敵は人見知り現象
5月16日。何となく天気が崩れそうで、だらっと疲れた気分の日曜日。終わらせなきゃならない仕事があるんだよなあ、今日は。だって、日本では月曜日の朝が来るんだもん。まあ、我が家は平日も週末も関係ないからいいんだけど。
今日は親指がやたらと痛いけど、とにかく午後いっぱいがんばって、夕食のしたくを少し遅らせて、できた、できた。ダダッと仕上げして、ダダッとキッチンに駆け上がって、ダダッと夕食の準備。マティニで乾杯しているヒマなんかない。今日はマグロのステーキにコチュジャンを塗っておいて、さっとフライパン焼き。インゲンを蒸して、ししとうを焼いて、ささっと出来上がり。食べ終わったら、ダダッとオフィスに戻って、ダダッと納品。はあ、今日はもう後は「開店休業」だなあ・・・と思っていたら、またぞろ、仕事がコロコロと転がり込んでくる。どっちも小さいものだから何とかなるけどさあ・・・。
久しぶりに本格的?に小町横町を訪問。昨今の井戸端会議のテーマはどんなことかなとと眺めてみたら、『回答に外国の例を出すことに違和感』というのがある。どんなトピックでもいの一番に「海外在住です」とか「在欧(米)何年です」と書き出すレスが必ず出てくるけど、ピックを立てた主は質問や相談は日本でのことなのに「外国では~」とやることに違和感があるという。たしかに見当はずれや場違いな書き込みもよくあるけど、ああだこうだと論戦する意味があるのかな。匿名掲示板なんだから、「へえ、そう」と言ってすっ飛ばせばいいだろうに。そうできないところが小町横丁なのかな。いみじくも「おもしろくない気持があるからだろう」と指摘した書き込みがあったけど、そうかもしれない。制度も文化も違うんだからよけいなお世話だと思うより、外国で暮らしている日本人が(得意げに)その国の例を持ち出して来ることが気に入らないのかもしれない。つまりは読む人の気持しだいか。
もうひとつ、『海外にて。日本人の敵は日本人?と思うとき』というトピック。やれやれ、過激なタイトルだなあ。女の敵は女というし、男は家の外に7人の敵がいるというし、世界のどこでだって、人間は自分の領域の外に7人の敵がいると思った方がいいんじゃないのかなあ。まあ、このトピックも各自が遭遇した日本人を例に挙げての「敵」の品評会。それが「村社会」というものなのかもしれない。似たようなこと現象は日本で社宅に住んでいた頃にたっぷり見聞した。つまり、一見近代化、西洋化したようでも、それは「建前」。「本音」は昔とあまり変わっていないし、変わろうと思わないし、変わりたくもない。だって、社会の大枠を根底から変えるには大変なエネルギーがいるんだもん。日本は今までこうだったんだから今さら変わる必要はないと思うなら、特に変わらなくてもいいと思う。ただし、相手の方が(自分に合わせて)変わることを期待したり、、押し付けたりさえしなければの話だけど。
きのう、パーティの前に友だちと話していて、バブル時代が日本社会に与えた影響は経済的な影響よりもずっと大きかったために、バブル崩壊の後遺症から抜け出せないでいるのではないかという話になった。屈指の経済大国になっただけだったのに、「国」そのものが世界のトップに立ったと勘違いして、社会政策も教育政策もそれに合わせて大きく方向転換した結果、それまでの秩序を支えてきた社会機構が崩れてしまったのではないか。まあ、そういう変化は日本に限ったことじゃないんだけど、よく見たら、日本の変化というのは建物(社会)の外壁(建前)を新しく塗り替えただけで、内装(本音)は変わっていないんじゃないか、と。カレシも「礼儀正しい、信用できるという評判と、実際に東京を歩いていて受ける印象の隔たりが大きいと感じた」という。建前と本音の落差が大きい、と。でも、落差を感じるのは建前が本音であって欲しいと期待する気持があるからじゃないとも思うけど。
話が進んでいくうちに、カレシもかって日本に10年住んでいた友だちも、日本人は総体的に世界でもひときわxenophobicな国民だと言い出した。この言葉、「外国(人)嫌い」とも「排他主義的」とも訳されているけど、生まれた国ではみ出しっぺで育ったワタシとしては、外国(人)がどうこうというよりも、単に「他(異)なるもの」が苦手なだけじゃないかと思う。つまり、「村」の外の事象が怖いんじゃないか、と。人間はひとりひとりが山に囲まれた「村」みたいなもんで、「あの山の向こうには何があるのかなあ、見てみたいなあ」と思う人と、「あの山の向こうの素性のわからないものに自分の村を侵略されたら怖い」と思う人がいる。まあ、自分の「村」を守りたいという心理なんだろう。早く言えば、「人見知り」しているってところで、そこが日本人の敵かもしれないんだけどなあ・・・。
まあ、3人とも日本に住んでいないので、傍から見たら、日本で日本人同士が上っ面を見ただけのアメリカについて、ああだこうだと分析している構図とあんまり違わないかもしれないな。日本を知っているはずのワタシだって、(こういうと「生粋の」日本人から顰蹙を買いそうだけど)よく考えたら実は「知っている」のは北海道と言う魚の形の島の中のことだけだった(と悟ったときはちょっとだけ愕然とした)から、たった2週間ほど東京を観光して来ただけで「日本は~」なんて言えた義理じゃないのは百も承知。傍の人がこういう議論を聞いて「キィ~っ」となるか、「へえ~」と思うか、それも人それぞれってことでいいと思ってはいるけど。
東京ピープルウォッチング
5月17日。月曜日。仕事に戻ってからまだ1週間そこそこなんだけど、もうずいぶん長いこと追いまくられていたような気がする。客先に挨拶に行って、ご馳走になって来て、おまけに仕事が増えたなんて、まるでシンデレラストーリーみたいで、むげに断るのもなんだかなあと思って腕まくり。だけど、あちこちで決算の結果が出る頃だからか、赤字だ、黒字だという話が続いて、ちょっと飽きてきたような気もしないではない。それでも、現役、元気に、さあ仕事・・・うん、後2年と11ヵ月と1週間は現役だもんね。
厳密には日本から帰ってきて10日。カレシはかっての「夢の国」をよほど気合いを入れて観察していたようで、何かと感想を話題にしてくる。そういえば、東京を歩いているときも、いろんなことにコメントしていたっけ。たとえば、若い女性のファッション。あの、レギンスとかいう半端なストッキングに、デニムか何かのショーツとTシャツ、その上にひらひらした薄いドレスのようなものを重ねて、さらにその上にスカーフなんか巻いたりした、まるで重装備のファッション。カレシの評は「bag ladyみたいだ」。要は、ホームレスルック。ワタシにはベッドから起き出してきたばかりみたいに見えた。天候不順のせいで寒がりの日本女性はよけいに寒く感じるのかもしれないけど、ゴールデンウィークと言えばもう風薫る5月のはずだし、「たまたま」と言うには同じような服装の女性が溢れていたから、着ている人の自己主張というわけでもないらしい。カレシ曰く、「あのヘンてこなストッキング、脚の形がそっくりわかってcruelだよ」。あのね、今どきは英語わかる人がどこにでもいるんだから、あんまり大きな声で言わない方がいいと思うよ。
英語がわかる人と言えば、東京には意外と「ガイジン」の姿が少ないように見えた。たまに通りすがれば、カレシは「なんだかみんな疲れ切った感じだなあ。東京ライフはそれくらい大変なんだなあ」。ひょっとしたら「あれが自分の成れの果てだったかも」なんて思っていたのかもしれないけど、たしかに若いのに人生に疲れたような感じの人をずいぶん見た。「日本へ行けばオンナノコにモテテモテテ」という評判はやっぱり「都市伝説」に過ぎなかったのかな。新宿の細いビルの看板の中にあった「英会話」の看板に「マンツーマン」と書いてあったのを見つけて、「腹を割った(男同士の)会話をするんだ~」と冗談を言い合っていたら、少し離れた後を30代くらいの白人の男性が歩いていた。少し先まで行ってから振り返ったら、ちょうど「英会話」のビルに入って行くところ。あ、きっと英語の先生なんだ。冗談が聞こえちゃったかなあ。
小さい子供を連れたママについては、「母親の服装のファッション度と子供の野放図度jは比例する」という法則を発見?したそうな。特に(目いっぱいおしゃれした)母親グループの場合。ああいうのを「ママ友」というのかな。誰が何を着たって他人がとやかく言うことじゃないんだけど、たしかに騒いで行儀の悪い子供ほど、母親は過激、というか若作りというか、いやまるで「キャバクラホステス経験あり」みたいなスタイルだったな。超ミニにブーツを履いて挑発的に脚を組んで座っていたママの子供たち(小学生くらい)はわんぱくを通り越してモンスターキッズ。連れのママもちゃらちゃらのファッションで、その子供たちもまた同様にモンスターキッズ。あちこちでそんな光景を見かけたから、カレシが観察した通り、母親のおしゃれ嗜好と子供の悪がき度はばっちり比例するのかも。
そういう悪がき(小学校低学年くらい)が2人、ある日の電車でワタシの隣に座った。飛び跳ねるし、もそもそと落ち着かないし、大声で騒ぐし。業を煮やしたワタシ、「ヘイ!」と頭の上からどやしつけた。悪がき2人がぎょっとした顔で見上げるから、重ねて「shut up!」とやったら、「助けて~」といいたそうにママの方を見た。そのときのママの反応がおもしろい。「あんたたち、何を言われてるかわかるんでしょ?」 ひょっとしたら、英語は3才までにとか何とかいって早期英語教育をやったのかな。子供が英語を理解したかどうかはわからないけど、2人ともこっちをちらちらと窺いながらも、何駅目かで降りるまで一応おとなしくしていた。ああ、やれやれ。
それにしても、ゴールデンウィークの連休だと言うのに、パパも含めた「家族連れ」よりも、子連れのママ友同士の方が多かったのはちょっと奇異に見えた。パパたちは日ごろの疲れで連休はごろ寝を決め込んでしまったのかな。カップルの数よりも、数人ずつの、女は女同士、男は男同士の「群れ」の方が圧倒的に多かったのも、奇異といえば奇異な光景だった。よけいなお世話だけど、これじゃあ、非婚化も少子化も止まりそうにないんじゃないのかなあ。ま、モンスターキッズばかり育てたら、将来困ることには変わりないだろうけど。
マナーのシステムマニュアル
5月18日。火曜日。正午を過ぎて起きてみたら、あら、久しぶりの雨模様。庭に出てみると清々しくていい気持。気温は平年よりちょっと低めだそうだけど、15度もあれば立派な半袖陽気で、Tシャツ一枚で十分。(ワタシは肌着なし派。日本の「身だしなみマナー」に反するかもしれないけども。)体内ボイラーの効率がいいらしく、20度を超えたらスリーブレスになってしまう。もっとも、バンクーバーの気候では20度を超えたら「夏日」のようなもんだからなあ。
ゴールデンウィーク連休の東京は暑かった。軽く25度は行っていたと思うけど、ほとんどの人が長袖なのに驚いた。スリーブレスで闊歩しているのはワタシだけ?と思ったくらいで、中にはコートを着込んで歩いている人たちもいた。若い人たちの間に低体温が増えているという話をふっと思い出して、へえ、こんなにも冷え性の人がいるのかと思ってしまった。まあ、日焼けしたくない人たちが多いというだけだったのかもかもしれないけど。実際にワタシは露出した肩先から手の甲まで、ハワイに行っていたかと思われそうなくらいにまっ黒けになってしまった。
それくらいに記録的な好天だったそうだけど、日差しは高緯度地域の方がまぶしいと思っていたら、東京の日差しのまぶしいこと。とっても目を開けていられないくらいまぶしく感じるもので、屋外ではサングラスをかけるんだけど、ここでもなぜか周りには(カレシ以外に)サングラスをかけている人がいない。アメ横にはサングラスを安売りする店がけっこうあるのに、誰もかけて歩いていないのはどうしてなんだろう。(持って行くのを忘れて行って)宮崎で20ドルのものよりずっと上質のサングラスを1500円で買って喜んでいたカレシも、「サングラスはたくさん売っているのに、かけている人がいないねえ」と不思議がっていた。売っているということは、買う人がいるということだろうと思うんだけど。ま、「ところ変われば」というから、サングラスをしてもいい場所が決まっていて、街中でして歩くのはNG(マナー違反?)ということになっているのかもしれないな。それにしてもあの強烈な日差し、まぶしくないのかなあ、ほんとに・・・。
サングラス着用に留まらず、ワタシは東京でマナー違反をしまくっていたんだろうな。シャツの下に肌着を着ないし、ペディキュアもしていない生足でヒールを履いているし、ろくなおしゃれしてないし、もの珍しそうに(人間にはやらないけど)やたらと指差ししたり、カメラを向けたりするし、目が合うと誰にでもついにっこりしちゃうし・・・。ほんとに不躾でゴメン。ま、外国人はマナーが悪いということになっているようだから、今さら表面をつくろうってのもね。マナーにも「ところ変われば」という面があって、こっちから見たら「ん?」ということもあったけど、そこは日本のマナーに叶ったものなんだろうとは思った。この日本の「マナー」というの、本当は「エチケット」のことを言ってるんじゃないかと思うんだけど、文化や時代的背景に、社会心理や、個人的な常識や対人観まで、いろいろな要素が絡んでいたりするから、ほんとに難しい。
マナーについて興味半分にググって見たら、いつのものか知らないけど、大手新聞の調査で回答者の9割が「日本人の公共マナーは低下している」と感じているという結果が出たそうな。他人に迷惑をかけて平気な自己中人間が増えたということらしい。まあ、小町横町みたいに、どっちを向いても「迷惑をかけるな、迷惑になるな」と、まるで生きているだけで迷惑になっているような雰囲気に曝されていれば、誰だってマナー疲れしてくるとは思うけど。例の「日本人の敵?は日本人」トピックでは、日本人の「日常マナーが悪くて情けない」という海外在住者の書き込みがあって、「海外では必ず日本人のマナー・システムはトップクラスとお褒めの言葉を頂きます」とやり返していた人がいた。「海外でお褒めの言葉を頂く」のは、外国へ行くと借りて来た猫みたいにおとなしくなる人が多いからかもしれないけど、この「マナー・システム」という言葉に、「ただマニュアル通りにやっているという感じがする」というカレシの印象が思わず重ってしまった。あんがい日本ではマナーもシステム化されて、マニュアルができつつあるのかもしれないな。
天然で能天気なワタシも、次回はそのマニュアルに従ってマナーを正しく守ります・・・なんて。まあ、どこまでがエチケットで、どこまでがマナーなのか、ほんとに難しいもんだ。
セントへレンズ噴火から30年
5月19日。きのうはワシントン州にあるセントへレンズ山の大噴火から満30年だった。半年ぶりにビクトリアからバンクーバーに戻って来た日の翌朝のことで、引越し疲れでうとうとしていたら、遥かなところから「どど~ん」という地響きのような音を聞いた記憶がある。アメリカ本土では珍しい火山噴火が起こりそうだということで、火山学者や報道関係者、見物人たちが山に入っていた。どうもみんな火山は空に向けてまっすぐ噴火するものだと思っていたふしがある。午前8時32分、北側の10キロ離れたところで観測していた火山学者デイヴィッド・ジョンストンから「This is it!」という噴火の瞬間を知らせる第一報。噴火は山の北斜面をジョンストンがいた方向に吹っ飛ばしたために、おそらく次の瞬間に彼は大火砕流に飲まれたのだろう、彼は何ひとつ残さずに消えた。今、北斜面は真ん中に溶岩ドームを持つ巨大なクレーターになっていて、それを見渡す展望台には彼の名前がついている。
大噴火で3千メートル近かった標高は400メートルも低くなった。日曜日で伐採作業が休みでなければ大惨事になっただろうと言われる。山の湖のほとりにひとりで住んでいたハリー・トルーマンというおじいちゃんは頑固に避難勧告を拒絶して、山小屋ごと数十メートルの火山灰に埋もれた。車で逃げようとした人たちも充満した火山灰の中で窒息死した。死者57人。車での逃げ道をさえぎられながら奇跡的に生き延びたシアトルのテレビ局のカメラマンは、徒歩で下山する間ビデオカメラとテープレコーダを回した。ビデオに写っていたのは火山灰に覆われた暗闇だけ。テープにはひと息ごとに呼吸が苦しくなって声が途絶えがちになる様子が録音されていた。ニュースは、山肌がむくむくと膨らんで行く噴火の瞬間や、見渡す限りなぎ倒された森林、解けた雪と火山灰と倒木が混じった濁流で流された橋といった光景を1日中何度も何度も流していた。
そのセントへレンズは何回か小噴火して、溶岩ドームは400メートルに達したという。ラスベガスから帰って来るときに飛行機の窓から見えたクレーターは想像を絶する規模で、もしも富士山が噴火したらあんな風になるのかなと思った。セントへレンズも噴火する前は雪を被ったかなり姿の良い山で、きれいな湖もあった。でも、動物も魚も何もかもが一瞬のうちにいなくなって、まるで月面のようだったという風景は、30年経った今また緑に覆われて、新しい森が育ち、動物も鳥も昆虫も魚もみんな戻って来ている。自然は破壊力もすごいけど、復原力もすごい。何千万年もそうやって破局的な破壊とたくましい再生を繰り返してきたのが地球なんだもの。
セントへレンズはまだ若い火山なので、数十年か百年もしたらまた大噴火を起こす可能性がある。環太平洋火山帯の一員のカスケード山脈にあって、ここはカリフォルニア北部から、ポートランドに近い「オレゴン富士」と呼ばれる3千メートル級のフッド山、シアトルに近い「タコマ富士」と呼ばれて本家よりもずっと高いレーニア山、バンクーバーからもよく見える国境のすぐ南のベーカー山といった大きな休火山が連なっている。どれもいつ目を覚ましてもおかしくないらしい。セントへレンズ噴火の後でも、今度はフッド山が危ないとか、レーニア山が危ないという話があった。このカスケード山脈はさらに北へ伸びて、カナダ側でウィスラーのあるコースト山脈につながっている。ここにもガリバルディ山という2700メートルの休火山がある。このガリバルディか南のベーカーが大噴火したら、バンクーバーも火山灰に埋もれて大きな被害が出るだろうな。
地球は生きている、生物は常に火種の上で暮らしているということを実感させられるけど、その表面を「不動の大地」として精神的なよりどころにして来た人間は、宇宙には羽ばたけても、足元の地面の下で起こっていることに対してなす術がない。地球がこけたらひとたまりもない。地球にしたら上に乗っかっている人間なんて吹けば飛ぶようなちっぽけな存在なのに、いつどこがどう壊れるかわからない「卵の殻」の上で、互いの肌の色がどうの、どっちの神がどうの、どっちの文化がどうのと、互いに角を突き合せているんだから、ほんとにしょうもないよなあ・・・
ないしょ、ないしょの休み
5月20日。木曜日。ゴミ収集車の音とどこかで屋根を葺くハンマーの音でちょっと早く目が覚めた。好天だけど、まだ風が残っている。朝方にはかなり吹いていたような気がする。きのうは午後から低気圧が接近していたらしい。エコーの運動もかねて、ひとりで遠い方(といってもせいぜい4、5キロなんだけど)のスーパーまで買い物に行っていた頃らしいけど、ワタシはそうとは知らず、帰って来る途中の降ったり止んだりの不安定な天気に、ワイパーをオンにしたり、オフにした。でも、風があるようには見えなかったなあ。夕方までには郊外で倒木の影響で通勤電車が止まり、3万戸以上も停電。
朝までにはかなり荒れるというので、停電でもしたら仕事の予定が狂ってしまいかねないと必死?でがんばったら、2つもやっつけてしまった。いやあ、もう親指がしくしくと痛くて・・・。あと残るは発注先が違う1件だけになったけど、期限まで余裕はたっぷりある。でも「先約があるので~」と言っておいたので、今日は休みの日。日本ではもう金曜日だから、あしたも、ビクトリアデイ三連休の土曜日も、ひょっとしたら日曜日も休み。うまく行ったら月曜日も休み、なんてことになるといいなあ。
せっかくの天気だから、運動がてら野菜類を買いに行こうという話しが、ワインの在庫がなくなりつつあるし、レミもアルマニャックもないし・・・という話になって、結局は車で行くことになった。大きなトートバッグが3つ。まずは酒屋でワインを20本、オレゴン州産の純米酒とにごり酒、ジンにコニャックにアルマニャックにカンパリとリレ。ついでにピコンが手に入ったことだしと、クロネンブールのビールを半ダース。レジでずらっと並べるとすごいうわばみカップルみたいに見えてしまうけど、最近は家庭にワインセラーを作ったり、専用クーラーを入れて備蓄するのがけっこう流行っているらしく、かなりの数が入ったカートを押している人もいるから、レジのおじさんも「ああ、はいはい」って顔で、頼まないうちから空いたケースを持って来てきて詰めてくれる。
次に青果屋に回って、それぞれバスケットにそれぞれに必要なものを入れる。大きな台湾キャベツ、冷蔵庫に入るかなあ。だけど、小ぶりで扱いやすそうな西洋キャベツよりもずっと柔らかいし、甘みがあるから、やっぱりそっちを買ってしまう。赤とオレンジと黄色と緑のピーマンのセットも今日はやたらと大きいけど、冷蔵庫に入りきるかなあ。カレシはフルーツが多いから、そっちの冷蔵庫に間借りするスペースがあるかもしれない(と胸算用)。ずっしり重くなった2つのバスケットから、それぞれのトートバッグに詰めてもらう。レジのアンジェリーナも慣れたもので、「今日はこっちの方が重いわねえ」とか何とか軽口をたたきながら手際よく詰めてくれる。これで、引きこもりの準備は完了。
帰って来たら休日第1日目の午後は終わり。食事をして、ごろごろしていたら猛烈に眠くなって来て、オフィスの後のソファに横になったのが7時。目が覚めたら9時で、頭がもうろう。ワタシがこんなに長いうたた寝をするのは珍しい。まあ、日本から帰って来てすぐに仕事、ずっと仕事でおまけにパーティが2つと、バタバタしているうちに2週間が経ったような気がするし、腱鞘炎になった親指もむっちりと腫れたままでさっぱり好転しないのがストレスになりつつあるような気もするしで、たぶんすごく疲れていたんだろうな。まあ、なんだかんだ言ってももうしっかり60代なんだから、「うっそぉ~、ずっと若く見えるよぉ~」なんていうお世辞を言う人がいても、ありがた半分に眉つば半分で適当に聞き流しておかないと・・・。
おお、懐かしきパックマン
5月21日。金曜日。今日もまじめに「休みモード」だ!なんて言って、きのうのうちに来週の仕事が1件増えたから、あんまり張り切って休みを取っていると危ないんだけど、ま、いいか。一応は「自由」な稼業なんだから、休めそうなときに休まないとね。
きのうは買い物ツアーで忙しかったから、今日は午後のうちは思いっきりだらだら。グーグルが「パックマン」誕生30年ということで、ロゴが懐かしい「パックマン」の画面になっている。おまけに「コイン挿入」のボタンを押すと遊べるときているもので、つい夢中になって2時間も遊んでしまった。いやあ、昔のゲームはシンプル、それでいてけっこう戦術があったりして楽しい。家庭にコンピュータが入るようになってからも、ウィンドウズの前のDOSの時代には単純ながら飽きもせずに遊べるゲームが多かった。いいおとながほんとに飽きもせずに「ピヨ~ン、ピヨ~ン」と宇宙からの侵略者と戦っていた。今どきのやたらとリアルな暴力を追い求めているようなゲームや、性暴力を娯楽化した、作る方もおもしろいと思う方も人間としてどうなんだと思いたくなるようなゲームに比べたら、ダサくて退屈なんだろうけど、のめり込んで時間を無駄に費やす危険があると言う点では同じようなものだったかな。
最近、CNNの東京特派員が日本でのレイプや痴漢のゲームの氾濫を伝え、警告つきでゲームの内容もちらっと見せていた。どうも日本政府が「オタク文化」を日本のサブカルチャーとして海外に宣伝しているふしがあるけど、主流であれサブであれ、国が誇る文化を世界に広めようというのはいいとしても、それと一緒に児童ポルノや女性への性暴力を露骨に描いた漫画やアニメも輸出されて、外国での「日本人像」の形成に影響するかもしれないとは考えないんだろうか。公共の場でそういうものを広げられる神経も理解しがたいけど、それよりも、日常的にそういうものを無表情(無感情?)で見たり、読んだりしている人たちは怖いと思う。ほんとうはおもしろくないし、興味もないんだけど、手持ちぶさたでしょうがないから見ている/読んでいる・・・とは思えないなあ。
たしかに「表現の自由」は守られるべきだけど、自由であるにはそれなりの責任が伴うのに、「表現の自由」を盾にしてやりたい放題をやっていたら、やがてその大切な自由を守れなくなるような気もするんだけど。それとも単に売れるから作っているだけなのかな。だとしたら、表現の自由もへったくれもなくて、セックスも暴力も売るための「モノ」、その対象にされる子供も女性もすべて商品の部品という「モノ」ということになりそうだけど。ふむ、日本の新聞サイトに毎日のように登場する「児童買春」や「盗撮」や「痴漢」で逮捕された連中も、単に「モノ」をいじっていたつもりだったのかな。
それにしても、分別あって然るべき人たちがいい年こいて「つい出来心で」手を出しては、捕まってマスコミに「さらし者」にされているのをいやというほど新聞やテレビで見ているだろうに、まるで暗示にかけられたかのように同じことをしてあっけなく人生を棒に振ってしまう人が後を断たないようなのはどうしてなんだろうなあ。みんな一生懸命に受験勉強して、いい大学に入って、いい仕事について、人並みに結婚して子供を作って、いい給料をもらって家族を養って、それぞれに普通の人生を歩んできたんだろうに、あるとき「つい出来心」。おかげで勤め先はクビになるだろうし、妻子に捨てられるかもしれないし、友だちからも疎遠にされるかもしれない。後先を考えない子供じゃあるまいし、日本では「敗者復活戦」はまずないってことを考えてみなかったんだろうか。それとも、ストレスがたまりすぎた挙句に一瞬だけ子供に返って目の前の「モノ(おもちゃ)」に手を伸ばしたのかなあ。今ひとつ理解に苦しむんだけど・・・。
ま、せっかくの休みなんだから、もやもやしていないで、また「パックマン」で遊ぼうっと。
大人の時間を楽しめる時
5月22日。三連休の土曜日。昔から花や野菜の苗を植え始める、いわば庭の「衣替え」のような週末なんだけど、なんかちょっと寒いなあ。カレシが冬中家の中に置いてあったゼラニウムを庭に植えたけど、なんとなく寒そうに見える。それでも、すごい暖冬だったせいだろうけど、ゴルフ場のハコヤナギはもうふわふわした綿毛を飛ばしている。たいした数はないのに芝生が白くなるくらい飛ばして来るから、換気装置の給気口のメッシュについて、我が家は窒息状態になってしまう。窒息はおおげさだけど、換気装置のモーターによくないから、ブラシで掃除をして、フィルターを取り替える。まあ、これも春のメインテナンスなんだけど。
カレシが庭に出ている間、何が何でもまだ休みとばかり午後いっぱいパックマンで遊んでいたら、レストランから予約確認の電話。おかげで「どこへ行くか内緒だよ」と言ってたけど、ばれちゃったじゃないの。まあ、Blue Water Caféだろうと見当はつけていたんだけど。オリンピック以来ダウンタウンの駐車メーターは制限時間2時間までのままで午後10時までになったもので、夜のお出かけには車は不便。食事の途中でメーターまでコインを足しに走るわけにも行かないしね。その代わり、というわけじゃないけど、地下鉄ができたのは大助かり。往復で2人分だと駐車料金よりも高くつくけど、時間を気にしなくていいし、食事の後でGeorgeに寄ってちょっと一杯、ということもできるし。
土曜日ということもあってレストランは大繁盛。イェールタウンという場所柄かなり景気の良さそうな人たちが多いけど、どっちかというと若い世代が目立つ。今夜の出だしのカクテルは揃ってネグロニ。カレシは地場産のえびのサラダとオヒョウ。ワタシはケベック産のフォアグラとイワナ。ワインはカレシの一番のお気に入りのニュージーランドのソヴィニョンブラン。魚料理に合わせて毎晩白ワインを飲むようになって、いろいろと試しているうちにこのマールボロ地方産のソヴィニョンブランが一番口に合ったんだそうな。「経験を積んでわかるもんなんだよな」とカレシ。そりゃあそうだろうな。何にしても初めっからどれが自分に一番合うかなんてわかるわけがない。なにごとも試して、経験してみなきゃ。結婚もそうかもしれないよ。明らかに大きな問題がある場合はまったく別だけど、「本当にこの人で良かったのか」なんて20年も30年も経ってみないと結論出ないものなのかも。
わりと神妙な顔で「そうだなあ」なんて言っていたカレシ、ふと「東京のレストランではずいぶん年の違うカップルがいたなあ」と言い出した。そういえば、「日本じゃ夫婦揃って食事に行くってことはないのかなあ」なんて言ってたっけ。たしかにホテルのレストランでは50代くらいのおじさんと若い女性の年の差カップルがけっこういた。どう見ても父と娘という雰囲気ではないし、商談という感じでもなかったし、キャバクラ嬢じゃないのかと思うような女性もいた。とんかつ屋のような少し大衆的なところには夫婦らしい熟年カップルも普通に見かけたから、夫婦で外食しないわけでもなさそうで、とすると、年の差カップルたちはいわゆる婚活中のお見合いデートなのかもしれないな。もちろん、糟糠の妻はそこいらのとんかつ屋あたりで済ましておいて、若いオンナノコにはいいところを見せたいという浮気おじさんもいただろうけど。それにしてもカレシさあ、チラチラと観察していたのは年の差カップル、それともオンナノコの方・・・?
ダークチョコレートがたっぷりのデザートまで平らげて2人とも満足、満足。その足でGeorgeに寄って、カクテルを一杯やりながらまたひとときのおしゃべり。東京でも何度かホテルのバーでグラスを傾けながらおしゃべりしたっけなあ。ちょっぴり大人の時間を過ごしているという感じで楽しかった。まあ、カップル歴35年の2人だから、そろそろ大人の時間を楽しめる年になって来たのかも・・・。
海外生活は大変と言うけど
5月23日。日曜日。まだ寒いなあ。東部の方は夏の容器だそうだけど、西の端っこのこっちでは、天気予報は雨傘マークがずらりで、平年より寒い日が続くらしい。この異常天候、アイスランドの火山噴火と関係があるのかな。
今日は三連休の中日だけど、「休みモード」は一応今日までということにした。日本では月曜日が開けるし、今週はすでにカレンダーに2つ「納期」のマークがあってやっぱりちょっと気になるし、それよりもな~んとなく「ヒマだなあ」という気持になってきて落ち着かないことこの上ない。休みだからって何もせずにだらだらしているのもけっこうくたびれるのだ。洗濯くらいやればいいんだろうけど、それはちょっとめんどうくさい。まあ、「だらだらモード」をもうたくさ~んと音を上げるところまでやっておけば、しばらくは仕事にかなりの気合いが入るからいいんだけども。
小町横町ではまだ例の「海外からの投稿に対する違和感」と「海外では日本人の敵は日本人か」というトピックがまだ続いている。結局のところは、日本人はとにかくどこであれ、誰であれ、互いの存在がおもしろくないんじゃないかという印象が強まっただけで、建設的な議論にはならない。匿名掲示板だから当然かもしれないけど、やっぱりムラ社会意識丸出しの観はあるなあ。それに対して、新しく見つけた『海外生活のココが大変っ!!』というトピックはおもしろい。「海外で生活しているというと、一見華やかなイメージを持たれがちですが」という切り出しには、えっ、バブルからこの方日本人が海外に溢れているのに、日本では未だにそんなイメージがあるの?と思ってしまったけど、まあ、トピックを立てたご本人がそう感じているとしたら、きっとカワイイ人なんだろう。
とにかく、海外生活のいったい何が感嘆符を2つもつけるほど大変なんだ?と思って読み進んでみたら、なんだ、定番の「こういうときに日本だったら・・・」、「日本ではありえない」。海外生活が比較的短い人たちの書き込みが多いような。そりゃあ誰だって初めのうちは食べなれた、使いなれた日本のものが恋しくなるのはあたりまえ。特に今の時代ならどこでも何でも手に入るという期待感もあるだろうから、手に入らないことでホームシックになりやすいのかもしれない。だけどなあ、何につけても「日本だったらこうなのに」、「日本だったらこんなことはないのに」、「日本だったら考えられない」とグチグチ言っている人たちのなんと多いこと。自分が外国に住んでいることはわかっているんだから、日本とは違うんだということくらい思い及ばないのかなあ。それとも、「華やかなイメージ」を抱えて来たもので、イメージと現実の違いに「日本だったら・・・」とため息をついているのかな。まあ、マスコミが喧伝する「イメージ」に洗脳されやすい人も多そうだからそれもありかなあ。それでも、日本に顔を向けているときは「海外生活」を謳歌しているとアピールするだんろうか。(海外からの投稿に関するスレッドを読んだ限りではどうもそんな印象になんだけど。)
もっとも、一時的な海外生活なら日本に帰るまでの「仮住まい」なんだから、日本と同じ環境を期待したり、求めたりして、「日本が一番だ!」と確認して安心するのはありだと思う。日本に帰ってから今度は「海外では~」とやって周りから総すかんを食う人たちも多いらしいけど、それはほんの何年か日本で暮らして帰ってきたカナダ人も「日本では~」とやるから、まあ「異国みやげ」の変形ってことで聞き流せばいいことだと思う。昔からマルコ・ポーロを初めとして世界のどこの人間もそういうみやげ話をやって来たわけだし、自分に珍しかったことを開いてかまわずしゃべりたいのは人間の性ってもんだと思うけどな。現に、カレシだって、日本に夢中だった頃は住んだこともないのに、何かにつけて「日本では」とやってたもんなあ。
いろんな理由で外国に永住を決めた人たちの場合、最初の数年はちょっとした不満や不都合の愚痴に「日本だったら」という枕詞をつけるのは、まだ日本と「へその緒」で結ばれているってことだろうからわかるような気がする。だけど、それが10年、20年と経ってもまだなお「日本だったら~なのに」と嘆いているのはどういうことなんだろう。そんなに長い年月を暮らしていてもまだ「仮住まい」の感覚が抜けてないものなのかなあ。ひょっとしたら、そういう人たちは単に異環境への適応能力が低いのか、能力はあっても何らかの理由で適応しようとしない(したくない)のか、あるいは不平不満の原因は住んでいる環境とは関係がないのかもしれない。中には日本にしがみついているうちに故国が「比類なき理想郷」に昇華してしまって、永住の地への適応をますます頑なに拒絶するようになる人もいる。そこまで行ったら悲劇だろうと思うけど、異国での生活にはその人の性格が如実に現れるということかな。大変なのは「生活」なんだけどなあ、世界のどこにかかわらず・・・。
お金はやっぱり魔物なのか
5月24日。連休最終日の月曜日。国境は買い物から帰ってくる車の列で何と3時間待ちだって。まあ、カナダドルがアメリカドルより高くなっていた4月の復活祭の四連休のときは4時間待ちだたそうだから、まだいい方だけど、あの頃に比べたらかなりレートが下がっている。それでも3時間待ちってのは・・・。
まあ、今は米加の国境を越えるのにパスポートがいるようになったし、連休ともなればたいがいの人が「ショッピング」に行くとわかっているから、税関の検査が入ったりして時間がかかるのかもしれない。免税枠は24時間以内だとたったの50ドルだけど、48時間以上だと400ドルだから、もう1泊するかしないかでその差は大きいもん。我が家はモノよりも「皮下脂肪」をおなかに巻いて持ち帰ることが多いけど、あはは、こっちは無制限に免税で、申告の必要もなし。ただし、ボディスキャナがフル稼働するようになったらどうなるかわからないけど。
テレビのニュースを見ていたら、ビクトリア女王の生誕を記念する祝日ビクトリアデイの連休だというのに(は関係ないか)、イギリスのヨーク公アンドルー王子の元妻セーラ・ファーガソンがまたもやスキャンダルを巻き起こしているらしい。どうやら今度は男遊びじゃなくてお金。元夫との接触を仲介する代わりに大枚の報酬を要求しているところをこっそり録音され、札束をアタッシェケースに詰めて持ち帰るところをばっちり隠し撮りされてしまっている。この人はしょっちゅう破産寸前の状態だと噂されているけど、イギリスのエリート社会の片隅で生まれ育ったにしてはあまりお品がよろしくないなあ。少しは分別があってよさそうな年だし(50代になって分別をなくす人もいるけれど)、それに2人の娘の母親なんだから・・・。
まあ、貴族階級って意外と「お手元不如意」が多かったんじゃないかという感じがある。貴族なんてのは働いてお金を稼いで生活する職業じゃないから、きっとお金の価値を知らず、経済情勢の変化にも疎くて落ちこぼれた人が多かったのかもしれないな。ビクトリア朝時代のイギリスでは、上級貴族たちがこぞってアメリカの成金のお嬢様を息子の嫁に迎えていた。もちろん莫大な持参金付きで。(メグ・ライアンとヒュー・ジャックマンのロマンチックコメディ、『Kate & Leopold』のストーリーは貴族の苦しい財政事情も背景のひとつになっていたっけ。)相愛の恋人がいたのにマールボロ公爵のところへ嫁にやられた鉄道王コーネリアス・ヴァンダービルトのひ孫コンスエロはその代表格と言えそうで、マールボロ公は奥方の実家の莫大な援助で先祖伝来のブレニム宮殿を修復・改装したとか。コンスエロは跡取りを生んだ後で婚姻を無効にさせて、フランスで幸せな結婚をしたそうな。(ちなみに、このコンスエロの従弟の娘がデザイナーのグロリア・ヴァンダービルトで、幼いうちに父親から莫大な遺産を相続したために、その管理をめぐって母親と父方の伯母が裁判で養育権を争い、マスコミの寵児にされた人。CNNのリポーターだったアンダーソン・クーパーはそのグロリアの息子だけど、これは余談。)
まあ、やっぱりお金というのは魔物だ。どっさりあったとしても、「それで何なの?」という人もいれば、自分がうれしいことに使う人もいるし、使っても使ってもうれしくない人もいれば、なくなるのが怖くて貯め込むだけの人もいるし、何らかの価値を生み出すことに使う人だっている。なければないで、それなりに暮らして満足な人もいれば、もっと欲しくてがんばる人もいるし、持っている人を羨んでばかりの人もいる。お金があってもなくても、すべてものの価値をその多寡で測ろうとする人もいる。お金があれば幸せになれるわけではないし、ないからといって不幸せになるわけでもないんだけど。「お金で幸せを買うことはできないけれど、お金があれば今持っている幸せが倍になる」と言われるけど、お金が増えたために幸せが半減するってこともあるだろうし、小さい幸せならお金で買えるものだってあるかもしれないし・・・。
お金に対する見方や扱い方にその人それぞれの価値観が現れるのかもしれない。だったら、人間が作り出したものだし、まったくなしで暮らすわけにも行かないから、人間たるものお金についてもう少し賢くならないと・・・。
ぐうたらなおふたり様
5月25日。連休明けの火曜日。ちょっと曇りがちで、まだちょっと肌寒い。もう5月も終わりだというのに、今年は二階のベッドルームのエアコンをほとんどかけていない。それでも暑がり屋のカレシが文句をいわないくらいだから、ほんとに寒いんだと思う。
今日はまず、きのう始めた洗濯を終わらせる。いつものことなんだけど、洗濯機を回し始めてはケロリと忘れ、終わって1時間以上経ってからふと思い出し、ドライヤーに移して第2ラウンド。それを思い出すのはまた時間が経ってからで、乾いたものをバスケットに出し、2回目をドライヤーに入れて、第3ラウンド(ランドリーシュートのドアが重みで開き始めるくらいたまっている・・・)。それを夕食後に思い出して、最後の第4ラウンドは設定変更が必要な「冷水・手洗い」指定の洗濯物。第3ラウンドの乾燥がワンサイクル終わる頃はもう夜中で、(詰めすぎて)すっかり乾いていないんだけど、戸建とはいえ夜中過ぎにドライヤーを回すのはちと気が引ける。結局は、ドライヤーのドアを開けたままにしておいて「自然乾燥」。あはは、まさに主婦失格だ、こりゃ。
主婦業の方はどうしようもないので、休んでいる間に増えた仕事にかかる。こっちの方はほどほどにうまくやれているから、ビジネスウーマン業は一応は合格点かな。結局のところ、両方ともバリバリと兼業して合格点を取るというのはやっぱり大変なのだ。どっちかで合格点を取れたら良しとするのが無難だと思うんだけど、そのあたりの「仕訳け」も、世間や家族の圧力みたいなものがあってかなり難しそう。女もツライよね、寅さん。バブル崩壊からほぼ20年。共働きしないと生活水準を維持できない環境になりつつあるらしく、小町横町の井戸端でも(公平な)家事の負担、生活費の負担の割合について、愚痴をいい合ったり、どうしたらいいのと相談したり。どっちか手が空いたほうが適当にやればいいんだろうけど、なぜか深夜まで残業しないと仕事が終わらないらしい日本の労働環境では、帰宅が早いのは妻という場合が圧倒的だろうから、「私だって働いて疲れているのに、なんで私ばかりが家事をやらなくちゃならないの?」という苦情が出てくるだろうな。妻の方の収入が多かったりしたら、もう「絶対的に不公平だ!」ということになってしまいそう。
だけどつまるところ、二兎を追うことはできても、両方とも捕まえることはまず無理。あっちへ追いかけ、こっちへ追いかけして、へとへとになるのがオチだと思う。男は結婚しても最初から一兎しか追いかけないのが多いんだから、女だって・・・と思ってみるけど、男と女が一緒に暮らせばいやでもそこに「家事」が発生するし、それに関連する費用も発生してくる。そこで、対等な人間同士ってことで自分のことは自分ですると割り切って「おひとり様×2」にする手もあるだろうけど、それじゃあただの同居で、共同生活にもならないような。「夫婦」という単位になればどうしたって2で割れ切れない家事や出費があるわけなんで、それじゃあと(日本で可能なのかどうか知らないけど)共同名義の口座を作って、公平に世帯費用を出し合って、公平に家事を分担することにしても、今度はどっちの方が自由になるお金が多いかとか、貯金が多いとか、相手がきちんと家事をこなしていないとか、やり方が悪いとか、いろんな不満が出て来るらしい。そこに「自分は損をしたくない」という心理が働くのかもしれないけど、社会も経済も停滞して閉塞したような環境ではおひとり様でさえ大変なのに、おふたり様になるともっと大変。子供ができたらもっともっと大変・・・。
長いことワタシが家事100%、仕事も100%だった我が家は、いろいろあった後で共同参画ということにはしたけど、別に収入の比率に応じて家事分担の比率を決めようとは思いつきもしなかったし、誰が何をするかという話し合いもやらなかったもので、今では二人にとって食べること以外の家事は「ついでの仕事」のようなもの。おかげで、掃除は外注、家の中は散らかりっぱなし、洗濯物は積み上がるばかりで、たまに洗濯機を回せば2日がかり。だけど、それで仲良く「ぐうたらなおふたり様」で不満もなく気楽に付き合えるようになったから、人も人生も夫婦もいろいろあっておもしろいと思う。
住みやすさランキング
5月26日。水曜日。雨模様。トロントやオタワはえらい季節外れの猛暑らしいけど、ロッキーのこっち側はまだ肌寒い。正午前に電話がなって目が覚めた。シーラから「今日はランチの後に行くからね」というメッセージ。そっか、大掃除の日だ。ランチの後ということでしばらくベッドの中でだらだらして、正午過ぎに起床。朝食がすんで、さて、というところでシーラとヴァルがレクシーをお供に到着。オフィスの掃除が先に終わって、ワタシは午後5時が期限の2つの仕事の仕上げ、カレシは今夜の英語教室の教材の準備にかかって、まあごく普通の日。
今日のローカル新聞にはなんとなくつながりがありそうな、「へえ~」という記事がけっこうあっておもしろい。イギリスのコンサルタント会社マーサーがニューヨークを100として「クオリティオブライフ」を測定した毎年恒例の世界の221都市のランキングで、バンクーバーはウィーン、チューリッヒ、ジュネーヴに次いで、ニュージーランドのオークランドと同点の4位。6位は0.2の差でデュッセルドルフ、後に同点でフランクフルトとミュンヘンとドイツ勢が続いて、これにスイスのベルンとオーストラリアのシドニーを入れてベスト10。ヨーロッパではパリは34位、ロンドンは39位。アメリカのトップはホノルル(31位)、次いでサンフランシスコ(32位)、基準になったニューヨークは49位だった。日本の都市のトップは東京で40位、すぐ後の41位が同点の神戸と横浜で、大阪は51位、名古屋は57位。北米のベスト5はカナダの都市が独占。アジア太平洋でのベスト5はオーストラリアとニュージーランドが占めている。
エコ都市としてのランキングでは、カルガリーが1位。バンクーバーはモントリオールと同点の13位。まあ悪くないところかな。日本勢では9位の神戸がトップ。次いで横浜が37位、名古屋と大阪が同点の50位。ちなみに、エコ都市の考査項目は水道普及度、水の飲用適性、廃棄物処理、下水道の普及度、大気汚染、交通混雑だそうな。都市ランキングで最下位の221番目はイラクのバグダッドだった。(ランキング好きの日本のマスコミにはまだ出てこないのはどうしてかな?)ま、上位は去年のとあまり変わっていないし、バンクーバーは他のQOLランキングでもベスト5の常連なんだけど、それでも新聞のコメント欄にはさっそく「バンクーバーは全然住みやすくなんかないじゃん!」といった類のコメントが並んでいる。まあ、別の記事を読めば、そういう反論が出て来るのもわかるけど。
その別の記事というのがバンクーバーの住宅市場の話。マイホーム実現の難しさでは世界のトップクラスなんだそうで、典型的な二階建ての家の場合、ローンや税金、維持費、光熱費などにかかるコストが税引き前の平均世帯所得の73%という信じられない数字。これじゃ平均的な家族は共働きしたってバンクーバー市内に家を買うのはとうてい無理。だから、マイホームは夢のまた夢だし、物価も高いし、通勤は大変だし、何でバンクーバーのQOLが世界トップなんだっ!ということになるわけ。だけど、すでにマイホームがあって、ローンもほぼ完済して、人並みの職について収入を得ていれば、バンクーバーはすごく住みやすい都市なんだと思う。世界ランキングの上位にロンドン、パリ、ニューヨーク、東京といった巨大都市がないのも「住みやすさ」について何かを示唆しているように思うけど。
住宅の価格いろんな要因によって上がり下がりする「相場」なんだけど、そのバンクーバーの一戸建て住宅は平均世帯所得の10年分に近いという話。カナダ統計局によるとBC州の人口は今後25年間で現在の倍近くに増えると予測されるそうで、その大半がおそらく主要都市に集中するとすれば、不況や供給過剰があれば一時的に下がることはあっても、全体的にはこれからも上がり調子なんだろうという感じがするな。ローカル掲示板には「カナダ経済はそのうち破綻して、不動産も暴落するから、半額になるまで温かく見守ろう」なんてどこそこちゃんねる風の仮想的期待感に溢れた論議もあったけど、この分だと日本に帰って家を買った方が早いかもなあ。
もうひとつ、そうだろうなあと思った記事。2006年の国勢調査の分析によると、カナダでは(事実婚も含めて)異人種カップルが急速に増えているという。これだけ移民が入ってくれば、人種の違う男と女が出会って恋に落ちる確率もぐんと高くなるだろうから、異人種婚が増えるのも当然だろうな。だから、異人種カップルの割合がカナダで一番高いのはバンクーバーなのは不思議でもなんでもない。割合はカップル全体の8.5%だそうな。あんがい来年の国勢調査では10%を超えるかもしれないな。ちなみに、外国生まれの移民一世の異人種婚の割合は12%だけど、親が外国生まれの移民二世になるとこれが51%に跳ね上がり、両親ともカナダ生まれの三世の世代では69%という高率だそうな。なるほど、そうやって何世代も、何世紀も経て、やがて雑種の「カナダ民族」ができるあがるんだろうな。喜ばしいことだけど、ワタシの遺伝子がその中にないのはちょっぴり残念かも・・・。
そういうことなのだよ
5月27日。木曜日。何となく目が覚めて、何となくくっつき合って、うとうとしていたもので、起床は午後12時半。曇り空。小雨もようの予報。今日は二人とも「やることがいっぱい」の日。
カレシはiPodを満タンにして、イアバッドを耳にねじ込んで、その上に産業用のイアマフをして庭仕事。裏庭はあやめが花盛り。西洋わさびの白い花といっしょに小さなブーケにして持って来てくれたから、さっそく花瓶に入れてリビングに。前の庭にマリゴールドの種を撒いたよとの報告で、前庭を見ると、今真っ赤なけしの花が盛り。大きいから6個もまとめて咲くと壮観。その足元にマリゴールドを撒いたんだそうな。我が家の庭はどこのうちにもある芝生がないし、そこへカレシが適当なところに適当に植えるもので、裏も表も雑然。おまけにさして広くもないのに、木が多すぎて、隅っこのほうは昼でもうっそうとしていたりで、感想に困った人が「まさにウェストコースト式だね」と評してくれたけど、まあ、要するに「野放図ガーデニング」ということだよ、キミ。
この春はアメリカドルと等価になるくらい上がっていたカナダドルだけど、先週からユーロ圏の財政危機問題であれよあれよというまに数セントも下落。「それっ、潮時!」とばかりにアメリカドル口座に貯まっていた翻訳収入をカナダドルの口座に移したら、今日はもう2セントも上がっている。ふう、タイミング、良かったなあ。別に為替でひと儲けしようというわけじゃないけれど、額に汗して?稼いだお金だから、手取りは少しでも多い方が気分はいい。そこで、アメリカドルがまとまった額になってきたら、毎日カナダ銀行のサイトでその日の相場を一応チェックして、「まあ、いいか」というレートになったところで資金移動。同じ銀行の同じ名義の口座だからか、銀行間での移動よりはずっとレートがいいし、手数料はゼロ。ただし、移動する金額を入れると振り込まれる額といっしょに「制限時間1分」のメッセージが出るのは、リアルタイムの相場だからだろうな。客がトイレにでも行って考えている間にレートが大きく変わったら銀行は損をしてしまう。ふむ、またカナダドルがどんと上がったら、今度はアメリカドル口座に移して、そっちが上がったら・・・こら、そういうのを投機というのだよ、キミ。
今週中に納期がある仕事2つ。なんだか少し遅れ気味のような感じがする。もう1個は小さい目だからいいけど、先に済ませる方は推定で数千ワードは行きそうなやつなのに、まだ5ページしかやってないぞ。来週からはその倍以上のでっ~かいのがあって、ねじり鉢巻になりそうだってのに、大丈夫なのかなあ。日本はどっちも向いても不況だ、不況だと言うし、仕事が減ったと言う人もいるけど、なぜか極楽とんぼジムショは仕事が増えているような。まあ、何でも能天気に引き受けてしまうせいもあるんだけど、裏を返せば、「私は~が専門で」と胸を張らずに(胸を張りたくても張れる専門がないのが現実・・・)、やれそうな仕事を大小を問わずにこまめに拾っているということでもある。なまじっかすごい学歴や高度な専門知識があるばかりに高いところで不況を嘆いている人もいるかもしれないけど、邪魔になるプライドも何もないワタシはその足元でせっせと落穂ひろい。小さな仕事だって積もればちょっとした山になるんだから、ほんと。そう、何でも屋だってニッチ分野なんだよ、キミ。
よ~し、腕をまくって、がんばろうね、キミ。
午前4時の寝酒の味
5月29日。やった、やった。午前4時。親指どころか、人差し指もしくしくと痛くなって来て、どうしよう~と思ったけど、とにかく期限に間に合って終了。
がんばったんだから。小町横丁には足を向けなかったし、パックマンもやらなかったし、ジグソーパズルもやらなかったし、ああだこうだと気を引こうとするカレシには「話しかけるな!」とお達しを出したし。まあ、だらだらしてないでぼちぼちとでもやっておけば余裕で終わってたんだろうけど・・・。
店じまいして「イェ~イ」と叫んだら、草木も眠る丑三つ時さえとっくに過ぎてしまった午前4時なのに、カレシが「レミとグラス、テーブルに出しといたよ~」。おいおい、今頃は日の出が午前5時ちょっと過ぎ。こんな時間に寝酒なんかやっていたら、日が昇って来て(雨、降ってるけど)、寝酒どころか朝酒になってしまうと思うけど。
とかなんとかいいながら、しばしグラスを傾けてしまう二人。ふうう・・・。
男子おだてれば厨房に入る?
5月30日。日曜日。午前4時半にもうひとつ納品して、就寝は午前5時。小雨模様だけど、東の空がぼうっと明るくなっていた。とにかくそのまま寝て、起床は午後1時の手前。次の大きな仕事にかかる前にと、今日1日は休みモード。世間さまな日曜日なんだもん。
半日くらいですみそうな小さな仕事に「超過勤務」になってしまったのは、シーズン最後のコンサートがあったから。テーマはロシア音楽で、前座?のバラキレフに始まって、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。ソロのダレット・ズスコはトロントの若手ピアニスト。よくあんなに指が動くもんだと感心しているうちに親指が痛くなって来た。休憩をはさんで、第2部の最初はオリンピックにちなんで募集して披露してきたカナダの若手や無名の作曲家たちの最後の作品。札幌生まれで、子供の頃の札幌オリンピックの直前に家族でカナダへ移住して来たというリタ・ウエダという女性が、復元するという約束で破壊された恵庭岳の森林が40年近くを経てもまだ傷が癒えていないのを見て書いたという曲。ワタシには少し前衛色が強すぎるような感じだった。
後はグラズノフのワルツ、ショスタコヴィッチの『タヒチ・トロット』。アメリカでヒットしてたミュージカルの中の『二人でお茶を』を1時間でオーケストラ用に編曲できるかという賭けをして、45分で書き上げたものだそうだけど、聞いていたら何となくフルシチョフやブレジネフの苦虫をかみ潰した顔を連想してしまって、おかしかった。打ち上げはハチャトリゥアンの『ガイーヌ』から、『剣の舞』、『子守歌』、そして『レスギンカ』。有名な『剣の舞』はそれなりにいいけど、『子守歌』はしっとりとしていて好き。特に最初の部分は日本各地にある「○○地方の子守唄」のメロディを思わせるところがあって、ワタシの耳には「竹田の子守唄」が聞こえた。このあたりを尺八で演奏したら、知らない人は日本の民謡だと思ってしまうかもしれないな。ハチャトゥリアンは西アジアの民族アルメニア人。やっぱりアジアは西の端から海を越えた東の端までいろんなところでつながっているってことだなあ。
というわけで、帰って来たらもう11時近く。それからランチを食べて、「期限は午前7時だ!」とオフィスに駆け込んでの猛ダッシュ。う~ん、お出かけの前にもうちょっとがんばっておけばよかったのになあ。だけど、きのうの今日みたいな気分だったし・・・ま、間に合ったからいいけど。
朝食が終わったらもう2時に近い時間で、急いでブロードウェイのCookworksへ炭酸水を作る道具を買いに行った。カレシは制酸薬代わりに昔ながらのソーダサイフォンを愛用していたんだけど、カートリッジが手に入りにくい上に、ピンが曲がったのか腐食したのか、炭酸がサイフォンの外へ漏れるようになって、だいぶ前から使い物にならなくなってしまっていた。そんなときに郵便の宛名に押して判読不能にするスタンプを注文したついでに、おもしろいものがないかなあとカタログサイトをぶらついていて見つけたのがペンギンの形をしたソーダストリームの炭酸水メーカー。かわいいんだけど・・・と、別なデザインを探して見つけたのが同じ会社のピュアというモデル。すっきりしたデザインで、1リットルのペットボトルが2本と炭酸水が60リットルくらい作れるカートリッジが1本付いてきて、ペンギンよりずっと安い。ところが見つけたサイト(Williams-Sonoma)はカナダへは発送してくれない。ならばバンクーバーの店にあるかもしれないと、さっそくカレシが電話したら「ありませんが、Cookworksでペンギンを扱っているので問い合わせてみたらどうですか」と同じエリアにある競争相手を紹介してくれた。で、行ってみたら、あった!新製品ということで、アルミ缶やペットボトルのリサイクルの手間が省けるし、使用済みのカートリッジは再充填するので「エコな道具です」と実演販売中。作った炭酸水に入れる子供の好きそうなフルーツやコーラなどのフレーバーもあって、かなりよく売れているという話だった。
カレシは「実演なんかどうでもいいから」とさっそく買ってしまったので、レジで預かってもらって、順序が逆だけどやっとゆっくりと店の中を見て回ることができた。アメリカへ行くたびに見つけてキッチンの小物を買ってくるCrate & Barrelと同格の店というところか。便利そうなものがいっぱいある。ワタシが気に入っているチタン加工でくっつかないフライパンも置いてあるぞ。デンマークのスキャンパンの製品で、油なしでも料理できて、金属のフライ返しを使ってもテフロン加工のように傷つかないし、剥がれてくることもない。12インチの大きいのが欲しいと思っていたところなんだけど、カレシがでんとした感じのBrevilleのジューサーを見つけて「これ、欲しい」。今あるプラスチックのは軽いので、使っているうちに動いてしまって、ジュースが受ける容器に入らずにカウンターにこぼれることが多い。目の前にあるBrevilleのは倍以上の値段だけど、金属部分が多くて重そうだし、大き目の容器もパイプを差し込むようになっているからそう簡単には外れないだろうな。さっき炭酸水メーカーを買ったときにポイント制度に(カレシの名前で)登録したんだし、この次はジューサーを買いに来ようか。
炭酸水でカクテルを作ってもらって、ジューサーで新鮮なジュースを作ってもらって・・・というのも悪い気はしないなあ。カレシさあ、次はどんな道具が欲しい?いや、鼻薬をきかせようというつもりはこれっぽちもないんだけど・・・。
無限の宇宙のど真ん中
5月31日。月曜日。5月も今日でおしまい。んっとに早いもんだ。いや、まだ雨が降って寒々としているところを見ると、あんがい時間の足が遅すぎて、まだ冬なのかもしれない。実際は、空が灰色だから寒々として見えるだけで、気温は平年よりぐんと低いわけではないんだけど。ともかく、ちょっとだけ早寝したおかげで、今日は正午前に目が覚めた。
月末なのでまずは請求書の処理から。請求しなければお金が入ってこない。お金が入ってこないと生活に差し支える。もっとも、仕事をしなければ請求するも何もないんだけど、それがビジネスかな。朝日新聞のサイトに、日本の若い人の間で昔ながらの年功序列制度への回帰志向が強まっているという、ある調査の結果が出ていてちょっとびっくり。同じ日、AP通信が、日本の女性は年代が若いほど専業主婦志向を強めているという、厚労省の調査結果を報じていて、またびっくり。平成っ子が「ダサい」と切り捨てたはずの「昭和」が懐かしがられているらしいし、ポストバブル時代の失われた10年が20年になり、依然として出口が見えて来ないような状況で、日本は疲れてしまったのかなあという感じがする。それこそ社会が疲弊してしまって、「一億総うつ病」みたいなことになってしまわないといいけど。
ストレスや疲れがたまってくるといやでも気持の潤いがなくなりがちなのが人間。お金が絡んでくると、潤いどころか、カラカラに干上がって(嫉妬と言う陽炎が立っている)砂漠になってしまう人もいるな。小町横丁にも、不景気で夫の収入が減ってけんかばかりするようになった夫婦や、(自分より)経済的に豊かな人が羨ましい人、妬ましい人、しまいには僻みが高じて被害妄想に陥っているような人がぞろぞろ登場する。そういうトピックにはやたらと大きな数字を挙げて(たいがいは夫の)高収入を披露する頓珍漢夫人もぞろぞろと登場する。ただヒマなのか、「かくありたい自分」の姿なのかわからないけど、しまいには経済的レベルが違う人と付き合うのは難しいとか何とか。(ついこの前までは学歴の違いが障害になっていたようだけど。)
世の中は人それぞれなんだから、自分が可もなく不可もなしと思えたら、「釣り合わない人」とも気楽に接することができそうに思うけどな。まあ、向こうが気楽に接してくれるかどうかはわからないけど、そこは、あちらしだいだと思う。「去る者は追わず、来たる者は拒まず」と言うから。みんなが横並びで(たぶん)うまく釣り合っていたと思われる「一億総中流意識」が昭和の華々しい高度経済成長時代の産物だとすれば、平成時代になってなかなか新しい「一億総○○」が出現しないことで、ポストバブル社会に適応するためのよりどころが見つからずにイライラして疲れているという面もあるかもしれない。社会が適応障害なのか、人が適応障害なのかはどっちとも言えないけど、外から眺めていると何となくネガティブ思考のスパイラルに落ち込んでいるような感じもしないではない。
まあ、人間は誰でも持てる、持たざるに関わらず平等に「生まれたときに持って来た体」ひとつでこの世から去るわけで、それまでの最低限の生活に必要な以上のお金があるんだったら、どんどん使って天下に回した方が社会貢献になると思う。棚ぼたのお金だったらなおのこと。思うように使えるお金がないと嘆く若い世代は「年寄りは贅沢して遊んでいてずるい」と言うかもしれないけど、そもそも稼いで来た年数が違うのに、今だけを見て比べて不公平だと騒ぐ方がおかしいのだ。たくさん持っている人にどんどん使ってもらえば、回りまわって自分のふところも潤うのが資本主義経済なんで、上もなく下もない完全に平等な社会では、誰も上になれないわけで、結局みんな下に横並びすることになるんじゃないかと思うけど。
まあ、還暦を過ぎる年令にもなれば、一億人に右倣えしなくても、自分が何を「よりどころ」とするかによって、人生も日常生活も満足だったり、あるいは不満たらたらだったりするものだというくらいの悟りは開けると思うな。長いこと働いたり、家計を切り盛りしたりして来たんだから、お金の価値観もそれぞれに落ち着くところに落ち着いてくるだろうな。いろいろな世間や人を見てきたんだから、上を見ればキリがない、下を見てもキリがなくて、左右を見てもキリがない、自分はいつもその無限のものさしの中間にいるんだという悟りのような境地にも近づけるかな。無限の宇宙のど真ん中ではまさに日々是悠々自適。そうか、妬み、僻み、嫉みで他人との「格差」を糾弾している人たちはまだ十分に生きていないだけかもしれないなあ。人生って、けっこうあるもの・・・。