。ここまではよくあることで、普通なら下敷きとして使える資料があるというのは仕事が楽になって助かる。でも、それが頭を抱えるようなシロモノだと大変どころではなくなる。
ちょうどそんなシロモノに出くわしてしまったのだ。参考にしろといわれても、翻訳が翻訳といえるものではないから困る。英語をわかっているつもりで実はよくわかっていない人が訳したらしい。明らかに日本人の仕事だ。海外にも拠点のあるけっこう大きい企業グループだから、おそらくは社内に「英語ができる」人間がいて、「やって」と命じられたのか、あるいは「できます」と志願したのかだろう。
でも、いくら親文書だからといっても、これを下敷きに使えといわれても困るのだ。互いに参照しているからといわれても困るのだ。こんな英語で読めない英語文をまねろといわれても無理。正直、いくら頑張ってもまねは無理。できない!たとえできたとしても、ダメ。どうしよう?しかたないから、指示を無視するか・・・
朝の光に感動
5月17日。ぶつぶついいながらやっていた最後の仕事が終わったのは午前8時。やれやれ、ほんとうに徹夜になってしまった。気分の方はアドレナリンの生産過剰で高揚しっぱなしだけど、やっぱり指のほうがついてこない。昔110ワードで打てたタイピストの面影なんぞどこかへ吹っ飛んでしまって、年だなあ~とタメイキ。
でも、だんだんに外が白んで、明るくなって行くのが視野の隅っこに見えるのは新鮮だった。何しろ、いつも就寝は午前4時近く、起床は午前11時過ぎという変則標準時だから、夏至の頃にはベッドにもぐりこむ頃に東の空が白々として、鳥がさえずり始めるというのはあるけれど、実際に朝の光を見ることはあまりない。初夏の朝の感触は何だかとっても新鮮で、よけいに仕事が力が入ってしまった。
それにしてもさすがに自分でもよくがんばるなあと感心する。どこからこんなにエネルギーが出てくるのか、めちゃくちゃ機嫌が良くて困るくらい。一応最後のページまで行って、後は見直しだけというところで、ベッドルームへ上がったけど、カレシの英語教室の日だから目覚ましは11時にセットしてある。せいぜい2時間ちょっとの睡眠なら歯磨きも着替えもめんどうくさいと、コンタクトレンズも入れっぱなしで、着ているものだけ脱ぎ捨ててベッドにもぐりこんでしまった。
でも、気分は高ぶったままだからすぐに眠りにつけるわけもなく、おまけにやたらと空腹。飢え死にしそうなくらいにおなかが空く。もちろん真夜中に軽くランチを食べたきりだから、8時間も食べていないことになる。このあたりが徹夜をするときの悩み。眠らずにがむしゃらに仕事をしているのは納期が迫って、切羽詰っているからで、キッチンに上がって冷蔵庫からつまみ食いする暇などあるわけがない。おかげで、今日は一日やたらと空腹感。ストレスと睡眠不足は太る原因になるといわれるのがよくわかる。
というわけで、結局のところ、ろくに眠らずに起き出して、一日中ハイパーなままだったのは、やっぱりADDなのかも。これで週明けまで仕事の予定が空っぽになったんだから、ゆっくりと朝寝と行きたいところだけど、どっこい、朝の8時半にセキュリティ会社がアラームの工事に来るから寝ていられない。その分早寝すればいいのはわかっているんだけど・・・
防衛体制は万全
5月18日。眠ったと思ったら目覚まし。午前8時過ぎ。全身の細胞が思い感じ。でも、今日は1ヵ月ぶりでアラームが完全復旧するはずの日。毎日2回のピピピッから解放されると思えば、起き出す気にもなろうというもの。
予定だと、セキュリティ会社は午前8時半から9時半の間、事務用品の配達は午前9時から午後5時の間。事務用品のほうはリッチモンドの配送センターからダウンタウンへ向かうルートではまず最初の配達先になるから、いつも9時を過ぎてまもなく来るけど、セキュリティ会社はまったくの未知数。なんて話しているうちに朝食の終わった午前9時15分、ゲートのチャイムがなった。どっちだろうと、カレシが外へ飛び出して行った。玄関先に現れたのは事務用品の方。と思ったら、後ろに大きな道具箱を下げた人がいる。何と両方とも同時に到着とあいなったらしい。こんなことはめったにないから、今日は幸先が良さそう。
新しいアラームは、ベッドルームに二次的なコントロールパネルとリモコンを追加してもらった。というのも、アラームセットを担当しているカレシは、ベッドに入ってお互いに腕を回したとたんに「アラーム、セットしたっけ?」と言い出すクセがあって、いちど気になったら気が休まらないタチだから、ベッドを飛び出して階段を駆け下りて確認に行くことになる。もちろん、セットし忘れの確率はごく小さいから、ムダ骨。今度はベッドルームに上がってからセットできるし、階下に下りる前に解除できるから、朝そのまま庭に飛び出して警報が鳴り響くということもなくなる・・・だろうと思うけど。
リモコンはキーホルダー代わりになる小さいもので、車のドアのリモコンに似ている。これはコードなしでもボタンひとつでアラームをセットしたり、解除したりできる優れもの。外出のときはセットしてからオンになるまで60秒だけど、外から帰ったときは、玄関を開けてから30秒以内に解除しないと監視センターで警報が鳴ってしまう。スーパーの袋をどっさり下げているときはけっこう慌てるし、表玄関から入った時はほんの数段とはいえ階段を駆け上がらなければならない。年をとればけっこうやっかいなのは目に見えているから仕様に入れたら、営業マン氏が「サービス」としてつけてくれた。これで、いつも私のバッグに入れておけばガレージの中からでもアラームを解除できるから便利。
パネルにもリモコンにも「パニック」ボタンというのがついていて、これを押すと監視センターで警報が鳴って、ガードマンと警察が駆けつけるという。世の中すごいことになっているんだという気もしないではないけど、自分より弱いものを狙うのがチンピラの常で、老人世帯は狙われやすい。それに、犯罪でなくても、いつも手近に持っていれば、一人きりのときにケガで動けなくなったり、DVで危険な状態になった場合にも、このボタンを押して助けを呼べるわけで、家庭用セキュリティシステムもずいぶん進歩したものだ。
展覧会の絵
5月19日。土曜日。身体的にも精神的にも久しぶりにまともに眠った朝。トロントから来ているカレシの末弟が来るということでお昼前に起き出す。とにかくダウンタウンへ出て、美術館でかねてから見たかった展示を見て、その後はプレゼントはいらないけどチョコレートならというママのために、お気に入りのチョコレートショップで一番大きな詰め合わせを買って、それから夕食の相談ということになった。
美術館の特別展示は「シアターとしての写真」。ダゲレオタイプの時代の古い写真から始まって、要するに自然なポーズなどではなく、初めっから「やらせ」といっていい写真がならぶ。そうだなあ、昔は特に司法の場で「写真は嘘をつかない」とかいっていたけど、今はPhotoshopでいくらでも嘘のつき放題。だけど、よく見ていくと、な~んだ、Photoshopはデジカメより百年も前から写真家は嘘をついているじゃない。それも、写真をメティエとする「芸術」の名で。写実なんだか、幻想なんだか、どれが仮想でどれがリアル・・・?
最後にベラスケスの有名な「ラス・メニナス」がビデオをとして上映されている部屋にたどり着く。あの絵の登場人物が動き回り、くぐもった会話が聞こえるけれど、もちろん何を言っているのかわからない。(当然スペイン語だからだろうけど。)画家が大きなカンバスに筆を動かしているところで、金髪のかわいらしいマルガリータ王女とお付きの女官たち、小人たちや犬が動いているのだ。視点はカンバスのずっと後ろの部屋の一点。いったいこの光景を見ている「私」は誰なんだろう?あのベラスケスの絵を見ている私なのか、それとも画家のアトリエの隅っこに陣取って何かしらドラマに関わっていたのか・・・。
一枚の絵にもその後ろにはドラマがある。ちょうどTIMEで、エドワード・ホッパーの作品をまとめた展示がアメリカを巡回するという記事を読んで、どうにかしてどこかで見たいと熱烈に思っていたから、それだけ動くベラスケスの絵は強烈な印象だったのだろう。ホッパーの、一見して古き良きアメリカの平穏に過ぎるシーンをビデオで再現したら私は一生泣き続けるかもしれない。ホッパーの絵には何だかわっと泣き伏したくなるくらいの壮絶な悲しさ、それでいてアメリカ的な「歯を食いしばるっきゃない」的な、いかにもハードボイルドな反骨精神のようなパワーがある。
そうか、写真は絵と同じ。初めから撮った人の主観を乾板やネガに記録したものに過ぎないんだ。写真は正直に真実を語るなんて、初めっからして存在しない、表面に見える世界の裏まで見たくない人たちの嘘だったのだ。私の中で息づいている不思議な感情を感じた、おそろしく幸せな午後だった。
寝不足でおなかが空くのは
5月20日。雨が降って寒い日曜日。5月も下旬に入るのというのに暖房が入っていた。カレシのママの90歳の誕生祝いに出かけた。ずっと郊外の次弟の家までは車で1時間半はかかる。元義妹や甥や姪に至ってはもっと遠い。途中はかなりの強い雨で、それでも迷子にならずに到着。ここまで出ると幹線以外の道路はまさにサバービアの典型で、袋小路だらけの迷路のよう。
それでも特に「家族」に会うのは楽しい。甥夫婦と姪夫婦、二組の間に姪孫が2人、甥孫が2人。ひとつ上の世代だけど、Auntie(おばちゃん)と呼ばれる。他に元義妹の現パートナーの娘夫婦も子供を連れて参加。オーストリア出身のパートナーの元妻はレソトのアフリカ人。その娘の婿はインド系と英国系の混血だから、2人の子供は半分白人系で後の四分の一ずつはアフリカ系とインド系。でも、二人とも何系ともいいがたいエキゾチックな顔だちだ。ここにいつか未来に実現する「カナダ民族」形成の芽があるように思える。
ママは90歳ととは思えないほど元気だけど、パパは何だか縮んでしまって、自力では足元がおぼつかない。おかげであちらから近づいて来れなくて、悪いけど少しほっとした。それでも、小さい子供たちが多いせいもあって、出前の中華料理と元義妹が持ってきた特大のケーキでのお祝いが早めにお開きになった帰り道は急に疲れが出てきた。でも、困った空腹感はどうやら後退してくれたようだ。
先週後半は2日続けて極度の睡眠不足。2日間でせいぜい2時間しか寝ていなかった。生理的システムが生存ストレス満杯の原始モードになってしまったのか、身体の疲労感よりも、やたらと空腹感に悩まされる。普通に食べても1時間くらいでおなかが空いてしまう。人間は睡眠不足だとグレリンというホルモンがしきりに「腹減った、腹減った」とせっつき、横からストレスホルモンが「食べろ、食べろ」とけしかけるらしい。それで、常習的に睡眠不足の現代人は「幻の生存の危機」とも戦うはめになって、太ってしまうらしい。
まあ、夕べはかなりまともに眠ったし、これでやっとストレス要因になっていた「行事」がほぼすべて終了して、明日は目が覚めるまで寝ていられる日だから、今夜はバッタンキューと寝てしまいそうだ。次の仕事はまた明日の話。今度はすこ~しゆったりと構えて、お付き合い?で何だかくたびれてしまったというカレシとゆっくりブランディでも傾けながら、映画でも見て、次のラウンドに向けてたっぷり鋭気を養っておこっと。
Engrishって?
5月21日。業界の機関誌などにたびたび登場するのが世界各国で発見された迷訳、珍訳の例だ。おいおい、というものから、おなかを抱えて笑ってしまうものまで、どうしてこんな訳がと頭を引っかき、首をかしげるものがわんさかある。このEngrishコレクションがずらりと載っているサイトがある(http://www.engrish.com)。
元々は日本で見かけた変てこエイゴを集めていたらしいけど、今ではアジア各地を始め、ヨーロッパでの発見もある。英語が世界のハブ言語になったせいで、Engrishは世界共通語なのかもしれない。だけど、中にはへたをすると生死に関わりかねないものもけっこうあるから笑ってばかりもいられない。
ずらりと並んだ変てこエイゴの大半は元の言語がそのまま透けて見える。逆読みすると元言語の構文が薄々わかって来ることもある。すごいのになると、「こんなもんだろう」ぐらいの気持で元の単語をそのまま英語に置き換えたとしか思えないようなケッサクもある。ここまで来るともう「翻訳」とはいえるものではない。中国の三つ星レストランのメニューを見たことがあったけど、漢字をひとつずつ英単語に置き換えたことは一目瞭然。人食い人種のメニューか、みたいな強烈な珍訳、そしてそれを印刷して使ってしまうガッツに、まさにバイタリティそのもの!といたく感服してしまった。
カレシがよく「日本で日本人に売るものなんだから英語にする必要ないだろうに」と不思議がるけれど、まさに不思議。まあ、とにかくなんでも横文字ならカッコいいという感覚もあるだろう。だけど、なのだ。よく見ると子供のものからプラスチックの日用品まで、ユビキタスなかわいいキャラといっしょに、ユビキタスに英文らしいものが書いてある。元の「夢見る夢子ちゃん/夢男くん」的な日本文を再現できそうな「英文」だ。要するに、日本人の感覚がそっくりデザインされているわけで、日本人に売るためのものならそれでもいいではないかと思う。でも、「どうして大人の商品まで子供の絵本のようなイラストと、妙に夢哲学風の文章で飾るのか」という疑問がわいて来る。これはヘンな英語の問題ではなくて、なぜそういうデザインにしたがるのかということだ。プレーンな空間は気分が落ち着かないという心理でもあるのだろうか。
空間を目に見えるもので埋めなければ落ち着かないというのであれば、じゃあ、なぜ文字デザインくらいは意味のあるものにしないのか。結局は視覚に訴えるデザインなのであって、あんがい意味が通じない方がいいのかもしれない。女の子たちが卑猥な言葉をデザインしたTシャツを着ているとしても、気合いを入れてファッションを決めたであろう本人たちにとってはそれが「外国語」であればいいのかもしれない。あくまでも視覚的デザインで選んだのであって、それが赤面するような卑猥な言葉で見る人が失笑しているとしても、本人にはまったく「想定外」。それで思い出したエピソードがある。
ダウンタウンで、妙に舌足らずっぽい「Fワード」を耳にして振り返ったら、(歩きかたから)日本人らしい若い女の子が、にこにこしながら下品なスラングをちりばめて何人かの男性とおしゃべりをしていた。その今風のカワイイ顔と下品極まりない言葉遣いのギャップに仰天してしまった。声が大きかったから、振り返って目を丸くした人がけっこう多かった。語学留学生はスラングを覚えたがり、会話力ができる前に汚い言葉を覚えてしまう。それが「ネイティブ並みの英語をしゃべるカッコいい私」像らしいけれど、商品を飾る「英語」の意味を知らないのと同じように、スラングのTPOも知らないから、笑うに笑えない場面になることも多い。
とすれば、外国語で飾った商品と、外国語学習が苦手ということは深いところでつながっていそうに見える。要するに英会話も装飾パッケージなのかもしれない。商品も自分もファッショナブルにパッケージするのはいいけれど、それでも、せめて注意書きや標識の類くらいは正確に翻訳してもらわないと、ひとつ間違うと人命にかかわりかねないんだけど・・・
うるさいのはキーボード、それとも・・・
5月22日。仕事のペースにうまく乗れないと、小町を見る。ローカル掲示板も注意力散漫のADモードの時はいいけど、この頃はぜんぜんおもしろくないから、結局は小町。一応は有力新聞がしっかりと検閲しているというからまだレベルは低くない。タイトルだけを見て突っ込みを入れてけっこう気晴らしになるし、「え?」というようなタイトルを開いて、へええ~という日本事情に遭遇することのも一興。まあ、暇がないからいいのであって、暇だったらとっくの昔に飽きているだろうけども。
小町でいつも強烈なのは、最近の若い日本人は五感、特に視覚と嗅覚が異常に肥大しているらしいという印象だ。目で見ただけで生理的に好き嫌いが決まるようだし、嗅覚となると「加齢臭」とかいうこっちでは聞いたこともない「問題」があるらしい。ものごとを生理的な感覚だけで判断してやっていけるのだろうけど、この頃は聴覚まで肥大症らしい。たとえば、「キーボードの音がうるさい人」というトピックがある。日本のオフィスも今はパソコンがあたりまえだけど、他人のキー操作の音がうるさくて気になって困るというのだ。例によって「いるいる、そういう人」というリンチモブ的なレスが並ぶと、ああ日本にいなくて良かったと思う。なぜって、私はキーの文字が1年くらいで消えてなくなるくらいにバンバン叩くからだ。日本にいたらきっとトータルシカトの総スカンなんだろうなあ。こわいところだ・・・
だけど、日本のオフィスには欧米のような「タイプライター時代」がなくて、手書きから一足飛びにパソコン時代になってしまったので、キーを叩く音を1日中聞くことに感覚的に慣れていないのだろう、とちょっとは同情してあげてもいいかもしれない。タイプの音は欧米のオフィスではごくあたりまえのサウンド風景で、偉い人のオフィスの外にある秘書のデスクには必ずL字型の袖がついていて、タイプライターがあったから、みんなタイプの音を聞きながら仕事をしていたわけだ。電子タイプライターが登場するまでは、キャリッジが設定した行末に来ると「チン!」とベルが鳴って、ジャン!とレバーを叩いて戻していた。リロイ・アンダソンが作曲した「タイプライター」という標題音楽を聴いてみると良い。チャカチャカチャカ、チン!これにジャン!が加わるわけだから、繊細な聴覚を持ったポストバブル人はぶっち切れしてしまうかも。
もっとも、家でネットをやっている時の自分のキーの音はまったく気にならないのだろうから、カレシを観察して来た結果とダブらせると、キーを叩く音がうるさいというのは「建前」であって、「他人の音が自分の感覚領域に侵入してくるのが耐えられない」というのが本音ではないかと思う。「耳障り」と表現するあたりにもその本音がチラリと見え隠れしている。要は、他人の存在を感じさせられるのが耐え難いということかもしれない。まあ、うがった見方をすれば、あらゆる人間関係が縦のものさし(価値観)の目盛で決まるような「比較社会」では、いやでも自分との優劣の比較対象になる他人の存在がストレスになるだろうということは想像できる。職場という、そうでなくてもストレス満載の環境ならなおさらだろう。
ただし、「他人の音の侵入」にはストレスを感じるカレシもキーボードの音を耳障りだと感じたことはないそうだから、このあたり、やっぱり文化の違いはあるようだ。
うつうつとはいえ・・・
5月23日。いつの間にか5月も下旬。なのに、どうしてかな、仕事が途切れてくれない。日本はやっとのことで景気が良くなりつつあるそうだけど、それにしては円安がどんどん進むから、アメリカドルで払ってくれる客からの依頼にはなかなかノーと言えない。まあ、円建のところも、カナダドル1ドルが120円くらいまで下がって平均的な料金とトントンというところで、さして気に病むこともないんだけど、日本国総理大臣様、この円安何とかしてくださいよ~。日本からの情報発信に貢献してるんですから。
ほんとうに日本の景気がよくなっているのかどうかは私には知る由もないし、ものの値段が安いのか高いのかも皆目わからない。カナダ暮らしが人生の半分を超えてからは、日本はどんどん遠くなって行くように思える。元々自分では気づかずに知らないことだらけだった国がますます知らないことだらけ。それもありなのが人生というもの。鬱っぽい気分でつらつら考えることはあっても、結局は「それでいいじゃん」という結論に戻って来てしまう。で、ブルルルッと雑念を払って、「そう、それでいいじゃん」を呪術の言葉のように飲み込んで、アイデンティティに関する自問自答は終わり。それでいいじゃん!
この2、3日、カレシは喉が痛い、体がだるい、熱っぽいということで、何となく機嫌が悪い。仕事をしているそばでやたらとこれ見よがしの大きなため息をつきまくるから、だんだんイライラしてくる。「うるせ~」といいたいのをぐっと抑えて、「ぐあい悪いの?」と聞くと、ご本人はあわてて「いや、機嫌が悪いんじゃない、ちょっと具合が悪いだけなんだよ」と説明にかかるからおかしい。風邪気味だったりすれば誰だって機嫌が悪くなるでしょうが。でも、「通常」の範疇を外れると半パニック状態で機嫌が悪くなるのがカレシなのだ。それでも本当にキレなくなったと思う。この前キレたのはもう何年前だろう。はあはあとタメイキをつきながら問題解決に取り組む姿勢は大いに評価してあげなくちゃ。そこで、ぎゅうっとハグして、う~んと熱くキスしてあげて、「いい子、いい子」と看護婦さんしてあげた。ほんとはおもいっきりじゃれつきたいけど、仕事が・・・
この週末はおいしいものを食べに行こうね。何だかあれこれ忙しくて2週間ほどどこへも食べに行ってない。そろそろ私の食道楽虫が切れそう。せっかく終わった仕事に続きがあるとメール。ため息つきつつも、ここはアメリカドルで稼いでおかなきゃ。やれやれ、5月もこのままバタバタと終わってしまうらしい。あ~あ、少しは息を抜きたいよぉ。このままじゃ、本当に鬱に戻っちゃうよぉ。お~い、時間よ、止まってくれぇ。だけど、まだ「なんか鬱っぽいなあ」と思っているうちは大丈夫なんだろうと思う。何にもしたくないというよりは他にしたいことがありすぎてもがいているわけだし、そんなのはうつ病のうちに入らないよなあ・・・
宝くじが当たったら
5月24日。初夏らしいとってもいい天気。ずっと東のトロントはもう真夏日でスモッグ発生。ロッキーのすぐ向こう側のカルガリーでは夜来の雪が10センチくらい積もったとか。バンクーバーはごくごく普通の初夏の1日。
カレシが英語教室に出かけた後、ジャケットなしの半袖Tシャツだけでモールまででかけた。口笛でも吹いたら気持良さそうな気温17度の日和。どこの家の前庭も色とりどりの花が咲いて、芝生刈りサービスのトラックがあちこちに止まっていて、芝刈り機のエンジンの音が鳴り響いて、そよ風に刈ったばかりの草の青い匂い。昔、空中に浮遊するあらゆるものにアレルギーになった観があった頃は、3ブロック先で涙目になっていたなあ。それも4年かけた減感作治療のおかげで15年ほどアレルギーフリー。
行く先はデパートの地下にある郵便局の私書箱。そろそろクレジットカードの支払期限なんだけど、私は忙しくて、カレシは迷路の運転がめんどうで、ご無沙汰だから請求書がない。カレシが重い腰を上げるのを待ってはいられないから、仕事の合間を縫って自分で行動を起こすしかない、と気張ったわけではないけど、早足で20分。ぎっしり詰まっていた郵便物を引っ張り出して、また徒歩20分の帰途に着く。
見ると宝くじの売場に長い行列。しばらく当選が出ていない6/49というロトの賞金が2700万ドルに膨れ上がっている。ざっと30億円近い。我が家は3ヵ月分ずつ前払いで、二人の誕生日を組み合わせた番号なんだけど、さっぱり当たらない。30億円当たったらどうしよう。自営業は即刻引退・・・はないだろうなあ。でも、好きな仕事だけをするってことも可能だろうな。そうなったら楽チン。旅行だって、いつでもどこへでもファーストクラスでゆったり行けるなあ。年なんだし、そのくらいの贅沢もいいよなあ。
大当たりの確率は天文学的だけど、買わなければ確率は確実にゼロ。誰でもチケット1枚につきチャンスはひとつ。10枚買えばチャンスは10でも、大当たりは一人1枚。すでに大金持の人も、明日からはホームレスになるしかないという絶望的な人も、くじ運は人を差別しない。ある意味、確率というのは実に平等だと思う。まあ、当たる当たらないは別として、2ドルでいっときの夢を見るのも悪くはない。スタバのコーヒーを買って白日夢から目を覚ました方がいいって・・・そんな野暮なことはいいっこなしにしよう。
だけど、半分でもいいから、当たらないかな~?
キモイもの見ちゃった
5月25日。カレシはどうも本格的な風邪だったらしく、今日ちょっと熱っぽい。夕べは一晩中かなり咳をしていた。私もおつき合いで目が覚めてばかり。起きたのは正午過ぎ。カレシが開口一番に「眠れなかったろう?ごめんね」と。私はひと昔とはだいぶ違うなあと思いつつ、「風邪を引いちゃったんだもの、しょうがないよ」。まさにそうだもの。でも、あの「ひと昔前」には、私がカレシの咳で目を覚ましただけでキレたし、私が咳の発作を起こすと「うるせぇ!眠れない!」と怒鳴られた。あのむずかりようは赤ちゃんと同じようなものだったかもしれない。今のカレシを見て、誰でも変わることができるんだなあと思って、人間に対する信頼感がまた少し高まったような気分になった。
午後の気温摂氏20度。酒屋と銀行と薬屋へ行く。夕べのマティニが変な味で、調べてみたらベルモットが酸化してしまったらしい。お酒も「腐る」ということは知らなかったけど、ベルモットは元来安ワインみたいなもの。ワインは開けてから放っておくと酸っぱくなる。よく使うから何度も酒屋に足を運ぶのがめんどくさいとまとめ買いしたのがそもそも間違いだったらしい。まあ、腐る前に飲んじゃえばいいんだよね・・・ん?
気晴らしによくやるのがジグソーパズル。新しいパズルを作るのにいろいろなサイトから画像をコピーする。でも、毎日新聞英語版のフォトジャーナルのある画像に思わず「オエッ」となった。何のことはない、おそらく生身の相手がいない男の相手をする人形だ。そんなものは昔からあっただろうからどうってことはないけど、どの人形も首から下は成熟した女なのに、顔はどう見たって幼い女の子だ。日本人にはあれが「セクシーな女性」の理想像なのかもしれないけれど、欧米人には5、6才の幼女にしか見えない。あんな人形を抱いてコーフンする男なんて、ペドファイルみたいでチョーキモ!
こっちの高校生たちは学業、アルバイト、ボランティア活動、遊びと、多忙すぎて慢性的に寝不足だそうだ。調査ではかなりの割合が自分を「ワーカホリック」と評していた。でも、インタビューに答えていた12年生の女の子たちは、日本人の目には20代後半から30才くらいに見えるかもしれない。どおりで、お留学とかワーホリのおギャルたちが「白人女性はビッチで性格がきつくて、すぐ太ってカワイクなくなるから嫌われて、アタシたちはカワイくてイケてるからもてるのよねぇ」と豪語するわけ。まさに、ある「傾向」を持った男たちにとってはその通りだろう。カナダにだって男女平等が互いを尊重することだということにナットクできないでいる男がけっこういるってことで、需要と供給がつりあっているわけか。
別の調査では、カナダの男性は教育水準が同じ女性を選ぶ傾向があるという結果が出た。履歴書に書く、実質の伴わない「学歴」のことではない。つまり、普通のカナダ人男性は教養や知性でつりあいの取れたごく普通のカナダ人女性と出会って、少なくとも中年の危機に陥るまではごく普通の家庭を築いているわけ。その中年の危機が来ないうちから、あのセックス人形のような幼女顔で、内面も同じようなレベルの女性に憧れるような男はやっぱりどうも普通じゃないような気がする。もてるって有頂天になっている場合かなあ。
まあ、人間みんな年だけは平等に取るから、誰だってその気になれば大人になれる・・・よね?
はしかと昔話と・・・
5月26日。日本では大学生の間にはしかが流行して大学が続々と休校しているそうだ。おまけに百日咳まで出現しているとか。昔は、はしかは小さい子供があたりまえにかかる病気だったから、思春期の初恋などを「はしかみたいなもの」と言っていた。ワクチンができたからもう大丈夫と過信していたのかもしれない。
カナダでは東部のカレッジでおたふくかぜが発生して、西の方へ広がっているそうだ。日本のはしかと同様ワクチンをしていなかったり、していてもその効果がなくなってしまっているためらしい。
はしかだけなく、おたふくかぜ、水疱瘡、百日咳といった子供の病気に成人してからかかるときわめて重い症状になることがある。いつだったかカレシの同僚に水疱瘡にかかって1ヵ月近くも欠勤した人がいた。ワクチン接種を受けたことがあれば、大人になってかかっても軽くて済むのだろうか。私は、はしかはやったけれど、おたふくかぜと水疱瘡にはかかった記憶がない。母からかかったという話を聞いた記憶もないから、たぶんやっていないだろう。そういえばポリオのワクチンも受けた記憶がないけど・・・
今年は映画『Star Wars』の公開から30年だそうで、特別イベントがあちこちである。私たちも行列して観たっけ。大宇宙に勧善懲悪の古典的な西部劇の要素を持ち込んだスリル満点の大ロマン。映画史上の一角に永久に輝いていい傑作だと思う。当時はスティーブン・スピルバーグのUFO映画も大ヒットしていて、観客がみごとに二派に分かれていたのを覚えている。私の脳裏に今でも焼きついているのは、育ての親である叔父夫婦を失ったルークが、辺境の惑星のまた辺境の地で沈んで行く二つの夕日を見ているシーン。それと、怪しげなキャラがうようよしている辺境の酒場のシーン。いろんな星から集まってきた流れ者たちの異星人語に字幕がついていたのが妙に新鮮だったのを覚えている。
まだコンピュータによるSFXがなかった時代に、あれだけの特撮をやってのけたのはすごい天才だと思う。制作過程のドキュメンタリーを見ると、何から何まで手作りなのだ。日本の特撮の神様、円谷英二に通じるものがある。今のSFXは派手だけど人間の手の温もりが感じられなくてつまらない。アーティストと称するCGオタクが自分の手並みを「すごいだろう」と見せるのが狙いになって、ストーリーなんか二の次のような映画が多すぎる。アニメーションも、画像はシャープになったけど、やはり手作りの温もりはなくなっている。だから、『SHREK』はめっちゃ楽しい映画ではあるけど、どうも無機的でくつろげない。
ディズニーが戦前に作った『ファンタジア』は、人間がセルロイド一枚、一枚に絵を描き、色をつけていた。「禿山の一夜」から一転して「アヴェマリア」につながる最後のシーンは感動的だ。ランタンを持った人の列が霧の中を粛々と進んで行く場面をCGでリメイクしたら、あのスピリチュアルな感動は微塵もなくなりそうだ。古い時代の人間だといわれればそれまでだけど、昔は人間がもっと人間だったように思えて来る。私だってコンピュータ化の恩恵を大いに享受している身なんだけども、やっぱり、何だかなあ・・・
続けてみないとわからないこと
5月28日。とにかくしちめんどうくさいことこの上ないPowerPointの上書き作業がやっと終わって、バンザイ!と思ったのもつかの間。6月のカレンダーに納期のマークがつき始めてしまった。イギリスへ行くまで少しはゆっくりと準備でもと思ったのに・・・。それでもちょっと御託を並べて残り少ない5月は休みにしちゃえ。
カレシは咳込んではカリカリしてるけれど、季節外れの風邪もどうやら回復期入ったらしい。私の方は風邪をもらわずに済んでやれやれ。この忙しいのに風邪なんか引いていられないのだ。夜中の咳込みは、私の長~い経験からいうと、生理的に覚醒期と睡眠期のスイッチの切り替えが引き金になるらしい。だから、ちょうど寝入った頃に咳で目が覚め、そろそろ目を覚ます準備にかかる頃にまた咳で早々と目が覚める。おかげで今朝方は二人で咳のデュエット。ゴホゴホやりながら笑ってしまった。
カレシはこれで旅行中に風邪を引かなくて済むなあと自分を慰めているけど、考えたら、よく旅先で風邪を引く人なのだ。どうしてだろう。環境の変化がストレスになって免疫機能が低下するからだろうか。そんなんでは、あの時日本へ行ったとしても、肝心のデートのときに風邪をひいてぐずぐずだったろうなあ。右も左もわからない異国の旅と、大嫌いな湿気の高い気候と、フリンの罪悪感と・・・カレシには荷が重すぎたかもしれないなあ、なんて、ティッシュを次々に使っては捨てるカレシを横目で見ながら変なことを考えてしまったではないか。
「継続は力なり」という。もちろん、続けてもムダでしかないことも、続けるべきでないこともあるだろうけど、人生って続けてみないことにはわからないことが多い。カレシとベッドを共にする生活ももう満32年を過ぎた。25年を境に結婚記念日という「節目」は捨てた。カレシは25年間結婚記念日を忘れてばかりだったから、今さら反対のしようがなかったみたい。指輪も捨ててしまった。カレシは怒ったけど、自分自身は最初から指輪なんかイヤだとしたことがなかったから、これも反対のしようがなかった。そうやって制度的な「枷」を捨てたことがかえって継続の力になったのかもしれない。
カレシがそんなことを考えることがあるかどうかはわからないけれど、やっぱり続けてみてよかったのかもしれないね。咳のデュエットで、互いに背中をさすりあうなんて、昔は夢のまた夢だったもんね。
遠回りの産直ニュース
5月29日。アルバータ州のバンフで修学旅行らしい日本人グループが隔離されてホテルに缶詰になっているという。一行の中からはしかと思われる病人が出てバンクーバーで入院中らしい。カナダでははしかワクチンの接種が徹底して、はしかはほぼ根絶した状態だけど、人間が手軽に世界中を駆け巡るこの時代に水際で予防するのは至難の業だろう。今、保健所では同じ飛行機に乗ってきた乗客を追跡しているとか。何年か前のSARS騒動を思い出した。
バンクーバー市警察がヴァーチャルコミュニティの『Second Life』にヴァーチャル警察署を設置して募集セミナーを開くとか。コンピュータやネットに詳しい人材を募集するのが狙いだそう。地元の大学・カレッジが合同して立ち上げる「ディジタルメディア修士」課程の一環でもあるそうな。いろんなネット犯罪が横行する時代だから、取り締まる方も同じ知識で武装しないと追いつかない。そのうち、「毒には毒」式に元ハッカーなんかがネット犯罪の捜査官になったりして・・・
地下鉄工事の影響で沿線のビジネスが潰れたり、移転し始めた。私たちお気に入りのレストランもとうとうキツィラノに引っ越してしまった。20年も角に赤いトマトの看板を出した名物レストランなのに。前の道路で工事が始まって客の入りが4割以上も減ったという。動くに動けず、貯金を取り崩して生活しているという商店主もいる。オリンピック委員会や工事会社は「平常通り営業中」とか「SHOP THE LINE」なんて一見カッコいい商店街があるような宣伝で、ビジネスオーナーの機嫌を取っているつもりなんだろうけど、肝心のアクセスがカットされていては、いくら営業中といっても客は来ないし、客が来なければ商売は成り立たない。オリンピック委員会はきっとそんな原理もわからないんだろうけど。
この地下鉄工事、公聴会やカラフルな広報で住民に「約束」したことと、実際にやっていることが全然違う。だから住民は怒っているのだ。街を東西真っ二つに分断してしまったも同然交差点を重点的に工事してトンネルができ次第オープンするというのならともかく、車も歩行者もダウンタウンから市の南端までを貫く幹線道路を渡れないのだ。ブリッジを仮設したごくわずかな交差点はいつも大渋滞だし、おまけに右にも左にも曲がれなかったりするから困る。周辺の道路もバイパス化を防ぐつもりの通せんぼだらけ。みんな大学で都市計画を専攻して来たって、ひょっとしてネット大学のヴァーチャルコミュニティ科・・・?
郊外の湿地Burns Bogで火災が発生との夕方のニュース。郊外に広がる4千ヘクタールの泥炭湿地ではときどき火災が起きる。自然発火が多いけれど、事故や放火のときもある。そこはずぶずぶの湿地だから消防車は入れない。おまけに泥炭地だから一度火が地下にもぐってしまうと、泥炭がぶすぶすと燃え進んで、いつ鎮火するのかわからない状態になるからやっかいだ。2年前の火災のときは我が家の辺りまでしばらく煙たかった。二階へ上がって見ると、南東の方に濃い灰色の煙が上がっているのが見える。煙たくならないうちにすぐに消えるかなあ。
おばあちゃん気分
5月30日。今日は暑いくらいの1日。週末までには内陸の郊外で28度とか29度とか言う予報。ということは我が家のあたりの25度近くまで行くかもしれない。まあ、もう6月だもんなあ。1日からは芝生の散水制限が始まる。今年は冬に雪が降りすぎて貯水池が溢れているせいか、制限は芝生だけ。花壇や家庭菜園は対象外だそうで、いつもならホースかじょうろのみOKなのに、今年はスプリンクラーを使っても良いということらしい。
それだけ水あまりなのだ。フレーザー川やピット川の流域の郊外では山岳地帯に平年以上の雪が積もって、急速な雪解けによる氾濫を想定して、堤防の嵩上げ工事が進んでいる。世界中に雨をもっとうまく配分してくれればいいんだけど、元々気まぐれな自然がこの頃は人間のいい加減さに怒ってるからなあ。
夕方、プリスカが子供を連れて池を見に来た。我が家の後、レーンを隔てた家に住んでいる。フィンレー君は2歳半、ラクラン君はまだ8ヶ月。カレシがいつでも池を見においでといってあったので、フィンレー君がずっとママをせっついていたらしい。プリスカが池に手を突っ込みたがるフィンレーを押さえている間、私はラクランを抱いて庭をぐるりと散歩。赤ちゃんのとりとめのないやわらかさがとっても感じがいい。にっこりと笑った顔はほんとうにあどけなくて、思わず頬ずり。今度はフィンレーが滝を見たいと抱き上げて欲しがる。えいっと抱き上げて、ピチャッと水をはねかけたらキャッキャと喜んで自分もバチャバチャと水をはねるから二人とも顔がびしょびしょになってしまった。
考えたら、生まれなかった子にもこのくらいの子供ができていて、私は今頃こんな風におばあちゃん馬鹿をやっていたかもしれないなあ。孫がいてもおかしくない年だという実感はないけど、赤ちゃんを抱いているとそれなりの感慨が沸いてくるのは、子供を産まなくてもちゃんと母性というものがあるという証拠なのだろう。欲しくなくて産まなかったのとは違う。私だってもうちょっとのところで母親になれたんだもの。子供が幸せな子供時代を過ごせそうな環境がなかったのだから、産めなくてかえって良かったのだ。
それにしてもたかが20分くらいしか抱いていなかったのに、腕の筋肉がコチコチ。子育てって大変な力仕事なんだ、と改めて感心した。ほんとに母は強し、なのだ。ちょっとだけだったけおばあちゃん気分になって頬の筋肉がゆるみっぱなしの楽しいひとときだった。そろそろパパが帰ってくるからと、ママが引く手車に乗ってバイバイしながら帰っていった。またおいでね!
宝くじスキャンダル
5月31日。5月も今日でおしまい。早いなあ。まったく早すぎる。とにかく月末処理の請求書書き。6月のカレンダーはイギリスへ出かけるまで仕事漬けになりそう。仕事が途切れて気を抜いてしまったのか、この週末は3社の締切が重なっている。しまった~といっても後の祭り。ねじり鉢巻を締めなおすしかない。やれやれ。
さらに賞金が膨らんでいた昨日の宝くじの抽選、誰か当たったんだろうか。うちが大当たりしなかったことは確実。今、その宝くじでスキャンダルが起きている。なぜか宝くじを売る店のオーナーや従業員の当たりの確率が高すぎるというのだ。6年間で1万ドル(113万円)以上の賞金の4.4%を稼いだそうで、州の人口に占める比率に比べて高額賞金の当たる確率が数倍だという。1億円以上当たった人も2人いる。さらにKenoという連続的にやっているくじの賞金は11.6%が店のオーナーや従業員だそうだ。
もちろん、ほんとうにラッキーだったのかもしれないけれど、たった5ドルや10ドルの賞金だってめったには当たらないのに、宝くじ公社から手数料をもらって宝くじを売っている人たちの当選確率がふつうの何倍というのは、やっぱりちょっとあやしい。それも、一人で何度もけっこう高額の賞金を当てている人もいるから、よけいにあやしい。店が暇だからたいくつ紛れにKENOをちょいちょいやってこまめに当ててるんだよ、と説明していた人がいたけれど、くじは1枚2ドル。確率からすれば、こまめにやってもそんなに当たらない。
オンブズマンが「前からごまかしが横行している疑いがあると警告していたのに無視された」と言い出して、宝くじ公社のトップの首まで危ないスキャンダルになった。宝くじ公社のCEOのサラリーは年間50万ドルというからすごい。数千万円の年俸!宝くじは売る方にもうかるものではあるけど、これではいくら何でもぼったくりみたいでしょうが。売上金はアマチュアスポーツや文化芸術の振興に使われるはずなのに。
そういいながらも、週2回の1枚2ドルの宝くじを3ヵ月分ずつ前払いで買っている私。ほんとに当たらない。あんがい、宝くじ売り場に就職した方が大当たりの確率は高いからと、セブンイレブンみたいなコンビニの店員募集に応募者が殺到したりして。人間はやっぱり欲張りだからなあ・・・