3月27日。土曜日。快晴。
人生になくてはならないもの。
その① 『iPhone 12 Pro』
『Myスマホ』
小さな 『smart phone』:『賢い電話』が、 沢山の機能を果たしてくれる。
ガラ系携帯電話、ラジカセ、運動用時計、地図、現金、メモ帳、カメラ、等々。
持たなくてすむようになりました。
ところが、悲しいかな、恥ずかしいかな、
スマホ機能Upのための作業・・・私にはできかねるのです。
コロナ禍の中、iPhone店に行くのも、足が鈍る。
精密機器全般のエキスパートの娘、に頼るのが一番近道です。
そんなわけで、今日、娘に『Myスマホ』を送りました。
戻ってくるまでに5日はかかるでしょう。
スマホが無くなって、 タブレット・電話・ラジオ・財布・等、 を持ち出しました。
ハンドバックも、 使わなくなっていた大きめのバッグ、 に変わりました。
『スマホ』の『便利さ』が当たり前になっていて・・・
それが無くなった今日
すべてが無くなる『時』を考えさせられました。
私の人生になくてはならないもの。
その② 『花々』
”人生になくてはならないもの、 どちらか一つだけ!”
といわれれば・・・『スマホ』は諦め、 『花々』を選択する私でしょう。
両者の違いは、
『便利さ』:『今』 と 『愛』:『永遠』
といえるのかもしれない。
当たり前と考えている『便利さ』を無くした今日。
私の人生に、『本当に必要なもの』 は何か? と考えた一日でした。
『本物の人生』を送りたいと哲学した一日でした。
感謝!感謝!
そして。
今日は3月27日。四旬節第五土曜日。
『今日の入祭唱』
『主よ、 あなただけはわたしを遠く離れないでください。
わたしの力の神よ、 今すぐにわたしを助けてください。
わたしは虫けら、 とても人とはいえない。
人間のくず、 民の恥。』
詩編 22章20&7節
『今日の福音 イエスの奇跡への人々の反応』
『そのとき、マリアのところに来て、
イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
しかし、中には、
ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
そこで、
祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集 して言った。
「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。
そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。
「あなたがたは何も分かっていない。
一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、
あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。
その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、 と言ったのである。
国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、
と言ったのである。
この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
それで、
イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、
荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。
多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。
「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」』
ヨハネ福音書 11章45-56節
『ラザロの復活』の『イエスの奇跡』 を見聞きした人々には・・・
数々の反応 があるものです。
イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じました。
ユダヤ人の人々は、『イエスの奇跡』:『ラザロの復活』 を目撃したのです。
死んで葬られて四日経っていたラザロを、イエスが生き返らせたのです。
イエスのなさったことを目撃した人々の中には、
ファリサイ派の人々のもとへ行き、 イエスのなさったことを告げる者もいました。
イエスがラザロを復活させたことをファリサイ派の人々に告げたのです。
それは、悪意があっての行動だったのでしょう。
告げ知らせを聞いた祭司長たちとファリサイ派の人々は、
最高法院を召集してイエスをどうするかを協議したのです。
『この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ』 のです。
最高法院は、イエスを殺そうという結論を出したのです。
最高法院の一人・カヤファは、
『一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む』 と、
『イエスの死:償いの死』 を預言したのです。
イエスをねたんで、 イエスが実力者となりローマ人の反感を買う、 のを恐れる律法学者もいました。
さて・・・
私たちは、これらの中の誰でしょう?
イエスはトマスに言われました。
『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』
ヨハネ福音書 20章29節
私たちも、
『見ないで信じる者のまことの幸い 』
を味わいたいものです。
聖書から『神の言葉』を聞き、
『本物の信仰』
を手に入れたいものですね。
祈り願いましょう。
『今日の祈願』
『キリストは、散らされていた神の子らを一つに集めるために、
死に渡された。』
ヨハネ福音書 11章52節
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
明日は雨のようです。桜が散ってしまいませんように。
明日が穏やかな日曜日でありますように。 お元気で!
人生になくてはならないもの。
その① 『iPhone 12 Pro』
『Myスマホ』
小さな 『smart phone』:『賢い電話』が、 沢山の機能を果たしてくれる。
ガラ系携帯電話、ラジカセ、運動用時計、地図、現金、メモ帳、カメラ、等々。
持たなくてすむようになりました。
ところが、
スマホ機能Upのための作業・・・私にはできかねるのです。
コロナ禍の中、iPhone店に行くのも、足が鈍る。
精密機器全般のエキスパートの娘、に頼るのが一番近道です。
そんなわけで、今日、娘に『Myスマホ』を送りました。
戻ってくるまでに5日はかかるでしょう。
スマホが無くなって、 タブレット・電話・ラジオ・財布・等、 を持ち出しました。
ハンドバックも、 使わなくなっていた大きめのバッグ、 に変わりました。
『スマホ』の『便利さ』が当たり前になっていて・・・
それが無くなった今日
すべてが無くなる『時』を考えさせられました。
私の人生になくてはならないもの。
その② 『花々』
”人生になくてはならないもの、 どちらか一つだけ!”
といわれれば・・・『スマホ』は諦め、 『花々』を選択する私でしょう。
両者の違いは、
『便利さ』:『今』 と 『愛』:『永遠』
といえるのかもしれない。
当たり前と考えている『便利さ』を無くした今日。
私の人生に、『本当に必要なもの』 は何か? と考えた一日でした。
『本物の人生』を送りたいと哲学した一日でした。
感謝!感謝!
そして。
今日は3月27日。四旬節第五土曜日。
『今日の入祭唱』
『主よ、 あなただけはわたしを遠く離れないでください。
わたしの力の神よ、 今すぐにわたしを助けてください。
わたしは虫けら、 とても人とはいえない。
人間のくず、 民の恥。』
詩編 22章20&7節
『今日の福音 イエスの奇跡への人々の反応』
『そのとき、マリアのところに来て、
イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
しかし、中には、
ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
そこで、
祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集 して言った。
「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。
そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。
「あなたがたは何も分かっていない。
一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、
あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。
その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、 と言ったのである。
国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、
と言ったのである。
この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
それで、
イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、
荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。
多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。
「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」』
ヨハネ福音書 11章45-56節
『ラザロの復活』の『イエスの奇跡』 を見聞きした人々には・・・
数々の反応 があるものです。
イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じました。
ユダヤ人の人々は、『イエスの奇跡』:『ラザロの復活』 を目撃したのです。
死んで葬られて四日経っていたラザロを、イエスが生き返らせたのです。
イエスのなさったことを目撃した人々の中には、
ファリサイ派の人々のもとへ行き、 イエスのなさったことを告げる者もいました。
イエスがラザロを復活させたことをファリサイ派の人々に告げたのです。
それは、悪意があっての行動だったのでしょう。
告げ知らせを聞いた祭司長たちとファリサイ派の人々は、
最高法院を召集してイエスをどうするかを協議したのです。
『この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ』 のです。
最高法院は、イエスを殺そうという結論を出したのです。
最高法院の一人・カヤファは、
『一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む』 と、
『イエスの死:償いの死』 を預言したのです。
イエスをねたんで、 イエスが実力者となりローマ人の反感を買う、 のを恐れる律法学者もいました。
さて・・・
私たちは、これらの中の誰でしょう?
イエスはトマスに言われました。
『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』
ヨハネ福音書 20章29節
私たちも、
『見ないで信じる者のまことの幸い 』
を味わいたいものです。
聖書から『神の言葉』を聞き、
『本物の信仰』
を手に入れたいものですね。
祈り願いましょう。
『今日の祈願』
『キリストは、散らされていた神の子らを一つに集めるために、
死に渡された。』
ヨハネ福音書 11章52節
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
明日は雨のようです。桜が散ってしまいませんように。
明日が穏やかな日曜日でありますように。 お元気で!