第15部「原一男の物語」~第4章~
前回までのあらすじ
「最後まで、好きになれないひとでした」(原一男、奥崎謙三を評する)
「私、あの映画は好きじゃないのよ」(井上光晴夫人、『全身小説家』を評する)
…………………………………………
映画を学ぶ学生だったころ―月にいちど、筆者が筋金入りと認める映画小僧を集めて「オールナイトで映画のビデオを観る」という企画をやっていた。
場所は筆者のアパート、テレビのサイズは14インチというのが泣かせるが、それでも回を追うごとに参加者は増え、なかなかの熱気に包まれた。
2年間のあいだに11回催され、すべての企画のテーマを覚えている。
スコセッシ祭り、キューブリック祭り、黒澤祭り、溝口祭り、ニューシネマ祭り、エロス祭り、
ATG祭り、ディレクターズ・カンパニー祭り、自主制作祭り、戦争映画祭りの第一弾と第二弾・・・いかにもな企画だが、企画前・企画後ともに気を重くさせたのは戦争映画祭りだった。
ふたつの祭りで再生した映画は10本。
内訳は『西部戦線異状なし』(30)、『独裁者』(40)、『灰とダイヤモンド』(57)、『肉弾』(68)、『ジョニーは戦場へ行った』(70)、『ディア・ハンター』(78)、『地獄の黙示録』(79)、『フルメタル・ジャケット』(87)、『ゆきゆきて、神軍』(87)、『黒い雨』(89)。
すべてが戦意高揚「系」ではなく、中核に反戦思想のある名画たち。
名画とはいえ連続して鑑賞するのは拷問のようなもので、「なにも、わざわざ・・・」と思わないこともないが、映画作家たちの闘争の軌跡を「浴びる」ことこそ映画学生の本分―と本気で信じていたようなところがあった。
鑑賞後、皆のこころを最も揺さぶり、どんよりさせたのは「ジョニ戦」こと『ジョニーは戦場へ行った』である。
納得。
名画の多くは観終えたあとに拍手したくなるものだが、この映画を大きな劇場しかも満員の状態で観たとしても、誰ひとりとして拍手は送らないだろうし、ことばも発しないと思う。
絶句。
絶句こそ相応しい評価のような気がする。
逆に、戦争を扱った映画であるにも関わらず、あまりにもほかの戦争映画と感触がちがう、もっとはっきりいえば、皆が「面白い!」と思ってしまったのが『ゆきゆきて、神軍』だった。
これも納得。
この時点で既に『ゆきゆきて、神軍』を観ていたのは筆者のみ。
ほかの作品は皆の投票で決めたが、この作品だけは筆者の「ごり押し」で上映作品に組み込んだのである。
上映後、まるで自分が監督したように「どうよ、これ?」と迫る。
「・・・すげぇな。ムチャクチャ、面白い」とAがポツリというと、皆が同意した。
…………………………………………
そう、『ゆきゆきて、神軍』はめっぽう面白い。
「神軍平等兵」を自称し、天皇の戦争責任を追及、かつての上官に対して暴力を振るってでも真実を突き止めようとする過激なオッサン、奥崎謙三が主人公のドキュメンタリーである。面白いという感想は不適切なはずなのに、出てくることばは「面白い!」以外にない。
だが観ているほうは面白いと思っても、カメラを回す原は「ちっとも面白がれなかった」という。
混乱をきたす撮影現場―というと、コッポラが狂気の狭間を彷徨う『地獄の黙示録』を想起する。
マーロン・ブランドに「痩せてこい」というと、逆に「より」太ってやってきた・・・などなど、騒動の発端は主演者VS監督にあったわけだが、『ゆきゆきて、神軍』もそれにちかいようなところがあった。
奥崎は自分を格好よく映せと原に命令する。映画を創っているのは俺(奥崎)であって、お前(原)はサポートに過ぎないのだと。
それを象徴するのが、元上官に殴りかかった奥崎が逆に羽交い絞めにされる場面である。
奥崎は「止めろ!」というが、これは喧嘩を止めろという意味ではなくカメラを止めろという意味で、なぜなら、そのあとに続くことばが「俺がやられているじゃないか!」なのだから。
取り締まるはずの警官も奥崎のことを「先生、、、」といって持ち上げる。
怒らせると厄介な騒動になるからと、へりくだってみせているのだ。
この映画のなかで奥崎に一目置かれているのは、妻シズミのみ。
そんな奥崎を原が好きになれるはずもない、しかし原がすごいのはそれでも撮影の主導権を死守したところ。
そう、この映画は原と奥崎の戦い、その距離感によってゾクゾクする面白さを獲得している。
これほど過激なオッサンであれば、誰が回しても面白い絵が撮れるだろうって?
勘違いされ易いが、それはないと思う。
デタラメな距離感であれば、スリリングな場面も生まれなかったはずだから。
なにを映してなにを映さないのかは、自分が決める―元上官を殺す計画を打ち明けられ、それを撮れと命じられた原は、それを断った。だから映画には元上官の息子を撃った場面は出てこない。
撮っていればスクープにはちがいないが、ある一線を越えたとして映画は陽の目を見なかったのではないか。
撮らなかったことによって、映画は映画としての面白さに溢れることになった。
そうしてこの距離感のまま、原はホラ吹き作家に迫ろうと次回作を企画していくことになる。
…………………………………………
筆者が新聞奨学生として調布駅前を担当していたころ、調布駅南口の東山病院に作家・井上光晴が入院していた。
そんな井上の日常を原が捉えていたことを知るのは、『全身小説家』(89…トップ画像)が発表されたあとだった。
知っていれば原のドキュメンタリー術を見学しにいっただろうが、後日、調布に住む井上夫人に「あの映画、感動しましたよ」と伝えると、夫人は苦笑しながら「私、あの映画は好きじゃないのよ」と発したのである。
暴力的なまでの肉迫は、面白さを生むいっぽうで、関係者を傷つけてもいるのだろう。
原はもちろん、そのことに自覚的なのだった。
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※『またの日の知華』予告編
原が、初めて劇映画に挑んだ作品
つづく。
次回は、4月上旬を予定。
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本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『10年のゴミ溜め』
前回までのあらすじ
「最後まで、好きになれないひとでした」(原一男、奥崎謙三を評する)
「私、あの映画は好きじゃないのよ」(井上光晴夫人、『全身小説家』を評する)
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映画を学ぶ学生だったころ―月にいちど、筆者が筋金入りと認める映画小僧を集めて「オールナイトで映画のビデオを観る」という企画をやっていた。
場所は筆者のアパート、テレビのサイズは14インチというのが泣かせるが、それでも回を追うごとに参加者は増え、なかなかの熱気に包まれた。
2年間のあいだに11回催され、すべての企画のテーマを覚えている。
スコセッシ祭り、キューブリック祭り、黒澤祭り、溝口祭り、ニューシネマ祭り、エロス祭り、
ATG祭り、ディレクターズ・カンパニー祭り、自主制作祭り、戦争映画祭りの第一弾と第二弾・・・いかにもな企画だが、企画前・企画後ともに気を重くさせたのは戦争映画祭りだった。
ふたつの祭りで再生した映画は10本。
内訳は『西部戦線異状なし』(30)、『独裁者』(40)、『灰とダイヤモンド』(57)、『肉弾』(68)、『ジョニーは戦場へ行った』(70)、『ディア・ハンター』(78)、『地獄の黙示録』(79)、『フルメタル・ジャケット』(87)、『ゆきゆきて、神軍』(87)、『黒い雨』(89)。
すべてが戦意高揚「系」ではなく、中核に反戦思想のある名画たち。
名画とはいえ連続して鑑賞するのは拷問のようなもので、「なにも、わざわざ・・・」と思わないこともないが、映画作家たちの闘争の軌跡を「浴びる」ことこそ映画学生の本分―と本気で信じていたようなところがあった。
鑑賞後、皆のこころを最も揺さぶり、どんよりさせたのは「ジョニ戦」こと『ジョニーは戦場へ行った』である。
納得。
名画の多くは観終えたあとに拍手したくなるものだが、この映画を大きな劇場しかも満員の状態で観たとしても、誰ひとりとして拍手は送らないだろうし、ことばも発しないと思う。
絶句。
絶句こそ相応しい評価のような気がする。
逆に、戦争を扱った映画であるにも関わらず、あまりにもほかの戦争映画と感触がちがう、もっとはっきりいえば、皆が「面白い!」と思ってしまったのが『ゆきゆきて、神軍』だった。
これも納得。
この時点で既に『ゆきゆきて、神軍』を観ていたのは筆者のみ。
ほかの作品は皆の投票で決めたが、この作品だけは筆者の「ごり押し」で上映作品に組み込んだのである。
上映後、まるで自分が監督したように「どうよ、これ?」と迫る。
「・・・すげぇな。ムチャクチャ、面白い」とAがポツリというと、皆が同意した。
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そう、『ゆきゆきて、神軍』はめっぽう面白い。
「神軍平等兵」を自称し、天皇の戦争責任を追及、かつての上官に対して暴力を振るってでも真実を突き止めようとする過激なオッサン、奥崎謙三が主人公のドキュメンタリーである。面白いという感想は不適切なはずなのに、出てくることばは「面白い!」以外にない。
だが観ているほうは面白いと思っても、カメラを回す原は「ちっとも面白がれなかった」という。
混乱をきたす撮影現場―というと、コッポラが狂気の狭間を彷徨う『地獄の黙示録』を想起する。
マーロン・ブランドに「痩せてこい」というと、逆に「より」太ってやってきた・・・などなど、騒動の発端は主演者VS監督にあったわけだが、『ゆきゆきて、神軍』もそれにちかいようなところがあった。
奥崎は自分を格好よく映せと原に命令する。映画を創っているのは俺(奥崎)であって、お前(原)はサポートに過ぎないのだと。
それを象徴するのが、元上官に殴りかかった奥崎が逆に羽交い絞めにされる場面である。
奥崎は「止めろ!」というが、これは喧嘩を止めろという意味ではなくカメラを止めろという意味で、なぜなら、そのあとに続くことばが「俺がやられているじゃないか!」なのだから。
取り締まるはずの警官も奥崎のことを「先生、、、」といって持ち上げる。
怒らせると厄介な騒動になるからと、へりくだってみせているのだ。
この映画のなかで奥崎に一目置かれているのは、妻シズミのみ。
そんな奥崎を原が好きになれるはずもない、しかし原がすごいのはそれでも撮影の主導権を死守したところ。
そう、この映画は原と奥崎の戦い、その距離感によってゾクゾクする面白さを獲得している。
これほど過激なオッサンであれば、誰が回しても面白い絵が撮れるだろうって?
勘違いされ易いが、それはないと思う。
デタラメな距離感であれば、スリリングな場面も生まれなかったはずだから。
なにを映してなにを映さないのかは、自分が決める―元上官を殺す計画を打ち明けられ、それを撮れと命じられた原は、それを断った。だから映画には元上官の息子を撃った場面は出てこない。
撮っていればスクープにはちがいないが、ある一線を越えたとして映画は陽の目を見なかったのではないか。
撮らなかったことによって、映画は映画としての面白さに溢れることになった。
そうしてこの距離感のまま、原はホラ吹き作家に迫ろうと次回作を企画していくことになる。
…………………………………………
筆者が新聞奨学生として調布駅前を担当していたころ、調布駅南口の東山病院に作家・井上光晴が入院していた。
そんな井上の日常を原が捉えていたことを知るのは、『全身小説家』(89…トップ画像)が発表されたあとだった。
知っていれば原のドキュメンタリー術を見学しにいっただろうが、後日、調布に住む井上夫人に「あの映画、感動しましたよ」と伝えると、夫人は苦笑しながら「私、あの映画は好きじゃないのよ」と発したのである。
暴力的なまでの肉迫は、面白さを生むいっぽうで、関係者を傷つけてもいるのだろう。
原はもちろん、そのことに自覚的なのだった。
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※『またの日の知華』予告編
原が、初めて劇映画に挑んだ作品
つづく。
次回は、4月上旬を予定。
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本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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明日のコラムは・・・
『10年のゴミ溜め』