ツッパリだったカレシ
5月17日。ゆうべはカレシの母校ブリタニア高校の創立百周年イベントがあった。カレシが卒業したのは1961年度、弟のジムは1962年度。郊外のメープルリッジから出てきたジムと3人で食事をしてから学校でのレセプションに出かけた。チャイナタウンからそう遠くなく、昔から移民が多く住む地区にある学校は、今ではプールやスケートリンクのあるコミュニティセンターを併設した総合施設のようになっているけど、1911年に完成したオリジナルの校舎もまだ使われている。比較的低所得のブルーカラーの地区ではあっても、州の首相や最高裁判所長官を始め、いろんな分野で名を成した人たちを相当な数輩出しているのが多民族都市バンクーバーを代表するようなブリタニア高校なのだ。
この夜のお目当ては年度別「ミニ同窓会」。学校の校舎と言うのは高校も大学も同じで、迷宮のような感じがするから不思議だ。日本のような厳密な組み分けがなくて、課目ごとに教室を移動するもので、殺風景な廊下には細い灰色のロッカーがずらりと並んでいる。アメリカ映画でよく出てくる学校の風景とまったく同じ。ワタシが卒業した日本の高校は1学年の生徒数が500人もいたけど、カレシの「Class of 61」はベビーブーム前の世代だからたったの210人。カレシがつるんでいたのはほとんどが後に地元のテレビ、ラジオ、ステージで活躍して来た人たち。すでに3年後の卒業50周年の同窓会の話が進んでいる。
カレシが同窓生たちと旧交を温めている間、テーブルに置いてあった卒業記念アルバムをめくっていてカレシの写真を見つけた。日本式に言うと早生まれだから、まだ17才だった頃のカレシ!細面で、額に前髪がちょろっとかかっていて、ちらっとカメラから視線を外したところなんぞ、不良っぽいジェームズ・ディーン風。う~ん、なっかなかハンサムじゃないの。ひいき目かもしれないけど、すっごくイケてると思うなあ。でも、写真の横には「クラブにもスポーツチームにも入らなかったけれど、クルマと友だちを乗せることには熱心。将来については特に計画なしとか。がんばれ」と書いてあった。あらら。ちょっと投げやりな感じがしないでもないけど、さびしがり屋なのに集団に取り込まれるのは嫌いというカレシの性格がうかがえるひと言だ。1年を残して中退しようとしたのを夏のアルバイト先の上司に「卒業して来い」と言われて思いとどまった人だから、ほんとうに自分の将来に夢を持てないでいたんだろうなあ。それでツッパリをやっていたのかなあ。
だけど、カレシの家にたむろしていた幼馴染たちの多くが刑務所に行ったという劣悪な環境から、ちゃんと就職して、一念発起して大学を卒業して、華々しくなくてもそれなりのキャリアを積んだし、家庭だって二転三転しながらも落ち着くところに落ち着いたんだし、夢も計画もなかった人生だったとしても、少なくとも負け犬の部類には入らないと思うんだけど、カレシはどう思っているのかなあ・・・。
今夜はバンクーバー随一のスイングバンドの演奏でダンスパーティ。ジムは半年ほどの同棲を解消したばかりのガールフレンドと行くんだそうだけど、カレシは「興味ない」。実は、カレシはダンスが大の苦手。それを名手のパパがからかうのでよけいに嫌いになった。学校などでのダンスパーティにはもてなくて相手がいない女の子を誘って行ったそうな。もてない子なら下手な相手でも文句はいわないという計算だったらしい。でも、キッチンで音楽なしでやる即興的で緩急自在の私たちのダンス、たまにカレシが鼻歌で伴奏したりするけど、呼吸がぴったり合っていると思わない?
汝言葉を殺すなかれ
5月18日。ビクトリアデイの三連休の中日。土曜日は予報をはるかに予想を上回る暑さだった。バンクーバー市の公式記録になる空港での最高気温は27.9度だったそうで、この日の気温としては新記録樹立。真夏だってめったにこんな気温にはならない。この三連休は昔から伝統的に一斉にガーデニングを始めることになっているくらいだから、季節が目に見えて変わる時期でもあるのだろう。それにしても、28度はちょっと暑すぎるなあ。
バンクーバーのイーストサイドで若い黒熊がうろついているのが見つかったとか。さっそく捕獲して山へ送り返したそうだけど、熊が住んでいる山は入江の向こうのノースショア。入江を渡る橋からあまり遠くないところで見つかったと言うことは、夜にでものっそのっそと橋を渡って来たってこと?大学のとなりにある自然公園ではクリークに長いこと姿を消していたビーバーが戻って来たというし、港にはアザラシが住んでいるし、うちのあたりはまだスカンクがうろついているし、ゴルフ場にはまだコヨーテが住み着いている。なんだか野生動物と同居しているようだけど、それだけ自然がたくさんあるということで、喜ぶべきなのかもしれない。
小町で見た「~してあげる」論議。あれ、いつから「あげる」が上から目線の言葉になったんだろうなあ。誰かが指摘しているように、「あげる」は敬語で逆は「やる」でしょ。だって「あげる=上げる」じゃないの。誤用を指摘した人いわく「子供やペット、果ては植物や料理なんかにも「~してあげる」なんて使うようになってきたから感覚が上から目線だと勘違いが起きてるように思うなぁ」。同感だなあ。まず「ら抜き」で敬語を骨抜きにしてしまった後で、ペットや植物やモノを擬人化して「~してあげる」でほっこり、まったりやさしい自分を演出して、今度はやたらとていねいぶった話し方で「お育ちの良いワタシ」を印象付けようというんだから、敬語までが自己中の発想になっている。
上を見て使っていた「あげる」を勝手に下向きに方向転換してしまったもんだから、自分が「見下されている」と感じるようになったんだろう。ここでも被害妄想だなあ。それが転じて、上から目線のえらぶった嫌な人間と思われるのが怖くて、とうとう心を込めて何かを「してあげる」ときの言葉を失ってしまったということか。何かを「してあげる」のは尊大な態度ってことなら、人のために何かをするときは何と言えばいんだろう。言葉がなくなってしまったから、人のために何もしなくなってしまうのかな。言葉の貧しさで心まで荒んでしまうのかな。このままでは日本語は何にでも「お」のぶりっ子語やほっこり語、機械的なマニュアル敬語に乗っ取られて、ワタシが知っている日本人とは似ても似つかない「日本人」が増えたのと同じように、ワタシが知っている日本語とは似ても似つかない言語になってしまうのかもしれない。母語がこのありさまでは、いくら英語、英語と熱を上げても成果が上がらないはずだよなあ。
もちろん、言語は時代を表現するために、時と共に変化する運命にある。言語の本来の機能は情報の伝達だけど、無機質のデータだけが情報なんじゃない。1人の人間が感じること、考えること、願うことも立派な情報で、それをわかり合うことがコミュニケーション。言葉がなくたって人の心は通うんだけれども、心を通わせられなくなった言語は死んだも同然。言語が死ねば、社会も文化も死んでしまう。言葉もなく、社会も文化も失ってしまった民族はいったいどこへ行くんだろう・・・?
そっちの水は甘いかな?
5月19日。突然の真夏陽気も今日は雨でちょっとひと息。でも、前のように寒々とした感じがなくて、空気もとっても爽やかな香りがする。西岸海洋性気候の温帯雨林地域にあるバンクーバーの5月は長い、長い雨期が終わったことを体いっぱいに実感できる季節。家の外ではやっとライラックが満開。この先は暑すぎず、蒸さない快適な、だけどもつかの間の夏。
掲示板で、バンクーバーの水は「軟水で育った日本人には合わないのではないか」と質問している人がいた。ははあ、どうも体調が思わしくないのはバンクーバーの「硬い水」を飲んでいるせいではないかと疑っているらしい。たぶんに、単に「水が合わない」ってことなんじゃないのかなあと思うけど、今どきのニッポン人流の思考だと「合わない=日本は軟水=日本人には合わない水(=NG)」というダメ出しの方向へ行ってしまうらしい。まあ、そりゃ「水が合わない」という慣用表現があるくらいだから、水の質が違うと「ん?」と思うのは当然だろうけど、ここカナダで日本人には合わないといわれてもねえ・・・
水の硬度は、含まれているマグネシウムとカルシウムのイオンを炭酸カルシウムに換算して、1リットルあたり何ミリグラム(mg/L)として表すそうで、硬水、軟水の線引きは国によって異なるらしい。地質の構成が違うし、水源も違うし、何よりもその国で昔から飲んでいる水だから味覚や生理的な反応も違うわけで、つまりはある国では「軟水」なのに同じ硬度の水が別の国では「硬水」ということになっていてもおかしくない。調べてみると、日本の水は硬度が60mg/L以下で、確かに「軟水」であるらしい。これに比べるとヨーロッパはすごい硬水だけど、地質にカルシウムが多い上に、地下水の動きが遅いからだという。逆に日本は島国で山もそう高くないし、川も短いもので、水に溶け込むミネラルが少ない。それで軟水になんだそうな。
質問の主が回答の趣旨を理解したかどうかは別として、実は、バンクーバーの水はけた外れの「軟水」なのだ。それも硬度が約3mg/Lという、「超」が付く軟水だから、裏返して見れば日本の水はきわめて硬いわけ。つまり、質問の主が「水が合わない」と感じるのは消化器系統の働きが不調だからだろう。バンクーバーの水が日本で飲んで育った水に比べるとけた違いに軟水なもので、軽い下剤作用のあるマグネシウムが足りなくて便秘してしまったのかなあ。つらつら考えるに、ヨーロッパの水がカッチーンと滴り落ちそうなほど硬いから、肉食中心の食文化が発達したのかもしれない。フランスあたりのミネラルウォーターは3桁の硬度がふつうだし、レストランでよく出てくるイタリア産のサンペレグリノはあまりにも猛烈な硬水なもので炭酸を加えて飲みやすくしてあると聞いたことがある。逆に、日本の出汁のような微妙な味わいは軟水の方が良いそうだから、日本の繊細な味覚文化は軟水だからこそといえるのかもしれない。そうなると、異国で水が合う、合わないというときには、言語や習慣に対する違和感だけじゃなくて、その土地の水に対する生理的な反応も大きな要素なのかもしれないなあ。
バンクーバーの水が極端な軟水なのは冬の間に背景の山に積もった雪が水源だから。この雪が春になって融けて、山の斜面を流れて貯水池に入る。つまりは地表水なものでミネラル分が溶け込むひまがないから、天水そのままのウルトラ軟水になるわけで、ミネラルがない分どうしようもなく「無味」なわけだけど、肌にやさしいそうだし、石けんや洗剤が盛大に泡立つもので普通の半量で足りて、環境への負荷も半分ですむ。ホタルを誘惑する「甘い水」がどんなものかわからないけど、バンクーバーの水は甘いのかな?
閑話して動物図鑑
5月20日。早すぎる夏にひと息の雨も上がって、爽やか。ゆうべ(というよりは早朝に)突然ゴロゴロ~ドド~ンと雷。それもたったの1度きりで雨も降らずにおしまいだったけど、どこかで紙製品会社の野積みの紙の山に落雷して、ずぶ濡れになっていたのにもかかわらず、一瞬の間にまっ黒焦げになってしまったたそうな。バンクーバーでは統計的に雷が鳴るのは1年に3回くらいだと聞いたことがあるけど、この頃は真冬に鳴ったりするし、回数もちょっと増えているような気もする。これも気候変動なのかなあ。
それほど忙しいわけじゃないのに、明日、明日と先延ばししているうちに、とうとう冷蔵庫の野菜入れが空っぽ。英語教室帰りのカレシとモールで待ち合わせて野菜の買出し。何となく値上がりを感じる。品揃えもちょっぴり少ないような。まだ地物は早いから、やっぱり燃料費の高騰が響いているんだろう。スーパーでは魚がスペシャルだったので、サーモンとスナッパーのファミリーパックを買った。二人なら二回分の量だから、小分けしてフリーザーに備蓄。
ここのところは半日ですむような小さい仕事がちょこちょこと入ってくる。こういうペースものんびりやれていいんだけど、ずっとこの調子というのも生活に影響するから考えもの。そういうときに限って3年も前に仕事を引き受けたところから「ごぶさたしています」なんて言って穴埋め仕事が入ってくるからおもしろい。なんというタイミング。ところが、製造機械の説明書なんだけど、どうも変な日本語。ヨーロッパあたりで作成された「外国語なまり」の変な英語は見慣れているけど、これはもろに「外国語なまり」の日本語で、日本語が作者にとって母語でないのは一目瞭然。まあ、少子化で労働力不足になって、もっと外国人を雇用するようになったら、こういう日本語の文書も増えるだろうなあ。
夜のローカルニュースで、バンクーバー島で生息していないはずのグリズリーに遭遇して、命からがら逃げた人がいると報じていた。グリズリーは北海道に住むヒグマの親戚で、獰猛なことで知られている。バンクーバー近郊でもたまに出没することがあるけど、海峡を隔てたバンクーバー島には生息していた記録がないんだそうな。それが最近になって3度も人間と遭遇しているという。どうやら海峡の一番狭いところを泳いで渡って、住みついたらしい。グリズリーはどたっとした図体に似合わず遠泳選手なのだ。BC州にはグリズリーや黒熊の他に、先住民がスピリットベアと呼んでいる白い熊がいる。少しオレンジがかった白なんだけど、白熊ではなくて黒熊の一種だそうで、めったに人目に触れないから「幻の熊」と言われ、なかなか神秘的な風格がある。
日本在住外国人が日本のニュースと映像を載せているあるサイトに、バトントワーリングをする黒熊のビデオがアップされていた。広島の動物園にいる熊だそうで、棒切れを回して遊んでいたのがあんまり上手なもんだから、地元の広島カープが野球のバットをプレゼントしたとか。おすわりした熊君、両手で実に器用にバットを回してみせる。いやあ、クラウド君、これぞ究極の「熊手」だよねえ!
郊外のピットメドウズというところでは、この1週間ほどラマがうろついて農家の畑を荒らしているとか。えっと、ラマってのは南米のアンデスのあたりにいるラクダの弟分みたいなあれだよね。それがなんで地球の反対側にいるんだろう。誰かのペットだったのが逃げ出したのかもしれないけど、捜索願は出ていないらしい。テレビに映ったラマ君は、おちょぼ口風でちょっぴり人を食ったような顔つきなのがすごくかわいい。引き取ってくれる農場が見つかれば捕獲に乗り出すそうだけど、とっても大きなつぶら目が「さみしいよ~」といいたげに見えたのは、ふるさとアンデス山脈の空が恋しいのかもしれないなあ。
バベルの塔の後日譚
5月21日。変てこな日本語の仕事を完了して納品。これでまた遊びモードになるのかな、こんどこそ何かしようかな、なんて漠たる期待をかけていたら、待ってました~とばかりに仕事が、それも2つも降って来てしまった。また週末営業かあ、とちょっぴりぼやき調で言ってはみるけど、ご隠居のカレシと在宅稼業のワタシのコンビではもともと週末もへったくれもないもんで、ぼやき甲斐もないか。
言語と言うのはどこの民族のものでもおもしろいもんだなあと思う。何かにつけて互いにあさっての方を見ているような日本語と英語の間に挟まっていると、二歳児よろしく「どうして~?」の連発。ほんとうに、言い方の違い、考え方の違いはどこから来るんだろう。文法が違うから?文化が違うから?歴史が違うから?環境が違うから?いくら考えてもわからない。考えれば考えるほど「どうして?」が増えてしまって、しまいには、日本語だけで育ったワタシが、どうして英語でやっていけてるんだろうなあなんて考える。毎日使う「主言語」が入れ替わってしまったら、その人の性格まで変わるんだろうか・・・
世界中のどこへ行ってもバイリンガルであれば翻訳や通訳をやれるというのが通説になっているような観がある。まあ、言語Aの趣旨を言語Bに置き換えるのが翻訳というイメージなんだろう。だけど、同じ語族に属する言語同士ならまだしも、インド・ヨーロッパ語族の英語と、ウラル・アルタイ語族に点線でつながっている(つまりどこから来たのかわかっていない)多い日本語だと、「置き換える」なんて芸当はできない。何しろ英語はSVO言語、日本語はSOV言語だから、前者では「結論を急ごう」、後者では「~というわけで、とどのつまりが~」という思考の流れになる。前者は狩猟民族、後者は農耕民族に多いと言われると、なるほどと思う。でも、ほんとにそうなのかなあ。
というのも、インドヨーロッパ語族の重鎮みたいなラテン語はSOV言語なのだ。ラテン語をかじり始めて初めて知ってびっくりした。なぜって、ラテン語から生まれたイタリア語はSVO言語だし、ヨーロッパ系の他の言語も原則的にSVOになっている。ラテン語が生まれたのは今のローマ地方だそうだけど、古代ラテン人は農耕民族だったのかなあ。いったい全体いつどこでどうして語順がSOVからSVOにひっくり返ったんだろうなあ。この「結論を急ごう型」思考から「結論先送り型」思考への方向転換は単なる頭の切り替えではすまない大事件だと思うんだけど、いったい何が起こったんだろう。おかげで後代の王侯貴族の息子たちが語順の違うラテン語の勉強に頭を悩ますようになったとしたら、今の日本の子供が英語の勉強で悩むのと似ている。ラテン語が今も国際語だったら、日本人は得したかもしれないなあ。
言語の勉強で思い出すのが高校時代に大好きだった漢文。「白髪三千丈」なんて、今どき風に言えば「ええ、マジで~?」と笑っていたくらいだから、漢詩に感激したというわけでもなさそうなのに、なぜか大好きだったのは「中国語」がわかったからかもしれない。中国語はSVO言語なので、日本人は読む順序を示す返り点を使って漢文を読んできた。返り点を使わないで読むのを素読といって、ワタシはなぜか夏休みの前にそれができるようになって先生を驚かせた。ただし、想像上の返り点を追って読んでいたわけで、中国語を読めたのではない。でも、ひょっとしたらワタシの脳みそのどこかにSVO言語に共鳴する配線があったのかもしれない。そのおかげで英語の習得が楽だったとしたら何て幸運。それでも、こうやって書いている日本語はしっかりSOV型思考になっていると思うんだけど・・・
木曜と金曜のすきま
5月22日。英語教室に出かけるカレシ。いつもの通り、のんびりしていると思うと急に「遅刻だ、遅刻!」と騒ぎ出すから、こっちは朝から爆笑モード。目の前に大きな時計がかかってるのに。ほんとうに呆れるほど「我を忘れる」人だなあ。ま、ワタシのことさえ忘れなければいっか。なんてのんきに考えていたら、今度は靴箱が開かないという。とりあえず無理に開けて靴を出してカレシを送り出してから、あちこち点検。どうも手前に引き倒すようになっている引出しの下端が下の引出しの上端に引っかかるのが原因らしい。今までそんなことなかったけど、安いアジア製の家具は十分に乾燥していない木を使っていると見えて、暖房などで乾燥した家に置くとすぐに狂いが出てくる。まあ、手が空いたらやすりをかけてステインして修理するか。ああ、また雑用リストに項目が増えちゃった~。
小町に並ぶ書き込みのように、厳密に家事の分担を決めたら家の中のことがもっと片付くんだろうか。共働きだから半々にとか、稼ぎの少ない方が分担を多くすべきだとか、まるで算数をやっているようで、カノジョたちはすごいと思う。そんなにかっちり分けてできるのかどうかとなると、何度もトピックが上がるところを見れば、そうは問屋が卸していないことは一目瞭然。家事分担を稼ぎの多寡によって決めるという発想は「損したくない」思考から来るのかもしれないけど、その公式で計算したらカレシの方がワタシの二倍の家事をしなきゃならなくなる勘定。あはは、そりゃあ逆立ちしたって無理ってもの。もっとも、カレシは二人が食べる野菜を育てる庭仕事も「家事」のうちに入ると思っているらしいけど・・・
午後5時が期限の仕事に没頭していて、帰ってきたカレシが「今日のディナーはなに?」と聞くまで夕食のことをすっかり忘れていた。ああ、フリーザーから何にも出してな~い!「じゃ、パスタ食べたい」。というわけで急遽パスタを作ることにした。フリーザーをかき回して見つけたのがイカとタコとムール貝とエビ。これに去年カレシが作ったトマトソースでペスカトーレと行こう。パスタ作りも慣れるとけっこう簡単。お皿いっぱいの自家製パスタに、細く切った野菜にとっておきのバルサミコ酢をかけたサラダに、ワイン。ああ、満腹。頭がとろんとして次の仕事の算段が進まない。もう今日はサボって明日にしようと思っていると、「お願いしま~す」と飛び込み。あ~あ。いつもながらこの時間は鬼門。そうか、日本ではもう金曜日の午後なんだ。
それでもやっぱり今夜はサボることにして、カレシの提案でお風呂。午前12時。庭仕事をして汗をかいた背中を垢すりでごしごしこすってあげる。ごたごたしていた頃にいやがるカレシを説き伏せて始めたのがこの「ふたり風呂」。今ではどっちも1人で風呂に入ることはめったになくなった。向き合ってバスタブに入ると、カレシはいつも最初にワタシの足を洗ってくれる。聖書にでて来るイエスが弟子の足を洗った話を思い出して、何か特別な意味があるのかなあと思ったりするけど、家の中を素足で歩き回って汚れた足の裏をこすってもらうとなんともいい気持。(ときたまの「こちょこちょ」はよけいだけど。)60代の夫婦がいっしょに風呂に入ってキャッキャと遊んでいるなんて図ははたから見たらコメディにもならないかもしれないけど、夫婦は究極の裸の付き合いだもんね。30年もかけてここに到達した私たちだし、二人っきりのワタシなんだし、二人っきりの私たちなんだし、だから、好きなだけ楽しんで、垢を落とせばいいよね。
極楽とんぼは迷走中
5月23日。どうしたことか、今日はほぼ午後1時起き。カレシがそれだけよく眠ったということなんだけど、ワタシもかなりぐっすり眠れた気がする。ここのところ、カレシは夕食が終わった後リクライナーにだら~っと伸びて、テレビを見ながら眠ってしまっていた。おかげで、眠くならないといっていつもよりずっと遅くまでコンピュータの前に座り込んでしまう。ご隠居の身なんだからいいんだけど、英語教室のある日だけは朝10時45分に目覚ましがなるもので、寝不足に弱いカレシは起きたとたんから「疲れた~」ということになってしまうから困る。
今の英語教室をいったん「終了」にして、夏の間は少人数の「会話教室」、秋からは初級向けの教室と働いている人向けに夜の教室を始めようと言う計画が進んでいて、ネイバーフッドハウス側は大いに乗り気でスペースの確保を約束してくれているそうな。だけど、カレシはそういった折衝をやるのは大の苦手だから、いくら相手が協力的であっても相当なストレスになるらしい。昔のようにぶっちぎれることで解消するわけにもいかないからよけいに疲れるんだろうけど、まあ、キレないでいるということは心が成長したということだろうなあ。自分で考えて対処しなければならないことがいろいろと起きるのが人生というものだし、教科書から得た知識とか資格という紙さえあれば対処できるというわけでもない。だいたい、人生何級なんていう資格なんかないから、ひたすら経験から学ぶしかないもんなあ。
東京へ行ったとき、ワタシは大学の教科書を抱えていた。レポートを出して、試験を受けるまであと2ヵ月半しかないのに、まだ1本もレポートを書いていない。勉強はぼちぼちとやっているし、おもしろいと思う。だけど、どうもカリキュラムに沿ってやること自体がめんどうくさいようなところがある。それで、東京のホテルで夜1人になったときにやろうと考えたわけだけど、甘かったなあ。コニャックのグラスを片手に新宿の灯を眺めながらだから、旅行先には必ず持参する雑記ノートにごちゃごちゃと思うがままに書き連ねてばかり。もっとも、書いてあることはブログと同じで客観的に読み返して自分なりに得るところがあるから、ムダではないんだけど・・・
仕事に関しては「高卒」という今どきありえない(らしい)学歴で20年も十二分にやってきたから、今さら大学卒も何もないはずなのに、学位を取ることに何の意味があるんだろう。そもそも何で大学の勉強をしようと思い立ったんだろう。こうして考えあぐねてしまうのも、東京のホテルでひとりですごした1週間のどこかで、もっと勉強をしてからと抑えていた「書く」ことへの衝動が沸々とわいて来て、それがしだいに膨らんできているからだろう。小説を書きたい。芝居も書きたい。絵も描きたい。還暦と言う節目だからこそ、卒業するまで悠長に待ってられない気持になって来たのかもしれない。だって、人生は無限ではないんだもの。あと何年あるのかわからないけど、少なくとも若かった頃の茫洋としたものではないことだけは確かなのだ。
自分の中にある物語を書き出したくて、あちこち創作講座をつまみ食いしているうちに、系統立てて勉強したいと思った。で、どうせなら動機付けのつもりで学位をめざそうと・・・このあたりが甘かったのかなあ。元から決められた順序でやるのがストレスになるワタシには、系統立った勉強自体が向いていなかったのかもしれない。大学で勉強することへの憧れもあったと思うし、子供の頃から持ち続けてきた作家になる夢を捨てられなくて、土台になる教養を得たいと思ったのも確か。でも、どっちにしろ、いやに漠然とした動機だなあ。さすがは極楽とんぼだ、といいたいところだけど、ちとまずいよなあ。考えてみなきゃ・・・
仮想的有能グルメ批評家
5月24日。土曜日。またまた午後1時近くになってのお目覚め。何だか二人して眠り猫になったような。急に気候が変わったせいで、ひょっとしたら自律神経失調症みたいなことになっているのかなあ。そういえば、どうもなんとなくもわ~んとした気分が続いている。ああ、今日はまた暑くなりそうな予感が・・・
午後5時すぎにディナーにおでかけ。外の気温はまだ20度くらいある。何を着て行こうかと迷ったあげく、えいっとばかりにお気に入りのスリーブレスのミニのドレスにした。素足にヒールで、これじゃあ真夏の装い。日が傾いたら涼しくなるかと思ってジャケットを用意したけど、日没は午後9時頃。食事を終えて家に帰っている時間。着て歩いていたらやっぱりちょっと暑かった。土曜日とあって、ダウンタウンには夏の服装の若い人たちがあふれている。その中を「重装備」で歩いているのはアジアの英語留学生かワーホリ組だろう。そうでなくてもファッションの違いからファッション音痴にもすぐに見分けられるんだけど、スリーブレスで闊歩している人たちの間で長袖で猫背でとろとろと歩いているとよけいに目だってしまう。この人たちにとっては気温20度はまだ寒い部類に入るのかなあ。
お気に入りのLe Crocodileはバレンタインデイ以来のお久しぶり。いつものように早い時間だけどもうかなりの入り。今日はうまくピエールさんのテーブルに当たった。この人はパリのビストロのウェイターを絵に描いたような人で、ユーモアのセンスがまたいかにもフランス人。年の頃は40代だろうか。こういう「高級」のうちに入るレストランなら、ウェイターといっても時給はかなり高いし、チップも相当な額だろうから、フルタイムの「職業」として成り立つ。だから、アルバイトでもかなりの経験を積んだ、いうなればキャリアのはしごを登ってきたような人が多い。
食前酒はお気に入りの冷えたリレ。カレシはタルタルステーキの前菜に牛ヒレ肉のステーキと、牛づくし。ワタシは鴨のフォアグラとウズラの前菜にラムのもも肉。ここの料理はいつ行ってもばらつきがないからすばらしい。テーブルが次々と埋まって行くのを見ながら、ローカル掲示板に「カナダのレストランはレベルが低い」と書き込んだ人がいて吹き出しちゃったと言ったら、「日本人は何でもかんでも比べては上だ、下だとランク付けしたがるねえ。マクドナルドはどこへ行っても同じじゃないかなあ」とカレシ。ワタシはまたまた吹き出してしまった。トピックの主は東京の「高級レストラン」を引き合いに出して「カナダの外食はクズ」といっているんだけど。カレシいわく、「なるほど、だから日本人は見ないんだ」。
ワタシが笑ってしまったのは書き込みがいかにも今どきの若者の「仮想的有能感」の発露という印象だったから。だって、考えてもごらんなさいよ。フリーターだの派遣だのをやっている20代か30そこその若い人に東京の「お一人様3万円から」とかいう高級レストランに入るお金があるとは思えないし、カナダに来たってワーホリや英語留学じゃ高級レストランに出入りする余裕なんかなさそうだし、つまり、優劣をつけられるほどの経験は限りなくゼロに近いはず。まあ、この掲示板の住人は想像力には乏しいけど、「仮想的有能感」だけは人一倍。馬脚丸出しのトピックを立てて笑わせてくれるのはいいけど、現実には日本の未来が思いやられないでもないなあ。まあ、よその国のことなんだけど・・・
4本の右足の謎
5月25日。ついにこれで4本目!何がなにやら、謎は深まるばかり。事実は小説より奇なりというけど、ほんとうに二十一世紀の怪。もうトワイライトゾーンの領域に入ったと言われるのが「スニーカーを履いた右足」の謎なのだ。最初の発見は去年の8月。バンクーバー島と本土の間のジョージア海峡に点在するガルフ諸島のひとつで、ビーチに打ち上げられた人間の足が発見された。スニーカーを履いた右足。ボートの事故で行方不明になっている人のものではないかと憶測しているうちに、わずか6日後、別の島でもう1本の足が見つかった。最初のと同じサイズ12のスニーカーを履いた右足。事故か、事件か・・・?
そして今年2月。同じガルフ諸島の別の島で3本目の右足が見つかって、世間の注目を集めることに。海中の死体は分解の過程で関節が外れてバラバラになるのだそうで、軽いスニーカーは海面に浮いて、やがて潮流に乗って遠く何千キロも運ばれることがあるという。だから、3本の右足がどこから来たのかわからない。ジョージア海峡のどこかかもしれないし、遠くアラスカやロシア、ハワイ、あるいは太平洋の向こう側の日本かもしれない。それにしても、どうして右足ばかりが打ち上げられるんだろう。それも同じようにスニーカーを履いたままで、しかも数ヶ月の短い期間(最初の2つは1週間以内だった)にわずか数十キロの範囲で3本も発見・・・。「スニーカーを履いた右足」の謎は深まるばかり。
そして先週。バンクーバーのすぐ南にある小さな島のビーチでまたまた人間の足が見つかった。誰もが直感したとおり、スニーカーを履いたままの右足。これで、10ヶ月の間に100キロの範囲で発見された「右足」は4本目。フレーザー川の河口だけど、ジョージア海峡から流れて来たことは大いに考えられるそうな。海峡の北の方では、3年前に小型飛行機が海に墜落する事故があり、乗っていた4人が行方不明になっていることから、遺族がすでにDNA鑑定のためのサンプルを提出したそうだ。墜落事故が解決すればそれにこしたことはないけど、どうして右足ばかりなのか。こればかりは永久に解明されることがないかもしれないなあ。
人間は生来ミステリー好きだ。ある意味で動物的な好奇心があるんだと思う。何となく不思議なことや、大々的に喧伝される「謎の何とか」に興味を引かれる。その「不思議だな」という気持が「どうして?」になって、それに答が見つからないと落ち着かないから、「どうして、どうして」と考えているうちに文明の発達が促されたのかもしれないけど、宗教の教義のように「そういうことなんだから、つべこべいうな」というような答の出し方をされると、人間は思考をやめて、進歩はそこで止まってしまう。ネットにあらゆる情報が溢れる時代には、情報に飽食した人間が考えることをやめつつあるように見える。それとこれは別かもしれないけど、1本、また1本と登場する「スニーカーを履いた右足」はぼっと熱しては急速冷却する現代人のお尻を「もっと謎を追究しろ。もっと考えろ」と蹴っ飛ばしているように思えるんだけど・・・
拝啓ニッポン様
5月27日。あ~あ、ちょこちょこと所要時間30分ほどの小さい仕事をねじ込まれているうちに、10日も前から懸案だった放射線がどうのこうのという仕事の方がぎりぎりになって、就寝時間までねじり鉢巻。世界には「何とか学」と名のつく「学問」が尽きることなくあるらしく、それがみんな「何とか学会」というのを持っていて、みんな「Journal
of 何とか」という機関誌があって、毎年のように世界のあちこちで会議を開いているわけで、ふ~ん、人間はこうやって知識を蓄えて、霊長類のトップにのし上がってきたのか、なんて変なことを考えながら、無事に送信してベッドに入ったらなんだか変てこな夢が2本立て・・・。
めずらしくBBCやCNNでも注目を集めた日本発ニュースに、成田国際空港税関のドラッグ紛失事件がある。ドラッグを嗅ぎだす犬の訓練中、職員が到着便の一般乗客のスーツケースに訓練用のハシシを隠したところ、犬はそれを嗅ぎ出せず、職員もどのスースケースだったか覚えていなくて、結局「紛失」と報告。一般乗客の手荷物を訓練に使うのは規則違反だそうだけど、当の職員は「違反はわかっていたけど、犬の検知能力を向上させたくて」、適当に選んだスーツケースの外ポケットに入れたんだそうな。どうやら、乗客の入国管理カードの日本での連絡先を片っ端から当たって、スーツケースの主が東京のホテルに入った外国人とわかり、ドラッグは無事に税関に戻って一件落着とか。だけど、決まったように雁首そろえて最敬礼して「深~く陳謝」するお偉いさん連中の写真を見て、日本の人はこの手の写真を見飽きることがないんだろうかと不思議に思った。たしかに「謝罪」してはいるんだけど・・・
そういえば日本人の掲示板でよくアメリカ人/カナダ人は「絶対に謝らない」という批判をよく見かける。傲慢だ、非礼だと非難しているわけ。たしかに、日本人は何かあるととにかくまず「謝罪ありき」だけど、ほんとうに謝っているのかなあ。んなことないだろうなあ。ありえないよなあ。不祥事があるたびに見る、「いち、にぃの、さん、ゴメンナサ~イ」みたいな謝罪風景を見るたびに、日本人が「礼儀正しさ」の証拠として持ち出す「謝る」という行為は実は「貴下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます」とやるのと同じようなことではないかという印象が強くなる。北米人だって謝るべきときには謝る、でも、それは問題を見直して自分に非があると思うからであって、自分に非がなければ謝る必要はないと考える。つまり、謝ることは(ひとつ学んで)次への「出発点」とも言えると思う。
逆に日本人の場合は謝るという行為が「終点」であるように見える。何が問題なのかを見ずに、とにかく謝ってしまう。そして「こっちは謝ったんだから、いつまでも水に流さないのは器が小さい」などと相手に矛先を向けてしまうから、学べたはずの教訓も水に流されておしまい。定型化されたような謝罪風景を見るたびに、あれは誠意だのなんだのと言うけれど、所詮はうわっ面を飾って「本質」を隠蔽してしまう「包み紙文化」の象徴のようだなあと思う。あれも「敗者の美学」なのかもしれない。「負けるが勝ち」の理屈であれば、その後は「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。たぶん、これからも責任者(!)がカメラの放列の前でやってみせる「いち、にの、さんで、ゴメンナサ~イ」の(マニュアル)パフォーマンスがあたりまえのように繰り返されるんだろうなあ。よく飽きないなあと思うけど・・・
ところで、とんまな成田税関の人たちはスーツケースの持ち主の外国人に土下座して謝ったのかなあ。もしもドラッグをスーツケースに入れられたのを知らないまま持っていて、他の国で発見されていたら、この人の人生を狂わせたかもしれないし、行く先によっては生命の危険があったかもしれないんだから。持ち主が日本人だったら土下座ものなんだろうけど、なにしろ外国人だから、「So sorry!」で済ませて、「謝まったから、これで一件落着だ」と、飲み会でさっぱり水に流して厄落とし・・・というシナリオかなあ。おお、こわっ!
なべとやかんが
5月28日。今日は何と午前8時に起床。いつもならまだいびきをかいている「丑三つ時」の感覚なんだけど、何しろカレシが政府のプログラムとして公的な資金でやっている新移民向け英語教室の代講を、それも午前と午後の2つも引き受けてきてしまったもので、臨時の早起きとなったしだい。何年ぶりかでランチバッグを引っ張り出して来て、カップヌードル、コーヒー、バナナ、オートミールクッキーを自分で詰めておでかけ。ワタシは今夜が期限の仕事にかかる。こんなに朝早くから仕事なんて何年ぶりかなあ。お昼になっておなかが空いて、「あ、ランチタイムだ!」いつもならブレックファストなんだけどなあ。めんどうだから刻みネギを散らしただけのインスタントラーメン。だけど、お昼のニュースを見ながらのひとりランチなんて、ほんとに何年ぶりだろう。
ランチの後はちょっと休憩。かっては『刑事コロンボ』とか、ピアース・ブロズナンがカッコよかった『探偵レミントン・スティール』なんかの再放送をよく見たっけ。「コロンボ」は同じエピソードを何回見たかなあ。でも、何チャンネルだったか忘れてしまったし、チャンネルを変えて探すのもめんどうだし、電子レンジで温めた朝の残りのコーヒーを片手にちょっこし掲示板を眺めてみる。いやはや、悩める人が多いなあ。日本でもカナダでも。悩みのトップはやっぱり「人間関係」らしい。もともと決まりごとが多すぎてめんどうくさいところへ、バブル宴の後はやたらと自分の周りに塀をめぐらせている人が多いと見えて、相手の壁にぶつかった、塀の上から覗かれたと大変。「Good fences make good neighbors」と言ったのはフロストだったかな。要するに、お互いの間に適当な垣根があるとお付き合いがうまく行くということで、日本の「親しき仲にも礼儀あり」があてはまるんだろうか。
でも、この場合の「垣根」というのは頭上高くそびえる石壁じゃなくて、互いの顔が見えて、手を触れ合うことができるくらいの高さで、心理学でいう「自分」の領域の「境界線」。つまり、垣根をはさんでお互いに独立した一個の人間として認識することだと思うんだけど、自分と言うものがないと、どこにこの垣根があるのかわからない。寄りかかる垣根がないと、どこまで相手に近づいていいのかわからないし、どこから先が相手の領域なのかもわからないから、他人を別の人格として見ることができない。あくまでも自分の垣根だけど、高すぎても低すぎてもいけない。(モラハラ人間は垣根の高さにかかわらず壊してでも侵入して来るけど。)まあ、自分の目に見えないものだから、その高さを測るのは難しいんだけど。
若い世代のモラルやマナーの低下を嘆いたトピック。さっそく「若い人だけじゃない。年寄りだって~」と(若い人から)反発が来る。これもよく見るパターンで、(おそらくは自分に思い当たることがある)何かに批判的なコメントがあると「~だって○○」、「~こそ○○」と来るからおもしろい。ローカルの掲示板だと、「日本人は~」に対して「カナダ人(○○人)だって~」となる。きのうの「謝る/謝らない」の思考と同じで、「~だって」、「~こそ」と痛い矛先を相手に向けて自分を安全圏に置こうという戦法らしい。これをワタシは勝手に「砂場の論法」と呼んでいるけど、日本人の掲示板に必ず登場する。「The pot calls the kettle black」というやつで、なべもやかんも、どっちもお尻はまっくろけ~
お金のなる木の話
5月29日。どよ~んとして少し涼しい木曜日。英語教室から帰ってきたカレシ、「イェ~イ、ウィークエンドだ!」 そうねえ、今週は3日連続のレッスンで、それもきのうは1日中だったもんね。どうもお疲れさまでした。まあ、水曜日の代講はいつもの調子でノーと言いたくないから(気は進まないけど)イエスといったような感じもするけど、それはそれでカレシの性格だからしょうがない。くたびれるとか何とか、ぶつぶつ言いながら、それでもけっこう張り切っていそいそとおでかけだったけど・・・
ときどき代講を頼まれるELSAというのは、政府がお金を出して資格のある教師が教える新移民用の無料の英語教室なもので、代講教師にも相応の時給が出る。だいたい1時間25ドルが相場らしいけど、つむじ曲がりのカレシは「金はいらない」と断ったそうな。でも、それでは政府に請求するのに困る。カレシは「いらないよ」と頑固一徹。「へたに収入があると累進税率が上がる」という、まあ現実味のある理由なのもので、だったら、とワタシの頭に閃いたのが、社会福祉団体のネイバーフッドハウスへなら寄付金は税額控除の対象になるということ。「一応受け取ったことにして支払明細をもらい、その金額を寄付したことにして領収書を出してもらえばいい」ということで交渉したら、すんなりその線でまとまったらしい。ついでに「寄付」はカレシの夏の会話教室に来る生徒が払う「会費」に当てることになった。会費は1ヵ月いくらで受講生が何人だからほぼ同額になる、と。これで夏の教室に来る生徒はすっぽりただになったわけで、みんなまあるく納まってシャンシャン。カレシて、けっこう交渉上手じゃん!
お金のことになると、昔も今も悩みも話題も浜の真砂で、とにかく悲喜こもごも。どうも人類はお金というものができて以来狂騒して、踊って、やがて滅びる悲しい運命を背負わされたのかもなあなんて思ってみたりする。ほんとのところはわからない。ワタシはお金は嫌いじゃないし、卑しいとも思わないし、なくても何とかなるだろうけど、ないよりはあった方がずっといい。ロトで大当たりしたらなおいいけど、現実には当たりそうにないので、セカンドベスト?を選択して、まじめに仕事をして地道に稼いでいる。その結果、ひとりで生きていくのに十分で、ちょっと贅沢を楽しめるくらいの生計を立てて来た。もちろん、たまにはくたびれるなあと思うけど、それが自分の性に合った生き方のように思えるから文句は言いっこなし。
だからというわけでもないけど、カナダ人の王子様の財政状態について悩んでいるニッポンのお姫様に「カナダ人って本当にお金にだらしがない人が多いですから。 幸せな結婚生活にお金は不可欠です」と諭す人がいると、「ははあ、ブームに乗ってそういう男を捕まえちゃったんだな」とイジワルなことを想像してしまう。たまたま自分の旦那がお金にだらしないってことだろうに、結婚して何年カナダで暮らしているのか知らないけど、自分の夫のことなのに未だに「カナダ人」とひとくくりにして見ているらしいからおもしろい。カナダ人夫を「旦那」と呼び捨てる人に限って結婚に幻滅しているらしいのもおもろしいし、描き出される「旦那」が、その性格といい、性癖といい、みんな同じ男と結婚しているように見えるのはけっさくで、意味深長。それで「離婚したら旦那からどれくらいもらえるのか」と来れば、「最初も最後も金ありき」かとイジワルなタメイキ。カレシの夢を壊して悪いけど、もう見込みはないような・・・
ブログ鏡に映るのは
5月30日。降るのか、降らないのか早く決めてくれ~といいたいような朝。月曜日以来のゆっくりだから目玉焼きとソーセージの朝食。どうやら雨は降らないことになったらしく、青空が広がるのを見たカレシは庭へ出てひと仕事。ワタシはど~しよ~かなあと思案しつつダラダラの午後。仕事はあるにはあるけど、期限は日曜の午後。土曜の夜にささっとできそうな量だ思うとサボり心が出てくる。いかんなあ・・・
だれた気分で小町のトピックのタイトル一覧を眺めていたら、「あれ、いつか見たような」というタイトルがあって、開けてみたらやっぱり去年の夏に盛り上がったやつだ。忘れられた頃に古いトピックと知らずに書き込む人もいるから、と新しい書き込みを見たらトピックの主その人で、なんだか知らないけど、海外から帰国した「傲慢な友人」に対する愚痴の蒸し返し。ありゃりゃ。1年も経って、自分の心理を分析するふりをして相手のことを微に入り細に入り、それも文字数制限があるから何回にも分けて並べ立てて、結局は彼女の威圧的な優越感の「負のオーラ」に刺激されてしまったんだと。いやあ、「自分は平凡な暮らしに満足しているから」といいながらの、この異常な執着は何なんだろうなあ。メラメラと燃え続ける嫉妬に耐え切れなくなって、自分に「満足、満足、チチンプイプイ」とおまじないをかけているのか・・・
自分のブログで「ワタシはワタシ!」と書けばいいのいというアドバイスがあった。ほんと、ブログは自己分析に役に立ちますよ~と、トピックの主におススメしたいところだけど、ま、聞く耳は持っていなさそうかなあ。日本人のブログには「○○の何とか日記」というようなタイトルが多いそうな。日本の日記文学は思ったようにモノを言えない文化の中で鬱積した気持を吐き出す手段として発達したらしい。だから、自分の日々の暮らしや、徒然なるままの雑念を、誰に読んでもらうでもなく書いている人たちがたくさんいるということで、言い換えれば、ブログで「王様の耳はロバの耳」と書いてガス抜きをしているとようなもの。もし、トピックの主があの思いのたけをブログに書いたとしたら、鏡にはどんなイメージが映るのかな。
このブログだってワタシにはけっこうガス抜きになっているけど、ここでぶつぶつ書いていることをローカル掲示板に書き込んだら核戦争は必至。だけど、自分が書いたものを次の日に「第三者」の目で読むと、「こんなこと言っちゃって、何様なんだか」と失笑したり、「あちゃ、考えてることが支離滅裂だ、この人」と突っ込んだり、「あんたってこだわる人だねえ」なんて仮想コメントして、それにまた仮想コメントしたり、ちょっとした体外離脱体験のようで、ブログはワタシ自身を映して見る「鏡」でもある。大きな姿見だったり、三面鏡だったり、メーク用の拡大鏡だったりするけど、そこに映る「ワタシ」はというと、鈍感なようで繊細なようだし、まめなようでいい加減なようだし、陽性のようで陰性のようだし、自力本願のようで他力本願のようだし・・・まあ、人並みに矛盾を抱えた人間に見える。あっちへスイ、こっちへスイの極楽とんぼだって決して自動操縦モードで風まかせってわけじゃないってことで、そこがいいとろこなんだよなあ。
戸籍、されど戸籍
5月31日。週末といっても年中在宅の二人には特別な日じゃなくなったもので、周囲が何となく静かなもので「あ、週末か」とナットクするようになった。週末が週末だった頃には二人とも何をやっていたんだろう。それは「何」によるんだけど、ワタシにも週末という区分があったのは(つまり勤めていた頃は)もう20年近くも前のこと。ふむ、何をやっていたんだろうなあ。思い出せるのは洗濯と掃除とアイロンかけと料理と後片付け。なんだかそれだけで週末が暮れたような気もするなあ。ワタシがたまった家事を片付けている間、頼んでもほとんど手伝わなかったカレシはいったい何をやってたんだろう。
それよりも、最初の25年の結婚生活の記憶に二人で「いっしょ」にやっていたことを思い出せないのがさびしい。共働きであっても残業があったわけでもなく、子育てがあったわけでもないのに、二人一緒の時間があったはずなのに、覚えていないのか、思い出せないのか、いったい何をしていたんだろうなあ。だから、離婚話のときに言ってしまったんだろうなあ、「ひとりぼっちの結婚生活なんて意味がない」と。あのあたりからだったかなあ、カレシが「夫業」に取り組むようになったのは。まあ、最初のうちは「手伝いさえすればオンナノコと遊ばせてもらえるだろう」という魂胆だったらしいけど、「うちは母子家庭じゃないんだよ!」と一蹴されて、少しは頭を冷やして考えてくれたんだろうと思う。うん・・・
最初の25年間のことは思い出そうとしても思い出せないのに、離婚の寸前まで行った2年間の記憶がまだ鮮明に蘇ってくるのが切ないところだけど、二人がその気になればものの弾みでだってできてしまう結婚と違って、それを「UNDO」するだけが離婚じゃないからなあ。そんなことを考えるのも、日本には離婚後300日以内に生まれた子供は有無を言わせず「元夫」の子供と見なされるという法律があって、その法律のおかげで無戸籍のまま育った女性が出産したけれど、その子供も無戸籍になりそうというニュースに唖然としてしまったから。日本では女性だけが離婚後100日経たなければ再婚できないという。妊娠していた場合にどっちの男の子供かわからないからという理屈らしいけど、300日の規定の方は、離婚前に夫の子供を妊娠したと見なすということらしい。
あのですねえ、離婚するほど破綻した夫婦がですよ、離婚届を出す前の日までは一緒に暮らしていて、フツーに夫婦生活をやっていて、それで夜が明けたら、お役所に薄っぺらな紙きれを一枚出して来て、どっちかが荷物を運び出して、「じゃあね」と別れると思ってるんでしょうか?別居とか、実家に帰るとか、聞いたことがないんでしょうか?ドメスティックバイオレンスって、女が勝手にでっち上げて騒いでいると思っているんでしょうか?戸籍に「妻」と書き込んだらもう夫以外の男には見向きもしないとナイーブに信じているんでしょうか?戸籍、ねえ。戸籍って、誰のものなんだろう。戸籍って、何なんだろうなあ。
いくら日本国憲法が「結婚は両性の同意にのみ基づく」なんてもっともらしくぶち上げても、戸籍制度は旧態依然。戸籍の「戸」は「家」の意味で、つまり、今だに初めに「家」ありき。その家という「箱」に「夫」、「妻」、「長男」などとラベルをつけて入れる行為が入籍。まるで箱に所属する「収集物」のよう。夫婦の戸籍では妻が夫の姓を名乗れば夫が筆頭者になる。戸籍の筆頭者というのは戸籍を検索するための「見出し」だそうで、結婚して夫の姓になった女性の戸籍を検索するには、筆頭者の夫に関する情報がキーワードになる。たとえ夫が先に死んでも、戸籍筆頭者は夫のままなんだそうな。これでは「夫」という男なしではたまたま女に生まれた人間の存在を確認できないというのも同然じゃないの。どうりで、女は男の所有物、子供は親の所有物という、人を独立した人格として見えない観念が蔓延るはずだよなあ。結婚なんて「箱入り娘」が「箱入り女」になるってことのように思える。(まあ、箱入り娘はかわいがられているんだろうけど、箱入り女はどうなのかなあ。)日本の女性は大いに憤ったほうがいいんじゃないかと思うけど、よけいなお世話かなあ・・・