遠藤周作作品の映画化。 『沈黙』鑑賞後討論会。
キリシタンの弾圧が行われていた江戸初期。
厳しい弾圧を受けながら自らの信仰心と向き合っていく、ポルトガル人宣教師たちや日本人信徒たち。
人間にとって大切なものとは何か? 人間の弱さとは何か? 信仰者としていかに生きるか?
『沈黙』
初版本・1981年(昭和56年)を読んで以来・・・
46年目。
六十二刷本・2017年(平成29年)を読み返しました。 映画も見ました。
若き頃の私の感想。 そして それから46年の信仰生活の後の私の感想。
『作品』に覚える『違和感』は変わらない。
ただ。
46年間の年月は、私の中に『幅』を作った。『赦し』が生まれた。
『沈黙』鑑賞討論会。
20数名の参加者。 それぞれが、自分の焦点の当てどころの違いが、新鮮でした。
初版以来・・・
46年間。
人は、
高度成長化の間に、横並びになって、周囲を気にして、判断力が薄くなったのかもしれない。
キリスト者も、
どんな災難に遭っても、
自分は『神』とつながっているという、『使命感』も『心の自由』も薄くなったのかもしれない。
改めて考えさせられました。
『信仰者』として生きる使命と責任。 そして 完全なる自由。
『神の沈黙』
『心を尽くし、魂を尽くして神に向かい、御前で真実を行なえ。
そうすれば、神もあなたがたに向かい、もはやその御顔を隠すことはなさらない。』
トビト記 13-6
そして。
今日は3月16日。四旬節第二木曜日。
『エレミヤの預言 神の言葉』
『主はこう言われる。
その心が主を離れ去っている人は。
彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ地を住まいとする。
祝福されよ、主がその人のよりどころとなられる、主に信頼する人は。
彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うことを見ることもなく、
その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。』
エレミア書 17章5-10
人の一生は、
いつの時代にも、何があるか予測ができない。予期しなかった大災難や耐え難い悲しみ。踏絵。 等々。
人の一生は、
一人では生きられない。悲しい心を支えるには、一人では限界がある。
人は、『信頼する人』と共に、人生の困難を乗り切っていく。
信頼できる人がいる人は幸せです。
神を信頼し、神と共に歩む人は、裏切られることはない。
『心の自由』と『平安』が、その人から離れることはない。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
話し合いは素敵なことですね。人の考えは多様であると、思い知らされます。お人にやさしくなれます。
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