ゴールデンウィークエンド
5月16日。まあ、いろいろな懸案も大体がそれなりに片付いた感じで、土曜日になった。ジャンボ仕事の納期まであと1週間。3割くらい進んだかな。「休養してくださいとは言いましたけど・・・」とねじ込まれた仕事もあるから、大丈夫なのかなあ。ま、詰まってしまったらそれはまたそのとき・・・
イアンから双子の洗礼式の写真が送られてきた。カメラに向かってにっこりの極楽とんぼの横のカレシは横を向いている。そっか、ブライアンと話に夢中でカメラに気がつかなかったんだな。目の下のたるみをさして、「老けて見えるなあ」とちょっと不服そうな顔。いやいや、ひと昔前の「狂乱時代」の写真の老けっぷりに比べたら、今の方がずっとずっと若く見えるってば。ほんとだよ・・・少なくともとんぼの目にはね。
双子はやっぱりかわいいなあ。でも、二人並んだ写真でよくよく見比べてみると、一見して白人顔のジュリアンの方が何となくパパに似ているようで、一見してアジア人顔のマテオの方が何となくママに似ているようにも見える。まあ、二人の子供なんだからあたりまえの話だけど、ふとカレシととんぼの間の子供はどんな顔をしていただろうかなあと想像してみた。う~ん、想像がつかないのだ、これが。いつだったかトロントの科学館で二人の顔から子供の顔を合成する機械があって、面白半分で試してみたら、「二人の子供」はえ?え?え?というくらいのヘンな顔だったもので、顔を見合わせて「子供ができなくて良かったねえ」。まあ、自分の子供なら、二人に少しずつ似ていたらそれでいいと思うけどなあ。このあたりではミックスとわかる子供を連れた日本人ママにたとえほんとうでも「ママに似ている」と言ったら速攻で縁を切られるらしいけど、どうしてだろう。
今日からビクトリアデイの三連休。ふつうはみんないっせいに庭仕事に出るので園芸センターが混む週末なんだけど、今年はまだどうしてもそんな気候には思えない。だけど、本格的な春になって最初の三連休だから、バンクーバー島へのフェリーは何便待ちになっているやら。アメリカとの国境は長い、長い車の列で越えるのになんと3時間待ちとか。あのさあ、ふつうならシアトルまでせいぜい2時間でしょうが。てことは、シアトルまで行くのに5時間もかかってしまうってこと?やだ、やだ・・・。
まあ、カナダドルがだいぶ上がってきたし、何よりもアメリカ側の店はカナダに比べて品揃えがずっと豊富。おまけに48時間以上滞在して帰ってくるときの免税額が一挙に倍の400ドルになったもので、不景気もなんのそので、みんなどっと越境ショッピングに出かけたんだろうな。日曜の夜にはカナダ側の検問所に長蛇の列ができるだろうな。三連休で国境に長蛇の列ができるのは日本のゴールデンウィークの高速道路の渋滞と同じようなもので、人間の考えることは似たり寄ったりということか。カレシは「ひとり400ドルかあ。よっし、来週の週末はひとっ走りシアトルまで行こう」。え、きのうは久しぶりに親友のエイドリアンとロリーンに会いにビクトリアに行こうかって言ってなかった?はあ・・・
怖いのはパンデモニアム
5月17日。びっくり、びっくり。ニュースを見るたびに数が増えるからびっくり。日本での新型インフルエンザの話。バンクーバー周辺では過去3週間で確認数が65人だけど、日本ではたった2日くらいでどっと100人近く。まさかウィルスが日本に潜り込んだとたんに感染力を強めたなんてことはないだろうな。ニュースをよく読んでみると、1週間も前からインフルエンザで休む人が増えていたのに、「海外渡航歴」がないからということで保健当局があっさり「季節性」と判断したらしい。さらによく読むと、政府のお達しでも「海外渡航歴」が診断の指針?になっていたそうな。つまりは「外国から持ち込まれる悪疫」という先入観に囚われてしまって、空港であれだけのものものしい検疫をやっているんだから、海外と接触さえしなければ大丈夫ということだったのかな。ようするにいわれのない安心感。あほか・・・。
聞くところによると、新型インフルエンザでは3割の感染者が熱を出さなかったんだそうな。つまりは、海外から到着した人間に1台300万円もするサーモグラフを突きつけてみても熱のない感染者は捕まえられないということ。第一、飛行機の中の空気は循環しているんだし、乗っている人間もトイレに行ったり、運動したりで歩き回るし、マスクをしたって飲み食いのときは外すわけで、全員が濃厚接触者ということになるんじゃないのかな。だったら、患者の発生国から飛行機が到着するたびに乗員乗客全員を1週間隔離して徹底検査するくらいでないと、「水際作戦」なんて所詮はスイスチーズみたいなもの。それにしてもあの重装備の検疫風景、海外でパロディまで作られているの、日本国政府は知っているのかな。「お空が落っこちて来る!」と、knee-jerk reactionで端っから伝家の宝刀を抜いて上段に振りかぶってしまうと、実際に空が落ちてきたときにはもう後がないんじゃないかなあ。
ここは行政が知恵を絞って柔軟にことに当たらないと、何から何までが自粛、縮小、禁止になって、最後的には経済的な自殺行為になりかねない。英語サイトのコメントに「弱毒性のインフルエンザでこの騒ぎなんだから、これがエボラ熱か何かだったら日本はそれこそ内部崩壊するだろう」というのがあったけど、外野席から見ているとさもありなんと思ってしまう。パンデミックより怖いもの、それは「パンデモニアム」。よけいなお世話かもしれないけど、政府も国民ももう少し視野を広げて事にあたった方がよくはないのかなあ。
ローストガーリック
5月18日。三連休の最終日の月曜日。しずかな、しずかな・・・ま、極楽とんぼには洗濯機を回しながら仕事、仕事、カレシは庭仕事にリサイクル品のまとめに精勤の一日。こんな平穏な日は10年前には想像するどころか願うことさえできなかったなあ。10年いっしょに年をとりながらいっしょに手探りしてやってきたんだよねえ。
いつのビクトリアデイもそうなんだけど、連休中は海でも山でも道路でも事故、事故、事故。飲酒がらみの事故がとにかく多い。なにしろ風薫る5月だもんなあ。やっとのことで来る日も来日も薄ら暗くて、雨ばっかり降る長い雨期を抜けて、み~んなそれっとばかりに待ち焦がれていたアウトドアシーズンに飛び出すわけだから、待ちあぐねて気が急いているのと開放感とでついバカな冒険をしてしまうのもわからないではないんだけど。人間というのはしょうがないもので、毎年「悲劇」が繰り返される。
暑いくらいの好天だったきのうの日曜日。久しぶりに分厚いステーキをグリルして、ワインを開けての盛大なディナー。夜になってもうれつに汗が吹き出してきた。うわ~とにかく暑い。と思ってそばのカレシを見たら、あら、額に汗が光っている。「暑いねえ、なんか」。「うん、暑い。エアコンの準備をしておけばよかったなあ」。そういえば、いつもなら暑がり屋のカレシのために、5月の初めにはエアコンの電源を入れて、寝る前にベッドルームを冷やしているはずなんだけど、今年はまだ電源さえ入れていないなあ。地球温暖化ってどこの惑星の話?
汗をかいたから風呂に入ろうということになって、はたと思い当たったのが、ガーリック。そうなんだ、ひと玉のガーリックをローストして、バターのようにステーキに塗って食べたんだった。二人で丸々ひと玉平らげたわけで、そりゃあ体内原子炉が過熱してもおかしくない。ローストしたガーリックはほんとうにバターのようにとろっとして甘みが出るし、息も臭くならない。レストランではよく使われる食材なんだけど、家で素焼きのロースターを使って作ろうとすると手間がかかるし、ホイルに包んで焼いてみてもあまりいい結果が出ない。
そんなときに通販カタログで見つけたのが電気ガーリックロースター。オリーブ油と調味料を入れた焼き皿に頭を切り落としたガーリックの玉を逆さにおいて、水で濡らした素焼きのリングを底に入れたロースターにセット。蓋をしてスイッチを入れると、30分ほどでローストガーリックのできあがり。とろりとした実を薄皮からしぼりだして、用途はいろいろ。ふつうのサイズなら5個くらいはまとめてローストできるけど、いくらおいしいからといってそんなにたくさん食べたら体内原子炉が溶解してしまうかも。(冷凍は可能)
[写真] キッチンの新しい人気者、ガーリックロースター
裏口から来たウィルス
5月19日。雨のはずがいい天気。まあ、仕事の予定が胸突き八丁に来ているから、晴れても降っても関係ないんだけど、バンクーバーっ子は天気の話をするのが好きなところがある。過去70年間で降雨量が20%も増え、しかも秋口と春先に多くなっているというニュースがあった。ふむ、気候変動の証拠なんだろうけど、あんまり降るようになるとゴムボートを備えておかなければならないかも。
日本の新型インフルエンザは案の定どんどん感染者が増えている。聞くところによると、空港でのあのSF映画さながらの検疫はメキシコ、アメリカ、カナダから到着する便だけに限られていたらしい。海外からの到着便を全部調べているのかと思っていたから、お口あんぐり。水際作戦でウィルスの侵入(侵略?)を防ぐ!と意気込んだのはいいとしても、毎日すごい数の人間が世界を飛び回っていて、しかもどこへ行くにも「直行便」を見つけるのが難しくなりつつあるご時世だってことを知らなかったのかな。政府が「日本はこんなにやってるんだぞ」と誇示するためのメディアイベントで気をよくしている間に、開けっ放しの裏口からウィルスが入ってきたのに気がつかなかったということだろうな。
学校が休みになってひまをもてあました高校生たちがカラオケに殺到したり、盛り場に繰り出しているという話がBBCやワシントンポストで報じられた。アメリカでは学校を閉鎖した後でも感染は減らなかったというデータがある。まあ、どこの国でも十代というのは群れを作る習性があるから、学校があろうとなかろうとどこへ行っても常に「濃厚接触」だものね。キミたちさあ、カラオケボックスみたいな閉鎖空間に何人もで集まって、唾を飛ばしてわいわい騒いでいたらかえってヤバいんじゃないかと思うんだけどなあ。
日本の今年第1四半期の実質GDPが年率にしてなんと15%以上も収縮したんだそうな。これは世界の金融危機と不況による輸出不振と消費の減少と円高によるもので、新型インフルエンザが発生する前の数字。英語サイトに、「海外」での新型インフルエンザ拡大は第2四半期の日本の実質GDPを0.4%下げる効果があるという記事が載っていた。「海外」での蔓延でそれだけの影響があるとしたら、「国内」で蔓延したときのGDPへの打撃はいったいどれだけのものになるんだろうな。なんかウィルスよりもそっちの方が怖いような。
NHKのサイトを見ていたら、まだ感染者の出ていない岡山では、熱も何もないのに病院に行って「感染していないことの証明書」を求める人たちが相次いだそうな。勤め先から「証明がなければ出社するな」と言われたという。どこの企業か知らないけれど、これにもお口あんぐり。これも自分のところから感染者を出したら世間様に申し訳が立たない(悪者になりたくない)という心理なんだろうけど、そうやって健康な勤め人がどっと病院に押しかけたら医療体制はパンクして、肝心の患者の治療さえおぼつかない困った状態になるだろうに。まあ、良きにつけ悪しきにつけ、見ていておもしろい人たちがいるところだよなあ・・・
病気のしかたを知らない人
5月20日。きのうずいぶん張り切ったおかげでジャンボ仕事もトンネルの出口から薄明かりがさしてきた。この週末はひと休みできそう。今日一日がんばって、あしたとあさってで仕上げして、完了!と意気込んで作業開始。そんなときに電話が鳴る。ドクターのオフィスから呼び出し。ああ、検査で何かひっかかったんだ。その場で金曜日に予約を入れたけど、「仕事があるからついて行けないよ」と言ったら、即「気になるから」と明日に予約変更。付き添いなんかいらないじゃないかと思うけど、不安症のカレシはもはや「もやもやムード」一色で、明日の夜の英語教室もキャンセル。
「またいろんな検査をするんだよ~。ボクは検査がいやなんだよ~」と駄々をこねるカレシ。あのさあ、何か病気があるなら、検査をしてそれを突き止めて、相応の治療をして治すのが筋道じゃないかと思うんだけど。病気が見つかるのが怖いから検査がきらいだなんて本末転倒じゃないの。といっても、カレシの不安は治まるものではないから、うろうろ、ためいき、うろうろ、ためいき。困ったねえ。大きな病気をしたことがない人は病気のしかたを知らないんだろうねえ、と言ったら、「知りたくもない!」と。まあ、知らずに済めば人生めっけものだけどなあ・・・
というわけで、やる気満々だった仕事のペースが狂ってしまった。こりゃあ徹夜も視野に入れとかないと。もちろん、極楽とんぼだってすごく気になる。確かにドクターからお呼びがかかるということは何か問題があるってこと。だけど、まだほんとに空が落っこちてくるのかどうかわかっていない時点ではおろおろしてもエネルギーのむだ。はっきりしたところでどうするか、どんな選択肢があるか、どうしたいかを考えればいい。これはあんがい経験値のようなものなのかもしれない。いつも危機に遭遇した時に人の本性が現れると言うんだけど、これが昔のカレシならキレまくるしかなかっただろうな。今のカレシは昔のカレシとはずっと違う。あんまり落ち込まないようにうんとお母さんハグしてあげようっと。
病気の話のついでに、ひとつ気がついた不思議なこと。朝日新聞がやたらと「マスク過信は禁物」とかマスク着用は「海外ではまばら」とかいう記事を載せ始めた。マスクが品薄になって、かっての「トイレットペーパー騒動」のようなパニックが起こるのを警戒し始めたのかな。これまではどこを見ても「マスク、マスク」の連呼だったのに、今頃になって手のひらを返したように海外の対策例だの学者の意見だのを持ち出して、暗にマスクを「しない」ことを勧めるようなことを言ってもなあ。引用されていた某保健所長の言葉は「日本では自分をどう守るかということが強調されがちだが、欧米では感染源にならないためにはどうするか、というほうに比重が置かれている」。う~ん、マスク信仰の大衆に信じてもらえるのかな。
マスクの海のような光景を見てふとわいた疑問 ― あのマスクは使い捨て?それとも何度も使うの?何日くらい使うの?洗濯はできるの?人間の呼吸は湿り気があって温かい。子供の頃に自分の息の湿り気でぐしょっとなったマスクが気持悪くて大嫌いだった。あの頃はガーゼでできていたから今は違うのかもしれないけど、吐き出した湿った温かい空気がマスクにしみ込んで、いろんな細菌が増殖する温床にならないんだろうか。長時間そのマスクを通じて息を吸い込み続けていても大丈夫なのかな。病原菌はウィルスだけじゃないわけだから・・・
ドクター・マーの医術
5月21日。普通に起きて、普通に朝食をとって、カレシはドクターのところへ出かけた。何が飛び出すかわからないけど、いろいろ考えたところでは「糖尿病」が第一候補。そこはしろうと診断のやっかいなところで、そうとめぼしを付けるとどんどんそれらしい症状に思い当たってしまう。そうえいばああだった、こうだったと数え上げて、糖尿病なら自分でコントロールできるから、まあ、いいかとなる。うん、ようするに食事療法ね。
今日は早々と翻訳部分を片づけて、仕上げの見直しにかからなければならない。残るは日本の原稿用紙に換算すると10枚以下。なにしろお役所的な文書で、主語らしいものがないから、「する必要がある」の羅列にしてはいったい誰がやるのか、その主体がまったく不明。文脈から判断をつけるしかないんだけど、なるほど、日本語ってのは官僚たちには実に便利な言語。まあ、大変なのはそれからで、元々原稿用紙100枚近い量だから、見直しと文章の磨き上げにゆうに2日はかかる。オーストラリアで羊の相手をしながら待っている編集者への送信期限は土曜日の午前7時。ふ~ん、徹夜になるのかなあ・・・
二時間ほどして帰ってきたカレシ、「マー先生にはいつもびっくりさせられるよなあ」と第一声。ふむ、しょぼっているようには聞こえないから、とりあえずは「深刻な病気」ではないらしい。びっくりと言うところを見ると糖尿病でもなかったらしい。忙しいと言うのに、「キミにもかかわることなんだよねえ」と気をもませる。ええ?ぎょっとさせるなあ。でも、聞いてみると、マー先生の診断はなんと「高コレステロールの高血圧」。ええ?カレシはいつも低血圧気味だったのに。まあ、高血圧は境界域だそうだけど、コレステロール値が高すぎということで、100日分の薬の処方箋をもらってきた。遺伝的な要素もあるらしく、カレシの次弟のジムはもう何年も薬を飲んでいる。
極楽とんぼにもかかわることと言ったのは、さっそく食事療法を始めなさいと言われたからで、赤身の肉は月1回くらいにして、魚をたくさん食べること。なんだ、それくらいは大した影響じゃないな。アルコールはワイン以外は控えること。それって、食前のマティニはだめってこと?でも、ワインはOKというなら、さっそくど~んと仕入れて来ようじゃないの。HマートやIGAに行ってグルメの魚を買い込んで、シーフードのグルメ三昧と行こうじゃないの。それにしても、食事療法の情報シートをよく読んでみると、それほど我が家の普通の食事と変わらない。ということは、やっぱりアルコールが元凶なんだろう。この数年二人してよく飲んだもんねえ。てことは、極楽とんぼも調べてもらった方がいいのかなあ。食事療法だって二人いっしょなら楽ちんだし・・・。
それにしても、診てもらいに行ったこととはまったく別の診断。念のための梅毒検査はおとりにすぎなかったんだろうけど、そこがマー先生の医術で、いつもながら思わぬ結果にびっくりさせられる。梅毒なんて、そんな可能性は「限りなく」ゼロだよね。でも、「限りなく」ということは決して「ゼロ」ではないし、ゼロだと思うことはできなかった。カレシが信頼を取り戻そうとどんなに努力しても、最後の1%は戻って来ないのかもしれない。その1%はどんなに努力しても決して癒えることがないかもしれない私の1%でもある。ひょっとしたらマー先生がとっくの昔にこれもライフスタイル病の一種だから「向き合い療法」でコントロールして行けると診断していたのかもしれない・・・。
夜勤明けみたいな・・・
5月23日。ふうう、やった、やった。納品前の校正が完了したのは期限まであと2時間を残した午前5時。仕上がりはWordファイルにして48ページ、英語の単語数で約16,000語。もっと早くから始めておけばよかったと後悔しても遅すぎるか。後続編はこの倍の量があるから、スケジュール管理を強化しないとなあ。もっともクライアントは翻訳や編集の下請が世界中に散らばっているために日本時間の午後11時を納品の「標準時」にしているだけのことで、オフィスで誰かが待っているわけではないけど、オーストラリアにいる編集者は午前4時に起きて昼まで仕事をするというし、とにかくも期限は期限。それに、今回は(午後いっぱいの作業は別として)せいぜい2時間の「残業」で済んだわけだし(と、またぐうたらしてあわてそうな展望・・・)。
カレシが気持よさそうにいびきをかいているベッドに入ったのが午前5時半。アドレナリン過剰なもので、ちょっと一杯でスローダウンしてから・・・と思ったけど、外はすでに朝日が昇っていて、鳥の声がやかましいくらい。まあ、日が昇ってから寝るのに寝酒も何もあったもんじゃないよなあ、と思ってあきらめることにした。あ~あ、極上のコニャックをの~んびりと味わいたい!
正午に起床。買い物のパートⅠはまず薬局。処方された「リピトール」というコレステロール値を下げる薬、百日分で250ドル、ざっと2万円というところか。「オレ、こんな薬に一生金をかけたくないよ」とカレシ。うん、食事に気をつけて運動をすればたぶんいらなくなるんだろうと思う。だけど、そういいながらも。いつものように医療制度がああだこうだ、何がああだこうだ、あれがああだこうだと、うるさいことはなはだしい。何しろ体重は標準域なもので、カロリーを減らしたらやせてしまうだのなんだのとぶつぶつ(おなかのあたりはちょっとばかり「ポーニョポニョ」だけどね)。はいはい、コレステロールに注意集中ね。次は青果屋で野菜と果物を大量仕入れ。野菜ジュースを作ると言うのにんじんもどっさり。あまり買い込みすぎて冷蔵庫がパンク状態・・・。
それにしてもうるさいなあ、キミ。あのさ、料理をするのは極楽とんぼなんだけど。つまりはカレシの生殺与奪権を握ってるってことで、いい子にしてないと、高カロリー、高コレステロール、高塩分のグルメディナーを食べさせちゃうからね。でも、本屋に行って「ジャパニーズクッキング」みたいな料理本を探して来ようかなあ。そういう「えせ日本食」なら極楽とんぼにも作れる。穀類はいいというからどうかと聞いてみたら、白いご飯は好きじゃないけど、味のついたご飯(つまり、炊き込みご飯)ならいいという。なんだ、なんだ、そのあたりならとんぼも同じ。ならばと、さっそく母が持っていた古い炊き込みご飯の本を引っ張り出してきた。ふむ、嫁入り道具のサンヨー電気釜の出番が増えるかな。まあ、カレシは6週間まじめに食事療法と禁酒(食事時のワイン1杯のみ)でコレステロール値を下げてみせると意気込んでいるけど、さて・・・。
魚重点の食事療法第1日目のきのうは納期が差し迫る中で、松茸ご飯、サーモンとまぐろの刺身、フィドルヘッド(ぜんまいの一種)の煮びたしで済ませた。ところが真夜中のランチの時間になって、できあいの海老天を温めたら、またコレステロールがどうのこうのうるさいから、3分の1だけあげたら「足りないからカップヌードルを食べる」と。あのさあ、カップヌードルの方がカロリーも塩分もすごいんだけどねえ・・・。今日の夕食はおひょうのホイル蒸し。蒸したフィドルヘッドを軽く米酢で酢のものにして添えてみたらおいしいかった。ふむ、「創作えせ日本料理」に凝ってみるのもおもしろそうだなあ。
海鮮料理専門店開業?
5月24日。日曜日。まるで初夏のようないい天気なのに、なんだかくたびれている。そりゃそうだろうなあ、仕事に追いまくられているところへして、カレシのコレステロール対策がなんだかんだとストレスになって来ているような感じがする。何を言っても「だけど、だけど」を連発して反論しなければ気がすまない御仁なもので、さすがの極楽とんぼもしまいには「だったら自分で情報を探して、自分で考えて、自分で対策を決めなさい!」。ほんとに男って、「いざ」というときになるとどうしてこうも手がかかるんだろうなあ、もう。ストレスになっちゃうよ~。とんぼの血圧まで上がっちゃうよ~。
まあ、それでもカレシは(ああだこうだと大騒ぎしながらも)けっこうまじめに食事療法をやっているから感心。お酒は夕食にワインを1杯だけ。(それでも、とんぼのお抱えバーテン業務は継続して、ちゃんと夕食時にマティニ、ランチの時に注文のカクテルをを作ってくれる。ありがとうね。)だいぶサボりっぱなしだったトレッドミルも早歩きから始めて毎日ちゃんとやっている。(おかげで、2月の旅行以来仕事に埋もれていることを口実にしてサボっていたとんぼもつられて再開。ありがとうね。)うまく行ったら、カレシだけじゃなくてとんぼまでヘルシーになりそうだから、いいか。
お出かけディナーはホテルにあるレストラン「Yew」。極楽とんぼはさっそく「アルゼンチン特集」のカクテルメニューで見つけたピスコサワー。カレシは「ボクは飲めないから」と殊勝な顔。ホタテのセヴィチェにメインはオヒョウで飲み物はミネラルウォーター。とんぼはコーンと黒豆のスープにラムで、それぞれに白と赤のワイン付き。そうなんだ、おでかけすれば別々に料理を注文できるから、とんぼは肉にありつけるし、いいレストランはいい魚料理が必ずあるから、カレシは魚を食べられる。そっか、そっか。肉を食べたくなったら、「どっかでディナーしようよ~」と呪文を唱えればいいってことだな、うん。
おなかがいっぱいになったところで、魚類を仕入れにHマートへ。午後8時を過ぎてもまだ日があるから半袖1枚で十分。肩丸出しのタンクトップにショーツで闊歩している女性もかなりいるけど、明らかに日本人とわかる若い女性たちは中途半端なタイツみたいなものを履いて、ごちゃごちゃ重ね着した上に首から何枚もマフラーをかけるといういでたち。陰で「ホームレススタイル」と評する人たちもいることを知っているのかどうか。けっこうな数ということは、日本ではやっているファッションなんだろうな。暑くないのかなあ。(そういえば去年かおととしの今頃は毛皮のようなふわふわした縁取りのフード付のコートが流行っていたような。)
Hマートでは肉の売り場は無視して、きはだまぐろにしろまぐろ、刺身用の鮭に生のさば。ん?自分でさばを料理したことってあったかなあ。普通のスーパーでは売っていないからないだろうなあ。料理の本をひっくり返してみればなんとかなるだろうけど、まあ、ちょっと冒険のつもりで行こうっと。フリーザーの中には丸ごとの大きなはまちが2本あった。頭と尻尾がないけど、ゆうに50センチはあって、値段をみたら1万5千円くらい。いったい何個くらい握り寿司ができるかな。それより、あんな大きなのを買ってどうするんだろうなあ。まあ、見ているだけでもてあまして、次の買い物はカレシが大好きな魚のソーセージ。ついでに冷凍のおでんセットも買ってみた。ランチ用には冷凍のたこ焼き!
帰り着いてフリーザーの中をかき回すことしきりで、ビーフやラムは底のバスケットに移して、魚類を上のバスケットに移動。そこいらのスーパーよりも品揃え豊富かもしれないな。しばらくは魚料理の徹底研究にのめり込んでみるか・・・
メタボじゃないと言うけれど
5月25日。なんかきのうは猛烈に疲れた気分になって、しばらくぶりにレミを引っかけて寝たのに、いつまでたっても寝つけない。おかげで朝からなんとなくピンボケ。それでも、納期が差し迫っていないのをいいことに、まずはグラヴラックスの仕込み。砂糖と塩とディルとウォッカで大西洋の鮭をしめると、ちょっとスモークしていないスモークサーモンのような味わいに仕上がる。カレシに庭からひとつかみのディルを取ってきてもらって、数分で仕込み完了。
きのうは「オレのコレステロール値は数年前だったら正常だった数字。いつのまにか基準が下がったのは、それを決めた委員会のほとんどが製薬会社の人間だったからで、これは薬を売るための陰謀だ!オレは不要な薬を飲まされているんだ!副作用が出たらどうしてくれるんだ!」と1日中ぐちぐち。そのくせ、「じゃあ、必要がないなら薬はやめたら?」と言うと「いや、やめない」。はああ。でも、今日は過去数年コレステロール値を下げる薬を飲んでいる弟に電話していろいろと話を聞いたらしい。今度は、「これは老化現象でもあるんだよ。ジムは友達のほとんどが同じ薬の厄介になっているんだって。キミも更年期を過ぎてるんだから、調べてもらって来いよ」。う~ん、風向きが変わってきたような・・・
まあ、ネガティブな精神性は自分のエネルギーを浪費して、ポジティブな人のエネルギーまで吸い取ってしまうから困りもの。それに、あれこれと人にやれ、やるなと言われても、「論拠」がないと拒否する人だから、ググッたり、いろんな人にきいたりして、自分が納得して折り合いを付けるのが、ポジティブに向かう方法なのかもしれない。夕食後にいつものように居眠りしないでコンピュータの前に張り付いていたと思ったら、「オレのBMIは23.5で、ぜんぜん肥満なんかじゃない」。ついでに極楽とんぼの体重まで聞き出して(女性に聞くことか!)、「おお、21.5だ」。あのさあ、なんか楽しそうでいいんだけど、もう次に仕事がずらっと並んでいるんだから、手に余るストレスはなしにしてよね。極楽とんぼだっていい年なんだからさあ・・・。
そうそう、いつも見ているソーシャルブックマーキングサイトに、日本各地の「マンホールの蓋」の写真のコレクションのリンクが載っていた。え、マンホールの蓋の芸術とは何ぞや・・・と、ついつられてのぞいたら、うわ~、あるある。日本全国に芸術的なマンホールの蓋がある。でも、車が通るところに芸術も何もないもんだろうと思って、よく観察してみたら、周囲がレンガだったりする。ということは歩道に設置されているってことかな。へえ、日本のマンホールは車道に作らないのかなあ。まあ、どっちにしても、粋というのか何というのか、おもしろい発想。バンクーバー市長さま、こっちもマンホールの蓋を美化してみない?
ボキャ貧者は誰のこと?
5月26日。今日はほぼ4ヶ月ぶりにヘアカット。今日は椅子を借りているロシア人のヘアドレッサーが若い女の子の客とぺちゃくちゃ。会話の中で「ハラショ」と言っているからロシア語だと思うんだけど、どうやらファッションの話をしているらしく、ときどき英語が聞こえる。それもセンテンスではなくて、早口のロシア語の流れの中に訛りのない英単語が混じっているからおもしろい。彼女たちはきっと子供のときに移住してきて、英単語は彼女たちがロシアから持って来たロシア語の語彙にはなかった言葉なのかもしれないな。
たしかに10代や20代の人間の語彙と30代、40代、さらにそれ以上の世代の語彙が同じというはずはない。どこの国のどんな言語でも、年と共に知識を学習し、社会を経験する中で語彙が増えて行くんだと思う。極楽とんぼだって、毎日英語の生活の中で日本から持って来た(20代の)日本語の語彙にない観念や概念を英語で蓄積して来た。たまたま運良く日本語に接していられたから、日本語バーションも取得できて来たわけだけど、それでも英和辞書を調べないと対応する日本語を思いつけないことが多くなった。これは母語が主言語でなくなってみるまでは想像しにくいことかもしれない。ある掲示板で、英語の会話に入っていけないという悩みに対して、おもしろい「比較言語論」を展開している御仁がいた。勝手ながら趣旨をまとめると、
『日本人が英語を話すのが苦手で難しいというのは、美しい日本語に執着するあまり、日本語に対応する英語を探し求めてしまうために引き起こされている現象。日本語の語彙の多さに比べて、英語は極端に語彙が少ない。一つの英語に対応する日本語が、あまりに多くありすぎてしまうのが問題。話すときに日本語に対応する英語を探し求めるために咄嗟に反応出来ないから英語が難しいと勘違い。世界中からの移民が短時間で自分の意志を伝えられるようになるための言語が英語。話すときは日本人のIQレベルを落とせばコミュニケーションが上手く行く』。
英語教室に出かけるカレシにサイトラして聞かせたら、「極端に少ないのは自分の語彙だろう。ほんとうに英語の語彙が少なかったら、誰でも簡単にマスターできて、ボクの出番がなくなるよ」。ふむ、そうだねえ。最後のふた言になると「Japanese supremacist(日本人至上主義者)は白人至上主義者と同じ負け犬さ」。ふむ、日本人は一般に何にでも優劣をつけて判断したがるところがあるし、それが病的に高じたのがいわゆる仮想的有能感だろうと思ったけど、それが外国の風物事象に向くと「日本人至上主義思想」になるってことかな。
もちろん、日本国民である日本人が「日本が一番」と言うのは当然のことで、「それに比べて~はNG」とやらなければ日本人の愛国心はすばらしいなと思うんだけど、この仮想的有能感に溢れる若い人たちの投稿は、文体といい、語彙といい、軍国主義時代の日本語を模倣しているような感じがある。それで、日本語は極楽とんぼの母語だし、生活の糧でもあるから、よけいなお世話とは知りつつも行く末を心配してしまうんだけど、あんがい、彼らの日本語の語彙が単に貧弱なものだから、「大日本帝国大本営発表」スタイルがかっこよく聞こえると思ってまねているだけなのかもしれないなあ。
かわいい子には一人旅を
5月27日。正午に目を覚まして、しばらくベッドの中でだらだらしていたら、カレシ曰く、「良く考えたんだけどさ、ボクはラッキーだった」。え?「ドクターが診てもらいに行ったのとは関係ない検査をいろいろやってくれたから、問題が見つかったんよ。でなきゃ、ある日突然心臓発作ってことになってたかもしれない」。ん、また風向きが変わって来たような・・・。「だからさ、勝手に検査してくれたドクターに感謝しなきゃならないなあ」。ふうん。「いやあ、ググって回っていろんなことがわかったよ」。はあ、それを先にやってくれたらよかったんだけどなあ。
でもまあ、これが病気や障害や喪失に初めて遭遇したときの、最初の「ショック/混乱」の状態から、「拒否/抵抗」の段階を経て、「受容/適応」に到達するステップだったんだろうな。ということは、ほんとうに病気らしい病気をしたことがないカレシの反応の経過はごく普通だったのかもしれないなあ。痛みをがまんしながら対処することを学ばなかった人や、それをそっくり他人に振り向けて来た人や、痛みが去ったらケロリという人には「経験値」が残らないからなのかもしれない。かの国の文部科学省とやらが一時期「人の痛みがわかる人間を育てる」とぶち上げていたけど、人の痛みをわかれと言われても、痛い思いを経験したことがなければわかりようがないだろうし、痛い思いが不快感や恐怖としてしか記憶に残っていなければ、痛みに苦しむ人を拒絶したり、否定したりしてさらに傷つけるような言動に出ることもあるだろう。ふむ、かわいい子には(親の付き添いなしで)旅をさせよってことだ。
きのう言語の語彙の多寡のことを考えていたら、今日は日本の協会のメーリングリストで「アナログ」という新カタカナ語の意味をめぐってメールが行き交っている。技術文書に出てくるアナログではなくて、技術とは何の関係もなさそうな広告文のようなもの。どうやら「アナログ」も本来の観念に基づく意味から遊離して、日本人にしかわからない「意味合い」を持つ日本語として独り歩きを始めたらしい。カタカナ語化される外国語、特に日本人特有の「感覚」に沿った新定義を与えられた語を厳密に「日本語」として日常語に取り入れてくれるならいいんだけど、日本人は元が英語なら英語人にとっても同じ意味だと思い込んでしまうらしいからやっかい。前向きの思考を表現する「ポジティブ」という語が、「自分に都合よく解釈する」、「自己主張する」、つまり「自己中心的な好ましくない態度」という意味で使われているのを何度か見たけど、これも取り入れた外国語の本来の意味が日本人の情緒に染め替えられつつあるケースなんだろう。(なんだか、動物の卵子から遺伝子を取り出して、別の種の遺伝子を入れているところを想像してしまうけど。)
外国語を取り入れることは言語発達史の一場面なんであって、実際に雑種言語の雄とも言える英語の語源をたどれば、まるで外来語だけできた言語に見えてくる。だから、日本語もそういう風に発達しつつあっても不思議ではないんだけど、カタカナ化されて日本語に入る外国語は実際にはほぼ即席で「日本語化」しているのに、使う人はいつまでも「外国語」意識を持ったままであることが多いように思う。このあたりは、西洋人(白人)が日本に帰化しても日本人にとってはいつまでも「外国人」なのと似ていなくもない。日本語は日本文化の礎なんだからあたりまえだろうけど。
それにしても、「アナログな」ってどんな感じなのかなあ。アナログと言うからには、「ディジタル」の対極として言っているんだろうけど、日本語はどちらかというと「感覚言語」だから、ひょっとしたら「ほっこり」のような感触なのかな。(ふむ、「ほっこり」に飽きたということも考えられるな吾。)リストではまだ結論は出ていないけど、「英語がまたひとつ日本語に取られて、永遠に失われてしまった。残念だ。さびしくなるよ」とイギリス人のメンバーが大根役者よろしく嘆いて見せている。いや、日本人にとっては単なるファッショナブルな「英語ちりばめ用法」でしかないんじゃないの?そのうちに「この子にはもう飽きたので、英語さんにお返しします」ってなことになるんじゃないかな。
できることならデジアナ人
5月29日。先週半徹夜して仕上げた仕事、文体が気に入らぬと言ってきたそうな。なんでも国連の会議で提出するものなんだそうで、もっとしゃっちょこばった文章でないと困る、というのが「苦情」の趣旨らしい。おい、なんでそれを先に言わないんだよ、んったく。だって、いかにも漫画チックなイラストを使っていたから、てっきり「一般人向け」だと推測してしまったじゃないの。これも「日本語で意思を伝達できない日本人」のなせる業なのか、「言わずともわかるはず」主義なのか、これこそ「東大下暗し」。だけど、お堅い文書と漫画チックなイラストはなんだか楽しいミスマッチ・・・。
メーリングリストをにぎわしてた「アナログ談義」。「ディジタル対アナログ」の定義を人間の思考スタイルや性格を表現する形容詞として使われ始めたということはわかって来たけど、いつもの二項対立的な「比較語」だとすると、「ディジタル」な人と「アナログ」な人はどうちがうんだろう。
ディジタルは、情報を量子化して「整数」で表現することだそうで、整数の間には中間値と言うものがなくて離散している。また、ディジタル処理には表現可能な数値の範囲が決まっていて、データがその範囲から溢れるとトラブルが起きるとか。さらには、「二値的な」ものを言うこともある。つまりは、「0」と「1」のバイナリ思考か。一方のアナログは、本来はあるものに「類似」あるいは「相似」した「もの」を表す名詞で、形容詞は「analogous」で、あるものを類似した別のもので表現すれば「analogy」となる。情報は連続した数値として表され、「多値的」とも言える・・・。
ウィキペディアによると、アナログな人というのは「物事を割り切らず、曖昧さを残しつつ理解する人」なんだそうな。つまり、「0」から「1」の間が連続しているので、限りなく「1」に近い「0.9」の場合や逆に限りなくゼロに近い「0.1」の場合もあるだろうし、どっちとも言いがたい「0.5」の場合もあるだろうと考えるということかな。要するに柔軟だとか、融通がきくとかいうことなんだろうけど、それを「どうでもいいよ」と判断するのと、「まあ、いいか」と判断するのとではかなりの違いがある。それに、自分の価値観が確定しいないと茫洋とした中間値の中で迷子になりそうな気もするな。
一方で、中間値のないデジタルな人にはアナログ式の「アバウト」な発想がないということになるか。つまり、大・小、高・低、優・劣、真・偽、美・醜、可・否、勝・敗といった二値的な判断基準の真ん中にある「・」は二者択一の「or」ということかな。どっちかでなければということであれば、自分の価値も他人の価値も縦の基準で測ることになったときにきつそうだなあ。アナログな人には「and/or(どちらか、あるいは両方)」という選択肢もあるし、アンケートによくあるような「all of the above(全部あてはまる)」とか「none of the above(どれでもない)」というのもあるけど、「or」しかないデジタルな人にとっては、割り切れなければ「none of the above(すべてダメ)」となってしまうのかな。一見して一刀両断のさっぱりした考え方のようにも見えるんだけど、実はこだわりや思い込みの強い人なんじゃないかという気もする。
まあ、アナログ人間は器が大き目と言えるかもしれないけど、柔軟すぎていい加減だったりするし、こだわり型のデジタル人間は器が小さめと言えるだろうし、択一的すぎてかえって優柔不断だったりするから、陰陽マークのようにどっちも持ち合わせて、バランスよく制御できるデジアナ人間になれたらいいのかもしれない。でも、世の中が複雑になって選択肢が広がるほど、アナログ型の思考の方がどっちかというと生きやすくなりそうな感じがするんだけど、はて、どうなんだか・・・。
依存体質は自分離れ
5月30日。いつの間にか初夏の気候。まあ、もう6月に入るんだから、あたりまえか。換気装置のフィルターもきれいなのに取り替えて、空気の取り込み口を掃除。ゴルフ場にあるポプラの大木から白い綿毛が盛大に飛んでくるようになったから、ちょっと時期尚早ではあるけど、手が空いたときにやっておかないとね。ついでだから、ベッドのシーツも冬用のフランネルから夏用のパーケイルに取り替えて、ベッドカバー代わりの毛布も厚い純毛のものから軽い綿のものに取り替えて、なんだか久しぶりに家事らしい家事をしてみたような気分。
仕事の合間と月末がうまく週末に重なったから、請求書の作成もささっと終えた。ついでに、アメリカドルのクレジットカードの請求サイクルが切り替わったところで、盛大にショッピング。カナダドルがどんどん上がるもので、アメリカドル建ての翻訳料が振り込まれる口座の残高の価値が相対的に目減りしてしまうから、アメリカドルのまま使ってしまうほうがよけいな為替手数料がかからなくていい。円高とはいうけど、カナダドルへの交換レートも90円に迫りつつあるから、貯まっていく円建ての翻訳料をカナダに送金するのもなんだか損な気分になる。だけど、去年のログと比べてみると、5月末で仕事量(語数)は10%減なのに対して売上高は5%増。つまり、去年に比べて今のところは単価の高い仕事が多いということだから、まあ、いいか。
イギリスのタレント発掘ショーで一躍有名になったスーザン・ボイル。最終回で惜しくも優勝を逃したけど、なんかこれで良かったのではないかと言う気がする。最初のときと同じ曲を歌ったのは、彼女自身にも優勝しなくてもいという気持があったのかもしれない。優勝したのはジャンルの違うダンスグループだから、実質的には「歌手」のジャンルで優勝したようなもので、ミュージカルの大御所アンドリュー・ロイドウェバーが食指を動かしているとも言われるから、プロデビューへの道はすでに開けているのも同然。賞金の10万ポンドは逃したけど、その10倍も20倍も稼いで、悠々自適の老後を故郷のスコットランドで送るだろうと思う。彼女の『Cry Me a River』を聞いては涙を流す極楽とんぼとしては、ちょっとクラシックなブルースやソウルを歌わせたい気がするけど。
さて、今日の読売新聞を見て、びっくり仰天。大学生の成績を親に通知する国立大学が増えているという。私立大学ではとっくにやっていることらしいから、もう一度びっくり。「サービス向上」の感覚なんだそうな。まあ、大学も「教育産業」のうちだからといえばそういうことなんだろうけど、保護者からの要求があるとか、精神的にもろい学生が増えたとか、はては親が子供の成績が「どの位置」かと聞いてくるとか・・・う~ん、どこかで何かがおかしいなあ。大学3年にもなれば一応は大人のはずの学生たちも異存はないらしいから、よけいに何かがおかしい。大学は中学や高校の延長でしかなくなったのかなあ。やっぱり、な~んかヘンだ・・・
ある教育評論家が「子離れできない親、親離れできない大学生が増えたことの象徴でもある。自立を促す観点に乏しい高校までの教育も問われるべきだ」と評している。たしかに日本の義務教育は知識偏重の「受験教育」みたいなもので、しかも知識を入試を通過するための「情報」として記憶させているようなところがある。知識を咀嚼せずにのみ込ませるから、知性や理性の発達の栄養にはならないままで答案用紙に排泄されておわり。自立どころか、自我の発達さえあやしい自分離れ。未熟なまま教師になり、官僚になり、親になり、そのままで子供を作って、育てて、教育して、その子供が未熟なまま大学に行って、社会人になり、親になり・・・という「精神的に消化不良で虚弱体質」の悪循環か。それにしても、大学ってそれだけのところだったのかなあ・・・