ねずみは仲間を見捨てないそうだけど
1月16日。月曜日。起床は午後1時近く。午前3時過ぎにはベッドに入ったんだけど、週末の汗かき作業で疲れていたらしく、2人ともぐ~っすりと眠ったみたい。雪がちらついたのか、歩道は何となく白くなっていたけど、日が差して来て解けてしまった。ニュースを見ると、郊外ではかなりの雪が降って、交通事故続出だったとか。同じバンクーバー圏でのこの違い、嘘みたいだけど。
まあ、今週いっぱいは「寒波」が続くとの予報で、ニュースは「雪が降るぞ!」と大騒ぎ。降雪注意報が出ているから、どれだけ降るのかと思ったら、予報サイトによって1センチから20センチまで開きがある。つまりは、降ってみなければわからないということか。というよりは、海と高い山があって地形が複雑なバンクーバー圏は「微気候」の集まりという天気予報士泣かせの気候地帯なもので、予報サイトがどこを見ているかによって1センチで済むところ(海側)と20センチも降るところ(内陸側)があるということなんだけど、じゃあ我が家は海側だから1センチくらいかと高を括っていると、どかっと降ったりするから油断がならない。
テレビもラジオも雪、雪と騒いでいるのを聞いて、カレシは「昔は雪が降ってもこんな騒ぎはしなかったのになあ」と呆れ顔。過去の記録によると、カレシが小学生だった頃は一種の「寒冷期」で、マイナス10度とか15度に冷え込んだり、大雪が降ったりしていたらしい。でもまあ、あの頃はまだ人口も少なかったし、誰もが車を持っている時代じゃなかったし、何よりも半世紀前はまだ誰もが「不便がないのがあたりまえ」を期待する社会になっていなかったから、市民もそれほど大変だと思わなかったのかもしれないな。今は便利になりすぎてしまったんだと思う。あまりにも便利さがあたりまえになったおかげで、ちょっとした不便さえも自力で対処することができなくなってしまっているとしたら、(少なくとも先進国の)人間は自立、自助の能力どころか生存本能まで萎縮しつつあるのかもしれないなな。そうなったら人類という種の存続すら危うくなるように思うけど、まあ、誰かが法律や技術で何とかしてくれることになっているんだろうな。
先週(13日の金曜日!)に座礁して横倒しになったイタリアのクルーズ船。写真を見るとすぐ近くに島の防波堤や岬が突き出しているのがわかる。そのあたりは水深が20メートルくらいしかないらしい。たとえ船長が主張しているらしい「暗礁は海図に載っていなかった」ことが事実だとしても、海図には水深が書いてあるはずだし、10万トン以上ある大きな船の喫水深度がどのくらいか知っていただろうに、なんであんな図体のでかい船をそんな浅いところに近づけたのかと思う。ひょっとして島が海底から煙突みたいにまっすぐ突っ立ってると思った・・・まさかねえ。
その船長は、乗客や乗員を傾く船に置き去りにして自分はさっさと島に避難したという話だけど、船が沈むときに一番先にねずみが逃げ出すという伝説がある。でも、実はねずみはそんな自己チュー動物ではないことが研究者の実験でわかったというニュースがあった。仲間を閉じ込めると、何よりも真っ先に閉じ込められている仲間を助け出そうとするんだそうな。そばに餌を置いてみても、見向きもせずに仲間を救出しようとしたそうで、(子年の生まれだからというわけじゃないけど)とかく嫌われがちなねずみの仲間を思うチュー義にワタシは感動さえ覚えたけど、すたこら逃げ出したクルーズ船の船長はそのねずみ以下の人間ということになるな。ハドソン川に不時着して、沈んで行く飛行機の中を2度も往復して乗客が全員退去したのを確認してから最後に自分も救助された、あのサレンバーガー機長とは大違いも大違いだな。
難破船の船長は「ずっと船に留まっていた」と主張しているらしいけど、沿岸警備隊が島にいるのを見つけて船に戻るように説得したけど、従わなかったと言う話もある。バカなことをやらかして、慌てて嘘でその場を切り抜けようとしたのなら、自己保身の能力は人一倍あったということで、やっぱりねずみ以下。ねずみの爪の垢でも煎じて飲めっての、まったく・・・。
雪、こっちは降ってないんですけど
1月18日。水曜日。目が覚めて耳を澄ましてみたけど、何か静かなような、どこかで車が走っているような。ただし、寝室の中はまあまあ明るいから雪空ではなさそうと、しばしうとうとして午前11時45分の目覚ましで起床。ポーチの気温はマイナス4度。薄っすらと雪が降った形跡があるけど、雪雲はまたまた我が家のあたりをかすめて行ったらしい。
キッチンのテレビをつけるちょうど昼のニュースで、郊外の端っこの方では信じられないくらいのどか雪だったらしい。バンクーバー圏(正確にはBC州本土の南端、つまり地図で見ると下端にあるから「Lower Mainland(ローワーメインランド)」)は西に海、北に山脈、南にアメリカとの国境があるもので、おおむねフレーザー川に沿って、フレーザーバレーの奥へ、奥へと東に向かって伸びた形になっている。ちなみに、メトロバンクーバーというのは(郡のような)行政地区の名前でローワーメインランドの西半分。その境界のすぐ東で川の南側がアボッツフォード、北側がミッションで、バンクーバー市内から40キロくらい。アボッツフォードの東隣はカレシの母方の祖父母の農場があったチリワックで、そこを過ぎるとホープまではあまり人が住んでいない。
つまり、バンクーバー圏に降雪注意報が出ていたきのう、我が家のあたりは1日天気が良くて、今日の朝方5ミリほど積もっただけなのに、40キロしか離れていないアボッツフォードでは雪が降り続いて、20センチ、30センチと積もったというから、信じられない話。テレビの画面で流れる映像はまるで別世界という感じがする。バンクーバーの北約500キロ、州の中ほどの内陸にあるプリンスジョージでは「最高」気温がマイナス35度だそうで、体感温度はマイナス42、3度。戸外の温度計が下限のマイナス50度を指している写真があったりして、まさに別世界。(ワタシが経験した最低気温はマイナス36度だったけど、そこまで冷え込んだらもう「寒っ」じゃなくて「痛っ」という感じかな。)
まあ、この寒波(と雪)もあと明日1日がまんすれば、金曜日には気温が上がり始めて、午後には雨に変わって、来週いっぱい(たぶん)延々と降り続けるという予報。これなら、明日少しぐらい積もってもすぐに消えるから、雪かきの必要はなさそうで安心。バンクーバー市には夜間に雪が積もった場合は各戸が午前10時までに前の歩道の雪かきをしなければならないという条例があって、角地の我が家は雪かきする距離が40メートル以上もあるし、何よりも午前10時なんてまだ寝ている時間だから困る。やらなければ250ドルの罰金だそうだけど、出勤ぎりぎりに起きてみたら雪!なんて場合はどうしたらいいんだろう。雪かきしていたら遅刻するだろうに。ドカ雪で交通マヒという場合ならまだいいかもしれないけど、たった2、3センチ積もっただけでもやらなければならないのかなあ。5センチくらいだったらたいていの人は難儀することもないだろうに。もしも翌日には雨に変わるという予報が出ている場合はどうなんだろうな。すぐに消えてしまうものを大汗かいて、心臓発作の危険を冒してまでやることはないと思うんだけど、やらないと罰金なのかなあ。一度、お役所に聞いてみたいもんだな。
今日はカレシが専門医のところへ行くことになっていて、予約が午後4時という遅い時間。それで、一緒に出かけてどこかで食事をしようかという話になっていたら、ワタシは仕事、仕事の状態になってしまった。今日なんか午後10時が納期のものがあるんだけど、ま、ほぼできているので、息抜き?をかねて予定通り付き合って、帰りにWhole Foodsで「お惣菜」を買って来ることにした。地下駐車場に車を止めて、病院までマイナス6度の中を徒歩15分。ワタシの顔には寒冷蕁麻疹が出て来て、かゆい、かゆい。カレシが診療室に入っている間、住宅改装の雑誌をめくって、宝くじが大当たりしたらこんな家を建てたいなあとパイプドリームをふかすこと1時間。ドクターに呼ばれて、奥さんの承諾も必要なものなのかどうか知らないけど、「外科的処置」の簡単な説明を聞いて、「そのときはだんなさんの運転手をしてね」と言われて、はいっ。どうやら日帰り手術で済むようで、それも早くて1ヵ月かそれよりも先の話。(でも、1ヵ月後はまだ仕事のなだれの中なんだけど・・・。)
ちょっと遅い夕食はボルシチとバジリコのペストのラザーニャと根菜サラダと、ついでに買ってしまったチョコレートクリームがたっぷりのカノリ。いつもの夕食よりずっとボリュームがあったもので、この分ではランチは省略かな。じゃあ、仕事だ、仕事っ!あ、その前に「残念ながら」のお断りメールを2本書いて送らないと。もう、どうなってるんだろう、今年の仕事戦線・・・。
会話は自分に興味のある話題でなければだめ?
1月19日。木曜日。ゆうべはちょっと遅くまで仕事を続けて、寝たのは午前5時。だけど、今日はゴミ収集の日なのもで、リサイクルトラックがドッシャンガッシャンと通る音で目が覚めたのが午前8時過ぎ。ごみ収集トラックの往路は午前9時過ぎで、復路は9時50分。まあ、普通に回収作業ができているようだから、けさも雪は降っていないということか。正午過ぎまで寝なおして、起きてみたら今日もいい天気。国境の南のシアトルがかなりひどい目にあったそうだし、アボッツフォードでは玄関の屋根に届きそうな吹き溜まりができた家もあるというのに・・・。
明日の朝には気温が急上昇して、その過程で「氷晶雨」というのが降るらしい。北海道で何度か経験があるけど、凍った雨が降ると道路はスケートリンクになるし、電線にべっとりと着くと電柱が倒れたりするからやっかい。まあ、我が家のあたりは一番先に本格的な雨になっていつもの景観に戻るだろうからいいんだけど、どっさり積もった郊外は濡れた雪が凍り付いて、そうなったら除雪もできなくなって大変だなあ。それでも、気温が上がればだんだんに解けるけど、その過程でも排水溝が塞がったままだと溶けた水の行き場がなくて、今度は浸水騒ぎが起きたりする。週間天気予報は来週の木曜日まで雨降りマークをのんきにコピペ・・・。
今日は朝食後から気合いを入れて仕事。パッケージにして送られてきた原稿は大小のファイルが19個。ファイル名が全部まるで暗号みたいな何桁もある数字だから、ややこしいったらない。しょうがないから自分なりに表を作ってコントロールているけど、それでも数字がみんな似ているからややこしさはあまり変わらないかな。それにしてもいつも思うのは、日本のサラリーマンは押しなべて文書の作り方が下手だということ。Wordの表の使い方になるともっと下手。おまけに、直接表を設定すれば楽だろうに、なぜかわざわざきっちりとサイズを合わせたテキストボックスを置いて、その中に表を入れてみたり・・・。
あのねえ、ボックスの中にきっちり納まっている日本語を英語に置き換えると、ボックスからはみ出してしまうんだけど。で、ボックスからはみ出した分はどこかへ消えてしまうんだけど。で、ボックスの下の方がページからはみ出しても、表のように次のページに続いてくれないんだけど。ま、わかんないだろうな。日本語の文字がきちっと収まるようにボックスのサイズを決めて、ていねいにフォーマットしたんだろうし、まあ、何年も経ってから訴訟沙汰の資料になって翻訳されるとは想像してなかったんだし。言語やら文化やら思考経路やらがみんな違うからしかたがないんだけど、忙しいときに貴重な翻訳作業の時間をフォーマットの整備に取られるのが問題。ほんとにくたびれるったら・・・。
小町に日本の英会話教育についてのトピックが上がっていて、この手の英会話トピックはだいたいが話せる、話せない、なぜ話せないという方向に行くんだけど、たしかに英語をしゃべることにこだわる割にはしゃべれないと嘆いている人が多いような感じがする。日本人は外国語の習得が苦手だという人もいるけど、ワタシにはそうは思えないな。問題の根っこはコミュニケーションに対する考え方にあるんじゃないかと思う。このトピックではそれを「会話力の欠如」という表現で答えてくれた人がいた。ずばり、「自分の考えや意見を言えない、共通の話題が乏しい、政治経済や文学の知識が少ない、質問力が足りない」と。
でも、日本は教育水準が高い国のはずだから、知識が少ないというのはおかしいと思う。そこで思い出したのが、去年だったかgooの「つまらない会話の中身は」と言うタイトルのアンケートで、ランキングの上位に入っていたのが、自慢話、知らない人の話、愚痴、趣味の話、政治や経済の話、見ていない番組の話、仕事の話、親戚・家族の話・・・つまり、相手のことや自分が知らないこと、興味がわかないことには関心がない。関心のないことを聞いたってつまらないから、そういう話をされるのは耐えがたい苦痛でしかない。それではということで、そういうつまらない話題は全部取り払ったら、いったいどんな話をすればいいんだろう。沈黙には日本語も英語も関係ない。会話力の以前に何かもっと根本的なものが欠如しているような気がするんだけど、いいのかなあ・・・。
ま、ランチを食べて、また仕事、しようっと。まだまだたっくさんあるなあ・・・。
人間として、生き物として大事なもの
1月20日。金曜日。起床は午後12時40分。外は小雨模様。芝生や土の上にはまだ白いものが残っていたけど、車道も歩道もとっくに雪が消えていた。玄関ポーチの温度計は午後1時でプラス1度。
きのうは寝る前に大仕事の一部を分納したついでに、パワーポイントのファイルはどうしたらいい?と質問しておいた。相手はニューヨークだから時差は3時間。ワタシが起きて、朝食を済ませて、どっこらしょとオフィスに「出勤」する頃には、向こうはもうそろそろ退社時間。でも、ちゃんと返事が来ていて、「ベストを尽くしてください」。はあい、ベストを尽くしま~す。訴訟関係の仕事では、原則的に紙に書かれている文字はぜんぶ翻訳しなければならない。どこに「動かぬ証拠」が隠れているかわからないからなんだけど、それを判断するのは弁護士の仕事で、翻訳者はつべこべ言わずにぜ~んぶ翻訳するのが仕事。ま、1語でなんぼの商売だから文句は言わないけど、民事訴訟で金余り大企業が当事者だったりすると、弁護士も豪気になって、「ええ、めんどうだ、ぜ~んぶ訳させてしまえ~」ということになる。
その前に今日は郵便局に行って、デパートの請求書が来ているはずの私書箱を空にして、ミルクとランチの食材を少々買って来ないと、ということで小雨の中をモールまで。郵便を引き取って、ついでに新年早々にモールから(高級テナントを入れるために)立ち退きさせられたサロンがどうなったのか気になって外へ出てみたら、おお、もう移転先の張り紙。それもわずか2ブロック先と来ている。よかったあ。20年も同じ場所で夫婦でがんばって来て、そんな急に立ち退けはないよね。モールの外側に向いたこの一角は中華レストランも含めて5、6店舗がそっくり立ち退き。後に入るのは、サンフランシスコに行くたびに買い物に行っていたCrate & Barrelという、アメリカのおしゃれなキッチン用品店だから、ちょっぴり複雑な気持でもある。でも、それがビジネスというもので、すぐにしかも近くに移転先が見つかったのは常連客にとっても幸運だったな。
わずか1時間足らずのおでかけで、帰って来る頃には本格的な雨になって、午後3時には気温がプラス3度。訴訟仕事はひと休みにして、別の仕事の2点セットのねじ込みにかかる。ひとつは英日翻訳だけど、この英語がまたすごい。(たまにワタシのところに来る英日翻訳の原稿がそういうヘンな英語ばっかりなのはどうしてかなあ。)なぜヘンなのかというと、筆者が英語人でないヨーロッパ人だから。今度のはドイツの大手企業の名前があるから、その研究所のドイツ人研究者が英語で書いた論文ということかな。それとも、EUではかなり機械翻訳が普及しているという話だから、ドイツ語で書かれたものを機械翻訳したとか・・・。
自分の考えを相手に伝えたい、相手の考えを知りたいと思っても、ドイツ語と英語のようなまたいとこ同士みたいな言語の間でさえこんな調子なんだから、英語と日本語の間にはもっと深い溝があるのはあたりまえか。でも、同じ国で同じ言葉を使っている同士で、自分が知らないから、わからないから、関心がないから、(つまらない話は)聞きたくないというのは、何だかある種の引きこもり症とでも言えそうな感じがするな。自分が知っていることや興味がある話題しか話せないということなのかもしれないけど、そのあたりは「英語」はできるけど「英会話」ができないというのと似ていなくもないな。まあ、好奇心が向く範囲が広ければ話し相手には困らないかも知れないけど、実際に話し相手に困らない人って、自分の知らないことや興味のないことでも聞き耳を立てるタイプだと思うから、「つまらない会話」でも楽しめてしまうんじゃないかと思うけど。
きのうからつらつらと考えてみたけど、会話力とかコミュニケーション力がどうこうという以前に、やっぱり人間として、あるいは極端に言えば生き物として、何か大事なものが失われてしまったのではないかという気がしてならない。だけど、何なんだろうなあ・・・。
110番は教えてちゃんホットラインじゃないでしょ
1月21日。土曜日。起きてみたらまあまあの天気で、雨は降っていない。窓の外は完全にいつもの見慣れた景色で、ゴルフ場には人影が見える。まだぐしょぐしょだろうに熱心な人もいるもんだなあ。でも、降雪注意報が解除になってホッとしたと思ったら、今度は強風注意報発令中だって・・・。
朝食後、超特急でヘンテコ英語の日本語訳をやっつけて、さっさと納品。日本は日曜日だけど、校正する人もフリーランスだから、たぶん日曜もへったくれもなく仕事、仕事だろうな。次は英訳に戻って、まあ何ともすばらしい講演の原稿。実際にしゃべったときには、「え~」とか「その~」とか、リズムを取るための合いの手が入っていたんだろうけど、こうして文書に起こすとけっこう格調が上がるもので、それなりの訳文にしないといかんなあと思ってしまう。ま、この人はかなり話し上手なんじゃないかなという印象だけど。そういえば、昔、合いの手に「あいうえお」を全部使っていた政治家がいたんじゃなかったかなあ。
ま、とりあえず頭の切り替えということで、しばしの息抜き。何日か前(あるいはきのう)だったか、「110番」にかかってくる緊急性のない電話が増えているという記事があった。救急車の番号にも「雨が降っているから迎えに来て~」とか言うようなメイワク電話がたくさんかかって来るそうだけど、アメリカでは「亭主が夕食を食べない」と警察に通報?したおばちゃんもいたらしいから、このあたりは世界のどこにいても事情は同じなんだろうな。カナダでは警察も救急車も消防車もみんな同じ911で、かけると「警察っ?救急車っ?消防車っ?」とつっけんどんに聞かれるもので、ちょっとそういうおバカな電話はやりにくいだろうと思うけど、それでもかなりあるらしい。いったい何を考えているんだか・・・。
でも、110番に電話して「今日は何曜日ですか」って、やっぱりアホだなあ。いい年の大人が何でと思うけど、日本にはさもありなんと思わせる手がかりがたくさんある。ざっと検索して出て来ただけでも、「若者消費者110番」、「通販110番」、「震災に関連する悪徳商法110番」、「介護110番」、「科学なぜなぜ110番」、「生活保護110番」、「おくすり110番」等々と、まあ呆れるほど多彩な「○○110番」がある。要するに「ホットライン」のつもりなんだろうけど、「110番」はマニュアル思考の人間の頭には「教えてちゃんホットライン」として登録されているのかもしれないな。だから、「あ、これなんだっけ?」で、すぐ110番。「あ、困ったなあ」で、すぐ110番。何だかそういう構図が浮かんで来てしまったけど、つまりは自分で考えるのをやめてしまったということなのかな。だとすれば、まさに110番ものの緊急問題だと思うけどなあ。
こういう「教えてちゃん」の頭には「○○(のとき)はこうある(する)」(べき)というマニュアルしかないのかもしれないな。とどのつまりは「自分で考えない、考えられない、考えたくない」人が増えているということか。いわゆる「ゆとり教育」は子供たちに自分で考える余裕を与えて、独創性の発達を促すのが狙いだったんじゃないかと思うけど、その前の「他人の痛みがわかる子を育てる」教育もそうだけど、文科省の思惑が裏目、裏目に出ているような印象は否めない。どうしてなのか。まあ、根本的には「自我の欠如」だろうと思う。共感力とか思いやりといった人間関係に関わるものは「まず自己ありき」なんで、「自己」とつくものは悪いことだと刷り込まれてしまうと、自分の人格を確立するどころか否定することになって、へたをすると他人の人格まで否定すべきものになってしまうかもしれない。「自分」を認識できない人には他人が別個の人格だということが理解できないだろうし、自己を信頼できなかったり、大切にできなかったり、嫌いだったりする人には、他人を思いやることまでは考えが及ばないだろうし、ましては人を愛するなんて無理だろうな。いっとき自分探しが流行っていたらしいけど、「幸せの青い鳥」と同じで、「自分」というのは常に自分の中にしか存在しないものだと思う。
まあ、仕事の資料として送られて来た小学校の文科省検定教科書をめくったときに、まっさきに「ああ、こりゃあかんわ」と思ったけど、小町横町にも、ごくごくたまにのぞくだけになったローカルの日本人の掲示板にも、そういう教育の予期しなかった「成果物」が吹きだまっている感じがするから、時すでに遅しだったのかな。日本にも海外にも「自分探し110番」というのはまだなさそうだしね。まあ、ワタシには日本国の日本人教育をとやかく言う筋ではないのはわかっているけど、そこは太平洋をふらふらと風まかせの極楽とんぼのたわごとってことで・・・。
しょうがないから不倫男でも大統領にする?
1月22日。日曜日。予報どおりの雨。一時はかなりの風が吹いていた。ここのところ毎日けっこう根を詰めて仕事をしているせいか、ぐっすり8時間寝ているのに、目が覚めてからも眠くて、眠くて・・・。
朝食が終わってすぐからせっせとキーを叩き続けて、午後10時半にもうひとつ完了。明日からまた訴訟関係の資料の山との格闘だなあ。だいたい8日かかりそうな仕事をぎりぎり7日。まるでアコーデオンプリーツのごとしで、考えただけでもくたびれて来る。
それでも、エネルギーを養うために、午後4時過ぎにはトレッドミルでひと走り。この3日ほど、なぜか静電気がひどくて、モーターが突然止まってしまう現象が頻発していた。もう7年くらい2人して使っているものだから、ベルトが傷んで来ているのはわかるんだけど、動いているのに合わせて走っているときに突然止まると転びそうになって危険きわまりない。でも、静電気がこんなにひどいのはつい最近のことだけど・・・と考えていて、目が覚めたときにはたと思い当たったのが、デッキの下に敷いたプラスチックのフロアマット。カレシがオフィスの反対側に「支店」を置いていたときに椅子の下に敷いていたもので、「統合」で不要になったのをトレッドミルのデッキが下りるところに敷いたのだった。調子がおかしくなったのはそのあたりからだった。そこで、マットを外してから走ってみたら、あら、何ごともなく15分走れた。やっぱり静電気の元凶はフロアマットだった!まあ、至急で新しいのを買いに行くことはとっくに決めたんだけど、ワタシが半日くらい時間を取れるまではお預けか・・・。
今年の11月にあるアメリカ大統領選の共和党の予備選挙で、ロムニーが勝つと思われていたサウスカロライナ州がギングリッチの方に行ってしまった。ロムニーのカリスマ不足だという評もあるけど、ドが付くほど保守的な土地柄で、直前に元妻に「愛人も加えてオープンな結婚にしたいと言われた」とすっぱ抜かれたギングリッチが大逆転で勝てたのは、ロムニーがモルモン教徒だからだろうと思うな。モルモン教はキリスト教から派生した宗派なんだけど、アメリカ人の間には「ロムニーはキリスト教徒ではない」と思う人がかなりいるんだそうな。だから、高校時代の恋人と結婚して5人の息子がいて、浮気の「う」の字もないけど「異教徒」のロムニーよりも、不倫という保守的なキリスト教徒にとっては許されざるべきことを堂々とやろうとしたけど、キリスト教徒のギングリッチの方がまだましということだったんじゃないのかな。けっこう偽善的だな。まあ、組織化された宗教なんてどれもそんなようなもんだと思うけど。(だから、ワタシは一応はキリスト教だけど、階層的な教会組織が大嫌いということもあって、自分で勝手に信仰しているわけ。)
でも、ギングリッチが大統領候補になったら、オバマさんはほっとするかな。再選確実になりそうだもんね。ギングリッチはオバマ大統領が蹴ったカナダはアルバータのオイルサンド産地からアメリカはテキサスの製油所まで延々とパイプラインを敷設する計画を認可するつもりでいるらしい。だけど、それもどうやら経済効果も雇用創生も関係なくて、ハーパー首相がアメリカがだめなら中国に石油を売ると言ったもので、カナダと中国がラブラブになるのは許せぬということじゃないかと思うけどな。要するに、政治はそっちのけか。これも、どこでも同じような現象なんだろうけど、人類、大丈夫かね・・・。
さて、急いで見直しをして、出前一丁あがりぃ~と送ってしまおう。
いつの世でも嫌われ者にされる人がいる
1月23日。月曜日。晴れ!ずっと雨、雨、雨のはずだったのになあ。起床は午後12時半。ここんところ2人ともよく眠っている。ワタシの方で仕事がぎゅうぎゅうに詰まったせいで、四六時中ひとつ屋根の下にいるのに2人が別々のバブルの中にいるような感じだから、食事時と寝しなはクオリティタイム。特に就寝前のひとときは、寝酒とおつまみで(たいてはカレシのだけど)とりとめのないおしゃべりをしてリラックスする、安眠のためにも大事な時間。それで就寝が少し遅くなって、それにつれて起床も遅くなっているというのが現状なんだけど。
ニューヨークからフィードバックがあって、「もう少し原文に忠実に」とのこと。ワタシとしてはいつも「英語らしく、ナチュラルに」を心がけてきたのを、訴訟の資料なんだからとかなり逐語訳に傾いたつもりだったけど、まだ意訳っぽいところがあるということか。なるほどなあ。ま、これも利用者のニーズに合わせて仕事をするということだから、きちんとフィードバックしてくれるこの会社、うん、気に入った。実際のところ、逐語訳の方が深く考えなくてもいいので割と楽ちんだから、仕事のピッチを上げられそうでいいか。サイモン&ガーファンクルの歌が聞こえてくるような。(バカにされても、罵声を浴びせられても)Just trying to keep customers satisfied(お客を満足させようとしてるだけさ)・・・。
あれはかなり含みのある歌だけど、いるよなあ、どこへ行っても、何をしても、何を言っても嫌われてしまう人。誰が見ても明らかに他人に害を及ぼす悪人なんだったらともかく、客観的に見たら悪い人間ではないのに、嫌われたり、いじめられたりする人(whipping boy)がどの社会にもいる。そういう人を攻撃する方は必ずと言っていいほど攻撃される方が「悪い」と言う。性格がどうのこうの、言動がどうのこうの、過去の行いがどうのこうの、親兄弟がどうのこうの・・・。要するに「多数の規範」から外れているということかな。単に「嫌い」というのなら人間の性で済ませられるけど、「自分はああいう(悪い)ことをしない/言わないから性格がいい」と自己評価の道具に使う人もいるから、「嫌われ者」にはとんだ迷惑。同じことは大から小まですべての「人間集団」についても起きることで、歴史を見渡すと、いつの時代にも「嫌われ者」人気ランキング1位がいる(ある)から、人間てのはおもしろい生き物だと思う。
懐かしい歌の歌詞を思い出していたら思考があらぬ方向に行ってしまったけど、小町に子供が検査で発達障害ではないと言われたのに幼稚園から(集団生活に問題があると)しつこく検査を要求されて困っているという相談があって、最近どうも自分の配偶者、家族、義家族、友人、同僚について「発達障害」を疑うトピックが増えて来たなあと思っていたところだったので、ちょっと重なったんだろうな。ワタシは生まれついてこの方日本の「多数の規範」(常識?)にうまく適合できたことがないので、日本で暮らしていたら「発達障害だ」と思われているかもしれないな。たしかに、発達障害には無数の原因があるそうだし、「ここから先が正常」という明確な基準点がない無限の「スペクトラム」だから、ワタシにもひとつやふたつ該当するところがあってもぜんぜんおかしくないし、たぶんあるんじゃないかと自分でも思うけど、まあ、カナダ版の「多数の規範」にはかなりうまく適合できているようだから、「問題なし」として良さそう。
その発達障害だけど、アメリカの精神医学会がその診断基準ハンドブック(DSM)の改訂で、自閉症の診断基準の範囲を狭めるというニュースがあった。DSMはカナダでも使われているから、カナダの教育界や社会福祉団体などが診断基準を満たさなくなって療育の支援を受けられなくなる子供が出ると騒いでいる。だけど、診断基準には性格が原因で表れそうな行動項目もあって、濃から淡に移り変わるスペクトラム。その果てしなく淡くなる方を詰めようということらしいから、うがった見方をすれば、教育界や社会福祉団体にとっては「障害」を診断される子供の数が増えればそれだけ予算や補助金の増加や教員の増員(つまり、教員組合にとっては雇用創出)を要求できるわけで、それがなくなるということでもある。単にわがままな子や親が扱いにくいと思っている子にまで「発達障害」のレッテルを貼るのはどうかと思うけど、教師も一介の生活者だから、そういう発想がないとは限らない。(小町の相談でもあまりにもしつこく検査を要求するので、補助金目当てではないかという疑いを持っているという母親がいた。)
それにしても、大人の社会で(往々にして自分の思い込みでしかない)多数の規範にピシッとはまらない人を発達障害じゃないかと疑うような風潮が出てきているしたら、怖いな。ひょっとしたら、それも今どきメディアの煽りの産物なのかもしれないけど、そうだったらよけいに怖い・・・。
夫の口から知らない女の名前がでるときは
1月25日。水曜日。朝方に大雨の音で目が覚めて、あまりよく眠れなかった。仕事、進まないと言うよりは、逐語訳に近づけるほど口数が多くなって、それだけ訳上がりのファイルがどんどん大きくなって、すべてキーを打って入力するわけだから最終的にそれだけ時間がかかってしまう。まあ、1語で何ぼの商売だから、口数が多ければ多いほど、請求金額が増えるという利点もあるんだけど、ワタシの翻訳ってクライアントには経済的だったんだなあなんて思ったりする。言葉の自然さ重視だったんだけど、それもだんだん変わっていくのかもしれないな。それにしても、ちょっと時間が詰まりすぎて来たなあ。最後の期限は月曜の朝だってのに、あ~あ、大丈夫なのかなあ・・・。
こっちは目を三角にしてキーを叩いているのに、カレシはまた何となく「かまってちゃん」モード。おいおい、水平線に黒い入道雲なの?知らないよ。夕食をしながらこの夏に予定している北海道旅行の話をしていて、カレシがワタシの旧友の名前を間違えた。他の友だちの名前と混同したのならともかく、ぜんぜんつながりのない名前だから、ワタシは一瞬、は?となってしまった。カレシは「何かふいっと出てきたんだよ」なんていってるけど、なんでワタシの仲良しの「ユリコ」ちゃんが「チカコ」ちゃんになっちゃうの?ワタシたち、チカコという名前の人とはおつき合いはないけど。カレシの英語教室にだって中国人やベトナム人だらけで若い日本女性はいないよねえ。かってのカレシの仮想的ハーレム(アニマルクラッカーの箱)にだってそんな名前のオンナノコはいなかったよねえ。
あのときは、マユミとかユカリとかカヨコとかユキエとかヨシミとかユミとか(つづりにYの入った名前が多かったな、なぜか)いろいろいたけど、「チカコ」はいなかったよねえ。(ま、国際婚活していた人が10年以上もずるずる付き合うとは思えないけど。)ふむ、どうしたもんだろうな、これ。「ねえ、チカコさんて、だあれ?」と聞いてみようか。名前からして、あんまり今どきの若い人って印象ではないよねえ。まあ、今どきの若い人がいくら「欧米人」だといっても来年70になるおじいちゃんに興味を持つとは思えないし、こっちにはキャバクラなんてものもないし。あのさ、ワタシ、今は猫の手も犬の手もとにかく何本あっても足りないくらい生計を立てるのに一生懸命なんだから、アナタ、退屈だとかさびしいとか言い訳できるんだったら、チカコちゃんとこに遊びに行ってもいいよ。もしも、チカコちゃんが「年の差なんてぇ、どうでもいいのぉ。アナタと一緒ならアタシはハッピーなのぉ」と言ってくれたら、結び切りの熨斗をつけて進呈しちゃってもいいかなあ。その後の2人はどうなるのか・・・妄想しただけで鳥肌が立つような爽快感かもね。
それはそうと、ワタシ(たち)が知らない日本女性の名前がほろっと口から出て来たってのは、どういうこと?ねえねえ、チカコさんて、いったいどこの誰なの?
名誉の殺人にはこれっぽちも名誉なんかない
1月30日。月曜日。正午過ぎに起床。ずっと何日も根を詰めて仕事をして疲れ切っていたはずなのに、よく眠れなかった。ベッドに入ってから、カナダにいて普通のカナダ人になりたかったばかりに命を絶たれた少女たちのことが頭を離れなくて、涙が止まらなくなって、ほとんど眠れなかった。自分の中のどこかにある怒りを呼び起こすような、何だかフラッシュバックのようなものが起こっているような気もして、とにかく納期に間に合わせるために「雑念」はできるだけ頭の中のどこか隅っこに積んでおいたのが、その仕事がおわったとたんに積みあがった感情の重みに耐えられなくなっ、て崩れ落ちてきたような感じだったのかもしれない。
きのうの日曜日、オンタリオ州キングストンで3ヵ月以上続いていた第一級殺人事件の裁判で、陪審員の評決が出た。被告3人全員が4件の殺人それぞれについて有罪、自動的に終身刑、最低25年服役しないと仮釈放の審査対象にならない。ずっとテレビや新聞で報道されていたし、検察側、弁護側の最終弁論を聞いていたので、ずっと気になっていた。南アジアや中東の家父長社会で起こるものだと思われていた「名誉の殺人」という名のおぞましい風習が移民の流れに従って世界に広がりつつあり、男女同権と機会均等の浸透に成功しつつあるカナダにも持ち込まれて、実行されていたことを白日の下に暴露した、あまりにもショッキングな事件だった。
事件が起きたのは3年ほど前。キングストン近くのリドー運河に沈んでいた乗用車から4人の女性の遺体が発見された。アフガン系の十代の3人姉妹とその「伯母」で、死因は全員溺死。でも、発見場所は車が誤って落ちるようなところではなかったこと、車のイグニションキーはオフになっていたこと、現場には別の車のヘッドライトの破片があったこと、さらには全員がシートベルトをしていなかったのに完全に開いていた運転席側の窓から脱出できなかったことから、殺人事件の疑いで捜査が始まり、やがて容疑者として逮捕されたのは少女たちの実の両親と兄だった。(4人目の女性は少女たちの父親の第一夫人で、カナダでは重婚が認められないので一家の「使用人」の名目で住んでいた。)食い違う話を怪しんだ警察が車にしかけた盗聴器には、娘たちを「売女」と罵り、「男は名誉を守ることが何よりも大事なんだ」と息子に言い聞かせる父親の声が録音されていたことから、裁判が始まって一気に「名誉の殺人」が注目されることになった。
長女ザイナブ、19歳、次女サハル、17歳、三女ギーティ、13歳。彼女たちがなぜ殺されなければならなかったのか。それは、カナダの普通のティーンになりたかったから。友だちや級友たちのように、流行の服装をして、きれいにメイクをしてショッピングモールに繰り出したり、ボーイフレンドとデートしたかったから。「普通のティーンになりたい」。それは、カナダに移住しても頑なに母国の家父長的価値観をまるでアフガニスタンを一歩も出なかったかのように守ろうとしたモハメド・シャフィアにとっては自分の名誉を冒涜する、許すことのできない「犯罪」だった。そういう父親に歪んだ「名誉観」を刷り込まれた長男も3人の妹たちの抹殺におそらく疑問を持つことなく加担したんだろうな。自分の実の娘を3人も殺した母親は、警察での尋問でも、裁判での証言台でも、ずっと長男を庇い続けていたという。
カナダに移民して来て、カナダ人と一緒に人種やジェンダーに制約されない教育を受けて、カナダでの未来に大きな夢を描き、やがては好きなった人と家庭を築いて次世代のカナダ人を育てる・・・そのどこが許せないというのか。ここはカナダであって、アフガニスタンではないのに。故国の価値観に従わないのは許せないから殺す・・・それは、永住者を希望し、それを叶えてくれた国の個人の自由と個人の尊重という価値観に唾を吐きかけるような、後足で砂をかけるような行為ではないのか。これから生きていく環境に溶け込もうとしただけで実の両親と兄に殺された少女たちが不憫で泣いているうちに、この10年以上ワタシの心の奥でもやもやしていたものがやりばのない怒りという形で姿を表したのかもしれない。
ワタシは命こそ奪われなかったけど、何年外国に住んでいても日本の文化や価値観を保って日本人らしさを固守するのが日本人の誇りだという不特定多数の日本人に「ワタシ」という人格もアイデンティティも否定されて、自分が実存するのかどうかさえわからなくなった時期があった。そのときはカナダですでに25年も暮らしていたのに、その人たちにとっては日本人として生まれた以上は、(外国に行っても)「その国の普通の人」になろうとするのは、外国の文化や価値観に身売りをするような恥ずべきことで、罰を受けて然るべきことだったんだろうな。たとえ命は奪わなくても、自死にまで追い込まなくても、言葉という名の石をもってその人の「魂」を破壊する行為は、その人を殺すのと同じことではないかと思う。だったら、「名誉の殺人」とどれだけの違いがあるのか。でもまあ、何かにつけて「○○はかくあらねばならない」(そうでないものは受けつけられない)という思考に凝り固まってしまった人たちには、そんなことを言ってもむだだろうな。
殺された少女たちは学校や児童福祉機関に何度となく相談したり、助けを求めたりしたという。それなのに教師たちも福祉士たちもなぜ彼女たちを助けることができなかったんだろうか。それは「移民の母国の文化習慣を尊重する」という政策が行過ぎてしまったからだろうと思う。カナダは移民が築いて来た国だから、異文化や異なる価値観の尊重には誰も異論はない。では、昔の奴隷のように強制連行されて来たんじゃあるまいし、何らかの利益を期待して自由意志で移住して来た人たちに受け入れ側の文化や価値観を(同化とまでは行かなくても)少なくとも尊重するように求めることがどうして非難されなければならないのか。問題の元は移民して来る人にカナダの文化や価値観の尊重を求めることを異文化を蔑ろにする差別行為だと攻撃する人たちだろうと思う。それも、実は異文化を「尊重してあげている心の広いぼく/あたくし」に陶酔しているだけだったりする人たちは始末が悪い。
即日3人に終身刑の判決を言い渡したオンタリオ州高等裁判所のマレンジャー判事は「殺人の動機となったのは名誉に対する文明社会では絶対に存在し得ない不健全きわまりない観念であった」と。その名誉というのが、女性を支配し、コントロールする権利を持つということであるならなおさらのこと。そんなちっぽけな「名誉」を守るために妻や娘を殺せるような人にはカナダに来て欲しくない。(自分であれ、他人であれ)郷に入っても郷に従うのは○○人としての名誉にかかわることだと考えるような人にも来て欲しくない。何につけても自分たちの母国に比べてカナダは劣っているとダメ出しばかりする人はすばらしい母国にお帰りいただきたい。ワタシの国の文化や習慣や価値観を尊重する気のない人には来ていただかなくてもいいですから・・・。
夫婦げんかをして思い出した初恋の人
1月31日。火曜日。正午過ぎに起きたら、雨模様。ワタシはまあまあ普通に眠ったけど、カレシは夜中にこむら返りで目が覚めて、ふくらはぎがまだ痛いと、起きぬけから何だかご機嫌ななめ。裏庭で人の気配がすると思ったら、マイクの息子が雨の中をひとりでガレージからの通路になるところを掘っていた。それを見たカレシが「なんであんなに深く掘り起こすんだ。枯葉まで掘り起こして、これじゃあ今年は菜園を作れない!」と怒り出したもので、アナタが施主なんだから出て行って話をしたら?と言ってみたけど行動する気配なし。ひとりでプリプリしているから、どうして欲しいのか説明しないとわからないでしょうがと言ったら、「オレは共感して欲しいだけなんだ」と切れた。
これにはワタシもカッチ~ンと来て、グチグチとネガティブなプレッシャをかけられるのはもうたくさん、やってられなぁい!ぶっちぎれたもので、朝っぱらけっこう盛大な夫婦げんか。まあ、落ち着いたところで朝食をしながら、「プレッシャなんかかけていないよ」というカレシに言ったもんだ。あのね、自分で考えればやれることをやらずにグチグチ、ワタシにはどうにもならないことで何が気に食わない、何がダメとをグチグチ。アナタのことなんかどぉ~でもいいんだったら何をグチグチ言っていても無視できるだろうけど、そうじゃないからこそ無視できなくて、年がら年中そうやってグチグチグチグチやられているうちに、何もできないもどかしさがプレッシャになってのしかかって来るの。そんなときに「オレはそんなつもりじゃない。そういう性格なんだから、勝手にプレッシャに感じるおまえが悪い」と言われると一気に崩れてしまうの。(それがモラハラの手口のひとつで、たしかに本人がほんとにそのつもりでない場合もあるだろうけど、誰よりも一番の支えになってくれるはずの人を傷つけて、人格を破壊するという結果は変わらない。)
でも、ワタシもよっぽど頭に来ていたと見えて、言っちゃったな。アナタにチャンスがあったときに行きたいところへ行かせるべきだったかも、と。アナタのスペック通りに、従順にかいがいしく、かゆくないところにまで手が届くような世話を焼いてくれる人が見つかるチャンスがあったときにね。カレシ曰く、「キミの世話の焼き方に全然不満なんかないよ、ボク」と。あ、そうですか、はあ・・・。まあ、人間ってのは生き方や人との関わり方は変えられても、自分の本質はなかなか変えられないものだと思う。カレシの気持が「ニッポン女子」のイメージに大きく動いたのは紛れもない事実だから、ひとりひとりについては記憶も定かでないだろうけど、その「イメージ」は忘れていないだろうな。ま、例の「チカコ」ちゃんはそのイメージにふと名前がついたということで、たぶん実在する人ではないだろうと思うけどね。
まあ、誰だって一度心を動かした相手を忘れることはないと思うけどね。このワタシだって、未だに「初恋」の人の顔と名前をよく覚えているもの。まさに思春期の入り口だった中学1年生のとき、おてんばなワタシが同級生のササキ・ミツオくんに恋をした。道路の向こうとこっちで気になる人をちらちらと見ながら下校する途中の交差点で、ミツオくんは右に曲がり、ワタシはまっすぐ。道路を渡り切ったところで、そおぉっと背中を逸らせてミツオくんが歩いて行った方を見たら、きゃあ、何とミツオくんがこっちの方を振り返っていた!心臓はどきどき、顔は火が出てかっか。たぶん無我夢中で走って、バス通りを越えて、家までの上り坂を一気に駆け上がったんだろうと思うけど、そのあたりはまったく記憶にない。バタバタと玄関に駆け込んで、息を切らしてしばらく座り込んでいたらしいけども。(ワタシにもそういうかわいいときがあったということか・・・。)
翌年2年生になってクラス替えで隣のクラスになったミツオくんは、休み時間になると廊下に立っていて、顔が合うたびに2人ともあわてて教室に飛び込む毎日。夏に父の転勤で転校してから、1度だけ、写真と一緒に「○○さんが転校してからは廊下に出て遊ばなくなりました」という、何とも胸がじ~んとする手紙が来た。(その時の写真は今でもワタシのアルバムにある。)思い起こせば、目が合うたびにどきどき、かっかするばかりで、2人だけで話をしたことなんかなかったな。ワタシの13歳の初恋は純情だったのだ。ミツオくん、高校を卒業して市役所に就職したという噂を聞いたけど、今頃どうしているのかなあ。好々爺になって孫の相手をしていたりして・・・。
その後はカレシに出会うまで何事もなく過ぎて、結婚してから一度だけ、ランチを買う行列の中でふと目が合った人がいて、違う場所でも何度か見かけているうちに互いの顔を見覚えてスマイルを交わすようになったことがあったなあ。東欧系かな。いかにも紳士然とした物腰の人で、たった一度だけだったけど、朝オフィスに向かう下り坂を歩いていたら、後ろから良く通る低音で「グッドモーニング」と言って、びっくりして挨拶を返せないでいたワタシを追い越して行った。声を聞いたのはそのときだけで、言葉を交わしたことはなかったし、名前も勤め先も何をしている人かも知らないまま、ワタシがオフィス勤めをやめるまで、行列の中に互いを見つけてスマイルをかわすだけの、淡い慕情とさえ言いがたいような気になり方だったけど、わっ、ひょっとしたら、あれはワタシのウワキ心だったのかなあ・・・?