朝起きたら唇が腫れ上がっていた
8月16日。木曜日。今日も予報どおり、暑い。どういうわけか大量のにんにくを剝きながら、ポテトはどうの、何はどうのと大きな冷蔵庫をかき回しているヘンな夢を見ていた。なぜか自分のキッチンではなくて、どこかのホテルか何かのようなところで、周りを知らない人(それもサラリーマンみたいな男ばかり)がいっぱいうろうろしていた。途中ではっと目が覚めてしまったけど、何だったんだろうなあ。
目が覚めてびっくり仰天。上唇が腫れ上がっている!痛くも痒くもなくて、とにかく上唇だけがまるでドナルドダックみたいになっている。よくよく見ると、真ん中のくぼんだところの先っぽにちょっとだけ色合いの違うところがあるような、ないような・・・。ひょっとして虫に刺されたのかと思ったけど、暑くても窓は開け放していないから、家の中にはほとんど虫が入って来ないし、第一、唇を刺された話なんて聞いたことがない。カフカの小説は主人公が目が覚めたら巨大な虫に変身していた話だけど、ワタシはドナルドダックに変身?寝ている間にいったい何が起きたのか?今夜は久しぶりに芝居を見に行くことになっているんだけど、やだなあ、このアヒル口・・・。
カレシに見せたら、「それ、ボクもなったことがある」。へえ。「体調がぱっとしないときになるんだよ。ストレスだよ、きっと。気にしなくても大丈夫」と、起き抜けと言うこともあるけど、ちょっと他人ごとみたいな診断。気にしなくても大丈夫って言うけど、ちょっとした異変でも気になって気になってイライラ、カリカリする人にそう言われてもねえ。まあ、あれこれ調べてみたところ、どうも「クィンケ浮腫」というのが当てはまりそうな感じ。突発性局所性浮腫とも、血管神経性浮腫とも呼ばれるようで、原因は不明とか。唇や目の周りだけでなく、舌にも起こるらしい。ということは、舌の横が歯でこすられて赤くなるときがあるのは、歯の手入れが不十分なんじゃなくて、もしかしたらこの浮腫が舌に出て来るからじゃないのかなあ。今度ウー先生のところへ行ったら聞いてみなくちゃ。
腫れが出たときは抗ヒスタミン剤が効くというから、アレルギー症状なのかもしれない。ワタシは30代の終わりくらいから呼吸系のアレルギーがたくさん出て、減感作療法を4年くらい続けてほぼ完治した経緯があるんだけど、その後は虫刺されに対するアレルギー反応がひどくなった。でも、痛くも痒くないから虫刺されとは思えないし、食べ物のアレルギーはない(はず)だから、いったい何が原因なんだろうな。医学は簡単に「原因不明」と言ってしまえるけど、何らかの「原因が」あるから異変が起きるんじゃないのかな。まあ、このクィンケ浮腫というのはよく起きるものらしく、放っておいても数時間で腫れが引いて元に戻るというから、本当に「気にしなくても大丈夫」なことは間違いなさそう。原因はわからなくても、疲れたときやストレスがたまっているときに起きやすいというから、自分でも気が付かないストレスがたまって「いっぱいいっぱい」になったということなのかな。いろんなことがあって、年を取って、自分は強くなったと思っていても、もしかして、意外とまだ「繊細」なところがあるってこと・・・?
ストレスが原因だとすると、ここのところ、仕事に気合が入らなかったり、気分的にかなりだら~んとして何となく疲れているような状態だったから、なるほどという感じもする。でもまあ、喉に症状が出なければ命に関わることはまったくないそうだから、今夜はArts Club Theatreのシーズンフィナーレのミュージカル『Buddy: The Buddy Holly Story』でストレスを吹っ飛ばして来よう。音楽的に大きく成長する転換期を迎えた矢先に22歳で死んでしまったロックンロールのスーパースター、バディ・ホリー。カレシが十代の頃の話で、まだ小学生だったワタシは名前さえ知らずに育ったけど、活躍したのはわずか2年ほどだから、ロックンロールの超新星だったのか。イギリスの脚本家アラン・ジェインズが書いて、ロンドンでの初演は13年もロングランしたという作品。楽しみだな。心なしか唇の腫れも引いて来たような・・・。
自己と言うのはどんなもの
8月17日。金曜日。起床は午後1時。ポーチの温度計はすでに28度に接近。天気サイトでは空港(公式記録の観測点)で気温28度、湿度45%、ヒュミデックス(体感温度)32度。今日も暑い。はて、この夏一番の暑さになるか・・・。
起きて真っ先に鏡を覗いたら、おお、唇はほぼ元通り。何かまだ腫れぼったい感じがしないでもないけど、ちょっとふっくらしているんだと思えば、何となく若返ったような気分になれるからいいや。実際に鏡の中の自分に向かってスマイルしてみたら、まだかわいげがあった若かりし頃のワタシの面影。まあ、いくら世間ではブスと言われる顔だって持ち主にはけっこうかわいく見えるもんで、世間でカワイイともてはやされる人はそれをもてないブスの「自己満足」と評することが多いけど、自分にブスという言葉を投げつけられたらマゾだと思うな。人間、鏡に映っている自分、心の鏡に映る自分をありのまま受け入れられなくてどうするんだ。そういうと、今度は自分自身を受け入れられないでいる人に何かあまり芳しくないことを言われるのかな。ま、日本語では「自己」のつく言葉はネガティブなニュアンスで使われることが多いようだから、「あんたって人はほんとに自己○○」と言われたら、ほめ言葉じゃないと思った方が無難かな。
たとえば、「自己評価」。他人にあなたは自己評価が低いと言われたら「自信のないネクラな人」、高いと言われたら「自信過剰でプライドの高い人」と他己評価されていることになる。「自己主張」も日本語の文脈ではあまり良い意味に使われていないな。小町横町界隈では、自己主張をする人はわがままで自己中な人間として排斥される。一般に蛇蝎のごとく嫌われる「自己中人間」は、概して自分の意に反する言動をする他人を「自己中」と非難する人に多いような気がするな。自己満足だって、本当に満足している人が自分でそう言うのではなくて、概して不満を抱えている人が満足できる人をやっかんで「そんなの、単なる自己満足!」とこき下ろす場合に使われることが多いような感じがする。不思議なのは「自己反省」という言葉で、他人がやったことを反省することはできない(と思う)から、反省と言えば即自分の言動に関してだと思うんだけど、「同じ○○として」他人のことを反省する奇特な人がいるのがおもしろい。
60年代の学生運動の頃には「自己批判」というのが流行ったけど、たいていは覆面をした大勢の反体制学生に取り囲まれて「自己批判しろ」と詰め寄られてのことで、相手に期待された通りの「批判」を並べていたから、自己批判と言えるかどうかは怪しいもんだな。履歴書に書く「自己都合退職」だって、ほんとは辞めたくないのに雇い主の圧力で退職に追い込まれた人がたくさんいるらしい。それは「自己の都合」じゃなくて「会社」の都合だろうに、自己都合にしないと失業保険の手続きに必要な書類をもらえなかったりするらしい。都合のいい時には「自己否定」を要求し、都合が悪くなると「自己責任」を問う社会のように見えるけど、そもそも「自己」という観念があるのかどうか・・・。
ま、どうでもいいけど、少なくとも満足していない自分を変えようにも、自分をよく知っていないと何を変えたらいいのかわからないだろうと思う。自分を知っていても、その自分を変えるのは難しい。自分を変えようとすると、それに伴う痛みに自分で対処しなければならないから、それでも自分は変わりたい!という意志と覚悟がないと自己改革は苦しくて辛い。だから、人はつい必然的に他人や周囲の環境を変えようとするんだろうと思う。他人であれば、自分が望むように変わらなければ、変わらせる手段がいろいろとあるみたいだし・・・。
さて、のんびりしていないで、週末の仕事にかかるか。自営業は自己管理が重要で、しかも自分の生業の存亡がかかっているから、こればかりは他人に管理してもらうわけには行かないもんね。
ストレス解消はおしゃべりに限る
8月18日。土曜日。今日も暑いという予報だったので、午前9時前にエアコンがオンになるようにセットしておいたら、なんだか涼しくて目が覚めた。雲が出ていて、午後1時のポーチの気温は22度。週間予報を見たら、週中からの最高気温が20度を切っている。あれ、夏はもうおしまいなの?そういえば、今日から恒例のPNEが始まるんだった。子供たちの夏休みが終わって新学年が始まる前の最後の大イベントで、100年の歴史があるんだけど、なぜかこのPNEが始まると雨が降り出すというジンクスがある・・・。
今日はシアトルから同業の友だち夫婦とその友だち夫婦が週末の一泊旅行でやって来るので、ダウンタウンで一緒にディナーの予定。シアトルからバンクーバーまでのハイウェイ5号線でも230キロ近い距離を何とサイクリングして来るというからすごい。ハイウェイには自転車禁止の区間があるから、最終的にはたぶん250キロ近くペダルを踏むことになるのかな。超人的だけど、どのくらい時間がかかるんだろう。夫同士がビール通なので地ビールを飲めるところがいいということで、ここはどうかとEnsemble Tapというパブを紹介したら、ちゃっちゃと「6時半に予約を入れたわよ~」とメール。早い!と感心して思い出した。彼女の副業はウェディングプランナー。友、遠方より(自転車こいで)来る。楽しからずやなんて、そんなこと、聞くほうが野暮ってものでしょ。
とりあえず、午後は仕事。日本の金曜日の夕方に飛び込んで来たちょっと大きめの仕事が、先方の先方でまだ発注の承認が出ていないということで、週明けまでお預け。助かった~。こっち時間で明日の夕方が納期の仕事があって、その上に別のところから明日中かあさっての午前6時が納期の仕事があって、その上に月曜日の夕方までにもうひとつはちょっとばかりきつい。ま、いっかとばかりについ引き受けてしまうワタシがどうかしているんだけど、まあ、上得意さんとなれば、腕まくりのひとつもしようという気持になるもんだし、日本では夕方に引き合いが飛び込んで来ることが多い「魔の金曜日」で、コーディネータさんは帰るにも帰れず、やきもきしてクライアントと下請けの両方の返事待ちということが多い。きのうも、お預けの連絡メールが来た頃には(日本時間)午後7時を大きく回っていた。「花金」なんて、いったいどこの話なんだろうね?
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久しぶりのダウンタウン。地下鉄の駅から出て来たら、グランヴィルストリートはラテンアメリカ人のお祭りがあって交通止め。小さなステージができていて、スペイン語名前のバンドの生演奏。他民族都市(多国籍都市ではない)バンクーバーには大小のエスニックフェスティバルが相当な数ある。おまけに今日は何とも奇妙なお祭りもあるらしく、頭や顔、着ているものを血まみれにした気味の悪い若い男女がぞろぞろ。ははあ、これがゾンビウォークというやつか。北米のどこかで始まったのが「オレたちもやろうじゃないか」というノリで世界中に広まったらしいけど、何というかあんまり趣味の良いイベントじゃないなあ。今のシリアに行ったらこんな風景は日常だろうにと思ってしまった。まあ、そうやって歩いているご当人たちはけっこう楽しそうにしていたから、一種のコスプレのつもりなんだろうな。それでも気味が悪いことには変わりないけど・・・。
予約の6時半にパブで落ち合って、友だち夫婦の友だち夫婦(ご近所さんだそうな)とは初対面だけど、その場で意気投合しておしゃべりが盛り上がり、パブを出たのは午後10時10分前。話によると、シアトルからバンクーバーまでの長距離サイクリングは毎年恒例の大イベントで、1000人以上の参加者が途中のベリンガムで1泊して2日がかりで300キロを走るんだそうな。ハイウェイは走れないから、山あり谷ありルートをせっせとペダルを踏むんだそうな。もっとも、途中では水の補給ステーションがあるそうだし、カフェなどで休憩したりもするので、ツールドフランスのような過酷なレースとはまったく趣が違うけど、それでも300キロ走破はすごいなあ。毎年早々と募集枠がいっぱいになってしまう人気ぶりで、今は金土と土日の2回に分けて、それでも両方とも満員御礼になるそうだから、びっくりした。友だち夫婦もその友だち夫婦も40代半ば。いや、元気だなあ・・・。
賑やかな周囲に負けないくらい賑やかにおしゃべりをして、ワタシたちがシアトルに行ったときは、6人でまた食事をしようねと約束して、おやすみなさい。どうやらワタシの一番のストレス解消法はおしゃべりらしい。うん、楽しいひとときだった!
英語になったパワーハラスメント
8月19日。日曜日。今日は久しぶりに朝からエアコンなし。何しろ、正午のポーチの温度計はぎりぎりで16度。こんなときにエアコンをかけたら鼻先に霜焼けができてしまいそう。おとといは30度近くて、今年一番の暑さかと騒いでいたのに、何で?
きのうは目いっぱい楽しく遊んだから、今日は鉢巻をきりりと締めなおして、仕事。夕方までに日本時間月曜朝イチの仕事はきのうのうちに60%くらいは終わっている。何となく小町横町の掲示板を読んでいるような感じで、やっているうちにちょっとばかり気が滅入って来る。社会人の集団なんだけど、大人社会のはずなんだけど、だけど、だけど、やっていることはだいたいが砂場の子供のけんかのレベル。苦情もあるけど、告げ口みたいのもある。そういうのにいちいち対処しなければならない担当者は大変だと思うけど、この世には楽な仕事なんてないという証拠。まあ、それが大人が生計を立てるために働くということかな。でも、こんなのを読んで「やれやれ、日本人て・・・」なんて印象にならないといいね。(よけいなおせっかいだけど。)
品質管理担当のカレシは原稿を見て、「パワーハラスメントなんて言葉、英語じゃないよ。流行のカタカナ語じゃないの?」と横やり口調。あの、ちゃんと英語になってるよ。英語の文書に出て来るんだから。「正しい英語じゃない。英語らしく言い替えろ」。たしかに英語としてしっくりしないけど、ちゃんと英語として流通してるんだってば。「いや、そんな英語はない!」 ある!「間違いだ!」 間違いじゃないってば。なぜかカレシは「それは英語じゃない!意味不明だ!」とヒートアップ気味。 あのね、その筋の仕事をしている人にはちゃんとわかるの。ウィキペディアでも調べてみたら(英語のウィキにあるから、日本発祥だって)?いったい何なの、アナタ?そういうのを「パワハラ」と言うのよ、日本では。で、英語ではパワーハラスメントと言うの(日本製英語を逆輸入したものらしい)。「それは職権乱用というんだ」。ちがうなあ、それ。自分に自信がないけど突っ張りたい人間が職場での地位や権力を傘に着て自分より下の人間に嫌がらせをしたり、いじめたりするのがパワハラ。それを家でやればモラハラDV・・・。
北風と太陽の話じゃないけど、カレシの心の中にもいろんな風が吹いているだろうから、(今でも)ときどきつむじ風が巻き起こるのはしょうがない。藁の家に住んでいたときは被害甚大だったけど、今はがっちりしたれんがの家。狼がいくら青くなるまで吹きまくったってびくともしないよ。テレビを見たら、アサンジが外国大使館と言う安全圏の中から「アメリカはああしろ、こうしろ」と命令しているところで、カレシのもやもやイライラは矛先を変えて「あんなヤツはさっさと突入して逮捕してしまえ!」と言って、テレビをプッチン。ワタシが思うに、あのアサンジって男、政府とか政治家に(たぶん個人的な)意趣遺恨があって、何かと嫌われるアメリカを意趣返しの標的にしたのはいいけど、エラそうにしていても内心は報復が怖くてびくびくしているんだろうな。他人を攻撃して、自分はこそこそと逃げる。けっこういるなあ、そういう人。でもまあ、あんな風に注目を浴びるようなことをやれば、その人の本質が見えなくなるか、見えても目をつぶるのが群衆の心理かもしれない。何ハラっていうのかな、そういうの。
夕食後はもうひとつの仕事。これはおもしろい。人間の脳の中ってこんなにもいろんなパーツがあるんだと感心することしきり。前、後ろ、てっぺん。横、上、下。大脳に小脳に中脳に右脳に左脳。漢字だらけの名前がぞろぞろ。解剖学の先駆者たちはこういうのにひとつひとつ名前をつけたんだからすごい。ワタシの大脳辺縁系の海馬体は花火大会のようになっているかもしれないな。これだから科学の仕事はやめられない。原稿を見たカレシ、横槍ハラスメントを反省したのか、いかにもしおらしく「読みやすい英語だね」。そりゃそうだろうな、脳の話でも人間の感情とは別の次元なんだからと言ったら、「知らない単語ばかりで、何の話かさっぱりわからなかったけど、読みやすかったよ」と。ふむ、ほめているんだか、けなしているんだか・・・。
夫婦げんかも時には地盤固めになる
8月20日。月曜日。夏、ほんのちょっと盛り返し。起床は午前11時半。きのうはカレシがパンを焼くのを忘れたので、ベーコンとポテトとミックスきのこを炒めて、カレシが担当の目玉焼きと一緒にピタにはさんで、エッグマクピッタ、とでもいうのか・・・。
午後にHマートに買い物に行くことになっていたので、早めに起きてよかったと思っていたら、カレシが「夜にしよう」とお得意のドタチェン。まあ、いいかとOKしたら、しばらくして、「今日はIGAに行って野菜を買って来ることにして、Hマートは明日にしない?」とまた変更。きのうの今日で、ワタシの頭の上に危険を知らせる黄色い旗。でも、野菜がなくなって来たから、そっちの方がいいかとOK。ところが、しばらくして今度は「IGAは明日の午後に行くことにして、今夜はセイフウェイでとりあえず必要な野菜だけ買って、酒屋に寄ってジンを買って来ることにしようよ」と。まあ、いいけど・・・。それが午後3時半。しばらく庭に出ていて、入ってくるなり「2日に分けて野菜を買いに行くのはめんどうだから、今夜は酒屋だけにしよう」。おいおい・・・。
カレシのドタチェン、ポイントカードを作ったらすごいだろうな。ドタチェン1回ごとに10点。1000点貯まったら、う~ん、リコンかなあ・・・なんて。まあ、何かストレスを抱えているらしいとは想像がつくけど、振り回し ゲームはまっぴらごめん。OKすればするほどくるくる予定を変えるし、こっちが渋ればいやいや半分で出かけて、いかにもワタシのために無理をしているんだといわんばかりにため息、ため息。そういうときにオンになっていたのがワタシの心に罪悪感を起こさせる「スイッチ」。ワタシが悪いことをしたわけではないのに、カレシが威嚇的な態度を取ったり、キレたりするたびに入ったのがこのスイッチ。たぶん大人になる過程のどこかで誰かに付けられてしまったんだろう。モラハラ人間は自分の「罪悪感」を荷降ろしするために、鋭敏な嗅覚でそのスイッチを持っている人を嗅ぎ出すらしい。
まあ、そっちルールでのゲームはやらないのよと、一応不興であることを態度で示して、夜になって酒屋へ。帰り道で「何でそんなにカリカリしてるんだよっ」と怒るから、何でワタシがそんなにカリカリしているのかという理由を並べて、けんかしいしい家の前。そこでカレシが「Fuck you!」と怒鳴ったから、ワタシも負けずに大きな声で「Fuck you!」とやり返した。ワタシとしては後は野となれ山となれの心境だったんだけど、家の中に入ってからのカレシはやけにしおらしい。(あまりにも汚い罵り言葉だから、ワタシがそれを使ったことがカレシにはショックだったのかなあ・・・。)しばらくして、仕事の算段をしていたワタシのところへ来て、「ボク、謝るよ。キミにそれほどストレスをかけているとは知らなかったんだよ。ごめんね」。
へ?謝るよって、謝らない人の代表みたいだったカレシが真剣な顔をして「ごめんね」って、本気なの?あのあり地獄の2年が(ワタシが求めなかったせいもあるだろうけど)最後には小町横町でよく見るような土下座も謝罪もなく、何となく終わったのに、今になってカレシがえらく真剣な顔で謝っている。一瞬変地異が起きるんじゃないかと思ったけど、でもまあ本当に本気みたいなので、ここはワタシもうんうんとうなずいて仲直り。でも、今回はいくらカレシが怒鳴っても、ワタシはひと粒の涙も流さなかった。我ながら不思議な気持だけど、長い間(カレシと出会うよりもっと前から、もしかしたら子供のときから)ワタシを苛めてきた「他人の罪悪感を肩代わりするスイッチ」が抜け落ちたんだろうと思う。これが初めて正真正銘「対等」にやったけんかだったかもしれないな。まあ、カレシは青天の霹靂で、腰を抜かしたのかもれしれないけど、ワタシという人間が住むのは、もう藁の家でもない、木の家でもない、どんな嵐にも吹き倒されない赤レンガの家。
結婚は夫婦2人が共同参画して初めて結婚として成り立つもので、そういう「枠」があることを煩わしく感じる人もいることはわかっているけど、夫婦のどちらかが、どんな理由であれ勝手にその「枠」の外へ踏み出したら、結婚している意味はなくなると思う。あのとき、あえて日本流の「謝罪」は求めなかったけど、ワタシのところに戻って来たアナタにそう言ったよね、ワタシ?まっ、明日の午後はIGAに行こうね。でないと、野菜どころか、トイレットペーパーもランチの食材も、寝酒のつまみもなくなるんだからね。
自分が自分でいられる自由
8月21日。火曜日。正午前に起床。何か久しぶりにぐっすり眠れたという気分。夢の中でも知らない生意気たっぷりなオンナノコがぎゃんぎゃん言っているのに、しっかりと自分の言い分を主張していたから、よほどきのうのケンカの結末は強烈だったんだろうな。(学んだことを夢の中できちんとおさらいしていたということなのかなあ。)午後1時のポーチの気温は17度。ちょっと低めではあるけど、まあまあ。でも、空の色は心なしか秋空の青・・・。
朝食後、予定通りに買出しにIGAへ。ドライフルーツを作る材料をどっさり買うというので、トートバッグを2つ持って行った。(きのうのようなことがあった後で普段やらないでいたことをやりたくなるらしいのがカレシ。ま、ドライフルーツを作るからと言うので買ったデハイドレータがずっと遊休状態だから、いいか。)トラックの運転も心なしかいつもよりは慎重。カレシが果物や野菜をカートに詰め込んでいる間に、ワタシは魚のカウンターで、右端から左端まで、(オヒョウ、スティールヘッド、ホッキョクイワナ、ロックフィッシュ、アヒ、ティラピアなど)あれをいくつ、これをいくつ。トイレットペーパーはダブルロール15個入り。ヨーグルトのとなりに見慣れない「ケフィア」というのがあって、手に取って振ってみたら、たぷたぷ。そういえば日本では「飲むヨーグルト」というのがあって、試しておいしかったのを思い出して、同じようなものかどうかはわからないけど買ってみることにした。大さじ1杯で腸にやさしいバクテリア50億個だそうな。
こういうときに限って、仕事がどさどさと入って来る。まだ8月が終わっていないのに、ログを見ると平均的な年だった2010年の10月末のラインを超えてしまっている。あ~あ、来年春の所得税申告が思いやられるなあ。ま、現役のうちは仕事は仕事。だけど、ねじり鉢巻を締める前に、ちょっと寄り道。小町横町から逸れて、白河桃子と言う人の「スパイス小町」という連載コラムに遭遇。掲示板への投稿内容をテーマにしたエッセイで、これがなかなかおもしろい。婚活で断る時のトラブルに関して「国民的恋愛のルールの統一云々」のところで、「日本人は実は「自由」が苦手。ある程度のルールがあるほうが安心する国民」と言っていて、常々個人の自由だとか、人それぞれだとか言いながら、同時に、いわゆる常識とかマナーといった「暗黙のルール」にこだわったり、それを他人に押し付けるのはどうしてなんだろうと不思議に思っていた謎が解けた感じがした。「ルールを以って尊しとす・・・?
でも、日本の人はどうして「自由」が苦手なのか。漢字だけを見ると、日本語の「自由」は「自分」(自)の「よりどころ」(由)と読める。つまり、ワタシ流の勝手な解釈では、「自我」の拠りどころであり、ひいては自分の存在意義を定義するものだと思う。でも、人は行動や判断の拠りどころとなる「自分」の存在がはっきりしていなければ、自己の判断に自信を持てないんだろう。自信の源泉である「よりどころ」が脆弱だから、何をしてもそれが普通なのか、世間の常識から外れているのか、マナーといわれるものに違反しているのかと気になるし、違反することへの社会的なペナルティも怖い。そこで、昔は横丁のご隠居さんの意見を聞いたりしたんだろうけど、今の時代は小町横丁のようなところで世間一般の「ものさし」はどうなのかとお伺いを立てるということか。(自信のある人は初めからそんな必要はないか・・・。)
そういうものさし(あるいは平均値)は、とりあえず合わせておけば、少なくとも自分は普通なんだという安心感をもたらしてくれるものなんだろう。まあ、それも社会文化のひとつなんだと思うし、一応であっても大多数が世間一般の「暗黙のルール」に従えば、みんなが安心できて、それなりにその社会は平和だろうと思う。だけど、ルールに合わせない人(あるいは平均値から外れている人)がいるというのは、「和」が乱れるということで「安心感」を揺るがされ、漠然とした不安感に変わるということなんだと思う。不安な動物は攻撃的になりがちなもので、人間も、動物とは表現が違ってもそのあたりは同じなのかもしれないな。
なんだか「自由」というのは大きな自己責任を伴うものだという気がして、その重みが実感としてわかってきたように思う。アメリカ独立運動の先頭に立ったヘンリーは「我に自由を、しからずんば死を与えよ」という名言を残したけど、まさに自分の存在の拠りどころである自由を奪われることは、自分という人格の死に価することなんだと思う。そう考えると、自分が自分でいられるという自由を疎かにはできない。自由であるということは自分を大切にするということだと思うから。
気合が入ったのなんのって
8月23日。月曜日。普通に起きたけど、ちょっと眠い。朝方に通り雨程度に降ったような話だけど、ひつじ雲が浮いている空の青はまさに「秋」。週間予報を見たら、もう気温はあまり上がらないみたい。なんか、短い、と言うか、短すぎる夏と言う感じがする。地球は温暖化してるんじゃなかったのかな。北極の氷がどんどん解けているってのに・・・。
きのうは我ながら呆れるくらいに気合が入って、2日分の仕事をまとめてやっつけてしまった。ひとつは医学がテーマで、もうひとつは味も素っ気もない契約書。契約書はだいたいが常套句的な文が並んでいるので、何年もやっているとけっこう簡単になってくる。日本語訳が中心だった頃に元原稿の契約書英語をいやになるほど読んだので、弁護士口調はお手のもの。おかげでピッチが上がって大助かり。科学論文の方は文章があいまいさを美とする日本語で書かれていても、ビジネスなんかの文書よりはずっと明快だからやりやすい。ステッドマン医学大辞典とハーパーコリンズの図解医学辞典を両側において、グーグルスカラーでラテン語の専門語や表現の用法を調べながらの作業だけど、宝探し的なところもあっておもしろい。図解医学辞典は英語版だけど、図解が生々しいもので、つい「イ~ッ」となるものもある。でも、論文の方は、ほう、へえ、なるほど~の連続で、おかげでどんどんピッチが上がって、結局2件とも余裕で納品・・・。
そういえば、今週のEconomist誌に「Microbes maketh man(微生物が人間を作る)」というおもしろい特集記事があった。ヒトの体を作っているのは10兆個の細胞と23000個の遺伝子だけでなく、数百種の細菌100兆個と3百万個の遺伝子からなるミクロビオームが共存する「生態系」だという、最近注目されつつある新しい医学の考え方で、その生態系の乱れが、肥満と栄養失調、糖尿病、動脈硬化と心臓疾患、多発性硬化症、喘息、湿疹、肝臓疾患、様々な消化器疾患、そして自閉症まで、いろいろな病気につながるというもの。つまり、人体という生態系が乱れることで病気が起きるのなら、細菌を移植するなどして狂った生態系を正常化すれば病気を治せるのではないか、抗生物質で悪さをする細菌もろとも命の営みに役立つ(というよりは加担している)細菌まで殺してしまう近代医学は目の付けどころが間違っていたのではないかということだった。
日ごろから、アレルギーや喘息、自己免疫疾患、発達障害などがどんどん増えているようなのは、人間が心安く抗生物質を使ったり、「きれい好き」を標榜して殺菌だ、滅菌だ、除菌だと「殺す」毒を持った化学薬品を使いまくって来たせいではないかと思っていたけど、あながちワタシの妄想とは限らなかったということかな。知恵がついて考えすぎるようになったのか、便利になりすぎて考えなくなったのか、どっちなのか知らないけど、人間というのは自滅的なことをする不思議な生物だなあという気がして来る。レミングの集団自殺の話は有名だけど、あれはあくまでも伝説。何らかの原因で動物が大量死することはありえるだろうけど、ことさら「死のう」と決めて死ぬわけじゃない。動物は生存するために気合を入れて生きていると思う。知恵のある人間なら気合を入れて人類が死滅しない方法を考えるだろうと思うんだけど、なぜか逆に死滅回遊へと流されているような・・・。
科学関係の仕事は人間が集積して来た実に多彩な知識に触れることができて、かなりの「Wow factor(うわっ、すごいという要素)」があるし、同時にいろいろと考えさせられて、自分なりに非科学的、似非哲学的な発見をすることも多いから、病み付きになって、つい気合が入ってしまう。逆に、契約や決算やその他諸々のビジネス関係の仕事の場合は、だいたいが「迫り来る納期」という強迫要素によって気合を入れられていると言った方がいいかもしれない。つまり、きのうは「へえ、そうするとどうなるのかな」と「早く終わらせたい」の相反する2方面にすごい気合を入れたから、くたびれたんだろうな。それでも、ずっと何となくだらだらのモードだったから、仕事に気合が入ったのはいいな。さて、次の納期は日曜日の夜(ビジネス系)と月曜日の夜(科学系)。ずいぶん急ぐなあ、みんな。ばたばたと8月が終わってしまいそうな気配・・・。
味見しすぎのドライフルーツ作り
8月24日。金曜日。起床は午前11時20分と、ちょっと早め。もうすっかり秋空になった感じで、正午のポーチの気温は17度。堆肥の影響が効きすぎたのかトレリス一面に巨大な葉っぱを繁らせているインゲン豆がやっと花を付け始めたとか。日が暮れるのが早くなって、夜の気温も10度近くまで下がるようになったから、植物は秋が近いことを感じ取って、実りを急いでいるのかも。
きのうは次の仕事の原稿が送られてくるのを待っている午後の間に、エコーの排ガス検査と保険の更新を済ませた。Air Careという州の排ガス検査、これに合格しないと自動車強制保険を更新できないしくみになっている。(修理して再検査までの保険はかけられる。)1980年代に始まったんだけど、排ガス技術の進歩で1992年以降の車は2年に1度になり、2000年代に入ってからは新車は7年間免除になった。エコーは買ってからちょうど7年でその免除期間が過ぎたわけ。実はこの検査、来年いっぱいで廃止が決まっていて、1年おきのエコーはこれが最初で最後の検査。検査場に行ってみたら、昔のような行列がなくて、待ち時間は2分。制度が始まった頃は30分、40分待ちなんてあたりまえだったのが嘘みたい。まず料金を前払い。1年おきの検査は毎年検査の倍。つまり、2年分払わされるわけで、ぼったくられている感じだな。おまけに、昔のようにエンジンをふかすこともせず、フードを開けてちょこちょこっと調べて、はい、合格。はあ?それだけで45ドル(約4千円)・・・?ぼったくりだ、やっぱり。
今日はミルクが切れるので、ゆうべ決めた通りに朝食後セイフウェイへひとっ走り。必要なものだけ買ってまっすぐ家に直行。ワタシは仕事にかかり、カレシはドライフルーツ作り。大きなパイナップルを割って、スライスして、デハイドレータのトレイを3段使って並べ、温度を設定。ファンが温風を送り始めて、家中にパイナップルの甘い香りが充満して来た。おとといはスライスしたバナナを乾燥処理して、これが良くできたもので、カレシはすっかりドライフルーツ・モードになっている。バナナはもちっとした噛み応えが残る程度に乾燥したら、味が濃縮されておいしかった。必然的にパイナップルにも大きな期待がかかる。バナナと違って水分が多いから、乾燥時間は12時間くらいかな。でもさあ、そんなに味見ばっかりしていたら、できあがる頃には半分くらいなくなっちゃってるんじゃない?
だけど、味見をするたびにパイナップルの味が凝縮されておいしくなるもので、ついつい味見をしてしまう。乾いてしわしわ、ぺらぺらになったパイナップルは、するめみたいに噛めば噛むほど甘い味が出るからたまらないなあ。2人して、もういいかなと(ちょっとだけ)味見をしていたら、案の定、いつのまにか1段目のトレイがほぼ空っぽに近くなってしまった。まあ、乾燥すると嵩がぐっと減るのはあたりまえなんだけど、この調子では12時間かけて作っても1回で全部食べてしまうことになりそうだから、次はパイナップルを2個買って来ないと間に合わないなあ。だけど、う~ん、おいしい!気を良くしたカレシ、明日はりんごを乾燥するんだそうな。まあ、甘味料は果物の天然の糖分だけから、つまみ食いのスナックとしては大いに健康的でいいな。折から秋の収穫の季節、ドライフルーツ、どんどん作ってちょうだい!
さて、最後の「味見」のパイナップルを噛みしめながら、がんばって仕事しようっと。漂って来る甘い香り、気になるけど・・・。
クオバディス、ニッポン語
8月26日。日曜日。就寝は午前5時近かったのに、カレシが早々と起きて、(別に暑くもないのに)エアコンをオンにしたもので、何となく眠りに戻れず、結局ワタシも早起きの午前11時10分。おかげでもやっと眠いんだけど、まあ、今日は日本時間の正午までに仕上げて納品しなければならない仕事があるから、早起きも悪くはないかもしれないな。
朝食をすませてオフィスに下りたら正午。いつもならまだ寝ているか、朝食中の時間。さっそく仕事にかかったけど、こっち時間の期限は午後8時だから、夕食の時間をはさんでもたっぷりの余裕。7千ワード近いし、予定を3日取るところを2日でやっつけたので、見直しと手入れだけで4、5時間はかかるし、おまけに元原稿はExcelのファイルと来ているから、校正が終わったものをそっちに落とすのにまた時間がかかる。それにしても、理系、IT系の人ってExcelが好きだなあ。というか、それしか使えないのかもしれないけど、セルのフォーマットくらいしておいてくれても良さそうなもんだ、とぶつぶつ。まあ、Excelを原稿用紙に見立ててレターを作成されるよりはいいか。まだそういう人がたまにいて、あの20字×20字の原稿用紙の様式はすでに日本人の遺伝子に組み込まれているんじゃないかと思うときがある。
何かの社内調査のようなものらしくて、割とエライ人たちの意見を聞いているんだけど、さすがその業種と言う感じで、み~んな何とかのひとつ覚えのように同じカタカナ語を使い、和製英語もぞろぞろ。たしかにIT系のカタカナ語を使うのはかっこいいのかもしれないけど、ユーザーマニュアルじゃないんだし、おじさんたちが社内でこういうカタカナ語をちりばめて会話しているのを想像すると、こっちの口元が緩んできてしまう。和製英語はおそらく和製英語だということを知らないで使っているんだろうな。(ワタシも和製英語だと知っていたわけじゃなくて、そのまま英語に置き換えたら何のことかまったくわからなくて、調べて初めて「和製英語」だとわかったんだけど。)はたと困ったのはやたらと出て来る「○○力(りょく)」。何にでも「化」をつけられるとこっちは言葉に詰まるんだけど、これもそういう流れで、何でもかんでも「力」をつければ気合が入っているように聞こえるということなんだろうか。ワタシはつい(カタカナで)「カ」と読んでしまうので、ますますチンプンカンプンでカッカそうよう。あ~あ、Quo vadis, Nippongo(ニッポン語よ、いづこへ)?翻訳者はつらいよ。
中でも一番こけてしまったのが、ごく普通の社内文書様式の語調でああだこうだと書いていて、いきなり「お客様」とか「いただく」とか、素っ頓狂なていねい語が飛び出して来ること。あんがい、ていねい語というよりは今どきのいわゆる「マニュアル敬語」(新ていねい語とも言うらしい)がサラリーマンの書く文書にも浸透しているということなのかもしれない。だけど、社内文書のヘンなところで「顧客」を「お客様」と持ち上げてみたところでどうなるってもんでもないでしょうが。それとも、「新ていねい語」と一緒に何やら不思議な心理も巷の一般人に浸透しつつあるのか。たしかに顧客に何かをしてもらうという話なんだけど、社内文書のそこだけ「お客様に○○していただいて」も、文章全体ではみごとに浮き上がって、しっくりと来ない。まあ、左利きの人が目の前に座ったときに右利きの人が違和感を持って、気になってしまうのと似たような感覚かな、これ・・・。
というわけで、いつものようにああたらこうたらと突っ込みを入れながら、仕事は無事に完了。夕食の支度をして、食べて、Excel処理をして、納品。やれやれ、何かくたびれる日本語だったわい。ほんとに最近は日本語がよくわからなくなって来たような気がする。日本語のコミュニケーション力(ここにもか)が低下しつつあるのか、それともワタシの言語中枢の日本語処理能が低下しつつあるのか、それとも単に今の日本語とワタシの日本語の乖離が進みつつあるのか。それとも、それとも、単なる老化現象か。どういうことなのか、ワタシにはわからないけど、言語変更線(なんてものがあるとしたら)を越えて来て、一種の「日本語シック」にかかって日本語環境を恋しがっていられる間はまだ日本語が劣化していない証拠で、そのあたりがあんがい「外国暮らし」の花なのかもしれないな。考えたら(いや、考えなくたってあたりまえの話なんだけど)ワタシは「外国暮らし」とか「海外在住」といったラベルが剥げ落ちてしまったし・・・。
さて、仕事は無事に終了したことだし、もうひとつは完結明瞭な科学ものなので、明日やっても十分に間に合うから、今日はさっさとオフィスを早じまい。カレシがペストソースを作るんだと、袋いっぱいの青じそを収穫してきたので、ちょっと手伝ってあげることにするか・・・。
甘さ凝縮のドライパイナップル
8月26日。おととい1日がかりでカレシが作ったドライパイナップル。まあ、味見で3分の1は食べてしまったけど、できあがった分もちょこちょこと摘んでいるうちに明日はもう空っぽというところ。だって、おいしすぎるんだもの。ずっしりと重い大きなパイナップルも、乾燥したらこんな感じ↓[写真]
長期保存するのなら、もう少し乾燥させる必要があるけど、どっちみち3日と持たない運命だから、まだほんの少し水気が残っているところまで乾燥。ほんとうにスルメを噛んでいるような噛み応えがあるから、病み付きになりそうでいけない。
ドライフルーツ作りにこれからも活躍してくれるデハイドレータ。[写真]
直径35センチくらい。底が網状になったトレイが5段重ねになっていて、加熱装置はふた兼用。トレイにスライスしたものを並べて、つまみを回して温度を設定して、プラグをコンセントに差し込むだけの簡単な仕組み。ファンが穏やかな温風をトレイの上段から下段まで通して、底から排気。果物類の乾燥温度は約60度。牛肉に味付けの処理をして乾燥させればビーフジャーキーになる。魚も乾燥できるというので、いつかイカを買ってきてスルメを作ってみようか。でも、家中が魚臭くなりそうだから、やめとくか。
カレシは庭でぶどうを育てて、レーズンを作るとか何とか言っているけど・・・。
うれしい期待はずれの菜園
8月27日。月曜日。ゆっくり目に起きて、ゆったりと朝食をして、コーヒー片手にのんびりと読書をして、それから思い立ってやおらシーツ類の洗濯。まあ、月曜日だし、仕事の納期はゆっくりだし・・・。
洗濯機が回っているそばで、フリーザーを開けて、さて、今日の晩ごはんは何にしようか。手間をかけるのがめんどうくさい気がするし、野菜も少なくなって来たしで、よし、今夜はニジマス。昔はトレイに2尾入れて売っていたのに、近頃のニジマスと来たらなぜか2人に1尾で十分な大きさ。養殖ものだから、まさかドーピングしているなんてことはないだろうなあ。アジアから輸入されて来る淡水えびもこの頃はずいぶん大きいのがスーパーにまで出回るようになって、小さいロブスターのしっぽ並みの身が入っているのがあったりする。最近BC州の大西洋サケの養殖場で伝染性貧血のウィルス感染が発生して、50万尾を処分する騒ぎになったけど、太平洋でまったく別種の大西洋のサケを養殖するということにも問題があるんじゃないのかな。地中海では若いクロマグロを捕獲して、養殖場で高カロリー、高脂肪の餌を与えて育てた、トロの部分が40%とかいう超メタボまぐろを日本へ送っているという話。魚介類の養殖は食料資源として重要だということはよくわかるけど、何だかなあ・・・。
庭仕事に出て行ったカレシの後を追って裏のポーチに出たら、暑くもなく、寒くもなくて、カレシ菜園は青々。池と滝を撤去した跡地を菜園にしたけど、土の大部分がほとんどが長年コンクリートの下にあったものなので、堆肥などで土壌改良をするまでは収穫はあまり期待できないと思っていたら、カレシが野菜くずをそのままどんどん埋めたので、フェネルも、フリゼーも、トマトも、サヤインゲンも、まあ伸びること、伸びること。ひょっとして窒素分が多すぎるんじゃないのかな。
[写真] 裏口のポーチからのながめ。右端のふわふわと黄色いのがフェネル。あっという間に大きく育って食べられなくなってしまったので、今は来年のためのタネが熟すのを待っているところ。フリゼーもきれいな薄紫色の花が咲いて食べられなくなったので、同様にタネをつけるのを待っている。カレシ菜園は農薬ゼロ、化学肥料もほとんど使わない有機栽培。使い残しや食べ残しはみんな次の年の野菜に化ける。
[写真] 圧巻はトマトとサヤインゲン。あまり期待していなかったこともあって、カレシが手持ちの何十種類あるのかわからないトマトの種を全部植えたら、なぜか「トマトの木」が育った(真ん中の棒で支えてあるやつ)。ワタシの背丈より高くて、見上げてしまう。その後ろのトレリスで我が世を謳歌しているのはサヤインゲン。童話の『ジャックと豆の木』よろしく蔓がにょきにょきと伸びて、ワタシの広げた手よりもずっと大きな葉っぱがわさわさ。やっぱり窒素分が過剰なんじゃないのかな。それでも上の方で花が咲き始めたから、ある程度の収穫は期待できそうだな。
[写真] こっちは「木」にならなかったトマトたち。左端に見えているのはカレシが床屋さんのアントニオからもらって来たイチジクの木。来年くらいに前庭に下ろしてやることになっているけど、どのくらいしたらイチジクが食べられるようになるのかな。アメリカの農務省が「Plant Hardiness Zone(植物耐寒性ゾーン)」と言う地図を作っていて、ゾーン1からゾーン11まである(区分は12まであるけど実際にゾーン12に相当するところはないみたい)。数字が大きいほど最低気温が高くて、栽培できる植物の種類も多くなる。バンクーバーは「ゾーン8a」の北限ぎりぎりで、天候条件によっては「ゾーン8b」に入ることもあるので、イチジクもちゃんと育って実をつけてくれる(はず)。イチジクジャムを作るの、楽しみだなあ。
[写真] あ、隙間からのぞいているのは誰だ~?
金持と庶民の金銭感覚の違い?
8月28日。火曜日。起床は正午前。今日は仕事がない。朝起きたとたんから何時までにあのファイルを仕上げて納品しなきゃ~なんて考えなくていいのはうれしいな。「本日は完売いたしました」と張り紙をして店じまいできたらいいなと思うけど、そこはモノではなくて「サービス」を売る商売の悲しさ、そうは問屋が卸してくれない。翻訳業みたいな自営のサービス稼業に「完売」はありえない。もしもあるとしたら、それはモノ作りの原料にあたりそうな脳みそが劣化して使いものにならなくなったときを言うんじゃないのかな。まだしばらくは現役の身としてはそれは困る。
仕事がないと言っても、いつどんな仕事が飛び込んで来るかわからないのも自営業の辛いところで、その仕事がどれくらいの大きさなのかも入って来るまでわからない。でも、そういう商売をひとりで20年以上もやっていると、けっこう業務管理の要領も良くなるし、何よりもまず頭の中で計算機がカチャカチャと動いて、よし、この金額ならやらない手はないぞ~と欲が騒いでくれる。そこへカレシがあっちだ、こっちだとミニバケーションの行き先を提案して来ると、つい久しぶりにラスベガスはいいし、サンフランシスコもいいかも~と、また頭の中で計算機がカチャカチャ。結局のところ、仕事を続けて行くエネルギーの源はお金なのかもしれないな。まあ、いくらきれいなことを言っても、お金というのは良きにつけ悪しきにつけ人間のモチベーションを上げるパワーを持っていると思う。
ここのところ小町で「6ヵ月の赤ん坊を連れて日本へ里帰りするのにファーストクラスにしようかどうか」というトピックが賑わっていた。文面から20代か、せいぜい30歳前後と推測したけど、いつもビジネスクラスでエコノミークラスには修学旅行以来乗ったことがないというご身分で、(たぶんまだファーストクラスつきの便がたくさん飛んでいる)ヨーロッパのどこかで、家のことを任せる「ハウススタッフ」までいる優雅な暮らしをしているらしい。ファーストクラスの料金がいくらぐらいなのか知らないけど、快適と静けさのために高い料金を払っているんビジネスやファーストクラスに赤ん坊連れはやめてくれという意見も多い中、エコノミーを数席まとめて取れとか、そんなに金があるなら飛行機をチャーターしたら良かろうとか、さらには「ビジネスクラスは仕事場だ!」と息巻く人もいたりして、賛否両論が喧々諤々。いくら母親がぐずらない赤ん坊だと言っても、赤ん坊てのは泣くときは泣くもんだし、これは難しい問題だな。
その流れで「どのくらいの年収だったら自腹で飛行機のビジネスやファースト、新幹線のグリーンに乗るか」というトピックを立てた人がいて、「駄」と添えてある通りのくだらない質問だけど、書き込まれる回答がめっちゃくちゃおもしろい。そういうプレミアムのクラスは会社の経費とかマイレージのアップグレードで乗っている人が多いと仮定しているから、「自腹を切って乗るなら」という前提条件がついている。そのせいかどうか知らないけど、常日頃から(自己申告で)高所得層がひしめいている小町横町の世帯収入の水準がいきなりひと桁跳ね上がった感じだからケッサク。1500万あたりから2000万、3000万、5000万、8000万、そして億万長者も・・・。そのほとんどが「エコノミークラスしか乗らない/考えられない」、「自腹を切ってまで乗らない」、「そんな余裕はない」と、質素な暮らしぶりを競い合っているからすごい。中には子供なしで3000万円でもデパ地下のスーパーを気軽に使える程度の余裕しかないという世間離れした奥様までいて、小町横町の話なのか、どこぞの首長国の話なのかわからなくなってきた。
逆に、1千万以下の人の方が、楽だから、たまにだからと、自腹を切ってビジネスクラスに乗っていることを正直に申告しているところがおもしろい。ワタシも東京便のような数時間の飛行なら、抵抗なくビジネスクラスに乗れるな(ファーストクラスは元からついていない)。ワタシの分は経費で落とせるけど、カレシの分は自腹。でも、2年かそこらに一度のことだし、何よりも身体が楽だし、まともな食事が出て来るし、搭乗までの時間をラウンジで快適に過ごせるし、十分に価値はあると思う。それに、経費と言ってもひとり稼業で稼いでいるんだから、自腹を切るのとさして変わらないような気もする。元々ちょっとした贅沢をするのが楽しいから働くのが苦にならないんだし、基本的な生活を圧迫しなければ特に贅沢をしているとも思わないけど、小町横町の富豪夫人たちにとってはとんでもない贅沢なんだろうな。ま、そうやって「自分のお金を使う」贅沢をせずに、ひたすら質素に生活しているからお金が貯まって大金持ちになるんだろうな。そのあたりで「貯めたお金でたまに一点豪華の贅沢を楽しむ」庶民とは金銭感覚が違っているということか。
まあ、年収が5000万円あったら、ワタシはグダグダと取り繕ったような言いわけなんかせずにすんなりとファーストクラスに乗っちゃうけどなあ。お金って、必要以上にため込んでも付加価値があるとは思えないから、自分にとって価値のあるものと交換してナンボだと思うし、だから、いつまで経っても庶民で、こうしていつまでも仕事をしているんだろうけど、それでもけっこう幸せだと思うし・・・。
年相応に仕事をしろと言われても
8月29日。水曜日。目が覚めて涼しくなって来たなあと思ったら、いつの間にかカレシがエアコンをオンにしていた。全然暑くないのに、もう。しょうがないから、いい気持ちで寝ているカレシの方にころっと寝返りして、暑がり屋さんの体温を横取りしてやった。だってこんな時期に風邪なんて引きたくないもの。
きのうは水平線に仕事という暗雲がかかっていなかったので、提出期限が迫っていたエッセイをひと息で書き上げた。9月30日は「国際翻訳の日」なんだそうで、それを記念して日本の協会がアンソロジーを出版することになって、だいぶ前から会員からエッセイを募集していた。一筆啓上をもくろんでいたワタシは、翻訳論みたいな薀蓄を傾けるにはちょっと箔が足りなすぎるから、何を書こうかと思案投げ首。昔からいろんな背景や経歴の人が(多くの場合にひょんなことから)足を踏み入れて来る業界だったんだけど、最近は「まず学歴ありき」の波が押し寄せて来て、翻訳で学位を取って来る人も増えたから、「しろうと」の翻訳論はお呼びじゃなさそう。で、ふと思いついたのが、昔ある短編小説の日本語に訳されたものを読んで得たイメージが、その後原書を読んで得たイメージとまったく違っていた話。思い立ったら吉日で、その話を軸にささっと短いエッセイを書いて、ささっと送ってしまった。ほっ。
きのうはそのくらいのどかな日だったのに、今日は台風が団子で来たような雲行き。夜になってすご~く大量の仕事がどんっと降って来て、それが普通なら10日はかかりそうなのを何とか1週間でというもので、お尻に火が付いた気分。難しくはないけど、何しろ量が多い。下へ下へとスクロールしても、どこまで行ったら「ジ・エンド」にたどり着けるのやら。しばらくちんたらちんたらやって来て緩んでいるねじを巻き直して、必勝鉢巻を締めなおして、腕をまくり直してがんばらにゃいかんなあ・・・と開いた原稿ファイルをつらつら眺めていたら、別の方面からも大きそうな仕事。こっちは納期に余裕があるから後に続ければいいけど、何だかややこしそうな話。ふむ、どうやら日本ではお盆休みが終わって、遊び疲れた人たちがリフレッシュのために「仕事モード」になっているらしい。やれやれ、この調子だと9月は鉢巻が何本あっても足りないんじゃないのかなあ。友だちに言われたっけなあ、「年相応の仕事量にしときなさいね」って。はあ、年相応に仕事をしろと言われてもねえ・・・。
9月の仕事がこれだけで済めば、まあ何とか「年相応」(つまり、仕事6割、遊び4割くらい?)でちょうど良さそうだけど、どうなることやら。とにかく、徹夜だけは絶対に年相応じゃないから、断固として回避することにしておいて、とりあえず夕食後は野菜の買出しにひとっ走り。寝酒の友に今はまっているニシンのピクルスもいくつか買ってきて当面の兵糧の手当てした。腹が減っては戦はできないというけど、またストレス食いでストレス太りになっちゃうのかなあ。折りしも食欲の秋だし・・・。
今夜は月がとっても青いらしい
8月31日。金曜日。8月最後の日。ちょっとばかり夏っぽい陽気だけど、やっぱり夏が終わるという感じがするな。何となくだけど、ちょっとばかり気がせかせかして来るように感じるのは、日が短くなって来たせいか、それとも1年の残りが少なくなって来たせいか・・・。
きのうは目がしょぼしょぼして、かすんで来るくらいにがっつり(なんか品のない響きの言葉だなあ・・・)仕事をした。おかげでだいぶ進んで、ぎりぎりで半徹夜くらいにはなるかもしれないけど、本格的な徹夜だけは何とか回避できそうな予感。何時間もじっと座ってひたすらキーを叩いていると、やたらとおなかが空いて困る。ワタシの原始的な本能が諸々の天災で作物が不作だから冬が来る前に食べておかねばと勘違いしているのかな。それとも、敵に城を包囲されて兵糧攻めになっていると勘違いしているのか。前者なら農耕民族、後者なら狩猟採集民族の遺伝子だろうな。何となく縄文人の遺伝子が濃いような感じがするし、中央アジアから西へ移動して行った狩猟民族のはぐれ遺伝子が紛れ込んでいるような気がしないでもないし。このあたりはワタシのゲノムを解読してみたらおもしろいかも。まあ、食い気を発現する遺伝子を持っていることだけはたしかかな。
今日はブルームーン。暦の上のひと月のうちに起きる2度目の満月のことを「ブルームーン」というんだけど、お月様が青く見えるというわけではない。でも、珍しい現象と言うことで「once in a blue moon(ごく稀に)」という口語表現があるけど、実は月の満ち欠けの周期から計算すると満月は1年に12.36回ある勘定で、この「珍しい」ブルームーンは2年か3年に一度起きることになるから、日食や月食の方がよっぽど珍しい。もっとも今年のブルームーンは世界の時間帯によっては8月ではなくて9月の出来事ということになるそうな。ちなみに、この次のブルームーンは3年後の2015年7月だとか。
ブルームーンの今日、アメリカではニール・アームストロングの葬儀があった。この日が人類で最初に月に降り立った人の葬送の日になったというのは何かの因縁かな。たしかに、一人の人間にとっては小さな一歩であっても、その人間が別の天体に降り立ったのは人類にとって大きな飛躍。だって、たとえ衛星であっても、地球の引力を振り切って飛び出さなければ、行けなかったところなんだもの。人間が「母なる地球」の重い束縛から自らを解き放った、精神的にも大きな飛躍だと感じ人たちもけっこういたと思う。まあ、アメリカとソ連が軍事力や核兵器を競った冷戦の最中だったからこそ金と技術と人を結集して実行できたんだろうと思うといささか皮肉な話だけど、その後の人類を見ていると、どうやら人間は戦って(競争して)いないと進歩も後退もしない生物種らしい。
もっとも、昨今は進化するどころか、成長するのをやめてしまった人も多いようで、人類は徐々に後退(あるいは退化)しつつあると言った方がよさそうな気もするけどな。ま、大宇宙の一地方にある銀河系という名の星のムラの、そのはるかな村はずれにある「太陽」と言う名のパッとしない中年の平凡な星の周りを回って、その光と熱で生命を育んでいるのが「地球」と言う名の惑星。その地球の周りを回っているのが「月(衛星)」。他の惑星の月にはみんなそれぞれに固有の名前が付いているのに、なぜか地球のたったひとつの月は(欧米語では大文字で他の月と区別できるけど)ただの「月」。でも、大きな宇宙の中でたったひとつ人類が2本の足で歩いた月。はるかに遠い昔に、遊牧の民や狩人たち、夜通しの番をする羊飼いたちも見上げたであろう月。
この宇宙にいくつ月があるのか知らないけど、8月最後の夜の空にかかっている満月は「母なる地球」の唯一無二の月なんだから、名前なんかつけなくてもいいね。ちょっと外へ出て、ブルームーンを見上げて来るかな。ずっと昔、子供の頃に聞いたような記憶があるなあ、「月がとっても青いから」という歌・・・。