今日は、
服を着ようと思う。
おはようございます。
今日は久しぶりにスウェットを脱いで、服を着ようと思っている。
ついでに、ちょっと化粧もしておこう。
父と銀行へ行くためだ。
そろそろ本気で、両親名義の財産を整理しておかなければ、
面倒なことになる。
略奪婚の我が両親は、戸籍がなかなか面倒なままになっているせいだ。
今日は、その相談をしに、銀行へ行く。
うちは、決して財産家ではない。
現役時代の父さんの稼ぎを考えれば、
もう少し貯金できたんじゃない?という程度の財産しかない。
その程度の財産のせいで、
将来、頭を悩まされる可能性がバカらしい訳だ。
もちろん、額に私が意見する立場ではない。
好きなだけ遊んで使い切って、満足して死んでいけば、最高じゃないか。
そう思う。
ただ、人間というのは、それで満足しないから面倒なんだ。
好きなことやって、好きなだけ金を使って生きていくと、それに慣れる。
そして、それ以上の満足を求めるようになる。
知らず知らずに、新たな願望は膨らみ続け、
心の余裕を圧迫していく。
自由に生きて来たように思える両親が、窮屈に見えてならないのは、
諦めの境地を見たことがないからではないだろうか。
中途半端に、欲しいものが手に入ってきた弊害かもしれない。
いい人生だ。そりゃいいような気もするが・・・・。
諦めた先にしか訪れない幸福というものがある。
私は、そう考えている。
欲しいものに手を伸ばすか伸ばさないかは別として、
欲しいものが手に入ったからいい、というものではない気がする。
逆に、何も手に入らなくても、人は幸福になれるのだ。
死に物狂いで手を伸ばし、願い苦しみ、怒り泣く意味は、
その先に、清々しいまでの諦めの境地が用意されているからだ。
そこまでたどり着けば、その手は何も持たず軽やかなはずだ。
お手上げ状態の自分にパラパラと拍手しながら、カラカラと笑える境地だ。
そんな時、私はもっとも穏やかな幸福感に包まれる。
願い苦しみ、怒り泣いた長い時が、無駄だったと知る、その瞬間だ。
私は、その瞬間のために、恐る恐る手を伸ばす。
よし、苦しむぞー!っと腹をくくってさ。
そんな1月は
うめさんだ!
有限の時を共に生きた、うめさんだ。
うめが居なくなるなんて、あり得ない。
私は、そう言い続けながら生きたが、
今、この手には、うめの被毛の1本たりもない。
それなのに今は、
「あやが元気じゃなくなる日が来るなんて、あり得ない」と言っている。
私は、まったく懲りていない。
チロ、パンチョ、インコちゃん、ぼく、ちび、
うめ、よね、きく、こしょう、うんこ、
別れた夫、大好きだったアイツ、続けたかった仕事、なりたかった自分、
若さ、笑えなくなった右顔、ぶっ壊れた脳みそ、貸した金、失った信頼、
ああ、数え切れない。
拍手と共に笑ってやろう。
死ぬ気で求めたものだから。
本気で愛したものだから。
さあ、手を挙げて、軽やかに拍手しよう。
自分自身に、喝采を。
こっちは、喝采ではない?
あや「やーいやーい、ざまーみろ~」
あやさん?
次は貴女も、こうなるのよ?
たれ蔵「ぼくは、頑張ります!」
偉い!!