萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

お好み焼きにまつわる思い出

2012-03-09 06:58:08 | 懐かしい思い出
お好み焼き、この料理に対する値段の感覚。。。。。こればっかりは幼い頃の感覚も交じって、ジェットコースター並に右往左往する。

思い出すのは幼稚園から小学校にあがったばかりか、まだ幼稚園時代に小田原の海浜寄りのかまぼこ通りあたりで、何かを届けた友達んちのおばさんに、「二人でお好み焼き、食べて来な」とお金をもらって、子供二人で駄菓子屋の奥に入って、友達が「俺が焼いてやる」と焼いてくれたものが、初めてみた『えっ子供がそんなもの作れるの!?』という感想が洩れた料理だ。

しかも子供でも手が届くほどの安さという感覚が生まれたものだ。
値段よりも友達が作っちゃうって方の感動が上だったが。。。

もちろん家でもお好み焼きは作ってもらっていたのだが、駄菓子屋の奥に鉄板を置いているお店が特別なものとして印象に残る。

その友達には、そのお好み焼きを焼いてもらったばかりでなく、表裏になっているトレーナーを、タグが見えるように持って首から着ると表に戻ってかつ前後ろがちゃんとなる着方だというものも教えてもらい、私の得意技の一つになっている。行儀が悪いということで、私の周りでは当時からこの技の評判は余りよくない。。。。


お好み焼き、一人暮らしのときでも、ホットプレートを持っていなかった私はほとんど自作したことがない。家内はもんじゃも好きだし、チヂミも。。。これらを作るのも手早い。大阪出身の友達にお好み焼きの焼き方を教わって試したらすんごいふんわりしたものが出来たと大喜びしていた。


大学の部室には誰かがホットプレートを持ち込んだお陰で、何度かお好み焼き大会が開かれた。

試験期間に粉を混ぜ、野菜とバラ肉を練りこみ、これまた実家がうちの実家の近所で駄菓子屋だった幼馴染の友達がちゃっちゃと作り上げていくのを見ていた。
今でも彼は焼くのは上手だ。
試験科目を終えて戻ってくる部員にどんどん出していて、部室の外に漂うソースの匂いに、戻ってくる部員も「一体こんな時期に何やってんだ?」って感じではあったが嬉しそうにみんなで頬張った。

自分の夢の中には、飽きるまでたこ焼きを食べてみたいという方が強かったのだが、お好み焼きを上手く焼ける技術も意外と重宝されそうだと思い直す。


屋台で作られている粉物。

キャベツを鷲掴みに、卵を割ったり、そばを隣でサッと焼いて挟んだり、この技術、手捌きの華麗さ、豪快さを併せ持つ。
冷めたものでなく、出来れば出来立てが欲しいと思うことが多く、繁盛店で「ちょっと待てる?」と聞かれるときは喜んで「待ちます!」

高校時代から、自分で作るお店にも行った。少し店舗の敷居が上がり、自分で料理するのに、お小遣いのレベルから少し食事のレベルに上がるお店に出会う。。。。今でも見かけるお好み焼き屋さんだ。

今でもこの値段は駄菓子屋の出していた混ぜ物状態の値段、屋台で買う値段、店舗で自分で作るための混ぜもの状態の値段の並びに混乱が生じる。粉物特有の感覚なのに店舗での提供価格が一番割に合わない・・・・。これは逆転感覚?


これは後片付け代なのであろうか?煙の処理、店に着く臭い処理、鉄板の施設提供代。。。。。となるのだろうか????


なんとなく粉物を自分で作るのに比べて、外での値段が何のための代金なのかに対する自分の中の感覚が少し不安定だ。駄菓子屋で出来た感覚からの違和感か。。。


今でも駄菓子屋の奥で作れる場所はあるのだろうか。。。
もう一度そこでの感覚を取り戻せばほかの物に対する想いも取り戻せるだろうか?

これが矯正?

まぁいわゆる納得感だ。駄菓子屋のものが思いの外(おもいのほか)ペラッペラで、これが安いのも当たり前という感覚になるの。。。。?


具を入れてどんどん上がる単価。美味しさの前提に上乗せされるレベル。。。。
量が嵩増しされる訳でもないのに、この上がる値段。。。。の感覚。別盛りならいざ知らず。。。

もっと子供のものだったはずだ。という感覚が滲む。。。


取り戻せ!価値観!

もし知っていたら、教えてください。求むお好み焼きができる駄菓子屋情報!

たません。。。東海にはまだこういうお店があるのか・・・。

西新井にあるの?


都電沿いにもんじゃ焼きが出来そうなお店ならあるのかな?
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緒方洪庵、適塾に思う、我がゼミの思い出

2012-02-02 07:38:48 | 懐かしい思い出
適塾では、蘭語の通読と質問を練り、次の者がこれに答えていくということを行い、成績の優秀なものから宿舎の畳のいい場所を占めていくのだそうです。なので、試験の前日などは行灯の火が消えない、全員徹夜での猛勉強をするのだそうです。
試験は塾頭と塾監という副長が執り仕切り、洪庵はある程度の教養のあるものだけに私見を述べていくのだそうです。

最後の部分はまるで大学院の部分ですね。

私の所属していたゼミでは、2年から3年にあがる頃に初めの洗礼が訪れます。春のゼミ合宿です。
これは本一冊を全員で勉強するのですが、各章を1名の新人が発表者プレゼンテーターに、先輩が二人でバックアップ(コメンテーター)を務めます。
この発表では質問が百出するのです。
分からないことは徹底的に質問して構いません。仮説を立てて、現在述べていることを踏まえた場合、どのような現象が起きると考えられるかなどについての質問がガンガン飛んできます。違うも違わないもないのですが、満足いく回答をし得ないといつまでも前でああでもないこうでもないと喋り続けることになります。もちろん、中には手助けをしてくれる同級生なども現れたりしますが、基本初日の3人は何時間も延々と前で質問に答えていくので、最終日に発表を控えた者などはその光景に慄いていきます。


この質問をかましてくれるのが、良く悪くもOB達です。遊びに来ているとばかり思っていた人達が、先生への挨拶もそこそこに会場に現れて(先生は会場にはいつもいない)、質問に質問を重ね、時にはOB同志で言い合いになったりしている。。。。
プレゼンテーター初め新3年生達で少なくとも回答をぶつけなければ、OBは納得しない。題材はマクロ経済ですが、経済も思想となんら変わりがない気がしてくる。。。
夏合宿は金融論、本ゼミは貿易論、サブゼミはミクロ経済。


いいプレゼンをしたものと、一番攻撃を受けてしまった者(発表時間が一番長かったもの)を全員の投票で決めて、合宿の打ち上げでフラフラになりながらその発表を聞くのです。
質問を聞き、聴講席で一緒に考え込んでいると、スラスラと答えを唱えている同期もいます。もちろん質問が意地悪なものも含まれるので厳しいことは厳しいのですが。。。。
中には質問そのものに矛盾があり、そういう想定は起こり得ないと結論付けることも必要になるのですが、一瞬では分からない。。。。何度もトイレに行く振りをして煙草を吸いながら頭を巡らす。。。。あぁ質問の起点が想定できる状態ではない!と気付く。
そんな光景を初日目の当たりにした最終日の発表者はもう徹夜を何日も続けることになるという状態になるのです・。

もちろんゼミの運営はゼミ生に任され、2年生の入ゼミ希望者の中から、定員までに絞り込むのも3年生たちが行う。
面接まではまだふざけた感じで質問しているのだが、人を選ぶという行為の重さに夜になって気づくのである。この作業、どこぞの会議室を一晩借り切って行うのであるが、これが掴みあいになるくらいの激論が戦わされる修羅場となる。縁故者の贔屓をやはり許さない環境になっていくのだ。平等を求める者たちがそういう行為を許さない。実は自分達もそういう形で落とされそうになったり選ばれたりしてきたのだということに気付き、中には泣き出してしまう者まで現れる。選んでもらえたことに対する感謝と落とされたかもしれない、ふるいにかけられたかもしれない身の上を思って。。。
そこでやっと思い至るのだ。人事とはとても辛い職業だと。


鍋島閑叟の教育哲学も凄まじかったらしいが、大隈重信はそれを忌み嫌っていたらしい。。。その風土は分からないでもないが、我がゼミは寝かさない。。。。でもみんな個性的だった(と思う)。規律の元に試験をされて振り落とされていたわけではないから。。。かな?

先生が高齢になり、退職されたので、今教授になっている先輩がゼミを引き継いでいるものの、どこかしら違うらしく、OB会は学校外で開かれていた。

最近はその仲間とも年賀状くらいになりつつあり、時には集まってみる?という話になるもののなかなか集まれないのが現状だ。
今でもメールなどで親交のあるものが何人かいるものの。。。学年が違うとどうしても。でも高校の同級が何人かいたので盆暮れには会える環境にはあるのだ。


先輩や後輩達とは、、、私は仕事柄、春合宿、夏合宿に集まれる状況になかったこともあり。。。先生の退職の会の時にやっと会えたという者がほとんどだった。

ただ、あの鮮烈な思い出を共有できる仲間としての共通した感情がお互いにあるので、時に学校外で行われていた集会でもすぐに打ち解けることが出来た。





以前、大村益次郎を題材にした「花神」を読んでいたとき(1年前)、思い出したことでした。
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新入社員のときのお昼ご飯列伝

2011-09-24 05:33:27 | 懐かしい思い出
新入社員からある境遇になるまで、お昼を大勢で一緒に食べるという習慣が余り身に付かなかったんです、私。
昼になると、買い物に出かけ、スーパーからお弁当を選び、本屋に寄って立ち読み、CD屋さんに入って物色。居室に戻ってご飯をさっさと平らげ、将棋に興じる同僚の観戦などなど。。。。
時間をふんだんに利用して、様々な遊びをしていたので、あまり同期と一緒にご飯を食べに行くというのが、入社して10年くらいまでは習慣になりませんでした。

その際、一人ですから、お弁当を持っていくこともしましたし、スーパーで食材を買ってきて自作することもありましたし、もちろん一人で外食に出かけることもしばしば。その中で今でも思い出に残っているお昼ご飯を列挙したいと思います。


①自作お弁当編
・炊き込みご飯:一番初めに自作のお弁当を思いついたのは、炊き込みご飯でした。『三食とも炊き込みご飯でも構わないや』とか思いついた私は、毎晩炊き込みご飯を自炊していました。米は標準米を購入していて、当時はまだ銘柄米が余り出回っていなかったと思います。
※よ~く考えたら自作のお弁当の持参は多分これだけかも。しかも数日間続け、「炊き込みご飯なんかもう見たくない」というぐらいまで作り倒しました。


②食材購入→自作
・新入社員のときに、スーパーに買い物に行き、マフィンを見た瞬間。ハムマフィンを作るかと思い立ち、マフィン、レタス、ハムを購入して、給湯室の脇で果物ナイフを借りて作った思い出があります。
まぁ完全に変人扱いですな。でも夕飯食べに行く時間を惜しんだ当時の課長から、「夕飯にあれ作ってくれ。原価計算して請求してくれ」と言われて、課員全員分だか、希望者分だかのハムマフィンを作った記憶が一度だけあります。
ただ、原価計算に自分の加工賃を乗せ忘れ、完全に材料費だけの請求にしてしまったのは間違いだなと今では後悔しています。

・うなぎなんて、うなぎのタレと山椒だけで何杯でも飯が食える!と思い立ち、蒲焼のたれと山椒を買い求め、吉野家に「大盛りご飯」のお持ち帰りを注文して、立て続けに数日間これをお昼ご飯にしたことがあります。実につらいご飯でした。タレだけで食えるなんて豪語してゴメン!タレだけでなんてとても喰えませんでした。いくら山椒で気分を盛り上げても最後は無理に食べている感じでした。


③お弁当買出し編
・一番この率が高く、目黒の権の助坂界隈ではお弁当戦争のような状態になっていた時期もありました。
確か、100円引きにするという10枚綴りの割引券を乱造して配りまくり、のり弁当が230円くらいで買えるという暴挙に出た当時の某有名お弁当店(今商標変更)が、他のお弁当屋さんを一掃してしまいました。
もちろん寡占状態が完成したら、割引券など配ることもなくなり、あの長蛇の列は消えてしまいました。

④カップヌードル編
・安くあがるのに身体が完全にはこの商品をどこかで認めていないということが分かります。この商品はもう少しだけヘルシーに作る必要がありそうです。おそらく塩分ですね。緊急避難的な食事ではあります。カロリーはLightの出現で達成できてそうですけど。。。

⑤外食編
・勤務先が当時目黒だったので、らーめん玉川(玉ちゃんラーメンという注文を、タマちゃん騒動後に嬉しそうに受けていた店員さんが懐かしい。栃木に移転と聞きました)、田丸、目黒二郎(猛ダッシュ→列に加わる→固め注文で先に出してもらい、速攻で食べて猛ダッシュ帰社)、大崎凛(現Outsiders)訪問などもありましたね。。。。お昼に山手線が止まったりしないで~!とこのときばかりは思っていました。


⑥お昼に昼食を後回しにしてまでも外出してしまう作戦
お昼ごはんをブッチしてでも外出して買ってしまいたいと思うもの。一つは本、これは代々木で降りて新宿新南口方面にある紀伊國屋さんに買いに行くこともありました。代々木から行くほうが駅を出るのに早いです。
もう一つはある映像商品を下北沢のdisk UNIONまで猛ダッシュで買い物に行ったこともあります。帰りの井の頭線→渋谷で山手線内回りに階段であがって入場するのがきつかった思い出があります。代々木では牛丼太郎というお店によることがありました。ここでは(多分)普通に一人の人が並盛りを2杯という特盛り以上の過激な注文をしている人を何人もみました。

⑦簡易食材で済ますこと。
川越に来て、食パンを買い、ポットで沸騰→保温の中に突っ込んでレトルトカレー+食パンで済ますこともやりましたし、冷奴だけとかところてん食い放題とかもやりました。
一つの丼(どんぶり)を買ったことから、やっていたのですが、最近はそれもしなくなりましたね。。。川崎に異動したらそこにはレンジが置いてあったので、レンジでチンするボンカレーをカレーにかけて食べるからと丸めただけで持ち込んだ握り飯を丼に展開してカレーを作ることもありますがそうそう長続きしません。
最近では、「温めずにおいしいカレー」という、基本非常食も意識したレトルトが出たのをご存知でしょうか?それを本当に温めずに食べている人を見かけました。
感想を聞くのを忘れましたが、怒ってもいないようなので、温めずにもある程度満足して食べれたのだと思います。



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香港旅行記5 最終章 1998年11月

2011-09-20 05:04:17 | 懐かしい思い出
さぁガイドブックの件とともに思い出しながら書き始めた13年も前の香港旅行記、これにて最終章になります。今を生きているはずなのに過去をたっぷり引きずっている。。。
人間誰しもそんなものだと思いますが、改めて『過去のドレイだ、生きた化石だ』と綴ったTOMOVSKYの歌詞が胸を打つのでございます。。。。


『センターは中心』

香港というか広東語というか(中国語というか)には、全ての表記を漢字にし尽くすことが常である。日本語のカタカナは曖昧に英語のものを混在させるのに便利だが、改めて漢字ばかりの表記を見ていて気付いたことがあった。
中心、これは英語のcenterを指している。世界貿易センターは世界貿易中心と書かれ、商業中心と書かれれば、商業センターねと。。。あぁなるほどと思うことがあった。
日本語の意味でセンターは、なんとなく「大きな建物」をイメージさせる。ショッピングセンターとかいう使い方だが、中心と書かれるとそういうことではないのかと気付かされるのだ。ここは中心なんですよ、みんながその件で集うところなんですよという、”象徴なのだ”という主張があって、例えば中央卸売センターという名前では、中央とセンターの意味が被っていて実はおかしいのではないかと思った次第だ。中心というのは当て字なのかもしれないがそう書かれていることで、本質を言い当てているのではないかと勘繰った。

その世界貿易中心の地下では様々な食材を扱うスーパーがあった。
セシリアさんがニュージーランドで見た様々な味の種類がある「出前一丁」がここでも多種売っていた。蝦味のものを複数購入し実はこれも抽選で渡したお土産8種の中に忍ばせていた。
「香港のお土産が出前一丁かい!」と当った友達は笑ってもらってくれた。そうだよ、あらよ出前一丁~♪


『発熱』

毎日を楽しく過ごしてはいたものの、少しハイペースな気もしていた。
あるときcat streetの帰りにレストランにより、食事の後に、『檸檬珈琲』なるものを頼んだら、予想外にアイスではなくてホットだったこともあり、飲み干すのが辛かったことがあったのだが、(まずいというより酸っぱいコーヒーになってしまっているだけな感じ。でも結局は味が融合せずに馴染んでいないものをまずいと感じるのかも?)そんなものを呑んだ直後に体に異変を感じた。
当時は常用していたバファリンを飲み、鎮静を待った。一晩で治ったがその後は港でポケっと過ごす時間とかも多くなった。港で対岸を眺めて過ごすことも。。。路面電車で終点まで行くとそこで腰掛けられる場所を探しては誰も来ないところでぼんやりと過ごすことも多くあった。

ハッピーバレー競馬場、開催されていない競馬場の周辺でも、街の一隅に腰掛けて、誰も来ない競馬場を眺めたりもした。大きな芝生を持つその競馬場の眺めは所狭しのこの国の中では、なんとなしに贅沢な印象があった。ここに来たのは初乗りで決ったお金を払えばどこまでも乗っていい路面電車(トラム)の終着駅だったからである。
当時はいつまでもポケッとしていられる最強のアイテム、煙草を常用していたのも大きかったかもと思う。腰掛けていつまでも誰もいない競馬場の周辺の景色を眺めていた。

ポケッと過ごすくらいなら澳門にでも渡ればと思われるだろう。。。でも私は澳門に渡ることはなかった。私は博打にとても縁がないと思ったのも一つの要因だ。また香港に宿を取っているのに澳門でも泊まろうと思った沢木耕太郎のことが頭に残っていて、高速船を使えばすぐなのかも知れないが、香港に宿があるのに少し離れた澳門まで行く勇気がなかったというか、またホテルを探すのかという面倒臭さというか、ある程度のお金さえ持ち合わせていればなんとでもなるのだろうが、この辺が私のビビリの限界だろう。。。やはりどこかまた別の世界を飲み込むには勇気が必要だったかも知れない。


『封印したビクトリア・ピーク』

私はあらかたの香港の観光地に足を運んだつもりだったが、一つだけ行かない場所を設けた。全て行き尽くしたなんて、ある意味絶対それはあろうはずがないが、決定的に有名な場所で一つ、ビクトリアピークという観光名所には登らないことにした。
香港島の中腹にあるケーブルカーで頂上に登って夜景を見たりするのが有名な観光スポットだ。そこからの景色は下界からそのケーブルカーを見る度に景色を想像することはあっても、実際の光景は知らないようにと決して登らないことにした。
またいつか香港に再訪することの楽しみにと封印することにしたのだ。


『普通の街もある』

様々な乗物に乗ったが、いかにも居住区なのだな?と思える場所も存在する。熱気を帯びている場所ばかりに人だかりするので、どこもかしこもお祭り騒ぎな印象があるが、落ち着いた居住区もあるものだ。ただ地下鉄の駅はとても便利なので、その近くは例え居住区であっても少しだけ密集感がある。


『迷い込んだマーケット』

実は二度とその場所には行けなかったのだが、廟街の裏手(西側)の方にある市場に迷い込んだことがあった。本当にそこでは香港の人たちだけしかいないような場所で売り買いされているものがとてもびっくりするようなものだった。
今でも鮮明に覚えているのは、網の中で蠢く蛙。一人の男が売っているものは新鮮な蛙だった。網から取り出しては皆の目の前で捌いていく。新鮮だろ?と云っているようで、生々しいその解体現場に出くわし、価値観の違いを感じ取った。これを食べるのか?という思いもあったが、それは食習慣の違いなだけだ。過去に親父に食べさせられたこともある。それよりも解体を見せつける価値観が大きく違う。
日本人は生で食を楽しむが、生体の解体現場を見せて、その新鮮さを味わうわけではない。活造りやマグロの解体ショーがそうだというかも知れないが魚類は言葉鳴き声を発しないし、マグロは活きがいいが生きているわけではない。一方中華料理では生の食べ物はない。どんなものにも火が入っている。やはりどこかに食習慣の違いはあるものだと思わざるを得ない。新鮮さを見せ付けてもそういう食べ方はしないところが備えている食材への価値観の違いを感じないわけにはいかない。
食というのは実は究極の分業が備わっていて、私達はある過程の部分から目を背けて生きているのだということを理解した。色々な命のやり取りがそこかしこで行われている。食材とは究極はそういうことだというのを目の当たりにしたのだ。そしてその衝撃をその場所を離れてからも何度も何度も反芻した。
実はその場所をもう一度探そうと彷徨ったのだが、記憶違いか思い込みが激しかったのか、改めてその市場に辿り着くことが出来なかった。二度と行けない、行かなかったわけではなく行こうとはしたのだ。もう一度現実をしっかりと目に焼き付けておこうと思ったのだ。けれど、幻の場所だったかのようにその場所には二度と辿り着けなかった。

他にも旺角モンコックの方で蛇に囲まれたお店があった。奥では座って黙々と箸を動かしている人が見えて料理店だということに気付いた。多分精力をつけるためにあれを捌いてもらって食材として食べさせる場所なのだろうと思う。店頭に立つ女主人の怖い顔を今でも思い出すことがある。後は棺桶屋さんを見かけることもあった。狭い世界では裏方のお仕事も全て剥き出しになっているようなイメージだった。他の国ではまた別の価値観があるのだろうし、街の構成もその国の持つ価値観が現れる。単に価値観の違いなだけかも知れないが、それをエネルギッシュに感じることが多かった。

『こっちも一緒だという両替所のインド人』

毎朝起きては早くから朝飯を食べに行き、朝食の帰りには朝から開いているお店を物色したりした。
スーツケースを購入したのも朝だった。それを売っていたのは、泊まっている美麗都大厦(ミラドマンション)だったか、重慶大厦(チョンキンマンション)だったか、またその近くだったか。。。
おはようは広東語でゾーサンという。ゾーサンゾーサン云いながらお店の人に声をかけていくおばさんの後ろを付いて行き、元気よく挨拶を返すお店で購入した。
そのスーツケースは布製だったのでかなり安かった。
またホテルで出かける支度を済ませて、街に出るとまず寄るのがいつもの両替所。
インド人が多く住む重慶大厦の両替所に並んでいると非常に混んでいる。。。そこにこっちに来てみろという男がいるのだが、この店のレートがいいことを知っているので断ったのだが、彼は通じないのか?と呆れている。そんなに云うならと列を離れてみた。レートが悪ければまた戻って並びなおせばいい。そうすると奥では同じお店の系列店があり、誰も並んでいなかった。そうだったのか。。。レートはまるで一緒で交換されたお札も別に怪しいものではない。疑って悪かったと、帰りがけに声を掛けてくれたおじさんにお礼をいい、非礼を詫びた。旅先では声を掛けられると身構えてしまうものだが、別に全部が全部騙そうと思っているわけではないのだと思うこともあった。ただ、声を掛けられるとやはり身構えちゃうけどね。


『旅の友、御小遣い帳』

実はこの香港の旅から確立した一人旅のアイテム、御小遣い帳というものがあって、全ての支出を書き込んであった。
夜や暇な時間はそれを眺めながら香港での出来事や思い出の一つ一つを思い出す。当時のメモ帳は今はもう存在しないがこの方法論はこの前の高山・岐阜・安土・京都の一人旅でも行われた。もちろんだがその遣り方(というか書き方)も進化している。(笑)
今はお金のかからなかったことも0円として書き込むのだ。そうすることで全ての出来事が記録されるようになる。
一人旅の時間も最後の方になると、独り言が出たり、テレビをみながら声を出して笑ったりすることが増えてくるような気がする。
5日目くらいには、英語で喋っている夢を見て目覚めたのだが、別に思考法が英語に慣れたとか云うわけではないことが分かった。単に色々と細かい部分や考え方というか気持ちまでも誰かに英語でもいいから伝えたいという気持ちが強くなっていってそういう夢を見たのだろう。即物的なことは表面の表現(ジェスチャー)でも伝わる。。。が、感じたことを伝えようにも相手がいないというのはとても辛い状態だった。当時ネットカフェがあり、ブログというものがもしも存在したのなら、私はこの前の旅のように途中途中でバシャバシャと書き殴っては次の日に向かうというような旅をしていたかもしれない。。。と思うこともある。


『香港藝術館』

この時、香港藝術館ではエジプト展が開かれていた。ツタンカーメンの幟が印象的でミイラとか棺とか色々なものを見た。常設展示の方では余りいい印象がない。中国返還後だったことも関係するのかも知れないが、アヘン戦争や第二次世界大戦での香港の歴史の展示がされていた。でも最後の方ではクイズのような子供向けの展示が待っていて、正解の戸板を押すとクルッと裏返って、BINGO!という文字が見える。不正解の場合はなんと書いてあったか。。。regret?一問も間違わなかったのかも?いや、覚えていないだけだ。


『廟街での大量買付け』

最後の晩は、友達と香港島の方で逢う約束になっているので、廟街へのお出かけはこれが最後だと帰国の前々日の晩に訪れた時のことである。
廟街の名前の由縁である廟の周りには鉄柵が施されていて、その柵に色々な小さな掛け軸のような上部に極彩的な色の画を持つ来年のカレンダーが飾られて売られていた。
それらはちょうど「全色揃いのクレヨンの入れ物」のような箱に入っていて、取り出す横の口のところに「Hanging Scroll」と書かれている。1個250円(?)くらいのものだった。
お土産にいいなと色々な種類の画のカレンダーを箱から取り出しながら見せてもらい、数種類を各々数個、中には一つしかないものもあったが、選んで買うことにした。
そこで、教わった広東語の数字を駆使して、計算結果を伝え合うやりとりをした。18HKDのものを13個くらい購入したのだ。
でも売っているおじさんとなかなか数字(計算結果)が合わない。むしろ向こうが少ない金額を云ったりしている。。。座り込んで「違う、違う」と身振り手振りでこちらの計算結果を伝えていると周りに人だかりが出来てしまった。
埒が明かないと一つずつ購入する掛け軸カレンダーの入った箱を積み上げながら、掛け算の計算結果を一つずつ伸ばしていく。
その人だかりの人達が銘々私と同じ計算結果を広東語でハモッていく。とうとう最後の一つをその場の全員でハモるとおじさんは納得してお金を受け取ってくれた。
その場のみんなにお礼を云って頭を下げ、みんなからの祝福の拍手でその場を去った。

気分が良くなった私はおでんのような物を売っている場所が何箇所かあるのだが、そのうちの一つで、タコのような切れ目を持つフランクフルト大の食材を求めた。
実は食べ方とか買い求め方とか一番分かりにくいその食べ物。現地の若者が店主に何事かを伝えて私の買い物の補助をしてくれる。その場で食べるのか持ち帰るのか?と聞かれたのか、それともソースを付けないのか?とか聞いているようだった。全て広東語だったので真相は一切分からないが、無事その串に刺さったフランクフルトを湯に潜らせてソースのようなものを付けたものを手渡された。
今思えば日本の即席フードでも注文時に色々と注文を添えたりする”あれ”のことだったのだろう。注文時に「葱多めで」とか、「麺固めで」と出来上がりに注文を付けるものもあれば、店側も「辛子つけてもいいですか?」と聞かれたりとか。餃子でさえお持ち帰りの時は生か焼いたものかをお客に聞いたり。。。と少し会話をしないと買えない物があるのが分かる。旅の途中で疑り深くなることもあったのだが、最後の方では何もかもが絶好調だった。

購入した掛け軸は、1999年 世紀末のカレンダーを持つものだが、日本のカレンダーではないため祝日が一切分からない代物だった。
友達の家で世紀末が過ぎてもトイレに飾ってあるのをみたときは驚いた。自分はもうその時は持っていなかったから。。。

『友達と逢う』

香港に赴任している大学時代の友達がいた。街の公衆電話から職場に掛けると、「本当に来たのか?」と応じてくれた。
事前にメールで香港に来ることを伝えてはあったのだが、迷惑がらずに逢おうと応じてくれたのは助かった。本格的に誰とも話さずにいるので、なんとなく頭が整理できずに澱んでいるような気分になっている。
最後の晩に銅鑼湾(Causeway Bay)で逢うことになった。彼は北京ダックを食べさせてくれるという。北京ダックはここではしっかりと丸ごと一羽分を出してくれるので、一人や二人では食べられないということで同僚も連れて来てくれた。
彼らは空調機を取り扱っていた。「ここ香港のエアコンはキンキンじゃなきゃ売れないんだよなぁ。。。」と云っていた。私も部屋のエアコンが寒いくらいに冷えるというと、「ほんのりとか微冷とか微風とかいう日本の価値観が通じない」と云っていた。クーラーはどれだけ早く急激に冷やすことが出来るかという価値観だけ、いや本来そういうものなのだが、本質をそのまま極大に求めていくのがここ香港だと云っていた。
私は香港で回った場所やら感じたことなどを喋り続けた。「そうそう」とも「えー」とも色々な感想を聞けたのだが、やはり日本語が喋れるというのはその時はとても嬉しかった。
初めて食べる北京ダックだが、包み方を教わり、美味しい美味しいとドンドン食べる。お肉の部分は余り美味しくないが持って帰るか?と聞かれたが、身の部分は油っ気がまるでなくてとても美味しくはないと味わってから理解したので辞退した。
なんとなく気後れして中環(Central)の中の西洋人のビジネスマンが集うようなバーやレストランには近付かなかったのだが、彼らが行こう行こうと誘ってくれた。地下鉄の駅で地上に上がる手前でゲリラ的にトランクを開けて商売しだす男が居て、彼らがそれを見て購入している。売人は英語でとても安い本物だと押し殺した声で喚いている。まぁ売っているのはパチモンの時計だった。
バーで二人は「これがカルバン・クラインの時計だよ。」「こっちはエルメスだって。」と私に買った時計を笑いながら見せてくれた。本物を知らない私はパチモンの精巧度合いさえも分からない。見た目は意外といい造りだけどすぐに止まっちゃいそうだな?と笑っていた。

終電近くに尖沙咀(Tsim Sha Tsui、チムサーチョイ)へ地下鉄で帰った。彼らは職場も住まいも香港島の方だった。


『さらば香港、Mr.Hanging Scroll!!』


旅程のどの辺りで行ったのか。。。。
九龍鉄道で沙田に行き、そこで沢木耕太郎のように、国境がみたいということで交通機関(バス)を探した。中国返還後なのだから国境はもうなかったのだが、old international borderにはどう行ったらいいのかと駅前のバス停で色々と聞き回ったのだが、もう国境はないと云われたり(知ってるって!)するばかりで、もどかしかったことなどもあった。結局断念した。

まぁ色々あったが最終日(出発の日)は昨日友達たちが喜んで買っていたパチモンを探したりしていた。これがG-SHOCKね。。。というC-SHOCKとかいう紛い物(まがいもの)を売っているお店などもあったりしたが、ああいう見た目重視のブランド系のパチモンはゲリラ的な商売をしている人だけが扱っているようで、店舗を構えるようなものはもっと奥の目に付かないような場所で商売しているのかもしれなかった。
冷静に立ち返って『俺は何を買おうとしているんだろう』と思い、乗り遅れが効かないfixedのチケットなので、そんな買い物は止めて早々と空港へ向かうバスの停留所を探した。

煙草は旅行の前日に買い込んだものと羽田の免税で買ったもので間に合ったので、香港では一箱も買わずに済んだ。


九龍公園で記念に撮った写真が下の写真だ。最終日の前日あたりで撮ったものだと思う。
タイマーが待ちきれずに立ち上がったピンボケの写真なので公開しましょう。
今より15kgくらい体重が少ない13年前の写真なので、随分違う。
周りでもヤッ・イーッ・サムッ!(1・2の3)で写真を撮っているグループが何人も居た。

フィルムで撮ったカメラは今だとトイカメラのように味のある写真になるんですね。。。

空港に向かうバスの車窓。まだ訪れていないと思われる街の数々。
全て行きつくしたと思っていたのは大きな間違いだった。

空港内での喫煙場所は少なく、チェックインが始まるまで空港の外で煙草ばかりを吸っていた。
チェックインの際、今度の飛行機はすべて通路側を押さえた。煙草を吸いながらメモを眺めたりして様々なことを思い出していた。
香港では運よくなのか一切の降雨に遭わなかったし、適度な気温で過ごすことができた。
出国検査を済ませ、中の免税店で煙草を買い込み、多くのお土産は現地で調達した布地のスーツケースに入れて、自分は大事なものだけを手に持って、うろついていた。
トイレを済ませて出ていこうとすると、トイレの入り口付近ですれ違いざまに、「Oh、Mr.Hanging Scroll! you did it?」と声を掛けられた。。。。誰だ?と訝しんでいたのだが、やっとのことで思い出した。Mr.Hanging Scroll?確かに私は手荷物に剥き出しで「掛け軸」を持ってうろついていたのだが。。。。
声を掛けてきた彼は上環の摩羅街(Upper Lascar Row)、別名(Cat Street)で私に掛け軸の講師をしてくれた高級骨董品店のあの若い店主だったのだ。あぁ。。。。!!と唸って思い出したと、トイレの外で彼を待った。そうなんだ。買えたんだよ。花ともう一つは鶴(わからないのでbird)!君はどこに行くの?と聞くと、彼はこれから買い付けに台湾に出かけるというのだ。掛け軸の購入成功おめでとう!と祝ってくれて、握手して別れた。
いきなり「掛け軸さん」と声を掛けられてびっくりしたのだが、香港を出る最後の時間に彼に再会出来たことで胸に残る思い出が出来たと嬉しかった。

羽田では大量に購入した掛け軸型のカレンダーのお土産を疑われて全部の荷物、クッキーの中身まで全部開けろとかいう事態にもなったが、何一つ変なものは持ち込んでいないので笑顔で応対した。

蒲田方面に出ていくバスで帰ってみることにする。帰りの飛行機も行きの飛行機も時間が決まっているものにはかなりビクついたが、もう時間に追われるようなものはない。家にさえ着ければいい。。。
香港で過ごした2畳の部屋。あれに比べれば随分と広いお城のような(嘘!1DK)我が家に帰還したのだった。


おしまい、多謝(ドーチェ)、再見(ジョイギン)


追記:
敬老の日の前々日、実家に帰り、ごそごそと戸棚を漁ると私の香港で購入した掛け軸が出てきたので、掛け替えて撮影してみました。
以下の写真がその掛け軸です。


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香港旅行記4 1998年11月

2011-09-18 01:37:14 | 懐かしい思い出
『毎晩の廟街』

昨日に続き、また訪れたナイト・マーケット廟街。
当時はそれほどお酒を呑む習慣がなかったので、ほとんど酔ってはいなかったはずだ。フラフラとやってきては廟街を一番奥まで行って元の場所まで戻ってくることを毎晩のように繰り返していたが、最後の方では『おおここはあの辺だな?するともう少しで大きな通りに一旦ぶち当たるな』とか、『この店がでてきたということはもう少しでendだ』という感のようなものが働くようにはなっていった。

ここで言い訳のようだが、「お土産を買うのだ」という口実で毎晩のように廟街に通い詰めていたのだが、最後はお土産を買うためだけに海外まで来たわけじゃないと思うようにもなった。買い物をする程度のことは、『それ違う!あれ、その向こう、そう』を(That is not it! that that,over there! yeah!)みたいな適当な英語で楽しんでいた。
合っているとかいないとかいうのではなく、結果通じたか通じないかだけで、向こうは売りたい、こちらは買いたいという意思さえ通じ合えばなんとでもなるような気持ちが芽生えてきた。ただ、さっきも書いたように、お土産ばかりを買っている自分が馬鹿らしくなることもあった。。。本当は香港で何がしたいのだろう?と考えると何がしたいというのは別に浮かばなかったのだが、色々と感じ、色々と考えるいい機会なのだと思うようになった。後は食事を中心にしたチャレンジ精神の鍛錬かもしれなかった。


お土産、さすがに日本の漫画のパクリTシャツは買わなかったが、アクセサリーや帽子や雑貨など、日本円に換算して安いと思えばいくつか購入することもあった。余り『それ高い、もっと負からない?』という交渉はしていない。それが提示されていればその値段に納得するかしないかだけだった。値段が書かれていないものは余り聞かなかったし、欲しいという衝動が起きなかった。

他にお土産に買ったものはクッキーを部署の人達用に買った以外では、8種類くらい用意し、会社の同期には1から8までの好きな数字を云えというメールを出し、回答をくれたものから順番に品物を渡していった。
番号がダブっても、何度も聞きなおすのも面倒だから、1が一つしかない帽子だったのだが、複数人が1といってきた場合は売り切れた時点で勝手に2に繰り下げてお土産を渡した。

帰国後にみんなあげたお土産は実は全て自分用にも買ってあり、帽子は実は私の分とお揃いになってしまうというなんとも如何わしい(いかがわしい)お土産になってしまった。

『腸粉』

たまに通りの脇にある飛び込んだレストランでは「腸粉」というものを頬張ることが多くなった。鮮蝦腸粉という、ぷりぷりの海老をぷるぷるの米で出来た雲丹のお化けのようなもので包んだものが代表的で、一度食べたら病みつきになった。「one more」と人差し指を立ててお替りをお店の人にお願いすることもあったほどだった。
(口絵の写真参照)


『HAWAII KONA COFFEE』

よく飲んでいた飲みものは何故か缶のハワイのコナコーヒー。
コンビニで必ず帰りに買っていた。量が多くて高くなかったこともそうだったが、クリーミーな割に美味しい珈琲だった。
まさか香港でハワイの珈琲に出会うとは思ってもみなかった。

『タピオカ入りのドリンク』
今では日本でもよく見かけるが、当時は台湾発と云われていたタピオカ入りのドリンクを香港の街角で見かけることが多かった。
なんとなくではあったが、少し気味悪く感じて手を出すことができなかった。

『飲茶とガイドブック』

香港の人は朝から飲茶だ。
飲茶とはお茶を飲みながら、ワゴンに乗せられた点心を選んで食べていくのだが、ページ縁が青く塗られている「地球の歩き方」を手に持って店に入ると、「ヤップーヤン(日本人)、ヤップーヤン、ウーロンチャ、ウーロンチャ」と馬鹿にされたように呼ばわれた。「地球の歩き方」を手に入ってきたのが拙かったのか、その呼ばわり方も気に食わなかったが、毅然とした態度でプーアル茶(普洱茶、Pu'ercha)を頼むと、烏龍茶じゃないのか?と確認される。ふーんという顔つきで納得している。多分「地球の歩き方」を手にした日本人が、非常に多く訪れるお店だったのだろう。たかを括られたのは、ガイドブックの弊害のような気がしたが、向こうも悪気があったわけではなく親しみを込めて烏龍茶と言ったかも知れなかった。

運ばれてくるワゴン車には角煮を餅米でくるんだちまきやらプリプリした点心が運ばれてきておばさんが私の方にも蓋を取って見せてくれる。
指を指すとその蒸籠を置いていってくれるのだ。単純だがお茶の名を告げる以外は言葉を交わさずに楽しめるのも気楽ではあったが、朝から精力的に食べるのはこちらとしても大歓迎だった。お粥を食べに行くこともあったが、2度ほど飲茶のこの店のお世話になった。
最後にお会計の儀式があり、伝票に書かれている金額より少しでも多目のお金を払い、向こうが様々な種類のお札や硬貨でお釣りを持ってきてチップ分を残してお釣りを受けとるのだ。いくらくらいが妥当なのかの相場が分からなかったが、Thank you を連発されたときはさすがにあげすぎたのだと気付いた。


『新しい宿とチェックアウトの心配事』

3日目の朝、飲茶で朝食を済ませてホテルに戻り、さぁ新しい宿を探すのだが、ガイドブックに出ているゲストハウスという類に電話かけて、条件と値段を交渉することにした。
要求したのは帝国酒店にはない”窓”と、付いておいて欲しい”シャワー”と”トイレ”、”エアコンディショナー”、後はベットだと伝えた。
全ての質問にyesと答えてくる。全て付いているというのだ。値段もかなり安い。(値段は忘れた。多分5泊で6,000円から7,000円くらい)ならば今から行くからと伝えた。

そこで帝国酒店をチェックアウトしたのだが、ホテルマンは部屋からかけた電話代を払って欲しいと云ってきたのでもちろん応じた。日本で先払いしてきた宿代は取られないのはもちろんなのだが、私はデポジットを到着時にカードで切っている。デポジットはどうなったんだ?と聞くと、あぁと云ってビリッと破いてみせた。私にはそのデポジットの仕組みとカード払いがその紙を破ったことで無効になるという仕組みを理解していないので帰国してからも不安だった。


『新しい宿、ゲストハウス、small room!!』

新しい宿は名前は覚えていないが、美麗都大厦(ミラドマンション)という重慶大厦(チョンキンマンション)の少し先にある香しい(かぐわしい)名前のビルの中にあるのだが、行ってみてビックリ。ほとんどいかがわしさは重慶と変わらないレベルだった。3階から上は全て中庭をみるように内階段の構造だった。2階まではフルのフロアで一旦中庭を持つフロアに出るのだ。そしてエレベーターも付いているが内階段の回廊型のビルだった。


指定された階に登り、受付で5泊分の値段を払うと鍵と数字を書いた紙を渡された。その紙の数字はなんだろうと思っていると、従業員の一人が上の階まで私を連れて行き、ドアのところに付いている数字式の南京錠のようなロックにその数字に合わせて開けてみろと云っている。その数字に合わせたら確かに開いた。
一番奥の部屋がお前の部屋だと云われたので、ドアの中を覗き込むと左右にいくつかのドアがあり、その奥の正面にもドアがあって、それが私の部屋で渡された鍵で開けることができる部屋だというのだ。じゃ!と従業員は階段を降りていく。チェックアウトの時は必ずその鍵を持って来いよと云っていた。
入り口のドアを閉めたらまた今まで嗅いだことの無い別の鋭い匂いのする場所で、一番奥の部屋まで全てピンクのペンキで塗り潰されていた。狭い通路の横のドアから誰かでてくるのか分からず、少し怖かった。

奥まで進み、ドアに鍵を差し込んで開けてみると、そこには正味2畳、一坪の部屋が広がっていた!
ドアを開けて半畳くらいのフリースペースがあるだけで奥に横になっているベットが1mくらいの高さの板の上に布団だけ敷いたようなものであり、ベットの真下が空洞になっていて、大きな荷物置き場となっていた。
ベットに登ってみるとベットの足元の方にさらに一段高い板が置かれ、そこには灰皿とテレビが置いてあった。
窓枠には小さいがうるさいよく冷えるクーラーが据え付けられている。
入り口の半畳スペースの横にレールのカーテンがありそこを開けると洋式のトイレだった。
???シャワーは?と思い、上を見ると便器の上の方にシャワーが付いている。トイレでシャワーを浴びろというわけだ。
入り口の方をみると天井から細い梁のようなものが垂れていた。

思わずそのあまりの狭さと全てを詰め込んだ部屋に驚き、大声で嗤い始めてしまった。
ベットをバンバン叩き、涙をこぼしながら、自分の引いた途轍もなく面白い部屋に感激したのだ。確かに窓もあり、エアコンもついていて、トイレもあり、シャワーもあった。確かにその通りなのだが。。。。予想した以上に上級者向けな部屋に驚いた。


ひとしきり嗤うと、荷物をまとめ、着替えて出かけることにした。
ドアを開けると狭い通路の左側のドアが開いていて、複数人のフィリピン人と思われる女性達がこちらを向いて笑っていた。さっきの馬鹿笑いが聞えていたのだろう。少し恥ずかしかったがぺこりと頭を下げて挨拶したのだが、含み笑いのような顔でドアを閉じてしまった。
何人で部屋をシェアしているのだろう。。。彼女達は『頭のおかしな奴が来た』とでも言い合って笑っているのだと思った、共同で使う入り口のドアを閉めるまで彼女達の笑い声が消えなかった。

『オーシャンパークと遊園地』

この日、行ってみようと思った場所は香港島の南側にあるオーシャンパーク(だったかな?)という水族館。伊豆三津シーパラダイスや八景島シーパラダイスのような場所だった。
香港島に渡り、それらしいバスを見つけて、オーシャンパークに行くか?と運転席から降りて煙草を吹かせている運転手に聞くと、チケットはあそこで売っている、入園券とセットで買うと安いとかいう情報を教えてくれた。あともうすぐ出発だ、急げと喚かれた。
施設の中は水族館とイルカやアシカなどのショーが開かれる会場がある。後方で遠目にそのショーを見ていたのだが、全てのショーがバイリンガルだった。
広東語のあとに必ず英語が流れる。今でこそ日本の電車でもNext station is・・・と流れるが当時はそのバイリンガルな香港がとても親切な場所に感じられた。ただ単に統治下だった影響でそうなっただけかもしれないが。。。子供達はキャッキャとはしゃいでいた。

ロープーウェイのある遊園地にも行った。ただ同じ日に行ったか別の日に行ったかの記憶が曖昧である。連れがいないとそのロープウェイも一人だけの乗車になる。
向かい側に降りてくるロープウェイに子供が乗っていれば必ず手を振ってくるのだが、私が一人で乗っていることに気付いた子供達は百発百中、手を振り終わると親の方に、『あの人一人だよ』と囁いているような仕草が辛かった。
園内で乗った小さな周遊電車みたいなものに、西洋人の夫婦が2組と私が一人で乗ったのだが、私は現地人とでも思われたのだろう。西洋人たちはちょうどリタイアされた方々のようで、私達はカナダのトロントから来ました。私達はアメリカのカリフォルニアから来ましたと、自己紹介が始まっていた。
水族館も遊園地も一人で行くところではない。会話といえばこれくれあれくれとかを英語で交わすばかりになっていく。たかだか1週間な旅行なのだが、この水族館と遊園地に一人で行った印象はかなり強烈に骨身に染みていて、日本だったら確かに一人では来ないかな?と自虐的に笑うしかなかった。

そういうリゾート的な部分でいうと赤柱という浜辺があり、ガイドブックには泳げると書いてあった。確かに水着も持ってきてはいたのだが、泳ぐというのはかなりの安心感がないと出来ないと感じた。パスポート、帰りの飛行機のチケット、もちろん財布などなどホテルに置いておけるものもあるのだが、失くしたら困るものを数多く一人で身に付けている状態で泳ぐというのは余りにも開放感に包まれた行為だと思った。そこまで安心できることはこの旅行の最後まで訪れることはなかった。

『Cat StreetでHanging Scroll』

上環(ションワン: Sheung Wan)という中環から西に路面電車や地下鉄で行ける果ての街だが、親からもらった、「掛け軸を探してきて」というミッションを果たすために複数回来ることになった。ここから澳門行きのフェリーが出ていたりする。
骨董品街で、高級そうなものからインチキそうなものまで色々なお店があるキャット・ストリート摩羅上街Upper Lascar Row 別名Cat Street という場所に通った。


初めて訪れた時に入った一番初めのお店では、本格的に高いものが飾られている。若い店主が「説明します」というので、余り高いものは買えないんですけどと断ったが、構いませんと色々なことを教えてくれた。
山水や中国で有名な画家が描いたもの、掛け軸はHanging(掛ける)Scroll(巻物)と英語で呼ばれることを教えてもらったりした。若い店主といっても当時の自分と同い年くらいのその人はこれなんかも結構いいんですよと次々と広げて見せてくれたり、店の奥の方に飾られているものを見せてくれたりした。
やはりそれは所持金を全て渡しても足りない以上の値段で日本円で○十万円するようなものばかりだった。溜め息が出るばかりだ。予算を聞かれて「1万円くらいでないものか?」と聞くと沢山の店があるから気に入ったものが手に入るかは分からないけど、もっと安いものから扱っているお店もあるので探してみなよと教えてくれた。

Good Luckと励ましてくれる店主、初っ端のお店が高級本物店だったことは良かったのか悪かったのか。。。お礼を云って退店した。

何軒か訪ねたお店の中で、御婆様二人で開かれている店があり、Hangnig scroll、flower、ジェスチャーでツルツルツルと巻物を解く様や両手で花の形を作ったりして意思を伝えると小汚い掛け軸を出して来てくれた。
それは名も知らない花が墨水で描かれ、なんとも味のある掛け軸だが、ところどころ煙草の染みのようなものが散らばり、絵の脇辺りは少し破けているようなものだった。値段を聞くと1,000円しない。花の掛け軸はこれでいいか?と購入することにした。(笑)
実家に持っていくと親父はせっかくの新居にこんなの飾れないよと笑っていた。

他にも銅鑼湾(Causeway Bay)で掛け軸や絵画などの即売会が開かれていて、ちょうどいいとばかりに、たっぷり吟味した上で10,000円くらいの大きな鶴と松の掛け軸も購入した。もちろんそっちも実家に飾られているのを見たことがない。(笑)

ただ、骨董品や絵画を買うというのは、思った以上に楽しい買い物だった。

この前書いた、現地で調達したガイドブックが出てきたので、写真に撮ってみた。写真をクリックしてみてもらえば分かると思うが、'98版だというのが分かる。



実は川越に転勤になったばかりの頃、ちょうど同僚が香港に旅行に行くというので貸した記憶がある。
その時は結構役に立つと云って貸した気がする。。。記事では眺めるだけだと書いていたが。。。
小さい方は乗物のガイドブックだ。
トラムとかバスや高速鉄道の値段や種類が出ていた。
この現地のガイドブックが便利と書いてあったのは「地球の歩き方」の中だったのだ。
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香港旅行記3 1998年11月

2011-09-14 06:46:42 | 懐かしい思い出
香港の初日の朝をどう迎えたのか・・・実は余り記憶にない。
初日はまだ様子見というか、、、、

訪れた場所と乗った乗り物や食べたものを中心に書いていこうと思います。


『地下鉄で九龍城のあったと思われる場所へ』

まず、向かった場所は九龍という地下鉄の駅。まだ日本では当時普及していない自動改札や磁気系のsuicaやpasmo的なカードもあったが、都度払いを心掛けていた。まぁ後で換金するのも大変そうではあった。なので、乗る前にはいつも行き先を完全に決めていた。行き先変更で追加料金を払うことも出来ると思うが、それはしなかったと思う。

九龍城という巨大な変形的な建物群が以前存在したとの話しか知らなかったのだが、そこでは重鎮なんかよりも怖い「近寄ってはならない場所」というイメージだけはあったのだが、駅から降りると、閑静な住宅地で並木もあり、なんだか拍子抜けな印象の街だった。
確か九龍城は折り重なるように建物が継ぎ足されて(増改築の繰り返し)まるで迷路のような建物で、「一度入ったら二度と出られない」という触れ込みを聞いたことだけしかなかった。返還前の無法地帯でもあり、Mr.B00ギャンブル大将でも出てきたと思う。


まぁやはり取り壊されて十分な時間が流れたのだろう。何もない街をすぐに離れることにした。次に向かったのは、太子(Prince Edward)。隣駅だけど、少し歩くのが不安で彌敦道(Nathan Road)の一本道とは違うので覚え立ての地下鉄に再乗車した。


『バードガーデン』

香港ではペットに鳥を飼うのだという。しかも綺麗な鳥篭を見せ合うとか?犬猫ではなく何故鳥なのか?太子からバードガーデンに向かうとそこには鳥を飾り、篭を見せ合う人々が本当に来ていた。
様々な鳥篭が売られている。。。竹で出来ているのか、バルサ?その木製の鳥篭は確かに綺麗な形をしている。吊った篭の屋根は金閣寺のような綺麗な形をしていて、四角い篭の下の4隅の部分には飾りが垂れている。とても綺麗で日本の鉄製で丸味を帯びているものとは違い、持ち運んだり見せ合うのに相応しい。

そこから旺角(Mong Kok)まで歩いて女人街の方に行ってみた。
もう一つ香港で珍重されているペットが金魚でこれもよく売られていた。金魚掬いでもらえるあの小さなビニール袋にパンパンに水が張られている中に綺麗な金魚が1匹ずつ詰められていて所狭しと飾られていた。この「所狭し」という過密さに香港のエネルギーが詰まっているように感じられた。鳥の皮を開いて炙り焼きしたものを並べたりとかもそうだった。吊るされ方や並べ方に凄い特徴があると思う。賑やかで華やかで惹きつけられるお店の特徴があってこっちの気分も上がってきた。ただ、そのうちどの街に行っても同じような派手なお店を見て少し食傷気味にはなるのだが。。。

『女人街』

油麻地の西側の「廟街」別名 男人街(ナンニンガイ)に対して、旺角(Mong Kok)の彌敦道(Nathan Road)の東側には女人街(ニョニンガイ、ノイヤンガイ)が存在する。そこまで行くと昼間にも関わらず出店が出ていただのが、アクセサリーや女性の下着、チャイナドレスなど、私にはまるで縁のないものばかりが売られている。。。。
夜に再訪したら印象が変わったかもしれないが、この旅の最中にもう一度訪れることはなかった。

『スターフェリー』


旺角(Mong Kok)から尖沙咀(Tsim Sha Tsui)に戻り、改めて昼間の街を眺めながら港を目指した。対岸の香港島の中環(Central)から銅鑼湾(Causeway Bay、トンローワン)辺りの高層な建物が有名な夜景を醸し出してくれるはずで、昼間見たそれは確かに未来都市のような様相だった。
地震がないということから高層ビルを建てることに躊躇がないのだと思う。また人口の過密さから高層系のマンションも必要になってくるのであろう。そうするとペットが鳥や金魚などの基本室内で飼育できて糞の始末が楽なペットというのも頷ける。
港に着くとあの有名なスターフェリーがあり、それに乗り込んだ。実はこのフェリー記憶が定かでないが中環(Central)行きと銅鑼湾(Causeway Bay)行きの2系統が存在していたと思う。私は中環(Central)行きを選んで乗り込み、船の中の椅子で窓際にかじりついた。離岸・着岸の時は波止場をガン見し、それ以外は迫り来る香港島や帰りは九龍半島側の向こう岸を眺めるのが好きだった。だが、やはり好きなのは香港島側に行くときだった。

中環ではバスや路面電車が走り、その発着所があって香港仔(アバディーン)という船上生活者が住むという場所へ向かうバスに乗った。

『香港仔(アバディーン)』

着いた波止場では何艘もの船、船のレストランを見たのだが、もっと奥の方に行かないとその生活の様子は見れないのかもしれなかった。
まだ香港島そのものに慣れていないこともあり、そんな派手な客船のレストランに入るつもりもないとバスに乗って都市部に戻ろうと思った。

『公衆トイレ』

バスで戻る前に催したので、トイレに向かう。
香港のトイレと初めての対面だった。
ホテルのそれとは別の公衆トイレの大は、そうですね。隣との壁はお腹から胸くらいの高さまでしかなく、和式だった。(和式という言葉はなんかおかしいのかもしれないけど)
なので隣から覗き込まれる危険性もあった。よく考えれば『そんな見たくもないものをわざわざ覗き込むかい!』と思えるのだが、なかなか排便することが出来ない!ようやくの思いで済まして立ち上がると遠くの方でこれからしゃがもうとする人が見えたりする。
向こうは何も頓着していない。当たり前のことなのだろう。。。これには軽いカルチャーショック的なものを覚えた。

『お昼と買い物』

尖沙咀(Tsim Sha Tsui)のホテル周辺に戻り、遅いお昼を摂った。近くにちょうどデパ地下のようなフードコートを持つ場所を見つけ、昨日覚えた指差しと「this one」そして別のものを頼む時には「and this one」と置いてあるメニューを指で指していき、注文を完了することが出来た。出てくるものは少し日本で慣れ親しんだものとは違い、香草をはじめ何かの香辛料なのか、全体に独特の匂いを持っている。
食事を済ませると隣の書店に行き、香港の交通ガイドなる現地語のガイドブックを購入した。とても便利と書かれたその地図は眺めるのには最高だったが、十分な用を果たすことはなかった。路面電車と地下鉄の走破はしたが路線を知るのにはあまり役に立たなかった。広東路の方に向かうとデパートが出てくる。そこに入っているHMVを訪ねてみたのだが、日本のアーティストも置いてあるのだが、邦人のCDだけ高くちょうど日本の値段と変わらない設定になっている。。。他に薬局を回ってお袋が少し前に入院した静脈瘤にいい薬を探そうと思ったのだが、余り奇怪なものは日本に持ち込めない(ワシントン条約)というので諦めることにした。

『姉妹との再会』
昨日ホテルから着いたばかりの部屋から電話し、今日の夜に会うことを約束していた。九龍公園の入り口というのでここでいいのかと不安になったが、二人が揃って笑顔で現れてくれたのでほっとした。姉の方は尖沙咀(Tsim Sha Tsui)で会計事務所に勤め、妹は中環(Central)で香港中央銀行に勤めていると云っていた。
何が食べたいのかと云われたのだが、広東スタイルはいつでも食べられるから上海料理に行こうと云われて近くのビルの料理店に入った。
そのレストランの入り口で順番待ちしている間にどこに行ったのかという質問攻めにあった。
テーブルについてからの注文は彼女達に任せていた。
英和と和英の両方がついたコンパクト辞典もあったので、真ん中にそれを置いてお互いに言葉が通じない時はそれを使ってみた。
お茶が運ばれてくる。ガイドブックに出ていたお茶を入れてもらったときのジェスチャーの意味を確認してみた。相手の湯飲みにお茶を注いであげると、注いでもらった人が「ありがとう」の意味で湯のみの横で指をトントンとテーブルを叩くということが書かれていたのだ。「本当に『ありがとう(Thank you、ドーチェ)』という言葉を添えないのか?」と聞くとその通りだという。。。姉妹でその様を見せてくれたが言葉を発しないありがとうというものがあるのかと感心した。ただ少し偉そうだね?と聞くと、そうかな?と言い合っている。そうすると料理が出てくるまで慣れろとばかりに姉妹で交互に私の湯飲みに茶を注ぎあい、その指トントンのジェスチャーを要求してくる。すました顔をしてトントン、トントンと叩くのに慣れてきたので、姉妹が香港の人みたいだと褒めてくれた。
彼女達は飲茶には行ったのか?と聞いてきたので、まだだよと答えると、お茶の種類を私のメモ帳に書き込んでくれた。一番ポピュラーなのが普洱茶(プーアル茶)だと教えてくれた。
また海老(鮮蝦)や豚や牛などの食材と麺、粥、飯などの主食の単語を書き込んでくれた。もし言葉が通じないもしくはメニューがない場合は、このメモを見せて指を指してみたら?と指南してくれた。
なるほど、海老ラーメンを食べたければ鮮蝦と麺を指したり、紙に書いて見せればいいわけか、、、、あとメニューが漢字だらけならこれらの単語から類推すればいいのか。。。
これは便利だとどうもありがとう!とお礼を云った。この上海料理屋(雪国とかいう名前だったと思う)で食べた料理がどんなものだったか忘れてしまったが最後はほとんど辞典がいらなくなっていた。
お会計の段になり、俺が払うからというとそれは駄目だと勘定書きを渡そうとしない。日本でご馳走になったのだからと一点張りなのだ。友達とみんなで奢ったのを私一人で受ける訳にはいかない。頼むから俺に払わせて欲しいというと、それならアイスクリームを食べに行くのでそこの会計を頼むと云ってきた。申し訳ないやらなんやら一人で異国の地に居る寂しささえも紛らわしてもらった上にご馳走になるなんて。。。ありがとう、それじゃあアイスクリームを山ほど食べて欲しいとお礼を云った。
アイスクリーム屋に向かいながら、広東語の数字を覚えさせられた。ヤッ・イー・サッと何度も復唱しながらあらかたの数字を広東語で云える様になっていった。
これは後々大変役に立つことになる。
アイスクリーム屋で私はAlmond(アーモンド)と書かれたアイスを頼み、彼女達も各々のアイスを頼んで、私が払うと「ドーチェ、ドーチェ」と笑いながら頭を下げている。こっちも日本語で申し訳ないと少額の返礼のお詫びを日本語で伝えて笑いあった。
一口食べると、その味はまるで杏仁豆腐のそれだった。アーモンドとはalmond、チョコに入っているあの豆だとばかり思っていたのだが、二人は「だって杏仁はalmondじゃない」と云っている。。。。これは多分国際的な勘違いが生まれているのだと思った。
杏仁とはアンズの種の中身の仁(じん)の部分のことだと思う。アーモンドはナッツでこれも種の仁の部分だが、どうも別種のものを混同しているかも知れないと感じた。それは上手く言葉で言い表せないので、伝えることを諦めた。

九龍鉄道で沙田の家に帰るという二人を送っていこうとしたら、ここでいいよというので、彌敦道(Nathan Road)のところでお別れをした。

それからホテルに帰ろうと思ったのだが、やはり「廟街」に行かねばなるまいとフラフラと香港の夜景を眺めながら街の方へ歩き出していた。明日はホテルをチェックアウトし別のホテルに行かねばならないのだが、香港の街を歩いていればそんな宿はすぐに見付かると腹が据わってきたのだ。言葉を覚えたことが私を少しだけ強くし始めていた。


~つづく~
※これは1998年の記事です。勘違いなされませんように。

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男一匹一人旅 香港旅行記 2 1998年11月

2011-09-11 06:48:00 | 懐かしい思い出
『台北空港にて』

自分もそうなら皆もそうだろう?と高をくくっていたのだが、乗り継ぎをするという人達が小さな紙に書かれた「HONG KONG」という文字をもつ人の指示で誘導されていくのだが、トランジットの乗客は実はそう多くは無かった。

すると歩いている私に「Are you Japanese?」と声をかけてくる御婦人がいた。
「Yes、はい」と答えると、胸を撫で下ろしながら、「香港に行くのですか?私もです!」と英語で質問をされた。
「はい、私もgo to香港です。」と笑いながら答えると、また英語で「あなたの職業はなんですか?」と聞いてきた。
『うん?これはどういうことだろ?TOEICみたいだぞ』と訝しんでみるものの。。。日本語で「サラリーマンです」と答えると、変な顔をしだした。
『あぁやっぱり、日系人なんだ』と気付いて「enproee、work at planning division」と答え直した。

ロビーに着くと、ハワイに住む日系人だが、息子が転勤だかで香港で勤めているらしく、チケットを贈ってもらって乗り継ぎながら来ているものの、不安で仕方がないらしく、香港に行く人が周りにいないかと探していたのだと捲くし立てられた。

私はガイドブックを出し、「息子さんの住むのは香港島?それとも九龍半島の方ですか?」と聞いてみると九龍の方で勤めはいつも中環Central:香港島の方に行っているらしいと教えてくれた。本の巻頭についている折り畳みの地図が役に立った。

いきなりの英会話が始まってしまい、懸命な状態なのである程度聞き取ることはできるものの、伝えたいことは少ししか言葉にならないことがここでももどかしかった。

そうこうしているうちに、私は無性にタバコが吸いたくなった。
乗り換えたらまた禁煙の飛行機の中。
今なら考えられないが、当時の私はヘビースモーカーに超が付くくらいの量を吸っていたので耐え切れない状態に。隠れて高校生みたいにトイレの中で吸ってみたものの、余り美味しくはなかった。。。。

飛行機を待つ間、気付いたのがここはもう日本じゃないということ。
羽田では日本語と英語と中国語でのアナウンスを聞くことが出来たのだが、もう何も聞えてこないような状態になっていた。

飛行機に乗り込むと今度は窓際が2席、真ん中4席、の一列8人掛けの飛行機になっていた。ひと回り小さい飛行機に乗り込むのは極端に少ない人数。
飛び出すときのエンジンが頼りなく聞えてきて、『頑張れ』とエンジンの方に祈っていた。トランジットした時間はもう夕暮れよりも夜に近い空。機内の電気は一旦消されての離陸だったので、怖さが倍増した。

私の座った場所(左端の窓側)から前方に一人の僧侶が袈裟を着て座っていた。後は後方の随分と離れたところにハワイからのおばさまがいた。僧侶の方は特別食なのか、機内食をいきなりもらって食べ始めていた。

私は何を食べたのかまるで記憶がないが、トランジットだと2食食えて助かるなぁと思っていた。このときは北京語と広東語(だと思う。もしかしたら英語でも言われたかも)での質問だったので、何を言われても、meatと云おうと決めていたと思う。

夜の到着だったので、着陸時に見えた香港の夜景はどこがどこだかよくわからない。意外と電気がまばらだと思ったのは、もう空港そばの地域まで来ていたためであろう。あの離着陸の難しいと云われていた啓徳空港ではなく、操業を開始して間もない今の国際空港(ランタオ島(大嶼山) )の方に到着したのである。

荷物が出てくるところで、ハワイおばさんと一緒に待ったが、おばさんの方が先に出てきて、鼻に人差し指を当て、進行方向にその指を持っていき、そのジェスチャーで『先に行くね』と云われた。なので、軽く手を挙げてバイバイと振った。

出てきた荷物は軽く凍っていたようで、布地のバックからドライアイスのような湯気が出ていた。こんなになるなら預けなきゃよかったよ。。。。と初めて知った。だからみんなあの頑丈そうなスーツケースを持っているのね?と気がついた。

イミグレーション、入国検査のところに、「Foreigner」だったかな?と書かれた方に並び、目的は?的なことを聞かれたら「sightseeing」と答える儀式はすぐに済んだ。

入国審査を終えて一番に向かった先は喫煙所。もう3本くらい立て続けに吸い込んだ。

『バスでホテルに向かう』

尖沙咀(Tsim Sha Tsui、チムサーチョイ)、今日と明日はそこの彌敦道(Nathan Road、ネイザンロード)という大通りに面した帝国酒家というホテルに泊まることになっている。まずはそこを目指そうと、バスを探した。そしたら、もちろんだが、香港ドルが必要になり、慌てて空港内に戻って換金をした。

お釣りが出ないタイプだったと思うが、仕方がないとは思えず、バスの発着所の横に行き、もらった札束をさらにsmallにexchange!と伝えて小銭に替えてもらってピッタシ投入した。

バスの車窓は初めはいつまでも単なる高速でつまらない景色だったのだが、街に近付いていくとあのネオンサインが徐々に増えだし、『とうとう香港に来たのだ』という実感が沸いて来た。カラオケと思しき文字が見えたりもした。裃拉OKという文字のサインだったような気がする。

バス停の案内を注意深く聞き取り、尖沙咀の文字を確認して降りるボタンを押して降り立つと凄い人いきれに圧倒されながら、ホテルを探した。思ったよりも細長く、隙間に押し込められたような造りになっていた。入って名前を告げるとクレジットカードを出してデポジットを払えと云って来た。後の精算時になんとかなるだろうと思い、当時は余り信用出来なかったカード払いに応じた。

部屋に入るとビックリしたのが、窓がなかった。細長い造りの建物にある窓は貴重な部屋にしかないのだろう。
ガイドブックと財布とパスポートをリュックに詰めて、街に出ることにした。
機内食を2度食べて別段お腹は空いてはいないものの、何かを食べることと地図に書かれた街の広さを体感するために、彌敦道を徘徊してみようと思った。

『廟街を目指して』

エレベーターで「1」を押すとロビーでなく、Subway風のサンドウィッチレストランに出た。?あれ?ドアを閉め、今度は「G」を押してみる。そしたらロビーに着いた。
香港では「1」は日本の2階を指し、日本の1階は香港では「G」Ground Hallの意味であるこの記号の階にあたる。これを初めのうちはしょっちゅう間違えてばかりいた。
この表記はイギリス式のものだとのこと。

狭いロビーでルームキーを預けようと、ホテルマンが来るのを待っているとき、背後に香港内のツアーのパンフを立てかけている後ろに別のホテルマン(じゃないのかもしれない)が座ってニコニコとこっちを見ていた。2階建てのバスで巡る香港のツアーらしきものを紹介しているようだった。今思えば、効率よく「はとバス」みたいなもので主要箇所を巡ってしまうこともありだと思うが、当時は全ての乗り物は自分で乗り切り、滞在時間も自分で律するのだという想いが強く、それを利用することはなかった。『利用するつもりはないよ』と片手を顔の前に持ってきて頭を垂れてジェスチャーで伝えた。向こうも『いいよ』という感じでしきりに頷いていた。


彌敦道は、港方面の尖沙咀(Tsim Sha Tsui、チムサーチョイ)から佐敦(Jordan、ジョーダン)、油麻地 (Yau Ma Tei、ヤオ・マ・テイ)、旺角(Mong Kok、モンコック)、太子(Prince Edward)と続いており、真下にはそこまで導いてくれる地下鉄が走っているのだが、旺角(Mong Kok、モンコック)くらいまでは旅の最中、何度も何度も歩いて往来した。

着いたばかりの足で、油麻地の西側の「廟街」別名男人街(ナンニンガイ)、テンプル・ストリート呼ばれる毎晩開かれる屋台通りに行ってみようと試みる。後は重慶大厦(チョンキンマンション、じゅうけいたいか)という有名なバックパッカーの安宿(泊まる心算はないけど。。。)が集まっているという場所がどの程度のものかを見ておく心算だった。後は換金レートがどの程度違うのかという辺り。

重慶大厦はすぐに出てきた。帝国酒家の並びにあったのだが、通りの東側を歩いているとビルの名前が見れない。初めに出くわした両替屋さんのレートの看板でJPN→HKDを確認したのが重慶大厦の両替屋さんだったのだ。次から次へと見て周った両替屋、重慶大厦のレートを越えるところはついに現れなかった。

九龍公園が通りに西側の一段高い場所に木々が生い茂っていることから分かった。公園は少し階段を登ったところに広がっているようだ。
公園の一段低い通りに面した場所にはブティックが綺麗に並んでいた。公園の緑の下に並ぶ綺麗な店舗。確かに高級そうに見える佇まいだった。
通りの東側を佐敦(ジョーダン)の辺りまで来たときにマクドナルドが見えてきた!!
いきなりかい!というより香港の食事一発目をあろうことかマクドナルドに絞った。

『I need this oneを覚えたよ』

言葉の通じなさ、注文方法を体得し、『飢えないように』生きていくためにまずはファーストフードに行ってみることにしたのだ。

ちょうど列の前は外人が注文している。ドキドキしながら聞き耳を立てていたら、
「I need this one」(これ一つ下さい)と指差しでメニューを突いているのを確認した。
『おぉ、これでいいんか?』と納得した。自分の番が周ってくる。完全に舞い上がっている顔の私をみて店員の男の子は流暢な英語で話しかけてきた。多分『何にしますか?』と
聞いているのだと思い、「I need this one」と同じジェスチャーで指差しをした。
seeと応じたのを見届けてホッとしていると、また何か云っている・・・・!『さっきの外人にも何か云っていたのか?そうか納得している間に何かやり取りがあったんだな!』
とpardonと言い直しをお願いすると、「stay here or take out?」(店内ですか?お持ち帰りですか?)と聞いていただけだった。。。あんたら発音が良すぎるわい!

ポテトには必ずケチャップが付いてきて、それを塗りたくって頬張り、アイスコーヒーをすすりながらガイドブックを開けて廟街の位置を大きい地図と詳細な地図とで見比べていた。隣駅(佐敦)までがここまで近いとなるとその隣の油麻地もさらに近いぞと体感する。店を出て、通りを西側に渡り、沢山のお店の軒先を眺めていく。日本のどこかに似ているかと聞かれれば、、、、いやないですね。。。アーケードも有ったりするのでなんとなくどこかの街に似ている気もするけど、敢えて挙げるなら、大阪梅田や道頓堀?いやそれよりも密集の度合いが違うような気がする。

『廟街に圧倒される』

油麻地の辺りに近付き、チラチラと横を見るともうそこには通りにテントを出した歩行者天国のような街が広がっていた。これから毎晩通うことになる屋台テントの行列が延々と続く通りに立ち向かった。曲がった場所はまだそれほどの熱気を持っていない、何の気なしに夜まで開けていたと思われる店の中は子供とお年寄りがいて、ジュースを売っている程度だった。ぼんやりと灯る蛍光灯の明かりは少しまだ寂しいくらいだったが、その先には眩い電球(イカ釣り漁船みたい!)のテント街が広がっていた。

通りを曲がって、その先が見渡せないテントの山が道路の真ん中に左右2軒ずつ並び、
その端側にも店があって、その端のテントの向こうにも通りに面したお店があるという多重構造で通りを一遍一番奥に行って反対側のテントを見ようと折り返してきても見尽くすことができないのではないか?と思いたくなるくらいの店が並んでいたのだ。

食事を摂ることもできそうだが、ルールがまるで分からない。
途中に廟が出てきたのだが、文武なのか関羽のものだったかどうかなどまるで覚えていない。途中でキャラクターとともに小丸子という文字で書かれたちびまるこちゃんやドラえもんという文字を漢字で書いたTシャツを売っているお店があり、そこが一つの目印にはなったのだが、人の波と店の波に圧倒されていく。食材もアクセサリーも様々なものが売り買いされているのだが、欲しいものが分からない。まだ買い物が怖い状態だった。
多分イギリスの植民地だった場所なのである程度の人は英語を話すのだろうとは思っていたのだが、まだ様子が良く分からない。

今これを書いていて思い出すのは、香港の匂いだ。
街には匂いがあり、それは強烈に思い出す。
匂いを嗅げば、あぁと思い出す。

今の職場にも初めて来たときに思った匂いがあり、前の職場にもあったと思う。
鼻がそれほどいいわけではないが、匂いの記憶は多分一番覚えている記憶なのだろうと思うのだ。

『ホテルに帰る』

尖沙咀に戻り、ホテルの周辺を何遍か回り、コンビニで飲み物を買い込んでホテルに戻った。コンビニでは細かい硬貨までの値段設定とそれに忠実にお釣りを返す商習慣がある。他ではこんな細かい硬貨は使えそうにない。言葉を交わさずに買い物ができるのかという安堵もあったが、そればかりではつまらないとも思えた。

「エロ本」という変な看板も見付けた。日本語を見つけると少し安心するものだ。

翌日に再会するための姉妹との約束の電話をし、夜まで過ごすための計画をガイドブックを見ながら考える。
今もそうなのか分からないが、リコンファームという帰りの飛行機に搭乗することを確認する電話と翌々日には移らなければならない宿を探すことが、翌日のミッションでもあったのだ。



~つづく~
※これは1998年のことを書いた記事です。勘違いされませんように!
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男一匹一人旅の記録 1998年 11月 香港 ガイドブックは「地球の歩き方」

2011-09-06 04:44:25 | 懐かしい思い出
随分と前の記憶で、どこまで思い出せるか分からないですけど、書いてみようと思っています。

実は中村さんのブログにコメントを入れさせていただいたところ、「私のミシュラン・ガイドの使い方」なる記事でお答えを頂きまして、、、
※テレビのコメントの件は決して中村さんの意見に対してあるのではなく、最近のテレビの過剰演出を牽制する意味のコメントでして・・・・なんて言い訳ばかりではよくないので、、、、

私も自分の海外初挑戦の記憶と共に、自分の旅のことを書いておこうと思い立ってこれを書いています。実は当時は「地球の歩き方」をバイブルのようにして使っていました。他のトラベル指南書も存在したのですが、見易いページ配置と写真、巻末に経済・言語や通貨レート、行事カレンダーなども付いていたと記憶しています。(すいません、今手元には地球の歩き方は1冊も残っていません。)


私はといえば、30歳になるまで飛行機に乗ったこともなければ、海外にも行ったことがないという体たらくでして。。。
バブル期の大学卒業の癖に、当時は乗り物に乗ると「腹が痛い」とか言い出すパニック症候群チックな男子で、海外には一切出ず、結局各駅停車の東海道で静岡に駿府城の城跡を見に行ったのが、卒業旅行でございました。

そんなこんなで社会人になり、30歳という節目に旅行先を海外にしてみようと思い立って、色々な準備と挑戦項目を決めて、香港に旅行に行ったことがありました。

思い起こせばもう13年前にもなる。。。。のでございます。。。



『準備期間中のこと。』

どこに行こうかというのは日本からどれくらい離れてみるか?ということに近い。
なるべく近距離で楽しそうなところと思い、その前の年に中国に返還されて話題になった香港が今どうなっているのかを観に行ってみようと思った次第だ。
返還前の香港には随分と旅行客が流れ込んだと聞いたので、今は逆にホットでもなんでもない状況だ。それはそれで誰も注視していないということになる。

「たまたま香港に住む友人が日本に来ている」という会社の同期がいたので、その同期に彼女達を紹介してもらうことが出来た。
彼女らは姉妹で、流暢に英語を話し、自分の友達もペラペラと英語を話すのでかなり気後れしたのを覚えている。
どういう場所に行ったらいいか?とか、この時期(11月)どんな服装で行ったらいいか?とかをみんなに聞いてもらった。

「なんで香港なんだ」と聞かれたので、なんとなく深夜特急という小説でデリー(ニューデリー?)に行く前に、一番初めに沢木耕太郎が訪れたとても記憶に残る場所、(香港と澳門(マカオ)の両方)だということを伝えた。

そういえば、香港から日本の観光ガイドブックを彼女達は持ってきていた。おそらくミシュランのGreen Bookと思われる。船で九州に上陸したという彼女達は、そのまま九州観光をし、京都などを巡って東京に来ているとのことだった。見せてもらったガイドブックには大分や滋賀の名所が出ていたのだが、日本人の私達全員が、その名所のことを知らなかった。
彼女らは、この本にここがいいと出ていたから行ったのだと云っていたが、本人達が満足すればいいだけのことであって、それがガイドブックによって齎されたものだったとしても、満足できたかどうか、その尺度のみが重要なのであるような気がする。
ガイドブックに載っていた場所に行ったのだということもその満足を支える重要なポイントだったのだろうと、今では思う。
ただ、その時は日本人さえもが認知していない「観光名所だと書かれた場所に行ってしまった彼女達」を少し哀れんでいたような気がする。今でも海外に観光客の誘致を懸命に営業している観光地があることは想像できる。当地で有名な観光地と外国では有名な観光地が同国内で違うことも十二分に有り得る話ではあるのだ。


英語も広東語も話せない自分ではあったのだが、向こうでの再会を期して、自分が幼少(小学校高学年)の時に観に行った「Mr.BOO インベーダー作戦」のテーマソングを披露した。私は香港の曲が唄えると豪語して店の中で軽く歌い始めた。
サントラを持っていて、歌詞をカタカナでほとんど記憶するまで唄いこんだことがあるので、うろ覚えながらもその場でみんなの前で歌ってみせたのだ。
そしたら、彼女らが「歌詞の意味分かってるの?」と聞いてきた。もちろん「何にも分からない」と答えたら、腹を抱えて笑いまくっている。

賣身契 / Mr.Boo!インベーダー作戦 THE CONTRACT 賣身契


まぁいざとなればこれを唄って人に助けでも求めるかと決めていた。歌詞の意味は分からないが、人は変な曲を歌う人間がいると注視してくれることにはなるだろうとの期待だけはあった。

また、現地に勤めている会社の販売会社があったのと、大学時代のサークルの友達が私とは別の会社で香港に赴任しているので、そこいらの香港に纏わる電話番号やら住所やらを「地球の歩き方」の各所に書き込んで準備しておいた。

実家に電話をして香港に行くことを伝えると、「ちょうど新しい家を建てるので、床の間に飾る花の描かれた掛け軸を一本探して来て」とのミッションをもらった。



『出発の時のこと。』

行きと帰りの航空チケットと2泊分のホテルを押さえての出発だ。(7泊8日だった)
海外そのものが初めてで一人ということで、遅れないように慎重にというか、とてつもない前倒しが行われた。中華航空の羽田発→台北でトランジット→香港という珍しいチケットで行くことになった。余り日本-香港の距離でトランジットってのはいなそうだと思った。余った滓(カス)のようなチケットを繋ぎ合わせて販売していたのだろう。

今は知らないが、当時の中華航空の発着する場所は羽田の中でも少し離れていて、中華料理を出す売店の他はあまり見るものもなく、ノートにペンを走らせて一人で興奮していたと思う。当時「写るんです、ハイ」という商品が売れていて、それを大量に持たしてくれた友達がいた。もちろん簡易的なフィルムカメラは持っていたのだが、フィルムも誰かがくれたのを覚えている。

チェックインの時、実は運動部の人が持つようなものよりもさらに薄手のバックを一つと、小さなリュックを持っていたのだが、そのバックの方を預けてみた。スーツケースというものをそれまで持っていなかった。その程度の荷物ならば全て機内に持ち込むべきで、当時そんな程度の荷物しか持つことがないのか?と今では訝しくもあるが、着替えと本とお財布とカメラレベルで後は現地調達ということで旅立った気がする。

また、預けた荷物がなくなるとか、他の国に行っちゃうとかいうトラブルを聞いていたが着替えくらいしか入れていないバック。いざとなれば現地で服くらい買えるだろうと腹を括った。


『飛行機のこと。羽田-台北』

台北でのトランジットということもそうだった(行きも帰りも)のだが、飛行機にはハワイ方面からの乗客が乗り込んだまま、もしくはトランジット待機の人が大半だったと思う。羽田のロビーでは見なかった人達で機内は溢れかえっていた。
私は窓側の席を頼んだ。電車と同じように車窓を楽しむものだと思ったからだ。
3人掛けの椅子の奥に私、その隣にはビッグな体型のカップルが座った。

飛び立つ時、窓からこちらに向かって手を振る整備士の人たちが見えて、懸命にこっちも振ってみた。何故だか下手したら戻ってこれないとか事故に遭うとかいうのを堪えていたのかも知れない。彼らに手を振りながら涙が零れた。

羽田から南西に向かうはずの飛行機は、風の関係か何かでどうも真東を向いて飛び出した。今でも飛行機がエンジンの唸りを上げて滑走路の端に構えてガタガタガタと動き出すのを物凄い心拍数を伴う緊張感で迎える。毎日とか毎週とか、少なくとも毎月とか乗っているのであれば、そのうち寝て迎えることもできるのかもしれないが、いまだにこれには慣れというものが来ない。
上空に上がったかと思うと自分の座った窓の方に大きく傾いて旋回を始めた。真下に海と船が見えた。正直やばいのかとさえ思ったものだ。周囲がどの程度の動揺をもって事態を把握しているのかが、初体験の自分にはバロメータだった気がするが、周りは動揺しているような印象はまるでなく、少し拍子抜けしたかと思う。


安定飛行に移ると、雲が下に見え、気分がよくなった。
下に富士山が見えたとき、隣の外人に「あれがMt.Fujiだよ。綺麗でしょ?」と何度云おうかと迷っていたのだが、そのうち、「シールドを落として暗くしろ!」というのをジェスチャーで訴えられ、『飛行機では窓側なんかに座るもんじゃないんだな。』と理解し始めた。

機内食では、『海老にしますか?豚肉にしますか?』と英語で聞いて周っていた。シュリンプでお願いしますと頼んだ。

熱々のパッキングされた機内食と記憶している。あとミックスナッツのようなものが入っている袋を手渡された。お酒には当時それほどの価値観を見出せていない時分だったので、いらないというジェスチャーで断った。今だったら車の運転しないなら是非とも呑んでおこうとなってしまうはずである。

食事が終わると映画の時間なのだが、他のチャンネルの音に合わせて音楽を聴いていた。
隣の二人はトランプでソリティアを始めだした。

パソコンでは何度もやったことのあるそのゲームを実際のカードを使ってやっているのを初めて見た。(というか、自分の人生の中でいまだにその人たちだけしか見たことない。)ただ、トランプの一人遊びって色々有ったけど思い出せないなぁ。。。

前方に据えられた大型のモニター画面には飛び立った空港(日本・東京)の現地時間と到着する空港(香港)の現時間、いわゆる時差が表示され、高度がフィートとメートルで表記された。たまに窓を開けて雲海や下の地表やら海面を見たのだが、大半は雲海に覆われていて下の海面もしくは陸地と思しき(おぼしき)ものを見れたのはわずかだった。

もうすぐ台北に着くというアナウンスと共に、ベルトを再度締めて着陸を待った。一斉にどの窓もシールドが上げられ、みんなが窓から景色を見始めた。
この時には下にある街や車がよく見えた。

自分自身が上空から降下してくる大きな物体の中にいて、眼窩の人達から見上げられるあの飛行機に乗っているのだと思いもするが、下の世界では飛行機を無視して営みを続けているように感じられた。当然のことだと思う。誰しもが通り行く電車に手を振る子供のようにあるわけもなく、また墜落までもを考えていたり、空港の周りをビクビクしながら生活しているわけがなかった。1日に数機しか到着しないわけではないのだ。相手は国際空港なのである。


いわゆる自意識過剰というものにも近い感覚だったのだろう。
一人旅は、いつまでも脳内の自分との会話、いわゆる壮大な独り言の中にあるのだとの感覚が芽生えていった。


~つづく~
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おふくろ特有の言葉

2011-05-11 00:17:51 | 懐かしい思い出
うちのおふくろは少し変わっています。

少しどころではないという説もありますが、まぁ変わっています。

今年のGWに、うちの息子が言うことを聞かないのでといきなり唄いだします。

「やーい、やーい、爪なしやーい、爪なし猫ののろま猫」♪

差別用語満載のような気もしますが、これがおふくろの同僚の先生が小学1年生を受け持つと必ずやった演劇のお話に出てくる歌なんだそうです。それをいきなり孫に向かって歌いだしました。

うちの家族が気に入り、「やーい、やーい爪なしやーい」と笑いながら歌い合っていました。要はまだ赤ちゃんなのねと揶揄する歌な訳です。その先生はどうも今年ののろま猫候補はどの子だい!という感じの教育をしていたらしいです。


おふくろは昔から少し独特な言い回しを持っていて、
ドアをピシッと閉めないと、「間抜けの三寸!」と叱られたり、
シャツの裾が出ていたりすると、よく「ずつなし!」と叱られることもありました。
今思えば「ずつなし」とは「頭痛なし」、おそらく何も考えていない人と揶揄していたのだと思います。

最近ではどうも家族がのろのろと食卓に集まってくるのが嫌みたいですね。

先に集まってきた人に、まだ来ない人を呼びに行かせるのです。「お父さん呼んで来て!、おじいちゃんも呼んで来て!」と孫に指示しています。


実家もそこまで広い訳でもなく十分声も届いているんですけどね。。。
男どもはいつもちんたらちんたらしているのが憎らしいようです。

台所にマイク、各部屋にスピーカーという放送システムでも入れればストレスが解消するかしら?
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伯母逝去

2011-05-02 00:11:06 | 懐かしい思い出
4月25日、銚子に住む伯母が亡くなった。その訃報を翌26日に聞いた。
27日に通夜、28日に告別式が開かれるということで、私は、車で銚子に向かった。
銚子に自分自身で運転する車で向かうのは初めてのことだった。バイクでもなかった。

電車では何遍か遊びに行かさせてもらったことがあったのだが・・・。昔はその伯母から「青春18切符とかでmacが来てくれた」と可笑しくも嬉しくも思われていたことを思い出した。

斎場に着くと、家族は伯母さんを祀っている、以前何度も泊めてもらった家にいるというので、従兄の義姉さんと従兄甥に家まで連れて行ってもらった。

そこには私の血縁の親族が沢山来ていた。
従兄姉達は、なんとか母方の親戚の馴染みのある小田原式での葬儀をと心がけてくれたようで、火葬を待ってくれたのだと聞かされた。

懸命に命を繋いだ伯母とそれを支えた従兄姉達の思いが伝わる風景だった。

メキシコから伯母も来ていた。メキシコの伯父が検査でちょうど日本に来ていたからだという。伯母と会ったのは何十年ぶりだか分からないくらいで、私はその綺麗な人がメキシコの伯母さんだと初め気付けなかった。

忌中払いを先に済ませるように食事を3時過ぎにとって通夜を迎えるのが銚子式だ。通夜では私の母が遺族席に座るのを拒んだために(居眠りしちゃうから)私が遺族席に座ることとなった。

通夜の晩は、男の親族で集まり、様々な話になった。私にはまるで分からない囲碁の話で盛り上がり、囲碁の先手(黒)の優位性とそのハンデの在り方について何度も私見が交わされることとなった。そのまま各ゲーム(将棋や野球)における先攻と後攻の優位性の話、ギャンブルの話に、商売の話、それに思い出話に花が咲いた。従兄がお酒を差し入れてくれ、従兄姉の息子達が途中で日本酒を買い足しに行ってくれた。

斎場に用意された宿泊施設に泊まった女性の親族もそれはそれで色々なお話になったことであろう。

翌朝、従弟妹達がまた多く駆けつけて来た。


そして、通夜でも告別式でも焼香をあげにくる人達へ、従兄姉達が駆け寄り声をかけていく様に、様々な想いが募る。
私にとっての伯母は、父の兄弟にとっては姉であり、従弟妹達にとっては伯母であり、叔母でもあり、一昨年亡くなった伯母から見たら妹であり、孫にとってはおばあちゃんでもあり、教職に就いていたので○○先生でもあり、近所の人にとっては○○さんでもあり、先代の社長夫人でもあり、先代(伯父さん)の奥さんでもあり、お姑さんでもあり、従兄姉の友達にとっては○○くん(ちゃん)ちのおばさんでもあり、銚子の従兄姉達にとっては母親でもおかあちゃんでもお母さんでも母でもおふくろでもあったわけだ。


2年前に小田原の伯母が亡くなり、今回銚子の伯母が亡くなった。(私は当時閉じていてブログを更新していなかった)。
その挨拶に際して時折崩れそうになる従兄(あに)達を見て、幸いにして私にはまだその・・・親を失うという経験はないのだということに都度気付かされた。


自分自身を間近で生まれた時から今までを知る人、ある時期には悪態もつければ、文句も云える、聞き分けのない私に対するいちいちの忠告に時にはうんざりしながらも多分今の自分にではなくて遠い昔の自分に向かって云っているような錯覚を起こすことがあるけど、そういう一つの標(しるべ)としての親というものを失うことはとても辛いことなのだろう。それは今の自分に想像ができるわけもなく。。。という想いが募った。
私自身が結納の席で、両家の両親に「なるべく長生きをして下さい。そしていつまでも私達の前を歩き続けて私達の行く末を照らしてください。そして時には振返って私達のことをいつまでも見ていてください」と挨拶したことをほんのりと思い出していた。




伯母さん、どうか安らかにお眠り下さい。


そしてどうか皆を遠くの空からいつまでも見守っていて下さい。肉親達を、子供達を、孫達を、血縁者達を、縁のあった多くの人達とその家族の子々孫々に至るまでを。



遠い空に向かって清らかな気持ちで、、、、、合掌・・・
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絶句!さようなら、スーちゃん!

2011-04-22 23:22:38 | 懐かしい思い出
伊藤蘭さんを除いて、キャンディーズではどっちが好みか決定戦を開いたことがあります。
まぁちょうど漫画1・2の三四郎の再現なんですけど・・・・ね。私達もやってましたよ、同じこと。

まぁ伊藤蘭ちゃんを含めちゃうと全員すぐに一致してしまうので、過去の寅次郎かもめ歌の記事

で、どっち?となるんですけど、私は完全にスーちゃん派でした。
センターを務めたことがあるのは、スーちゃんのが先だったと思う。
これ1・2の三四郎の8巻ですけど、三四郎はスーちゃん派だったんですね!やった!

ピンクレディーでは私はケイちゃん派でしたけど。。。。キャンディーズではスーちゃんだったんですよね・・・。


いい歳して何書いてんだか・・・・とか思わんで下さい。


朝、田中好子さん死去のニュースを見かけてビックリしてしまいました。


確か小学校2年生だったような。。。暑中お見舞い申し上げますのキャッチで、見頃食べ頃笑い頃とか放送してて、電線マンとか唄ってた時期で、「あの人は悪魔~♪」とか
ババンババンバンバンとドリフにも出ていたし。。。解散は小学校4年生「微笑返し」でしたっけ?、その後ピンクレディーだったから。。。

山口百恵さんが意外と私とそんなに歳が離れていないような気がしているんですけど、一回り以上も年上だったんですね。。知らなかった。スーちゃん。
黒い雨とかで女優業の方でもすごい!とか思ってたんだけど、癌ですか・・・。

もう少し医学が発達してこういうの、本当に早期発見して治療で完治できないものなんでしょうか。。。


お名残惜しいでございます。冥福をお祈りいたします。。。




合掌
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Fuji Rockの思い出(1999年 第3回 苗場) -番外 女神 編-

2011-04-06 00:01:28 | 懐かしい思い出
いきなし何年前の話を書いてんだ!と思われるでしょうが、なんだか久々に頭をよぎったので、忘れないようにここに書いておきます!

台風の中の富士天神平スキー場(第1回目)、炎天下での豊洲(第2回目)、そして永住することになった苗場(第3回目)。

そこまで全てのFuji Rock Festivalに参加していた。もちろんオーディエンスで。^^v

そして今回はいきなり音楽の話を中心ではない番外編の思い出です。

私達はこの第3回目の苗場、3日間開催されるうちの中日と最終日に駆けつけた。金曜日の夜、業務を終えて集まった参加者でみんなで借りたレンタカーに寝袋だとかテントとかを放り込んで、夜を徹して苗場に向かった。1日目の出演者達を見れなかったので、どうだったんだろう?ああだったんじゃない?とまだ見ぬ初めての会場、苗場を想像しながら関越を走っていった。

2日目のオープニングアクトは東京スカパラダイスオーケストラの猛ダッシュな出だしで鳥肌が立ち、自分は裏のリズムをッホ、ッホ、ッホと乗り乗りで大はしゃぎしまくっていたら、ヒートアップしすぎてしまって、結局ゲロが吐きたくなって・・・(爆)、とうとう後ろの方へと引き下がったのでした。

看病に私に付き添ってくれた友達が一人。夜を徹して車で来たこともあり、眠気と興奮で頭がグチャグチャになっていて、グリーンからホワイト、さらにその先にあったヘヴンというステージまで癒されに向かって二人で呆けて(ほうけて)いた。そして少し眠ったかも。

グリーンまで戻って、後ろの方で清志郎先生の歌声を遠くに聴きながら、「自然ていいなぁ」とまどろんでいたのだが、お互いにもよおして簡易トイレの列に並びに向かったのでした。


まぁもうそこは大層な人だかりになっていて、列がダラッと伸びていて、人が一人出てくる毎に一人がそこに行くということが繰り返されているのだが、列が遅々として進まない感じで続いていた。

まぁまだ私達は余裕があった。列の前の方へ徐々にではあるが移動してきたときである。
青ざめた顔に手をあてがった女性を抱えながら、もう一人の女性が声を出して、みんなに懇願していた。

「この子、大変なんです。どうか先に行かせてあげてください。お願いします。」と列の後ろの方から前にやってきた。

『どうぞ』と入れてあげようと思ったのだが、かなり待っている後ろの方の人が煙たい目で見ていて、そういうわけにも行かない状況になってしまった。
仕方なく介抱している女性が列の最後尾にその女性を立たせて、「大丈夫だから、すぐだから、私が何とかしてみせる」と安心させて、そのトイレの立ち並ぶところにいる係員に掴みかかった。

「てめぇさっきから何ボケッと突っ立って見てやがんだ!ちゃんと制御しろ!仕事しろ!」と怒鳴ったかと思うと、彼女は一番奥のトイレまで走っていき、一つ一つのドアを開けて中を確かめ始めた。実は全部のトイレが人で埋まっていたわけではなかったのだ。

一つ目は閉まっていた、二つ目は開いた!「大丈夫!綺麗です。入ってください!」と先頭の人に向かって叫んだ。
三つ目も開いた。「少し汚れているけど入れないことない。申し訳ないけど次の人、入って!お願い!」と呼びかける。「悪い。ありがとう」と入っていく。四つ目開かない。五つ目開かない。六つ目、また開いた!「ここは駄目。ひどい。係員の人、封鎖して、処理急いで!これじゃ分かりっこない!」七つ目開かない。八つ目、開く!「ここも汚いけど、我慢できる人、先に行ってください。少しでも詰めて欲しいの!お願い!」

そうこうしているうちに、列に並んだみんなが、その子の友達の青ざめた女性を「綺麗なところ、次開いたら入っておいで」と先頭に導いていた。「いいよね?いいよね?」と声を掛けながら一番先頭に導いていく人がいて、みんなで「うん、うん、いいよ、いきなよ」と声をかけ合いながら先頭に連れて行った。

トイレの渋滞を緩和し続けた友達もそれを見て泣き崩れてしまい、「どうもありがとう、どうもありがとう」と感謝して廻っていた。


私はその彼女の行動を今でもとてもよく覚えていて、その彼女のことを心の中で「リーダー」と呼び続けている。


声に出し、すぐさま行動に移せる人物はやはり正しいのだと今でも思っている。


今、リーダー達(彼女達)はどこでどうしているだろうか?
まだサマソニでもフジでもエゾでもなんでもいいから、フェスに参加し続けているだろうか?


そうであってくれたらいいなぁと願っています。
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「4月馬鹿」の思い出

2011-04-03 06:10:50 | 懐かしい思い出
4月1日、エイプリルフール。
嘘を奉る祭典。今年は”なし”だったのかしら?誰も私に嘘など言ってこなかった。

まぁこの日で無邪気に嘘を言い合っていた頃ってのはいつまでだっただろう。。。

この日を嘘をついてもいい日として知ったのは、私は漫画ドラえもんの7巻だったかの「帰ってきたドラえもん」という題の話からだった。

しかも「四月馬鹿」というかなりの直球な直訳でその存在を知った。

私はドラえもんがこの話の前に未来に帰ってしまったことを知らずに読んだ。
4月1日、ジャイアンにドラえもんが帰ってきているという嘘に騙され、「今日は4月馬鹿、嘘をついてもいいのさ」と大笑いされたのび太は押入れに残されていた『困ったときはこれを開けなさい』と書かれていたドラえもん型の箱を開けるのである。(そんな日(エイプリルフールのこと)があるなんて常識として知らなかったのは、、、、自分がまだ小学校3年生くらい?)
そこから出てきたのは、飲み薬「ウソ800」(嘘八百ではなくてウソエイトオーオーと読む)。飲むと、云ったことがその場で全てウソになるという奇天烈な道具。
「いい天気だな」と云うと大雨が降り出すというもの。可笑しかったのだが、いつも一緒に喜び合うドラえもんがそこには居ない。。。。
そこで独り言のように「ドラえもんは帰ってこない。もう二度と会えない。」とつぶやいたことが嘘になり、いきなりドラえもんが部屋にいて、反対言葉で喜び合うのでした。

物語のプロットというか落ちが当時の私にはすんなり入ってこなくて、「うれしくない」と泣き合う二人の意味や「なんで帰ってこれちゃった」のかの真相、全てにポカンとしていたと思います。

それまでに4月1日は嘘をついてもいい日として暮らしたことがないとね。




ある意味、全てが”嘘”であってくれたらと、願わないでもない今日この頃でやんす。
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私にとっての「トイレの神様」 - 伊豆天城湯ヶ島町市山 明徳寺 -

2011-02-12 07:02:34 | 懐かしい思い出
「おんくろだのうんじゃくそはか」

別にべっぴんさんになれるとかそういう逸話はないけど、私にも母方の祖母(おばあちゃん)に教わったトイレの神様のお話がある。

それは、トイレに御札が貼られていたのだ。そこに冒頭のひらがなの呪文のようなものが書かれており、トイレに入ると正面に貼られている、このおっかない絵を見ていた。

「トイレは綺麗にしておくもんだ」

ということは、一種の信仰とも似た形で、私はおばあちゃんからそのことを教わった。

箸の上げ下げや姿勢や前後の挨拶、食事の躾もおばあちゃんや伯父さんから、私は仕込まれた。

伯父さんが退官して伊豆に戻り家を建て直したというので、おばあちゃんのお見舞いに行くと、新しい洋式になったその家のトイレにも同じように御札は貼られていた。
当時私はまだ独身で、その御札を再発見して、明徳寺というお寺を再認識した。

「そうそう、この御札だよ!昔からお手洗いにはこの御札が貼られていたんだ。このトイレの神様!」

明徳寺にはどうやっていくのかと訊ねたら、「修善寺からバス」で行けるとのことだった。そこで訪ねてお札を購入。一人暮らしをしていた家のトイレに貼った。貼ったものの、家もトイレも汚いままだったのが少し恥ずかしかった。


それから時が経ち、家内と結婚してからも、明徳寺には車で訪れたことがある。

今でもその御札は現在の住処のトイレに貼られている。



去年の春先、NACK5を聴いていたら、植村花菜の「トイレの神様」がパワープレイ(チョコチョコかかる)になり、番組内でもほぼフルでかかったのを何度か聴いた。聴く度に、海の見える西伊豆のおばあちゃんの家のことを思い出す。


今度は息子も連れて明徳寺を再訪してみたいと思っている。


トイレの神様/植村花菜
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タイガーマスクに成りたかった!

2011-01-12 00:59:13 | 懐かしい思い出
すいません、このタイトル。。。
随分前(去年の夏ごろ)にタイトルだけ書いて沈めておく記事増殖活動の一環で生まれたものです。

で、時事ネタになったのでそっと出してみました。


私がその夏の当時に書こうとしたのは、あくまでもプロレスの話、、、、でした。

新日本プロレス全盛期に小学校高学年だった私は、3年B組金八先生ではなくて、金曜日夜8時はテレビ朝日の方でした。


まぁ云うまでもなく、見たかったのは猪木・藤波・タイガーマスク。

中でもタイガーマスク対ダイナマイト・キッド戦は大好きでございました。

クラスでも放送翌日から試合の再現を何度も行う日々。ロープに飛ばして交差しあい、マットに横になったり跳び箱になったり、振返りざまにクロスチョップとかを織り交ぜて試合に入っていくところまでの様子を再現したり。
やはり体育館(講堂と呼ばれる場所)でのマットの上はほとんどリングでした。


なーんて話はまぁ横に置いておきましょう!ね!もう。


今回の伊達直人騒動。


原作の漫画をよく知らないですけど、伊達直人は正体を隠してちびっこハウスの出身者としてあそこに出入りしていたので、寄贈していたのはあくまでもタイガーの名だったはずなのでは?ないかと思っています。。。。
当時のテレビ放送のアニメの記憶がとても曖昧なので、主題歌のレコードは持っていましたが作品の詳細まではある程度までしか覚えていません。
(仮面ライダーにしても、タイガーマスクにしても当時の主題歌のイントロの編曲は素晴しいですよね!)
草薙剛と深田恭子のフードファイトというドラマのコンセプトに、とても似ている匂いを感じました。


話は時事に戻って、伊達直人の名での贈り物(寄付)でいいのであろうか?
やっぱり(きっと)正体を隠した(であろう)伊達直人の名で贈るなよ!と思うようになっています。。。。


実はおふくろの旧姓がタイガーマスクと一緒です。違います、違いますよ、決してタイガーという苗字ではありません!

うちにも贈ってくれよ!ランドセル!ね、タイガー!
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