4月9日。木曜日。『聖週間5日目』
『聖木曜日』
『主の最後の晩餐』
イエスは、最後の晩餐の席で、
『過越の唯一永遠の奉献』 を宣言なさいました。
もうひとつ。
『愛の模範』 を示されました。
まずは。
『過越の唯一永遠の奉献』
『皆、これを取って食べなさい。
これはあなたがたのために与えられるわたしの体である。
わたしの記念としてこのように行いなさい。』
『皆、これを受けて飲みなさい。
これはわたしの血の杯である。
あなたがたと多くの人のために流されて
罪のゆるしとなる
わたしの血による新しい契約である。
これをわたしの記念として行いなさい。』
以上。 ルカ福音書 22章19&20節
イエスは、最後の晩餐の席で、弟子たちに、
パンを割き、「これはわたしの体である」 と与え、
杯の葡萄酒を取り、「これはわたしの血である」 と与えたのです。
弟子たちは、イエスの言葉を理解できないままに、
イエスからパンと葡萄酒を頂いたことでしょう。
今日こそ神が作られた日!
『主の晩餐』 を祝うわたしたちは、
神のかぎりないいつくしみをたたえ、
感謝の祈りを捧げましょう。
永遠の祭司キリストは、
ご自分を救いのいけにえとして神に捧げ、
『唯一永遠の奉献』
を全うされました。
キリストの言葉に従ってわたしたちはその記念を行い、
『命のパンと救いの杯』
を受けて、主が来られるまでその死を告げ知らせるのです。
詩編 116章12&13節
キリストの死と復活の記念を行うとき、
救いの力がわたしたちのうちに働きます。
神の栄光をあがめ、
権能を敬うすべての天使とともに、
わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います。
『今日の入祭唱』
『主イエス・キリストの十字架、
このほかに、わたしたちに誇るものが決してあってはなりません。』
ガラテアの信徒への手紙 6章14節
その昔。
旧約時代。
紀元前1200年頃。
神は、『神の救い』 の印として 『過越の食事』 を定められました。
『今日の第一朗読 神の御言葉』
『その日、エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。
「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。
イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。
『今月の十日、
人はそれぞれ父の家ごとに、
すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。
もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、
隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、
めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。
その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。
用意するのは羊でも山羊でもよい。
それは、この月の十四日まで取り分けておき、
イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、
その血を取って、
小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。
そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。
今も続く・・・ 『ユダヤの人々の過越の食事』
また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。
それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。
これが 『主の過越』 である。
その夜、わたしはエジプトの国を巡り、
人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。
また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。
わたしは主である。
あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。
血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。
わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。
この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。
あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、
代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。』」
出エジプト記 12章1-8&11-14節
旧約時代。
紀元前1600年頃~紀元前1200年頃まで。
約400年以上。
イスラエル人の民は、
エジプトに移り住んだヨセフの時代以降の、約400年の長い期間の間に、
奴隷として虐げられるようになっていました。
神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して、
イスラエルの民をエジプトから救い出して、
『約束の地・カナン・イスラエル』 へと向かわせようとします。
ところが、エジプト王・ファラオがこれを妨害しようとします。
そこで神は、エジプトに対して 『十の災い』 を臨ませる。
その 『十番目の災い』 は、
人間から家畜に至るまで、
エジプトの 『すべての初子を撃つ』 というものでした。
神は、『戸口に印』 のある家は、その災いを過ぎ越される。
このことをモーセに伝えました。
戸口に印のあった家にはその『災い』が臨まなかったのです。
初子が撃たれることはありませんでした。
一方。
初子を撃たれたエジプト王・ファラオは、
神の望むままに、イスラエルの民を解放したのです。
それは、
『神が過ぎ越される印』=『子羊の血による神の救い』
『主の日』=『神と民の契約の日』
の訪れであり、
『キリストの血による神の救い』
の前表でありました。
それは、
エジプトで奴隷だったイスラエルの民が、
『神の計らい』=『子羊の血』 によって救い出され、
自由の地へと解放されたことは、
罪の状態にある人類が、
『神の計らい』=『キリストの血』 によって清められ、許され、
永遠の命から、不死の世界へと過ぎ越し、
神と共に生きるように救い出された。
ことを表していたのです。
それから。
約1200年後。
新訳時代。
紀元30年頃。
主の晩餐の席で。
もうひとつ。
『愛の模範』
1200年ほど続いた 『神と民の契約』 は、
キリストによって 『新しい契約』 へと進みます。
『イエスは言われた。
「あなたがたに新しい掟を与える。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」』
ヨハネ福音書 13章34節
そこで。
イエス様は 『最後の晩餐』 において、
『新しい掟』=『互いに愛し合う』=『愛隣』
を与えた後に
その 『模範』 を示されました。
『今日の福音 イエスの御言葉』
『過越祭の前のことである。
イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、
世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
夕食のときであった。
既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、
また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、
腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、
ペトロは、
「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」 と言った。
イエスは答えて、
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」
と言われた。
ペトロが、 「わたしの足など、決して洗わないでください」 と言うと、
イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、
あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」 と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。
「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。
「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。
あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。
それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、
上着を着て、再び席に着いて言われた。
「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。
そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、
あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
教皇フランシスコ。 ヴェッレトリ刑務所で 『洗足式』 2019年4月18日
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、
模範を示したのである。」』
ヨハネ福音書 13章1-15節
イエスが父のもとへ移るべき時が来ました。
その時、
イエスは、世にいる弟子たちを愛して、このうえなく彼らを愛し抜かれました。
イエスの弟子に示した
『最後の愛の行為』 は 『弟子たちの足を洗う』 ことでした。
イエスは、弟子たちの足を洗うほどにへり下り、
『愛の模範』 を残されました。
最後の晩餐の席での弟子たちは、
イエス様が話される 『過越の唯一永遠の奉献』も、
イエス様のなさる 『愛の模範』 も、
理解できなかったことでしょう。
イエス様は、
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、
後で、分かるようになる」 とおっしゃいました。
私たちも、今日理解できないことでも、明日には理解できますでしょう!
感謝!感謝!
『今日の叙唱』
『聖なる父よ、
主の晩餐を祝うわたしたちは、
あなたの限りないいつくしみをたたえ、感謝の祈りをささげます。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
コロナウイルスの影響で、主の晩餐の聖木曜日の今日も、ミサのない聖週間です。
皆様と聖週間の典礼を分かち合えることを、心より感謝申し上げます。 お元気で!
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