うめと愉快な仲間達

うめから始まった、我が家の猫模様。
犬好きな私は、チワワの夢を見ながら、
今日も癖が強めの猫達に振り回される。

お気に入りは、人それぞれ

2021年12月08日 | カズコさんの事

昨日の午前は、

母の通院に付き添った。

 

おはようございます。

認知症において名医と名高い主治医は、

口頭で簡単な検査をして

「うん、改善してる」と言ったが、

「かずこちゃん、今日は何月だい?」と聞かれて、

母は「10月ですかね」と答えていた。

本当に、ほんとの本当に、改善しているの?

 

本音をいえば、私はそれほど改善して欲しいと願ってはいない。

母が楽しそうなら、それでいいと思っている。

背負って来た重荷があるのなら、じゃんじゃん捨て去って、気楽になって、

それが楽しいと思えるなら、それでいい。

それを楽しいと思えるような暮らしをして欲しい。

私は、そのために、今、母さんと関わっているわけだ。

 

私が実家へ行くと、母さんは毎日、

同じ部屋着を着て、同じサンドウィッチを作っていてくれる。

けれど、お気に入りの部屋着はよく見れば、酷く汚れており、

サンドウィッチも、味が日に日におかしくなっている。

「母さん、そろそろ部屋着、着替えよう。

これは、もう生地がくたびれてるから捨てとくな。」

そう言って、汚れた部屋着を脱がせると、

母さんは

「わし、それ好きなんやけどな。」

と呟いた。

「もっとお洒落なの買ったるで、これは捨てる!」

私は勢いよくそう言って、汚れた部屋着を持って実家を後にした。

もちろん、捨てる気満々だった。

けれど、どうにも母さんのお気に入りの部屋着を捨てる気にならない。

ならばと洗ってみても、やっぱりヨレヨレだ。

けれど、捨てられない。

自分の好きな物を取られるのは、誰だって悲しいことだ。

今更、そんな単純なことに気付いて、捨てられなくなった訳だ。

 

私は、出来る限り、自分の周りの物は減らしたいと思っている。

不器用でずぼらな私は、そんなにたくさんの物の面倒は見きれない。

ましてや、好きな物となると、別れが惜しくなる。

 

5年前、別れたサンヨーのことも、今でも忘れられない。

20年近く共に頑張ってきた掃除機のことだが、

あいつは最後、ぼーぼー火を噴いて散った。

まるで、最期まで敵に立ち向かう弁慶のようだった。

 

そういえば、包丁は、どこで買ったんだろう?

値段は、薄っすら覚えている。2千円もしない安物だ。

もう30年近い付き合いになるだろうか。

私は、こいつ一本で、全てに立ち向かって来た。

こいつ一本しか持っていない。

リンゴもスイカも豆腐も、時にはカニの甲羅も、こいつと立ち向かって来た。

万が一、こいつが壊れてしまったら、

包丁って、どこで買えばいいのかさえ、私には分からない。

包丁なんて、こいつしか買ったことがないから。

 

好きなものでなくとも、

付き合いが長くなると、別れは惜しくなる。

イマイチだなぁと思いながらでも付き合っていくと、

いつしか、自分の大事なものになっている。

そして、別れが惜しくなる。

 

これから、私はどれ程の母さんの好きな物を

取り上げて行かなければならないのだろう。

いつか、長く続いてるサンドウィッチ作りも

危ないと思ったら、きっと私は取り上げる。

仕方のないことだ。

けれど、別れの儀式は、丁重に行おうと思った。

 

さて、私のもっとも大事なものたちは、何をしてるのかしらん?

ねえ、どうしてカーテンをそうするの?

 

いっつも、そうなってるけど、どうして?やめて!

 

たれ蔵「こうしてるのが、僕のお気に入りなんだよ、母ちゃん」

そっか・・・そっかそっか・・・

じゃ、仕方ねーな!