マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

聖週間:受難の水曜日・・・『ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。』 そして 『生まれなかった方が、その者のためによかった。』

2020-04-08 14:43:06 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。

4月8日。水曜日。快晴。『聖週間4日目』


          『受難の水曜日』

思い返せば。
三日前。


『主の御受難』前の『受難の月曜日』・・・  
         
     イエス様は・・・   『仲間と食事会』  でした。

     

 その食事会の席で。

   マリアは・・・
    純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、
 

 
     イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。
     家は、香油の香りでいっぱいになったりしました。

そんな食事会の時間中。

    十二人の一人で、イスカリオテのユダは・・・
         祭司長たちのところへ行き、
    
    悪魔がすでにユダに取り憑いています。

    あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」
                         と言った。
     そこで、
        彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。

その時から、
 

  ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。のです。
                                    以上。マタイ福音書26章14-16節


ここで。

三日前・月曜日の振り返りを終えまして。
それから三日後の今日です。

           『受難の水曜日』

     イエス様は・・・  『弟子たちと最後の晩餐』 です。

                                      レオナルド・ダ・ヴィンチ 作品

           『最後の晩餐』
       イエス様と12使徒による最後の晩餐です。

 

 今日も。 『最後の晩餐』 で様々の 『人間模様』 が現れます。
        
     今日も、”私は食事中の誰なのだろうか?” と考えながら・・・
          『福音』 をご一緒いたしましょう。
            よろしくお願いいたします。


『今日の入祭唱』

       『イエスの名に対して、
    天にあるもの、地にあるもの、すべてのものはひざをかがめる。
 キリストは、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従う者となられた。
    それゆえ神は、キリストを高くあげてとされた。』


   
『今日の福音 イエスの御言葉

 『そのとき、
十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、
    
   「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。

     そこで、彼ら銀貨三十枚を支払うことにした。
 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。


除酵祭の第一日に、

     弟子たちがイエスのところに来て、
  「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」 と言った。

イエスは言われた。
     「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。
 『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」
                    と言っています。』」


   弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、

  
   『イエスの最後の晩餐の部屋 イエスの死後の聖霊降臨の部屋』

     私も巡礼仲間と共に、最後の晩餐の時に感謝しながら、
          『祈り』 を捧げました。

     
                    2018年イスラエル巡礼時に
     

       過越の食事を準備した。

 

   夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
  

  一同が食事をしているとき、イエスは言われた。
       
        「はっきり言っておくが、
   あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」


弟子たちは非常に心を痛めて、

 
                          『金袋を握るユダ』
  
  「主よ、まさかわたしのことでは」 と代わる代わる言い始めた。


イエスはお答えになった。
   「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
   
                      『鉢に食べ物を浸すユダ』


     人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。

       だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。
    生まれなかった方が、その者のためによかった。」


イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、
        「先生、まさかわたしのことでは」 と言うと、
  
                  いつもイエスの前に座る後光はないユダ
 
   イエスは言われた「それはあなたの言ったことだ。」』
                 マタイ福音書 26章14-25節


   ここで。
      私は  『二つのこと』 を考えました。

   一つ目。  『主イエスをユダは何故裏切ったのでしょう』
   二つ目。  『神の御心のままに』

 
一つ目『主イエスをユダは何故裏切ったのでしょう』

      理由は、ユダは寂しかったから?

  
   三日前の月曜日の食事の席で・・・
マリアは、300日の賃金分の価値ある『香油』を、惜しげもなくイエスに振りかけました。
  イエスは、わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだ。」 と、
        マリアの 『献身の行為』 を肯定なさって、
         マリアのするままにさせられました。

  一方。

ユダは、「その香油を売って、貧しい者にふるまうのはいかがでしょうか?」
         と、イエスに意見を申し上げました。

  イエスは、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、
       わたしはいつも一緒にいるわけではない。」 と、
    ユダの 『献身的な意見』 を認めることなく、却下しました。
                ・・・そのように、ユダは受け取ったのでしょう。

 

  人は、いつも、”認めてほしい!” ”共感してほしい!” と願うものです。
        特に愛する人への期待は大きいものでしよう。
        それが、結果が、期待の反対に表れた場合は、
                      愛が憎しみにすら代わり、
          全人格が否定されたように思い、
    『ひがみの心』 が生まれることすらあるのではないでしょうか?


 ユダは、そんな悲しい思いに陥って、『恨みの心』 を持ったのでしょうか?

      どちらにしても、イエスにもユダにも、私にも、
       心がえぐられるほどに、悲しい出来事です。

  更に。
 
  イエス様の、『生まれなかった方が、その者のためによかった。』
     の 『言葉』 を、
   ユダは、自分に向けられた 『言葉』 として聞いたでしょうか?
        自分の生まれを否定されることは、
      事実そのとおりであっても、地獄であるでしょう。

 

  ユダは、イエス・キリストの死後、絶望しかなく、自死を遂げます。
     イエスは、人のどんな罪をも赦し、愛されるお方です。
   私たちは、 『神・イエスの愛』 に 希望と信仰を見い出し、
   どんなに苦しい時も、絶望することなく、互いに愛し合いましょう。
   
     


そして。
もう一つ。


二つ目:『神の御心のままに』

     神は、天地創造の前から、『御自分の御計画』 をお持ちでした。
      
         『天地創造の前に、神は私たちを愛して、
        御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、
          キリストにおいてお選びになりました。』
              エフェソの信徒への手紙 1章4節

      その上。

   神は、人間への最高の 『愛の印』 として 『自由』 を人間に与えました。 


その結果。
    時として・・・
       
     『神の御計画』 と 『人間の自由な選択』 が食い違うのです。

      神は、自分を押し殺して、『人間の自由』 を尊重なさるのです。
  人は、自分を主張して、『神の御計画』 に耳を傾ける余裕をなくするのです。


   ユダは、イエスが 『一人がわたしを裏切る』 と予言なさったとおりに、
          イエスを 『引き渡す』 のです。


      ユダは自分の意志で、裏切りをしているようですが・・・
        実は、イエスはすべてをご存じの上で、
        その全てのことが神様のご計画の中にあり、

   主イエスはその全てをユダに任せた、ということではないでしょうか?


つまり。

    イエスは、『神の御心=人間の救い』 を実現なさる方です。
      そのために、
      『万事が益となるように共に働く』 ように、
     
                                     ローマの信徒への手紙 8章28節

       
    人類のために 自らのを捧げて下さったということです。

 

  ユダの心の動きを、聖書は全く語っていません。
     私たちはいろいろと想像したりしますが・・・
        想像は人によって様々でしょう。
    
  聖書の人物の想像は、今の私の 『心の現れ』 ではないでしょうか?
                    と、思ってみたりしています。

     
    皆様は、ユダの気持ちをどのように想像なさいますか?

 

『今日の拝領唱』

    『人の子は、仕えられるためではなく、えるため、
  また、多くの人のいとして、自分の命を捧げるために来た。』
                   マタイ福音書 20章28節


皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
緊急事態宣言発令に伴い、今までの80%減の外出で、コロナ終息を目指しましょう。
私は今まで、早朝一番に、一日一回、近くのスーパーに食品買い出しのみの外出でした。
これからは、早朝一番、週一回、のみの買い出しにしなくてはなりませんね。 お元気で!


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