うめと愉快な仲間達

うめから始まった、我が家の猫模様。
犬好きな私は、チワワの夢を見ながら、
今日も癖が強めの猫達に振り回される。

久しぶりに、あやキャンペーン

2021年07月07日 | あやの事

今日は、七夕であり・・・

あやの日イブだ。

 

おはようございます。

あやとは、9年前の7/8に出会ったから、

7/8は私にとっては、あやの日なのだ。

七夕の夜に、天の川に落っこちてしまった織姫みたいに、

7/8の朝、川の縁にど根性でへばり付いていたのが、あやだ。

 

七夕というと、私は夜のイメージを持っているが、

あやは、月夜に頼りなく煌めく星ではなく、

影をも焼き尽くす直射日光のような猫だ。

我が家のギラギラ太陽だ。

メラメラでもいいし、ギンギンでもガンガンでもいいが、

とにかく、あやは、そんな猫だ。

 

私達が夕飯を食べ始めると、あやにとっては『遊び』の合図だ。

ご飯を食べているのだから、遊ぶわけがない。

しかし、あやにとって、我々の夕飯時間は、準備運動の時間なのだ。

慣らし運転を始める。

背後で、小ぶりの乳牛が荒ぶっているようかのようにドスドスと走り回る。

それは、我々を急かすためでもある慣らし運転なのだ。

そんな時、私もおじさんも、決してあやの方を見ない。

万が一、荒ぶるあやと目が合ってしまったら、厄介な事になる。

「あっ、気付いた?」という具合に、あやがスキップでやって来て、

「遊んで~遊んでよ~」と叫びながら背中を揺さぶり続けるからだ。

そんな時でも、我々はノーリアクションだ。

気付かないはずはない。

気付きたくなくても、気付かないはずなどないし、

だからといって、慣れるということもない。耐えるのだ。

我々は、ひたすら俯き加減で無言のまま粛々と、食事を続ける。

夕飯の団欒は、9年前の7/8を機に、あやに奪われたのだ。

 

しかし、あやという猫は、

遊びたい一心で、私の背中を揺さぶる時でさえ、決して爪を立てない。

立てもしない爪を切る時は、一切の抵抗をしない。

暴れん坊なようで、警察犬に負けぬ従順さも持っている。

「あや!」と呼べば、ピッと飛んでくる。

「ここ!」と指を指すポイントに、やっぱり警察犬ばりのお座りをする。

 

だから、食事中に走り回るあやだって、

本当は「あや!」と呼べは、ピッと来てお座りできるし、

背中を揺さぶられた時は、捕まえて抱っこすれば、じっと我慢をして抱かれる。

あやは、そういう猫だ。

だけど、私はそれはしない。

あやに我慢をさせたくないからと言えば美談だが、そうではなく、

あやの我慢は、1分しかもたないからだ。

それでは、警察犬ごっこという、一種の遊びになってしまう。

あやの思惑通りになるという訳だ。

 

そんな、1分しか我慢をしない、あやは、

病気になった猫には、一日中でも付き添う。

何日も何日も、時には死にゆくまで、

あやは穏やかな春の太陽のように、弱った猫を照らす。

あやとは、そういう猫だ。

我が家の太陽なのだ。

 

うんこの体調不良の時も、あやはずっと寄り添っていたっけな。

いつもなら、ここで「不意打ちパーンチ」して

高笑いしながら走り去るのに、この時ばかりはしない。

 

うめの闘病にも、あやはずっと付き添ったし、

よねの時も、きくの時もだ。

 

そのくせ・・・

元気なオスには

 

あや「こいつ、鬱陶しいーーーー!」

地獄の底を這うような声で、唸るんだもんな。

あやは、恐ろしい太陽なんだ。