今年もいやされてきました。っていうか、洋子さんの絵と文章を読むと、自分が恥ずかしくなります。そしてその恥ずかしさが、心地いいんです。
手書きの文字にも、しっかり心がこもっています。私の書き文字は、だめだなあ。
忙しくしすぎてるって、反省させられます。でも今はやれるだけやるしかないの。そんな中、この詩に出会えて幸せです。長いから一部分にしたかったけど、やはりこの文章一文字も落としてはいけない。と思い、全文です。
去年おととしも、書かせていただいています。よかったら、読んでください。
カカワルということ
「自分探し」……いつ誰が言い始めた言葉なのか。
それは人生を生きる上で揺るぎない方向性のように思えた。
カッコ良かった。
いつか自分が見つかるかもしれないと思った。
そのうち偉い人の(誰だったか忘れた)「人間それ自体は存在しない。誰かとの関係があるだけだ」という考えを知った。
そうか。あるか無いかわからない「自分」なんて探すより、誰かと何かと芯から関わろうとすること、それだけが大切なんだ。
歴史の本に出てくる偉人も
ただのオバサンである私も、皆、
コレガワタシノ「セカイトノ カカワリカタ」と意図しなくても示している。
けれども、示そうとして関わってはいけない気がする。
「示そう」として結果を目標にし、
良く思われたいとか、誉められたいとか、
歴史に名を残そうとか思えば、必ず横道にそれる。
いい絵(結果)を描きたいと思うことでさえ、「カカワリカタ」が甘くなる邪(よこしま)になる。
だいじなのは、カカワルコトそれ自体だ。
時に対象は私からなんて遠くにあるんだろうと感じる。それでも「すみませんが、ちょこっと話っtこ聞かせてください」と、わずかに近づいていける時が嬉しい。
「ワタシ」はとても頼りなく不確かだが、
「カカワル」ことによってのみ、
ぼんやりと
小さく
しかし大きな喜びをともなって、
かろうじて「在る」。 伊藤洋子
貼られているものを、書き写してきたのですが、ワタシの文字が汚くって、読みづらくて、もしかしたら、どこか間違ってるかも(洋子さん、もし、これを見て違っていたら、教えてください)
もし、秋田日赤に足を運ぶことができる方は、ぜひぜひお出かけください。19日正午までです。