マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

夏の疲れをオーバーホール。  そして  『日本二百五福者殉教者』

2014-09-10 23:59:59 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。
  皆様!
  お元気ですか?
少し秋らしくなったかと思いきや。 又もや夏のぶり返しのような暑さがあったり。 
  季節の変わり目の厳しさに体がついていっていますか? お見舞い申し上げます。

高齢者の私たち夫婦。
「こんな時はこれしかないでしょ。」と夫。  『焼肉屋』

ともかく。夏の疲れを、残すことなく、取りのぞくことが、肝心ですよね。

皆様! 元気に人生を走り続けるために、時々の『総チェック』。 『オーバーホール』。 
      体を大事にいたしましょう!
 私の車も、疲れを残すことなく、走り続けてほしいと、『オーバーホール』。
   部品を取替え、部品を足して、と。『総チェック』。 帰ってきました


今日は9月10日。水曜日。
カトリック教会は 『日本二百五福者殉教者』 の記念日です。
      1597年~1632年にかけて、
キリシタン弾圧の元、棄教を拒んで、殉教して、、『信仰を力強く証しした205人』 の記念日です。

初めての殉教。
1597年2月5日(慶長元年)。  長崎の西坂で、『磔の刑』で 殉教した   
            『二十六聖人』

                                長崎市西坂の日本二十六聖人記念碑
日本で、キリスト教の信仰を理由に、最高権力者の指令による、『初の処刑』です。

改めて。
日本のキリシタン歴史を振り返れば・・・
先日のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』でも・・・
   キリスト信者の『軍師官兵衛』『高山右近』も、秀吉に弾圧されていましたね。

  1587年。 豊臣秀吉による 『バテレン(ポルトガル語で「神父」)追放令』
その語が示すように、宣教師の追放を目的とした、主に布教権の禁止であり、
キリスト教自体への弾圧は、主目的ではなく、キリスト教徒に対する「禁教」政策は 取られなかった。

      『余談 その①』
先日のNHK大河ドラマ:『軍師官兵衛』や『高山右近』は、秀吉に弾圧されていましたね。
    その結果はどうなるか? いかに?  
        高山右近の選択は・・・ いかに? どうなるのでしょう?
                (軍師官兵衛の選択は、大河ドラマの見識はいかに? 楽しみに観てまいりましょう!)
1587年。   バテレン追放令が秀吉によって施行される。
その結果・・・秀吉の側近の黒田孝高が真っ先に棄教する。等。キリシタン大名には苦しい状況となる。
右近は、信仰を守ることと引き換えに、領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。
  その後
右近は、しばらくは、キリスト信者の小西行長1584年に高山右近の後押しでクリスチャンになっていた)に庇護されて、小豆島や肥後などに、隠れ住む。
  そして
翌年。1588年。 加賀金沢城主の、キリスト信者の前田利家に招かれて、同地に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らします。
 (ちなみに・・・今のお金に直すと。1石は年間約35000円×15000石=年間収入:5億2500万円也。 
             前田利家も太っ腹です。 1石=金1両(小判1枚)=現在の約10万円也。15億円也。という説もあります。)
       右近の生涯の続きは、今半の『余談 その②』、をお楽しみに!
   

本題に戻りまして・・・

  『バテレン追放令』 から9年後。
1596年。 豊臣秀吉による再度の 『禁教令』
   宣教師の追放に続いて、キリスト教徒への、強権的な措置 が取られるようになる。

  ここで。
  1597年。 豊臣秀吉によって、26名のキリスト教徒が処刑されました。 『日本二十六聖人』

  豊臣秀吉の命令によって、
京都で活動していたフランシスコ会(一部イエズス会)の教徒たちを捕らえて、
長崎で『磔刑』に処された
       『26人のカトリック信者』

26人は、後にカトリック教会によって、『聖人』の列に加えられ、
         『日本二十六聖人』 と呼ばれることになりました。


  当初は。
   京都のフランシスコ会以外には、弾圧は加えられなかった。
  しかし。
フランシスコ会を始めとする、新参の修道会の活動が目に余ったために、秀吉が弾圧に踏み切った。 という説もある。
古参のイエズス会は、活動の自粛を促していたが、新参の修道会はそれを無視していた。


   そして。
      江戸幕府による『禁教令』

江戸幕府は、キリスト教に対しては、これまでと同様の政策を取り、弾圧と呼べるような政策はとっていなかった。
   
  1602年。 ドミニコ会、アウグスティノ会の宣教師達が来日して、日本に本格的な布教を開始
  1603年。 1596年に秀吉の弾圧を受けたフランシスコ会も、代表ルイス・ソテロが徳川家康や秀忠と面会。 
                             東北地方への布教を開始

    しかし。
 幕府の支配体制に組み込まれることを拒否し、かつ 活動は活発化していったキリスト教に対して、
    幕府は次第に態度を硬化 させていった。
 日本の情勢に詳しかった古参のイエズス会は、秀吉の時代の時と同様に慎重な対応を求めたが、新参の修道会には受け入れられなかった。
    ついに。
    幕府はキリスト教の禁止を行い始める。

  1612年。 『禁教令』 布告。
江戸幕府による、最初の 公式なキリスト教禁止の法令 であった。
  江戸京都駿府を始めとする直轄地に対して
     教会の破壊と布教の禁止。

      家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、
該当した者は、場合によって、『改易処分』に付されるなど、厳しい処置が取られた。
  旗本だった原胤信は、出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。
    キリシタン大名・有馬晴信は、切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した

  1613年。 幕府は 直轄地へ出していた 『禁教令』 を 全国に広げた
        この禁教令によって、長崎と京都にあった教会は破壊される。
  1614年11月。 修道会士や主だったキリスト教徒が マカオやマニラに『国外追放』された。

           『余談 その②』
1614年11月。
徳川家康による、『キリシタン国外追放令』 の発布。
加賀で暮らしていた右近は、発布を知って、人々の引きとめる中、加賀を退去した。
同 12月。 長崎から、家族と共に、追放された内藤如安らと共に、マニラに送られる船に乗り、マニラに到着した。
イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近は、マニラでスペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。
 しかし
翌年。マニラ到着二ヵ月後。 1615年2月4日。
船旅の疲れや慣れない気候のため、老齢の右近はすぐに病を得て、息を引き取った。享年64歳。
葬儀は、総督の指示によって、マニラ全市をあげて、イントラムロスの中にあった聖アンナ教会で、盛大に行われた。
       右近の死後、家族は日本への帰国を許された。
現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に、直系子孫の3つの「高山家」がある。


本題に戻りまして・・・

     公的には、
   キリスト教は禁止になったが・・・
 幕府は、信徒の処刑といった、徹底的は対策は行わなかった。
     また、
 依然として、キリスト教の活動は続いていた。

潜伏して追放を逃れた者もいた(約50名)。 密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。
     幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、
  宣教師は南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためである。

     京都には、
  京都所司代であった板倉勝重は、キリシタンには好意的で、
そのため、半ば黙認される形でキリシタンが多くいた。『デウス町』と呼ばれるキリシタン達が済む区画も残ったままであった。

  もう少し後。
   とうとう。
    幕府による取締りが厳しくなります。
幕府は、キリスト教徒の発見と棄教(強制改宗)を、積極的に推進していくようになる。

  1616年。  秀忠は 『二港制限令』。  続けて
  1619年。  改めて 『禁教令』 発布。
     そして
  同年。1619年10月6日。 『市中引き回し』の上で、京都六条河原で、52名の処刑。 『京都の大殉教』
           52名には、4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いました。

  これは明白な見せしめであったが、当のキリシタンは、殉教として喜んだため、幕府は苛立ちを高めた

  1620年。 日本への潜入を企てていた宣教師2名発見。 『平山常陳事件』
            この一件によって、幕府はキリシタンへの不信感を高め、『大弾圧』 へと踏み切る。

  1622年。 かねてより捕らえていた宣教師ら修道会士と信徒、計55名。 長崎西坂において処刑。 『元和の大殉教』
           これは、慶長の『日本二十六聖人』以来の、宣教師に対する『大量処刑』であった。
     続けて
  1623年。 江戸で55名。 そして
  1624年。 東北で108名、平戸で38名の公開処刑。 『大殉教』

         以上。

      1617年 ~ 1632年
 『日本二百五福者殉教者』 は、江戸時代初期の205人の殉教者たちです。
長崎での殉教者 151人、大村で28人、有馬9人、小倉5人、島原4人、江戸3人、その他 雲仙、田平、壱岐、京都、仙台各1人の『205人』
 国籍は、日本153人、スペイン 24人、ポルトガル 5人、イタリア 5人、メキシコ 3人、オランダ、ベルギーが各1人、豊臣秀吉の朝鮮侵攻で朝鮮半島の出身者が13人。
 司祭13名。 修道者20名。 また  女性が14人。 少なくとも6人は子ども。でした。

         一方で。
これらの大弾圧はいち早くヨーロッパへ伝えられ、布教熱を引き起こしたとも言われる。
         例えば
ドミニコ会の宣教師は、この直後も、日本への潜入や潜伏を試みていた。

     『205人の殉教』後。
   235年の年月が流れた後。
1867年。 教皇ピオ10世によって、『205人』 は、『福者』 となられました。
     そして今日。
世界中のカトリック教会信者は、心を一つにして、その信仰を称えて、『日本二百五福者殉教者』を記念します。

以上。
今日は、日本のキリシタン史の勉強でした。 長々と申し訳ございませんでした  
                        歴史書やウィキメディアの資料を参考にしました

ピンポ~ン
玄関のベル。   「夏ばて回復に、自作作物を持ってきましたよ!」

夕方に。友人でした。                  夏ばて回復。 ばっちりです!

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
まずは夏バテを完全に回復させましょう。 それから スポーツの秋。読書の秋。食欲の秋。旅の秋。 楽しみをはじめましょう!
                                    足跡15902歩 お休みなさいませ。