私には、
忘れられない男がいる。
おはようございます。
名前はちょっと忘れてしまったが、
歳は私より、たしか2歳上で、いや4歳上?・・・違う、3歳上か?
とにかく、笑顔が優しい男だった。
当時、私は田舎から都会へ嫁いだ幼な妻で、
右も左も分からないまま、姑の申し付けに奮闘していた。
義両親との同居は、結婚が決まって随分経ってから聞かされた。
突然、6人で暮らす家の家事をすべて担う事になった。
そんなはずじゃ、なかった。
描いていた甘い新婚生活とは程遠く、
夫は結婚前から付き合っていた女性と別れてもいなかった。
そんなこと、知らなかった。
自営業だった嫁ぎ先での私の業務には、1円も給料が支払われなかった。
そこは、今からでも、請求したい!
ばーかばーかばーか!!
友人や家族から
「おかっぱは、1年待たずに出戻ってくる」と言われていたが、
私は、そこで13年暮らすこととなったのだが、
そのうちの3年間は、ある男の支えがあったからと言っても過言ではない。
都会に嫁いだ当初、ふっくらしていた私は、
みるみるやせ細り、それを見かねて声を掛けてきたのが、その男だった。
仕事上での取引先の社員だ。
仕事上の話の合間に、私をそれとなく気遣ってくれ、
私がやるべき業務を、彼は他の取引先を回りながら請け負ってくれた。
決して楽な作業ではなかったが、彼は3年間、
私の代わりに、こっそりとやり続けていた。
私には、自由と呼べる時間はほとんどなく、
しかし、犬の散歩は、その中での唯一の楽しみだった。
夕方に、決まった時間に決まった道を歩く。
毎日、歩く速度に細心の注意を払いながら歩き続ける。
私にも犬にも、自由気ままに歩く事は許さず、
ただひたすら、目的地へと決められた速度で歩いてくと、
そこには、停車している営業車が1台見える。
その横に、男がタバコを手に持って立っている。
1分でも遅れてしまうと、男はその場を去らなければならない。
あくまでも、タバコを吸うために車を停車させ、
車外で吸う時間でなければならないないからだ。
私と犬は、そこへ、あくまでも奇跡的に偶然に出くわすために、
決まった時間に決まった道を決まった速度で歩くのだ。
「今日も、偶然でしたね」
「はい、無事に偶然でしたね」
その程度の言葉を交わしながら、男は喜ぶ犬を撫ぜ続ける。
それだけの時間のために、私は生きていた。
気付けば3年ほど経っていた、ある日、
男は、犬を撫ぜながら真剣な顔で私を見上げた。
笑顔しか見たことが無かった気がして、
真剣な男が、まるで別人のように見えて声を出せずにいると、
男は、静かに言った。
「明日のこの時刻、ここで待っています。
勇気を出して、あの家を出ませんか?
貴女は、出てくるだけいい。あとは、僕が責任を持ちます。」
私は、頷いて男とすれ違った。
行ける訳がない。
それでも、私は思わず頷いてしまった。
男には、病気の母親と、まだ学生の弟がいた。
懸命に働いて、家族の支えになっていた男が、
取引先の人妻と駆け落ちなどさせられる訳がないのだ。
「明日、私は彼を裏切る」
そう決めたはずが、長い夜の間に、私は何度も、
触れたこともない男の手の感触を夢見ていた。
そうして気づけば、朝になっていた。
「私は、彼を・・・」
心の迷いのせいで続きが言えぬまま、
私はおもむろに鏡を見た。
そこに映っていたのは、酷く顔が曲がった、醜い女の姿だった。
あの日、私は顔面神経麻痺という病に罹ったという訳だ。
訳を言う間もなく、そのまま緊急入院となり、
私は、やはり、彼を裏切る事となった。
それでよかったのだ。
ってね、我が家には、うっかり忘れそうな男がいたっけな。
おい、おたま!
なんて、顔だ!
秋のあれか?
お前は、秋のあれのせいで、うな垂れてんのか?
おたま「秋はセンチメンタルになるんだぞ」
そうだな。
お前に、秋を感じる、そういう感覚があるとは思えんけどな!