今日は、七夕であり・・・
あやの日イブだ。
おはようございます。
あやとは、9年前の7/8に出会ったから、
7/8は私にとっては、あやの日なのだ。
七夕の夜に、天の川に落っこちてしまった織姫みたいに、
7/8の朝、川の縁にど根性でへばり付いていたのが、あやだ。
七夕というと、私は夜のイメージを持っているが、
あやは、月夜に頼りなく煌めく星ではなく、
影をも焼き尽くす直射日光のような猫だ。
我が家のギラギラ太陽だ。
メラメラでもいいし、ギンギンでもガンガンでもいいが、
とにかく、あやは、そんな猫だ。
私達が夕飯を食べ始めると、あやにとっては『遊び』の合図だ。
ご飯を食べているのだから、遊ぶわけがない。
しかし、あやにとって、我々の夕飯時間は、準備運動の時間なのだ。
慣らし運転を始める。
背後で、小ぶりの乳牛が荒ぶっているようかのようにドスドスと走り回る。
それは、我々を急かすためでもある慣らし運転なのだ。
そんな時、私もおじさんも、決してあやの方を見ない。
万が一、荒ぶるあやと目が合ってしまったら、厄介な事になる。
「あっ、気付いた?」という具合に、あやがスキップでやって来て、
「遊んで~遊んでよ~」と叫びながら背中を揺さぶり続けるからだ。
そんな時でも、我々はノーリアクションだ。
気付かないはずはない。
気付きたくなくても、気付かないはずなどないし、
だからといって、慣れるということもない。耐えるのだ。
我々は、ひたすら俯き加減で無言のまま粛々と、食事を続ける。
夕飯の団欒は、9年前の7/8を機に、あやに奪われたのだ。
しかし、あやという猫は、
遊びたい一心で、私の背中を揺さぶる時でさえ、決して爪を立てない。
立てもしない爪を切る時は、一切の抵抗をしない。
暴れん坊なようで、警察犬に負けぬ従順さも持っている。
「あや!」と呼べば、ピッと飛んでくる。
「ここ!」と指を指すポイントに、やっぱり警察犬ばりのお座りをする。
だから、食事中に走り回るあやだって、
本当は「あや!」と呼べは、ピッと来てお座りできるし、
背中を揺さぶられた時は、捕まえて抱っこすれば、じっと我慢をして抱かれる。
あやは、そういう猫だ。
だけど、私はそれはしない。
あやに我慢をさせたくないからと言えば美談だが、そうではなく、
あやの我慢は、1分しかもたないからだ。
それでは、警察犬ごっこという、一種の遊びになってしまう。
あやの思惑通りになるという訳だ。
そんな、1分しか我慢をしない、あやは、
病気になった猫には、一日中でも付き添う。
何日も何日も、時には死にゆくまで、
あやは穏やかな春の太陽のように、弱った猫を照らす。
あやとは、そういう猫だ。
我が家の太陽なのだ。
うんこの体調不良の時も、あやはずっと寄り添っていたっけな。
いつもなら、ここで「不意打ちパーンチ」して
高笑いしながら走り去るのに、この時ばかりはしない。
うめの闘病にも、あやはずっと付き添ったし、
よねの時も、きくの時もだ。
そのくせ・・・
元気なオスには
あや「こいつ、鬱陶しいーーーー!」
地獄の底を這うような声で、唸るんだもんな。
あやは、恐ろしい太陽なんだ。