どっちにする?

人生って「どっちにする?」そんな選択の連続。あまたあるはずの選択肢。決めるのは自分\(^o^)/

フロージングレイン

2006-12-02 23:06:08 | 徒然に

フロージングレイン。凍った雨。

日本でフロージングレインを見たことはなかった。雪が降るのではなく、氷が空から降ってくるのでもない。降ってくるのは雨。しかし。その雨は落ちた瞬間に凍りつく。すべてのものに凍り付いていく。道路は瞬く間にスケートリンクになる。危険な現象でもある。

今年初めてのフロージンフレインの朝(昨日)、雨にぬれながら、ごみだし作業をしていた。ふと見ると、葉が落ちて枝だけが残っている木々に、氷が付いている。葉の付いている木の、葉も凍り付いている。水滴が凍るのでなく、全体が、凍るから、木が透明な木になった感じがする。また、葉が凍ると緑の木のシャーベットになる。白でもない、緑でもない、不思議な色。どこまでも透明で、幻想的な風景。

こんなシャッターチャンスめったにないのに、カメラがない。

こんな日は、運転もしないで、うちに居るのが一番。昨年から取り掛かってはいたが、忙しさにかまけて放り出していた、自分用のセーターを引っ張り出し、もう一度編み始める。

編み物は確か五歳のころからしていた。冬になると、こたつの中で、編み物をしていた、祖母に教えてもらった。日ごろ忙しそうに動き回っている祖母だったが、さすがに冬になると、炬燵の中で過ごすことが多かった。長い冬の時間、祖母は丁寧に私に鈎針の編み方を教えてくれた。

家族の中で、祖母はとても背が高かった。きっと160CMを超えていたのではなかったか・・・。すらりとしたモデルのような体形をしていた。私の母も身長は低くはなかったが、祖母の方がはるかに大きかった。私は祖母に似ているとよく言われた。ジャンクフードや、ケーキの好きな私は、祖母ほどはすらりとはしていないのだが・・・・・

祖母が寝たきりになったとき、彼女を背負うのは私の役目だった。母は小さくて彼女を背負いきれなかった。私は、自分の方が大きいし、がっちり力もあって、祖母を楽に背負えた。あまりに軽かった祖母の印象はいまだに私の中にある。啄木の思いもわかるような気がした。

あれれ、念を継いでここまできてしまった。祖母のことを思い出すなんて・・・。やはり人間にはゆとりが必要だということか。

ココ何年か、人のためにショールを編んだ。病気の人のためにやさしい色の細くて軽い肩掛けショール。生まれてくる赤ちゃんのためのおくるみ。

今回は自分のために編む。自分でデザインした、自分のためのもの。色はオレンジ。さて、日本に帰ったらみんなが驚く派手さになりそうだ。年末帰国に間に合わせなくては・・・・・・。

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ボランティアの心

2006-12-02 01:15:05 | 徒然に

困っている人が居る時、自分にてきることがあったら、何かお手伝いをしたいと、きっと誰でもが思うだろう。

ただ、お手伝いの仕方には、いろいろある。自分ができることをする、という考え方と、相手がして欲しいと思っていることをする、つきつめていくとこの二通りが残るような気がする。

お互いが領域に入り込んで、どっちとはいかないと感じられるけど・・・・。自分ができないことはしてあげられないのだし、相手が望んでいることでなければ、全くの余計なお世話で終わってしまう。

でも、こういう区別の仕方しか、今は思い浮かばない。

自分ができることというのは、自分がしたいこと、つまり無理はしない。

相手がして欲しいことに合わせると、自分ができる領域を超えて、がんばってしなくてはならなくなる。できそうな自信もないのに、やってみようとしてしまう。

今回の新生児のお世話をする、というのは、とっても難しい選択だった。断る人もいた。でも、一番相手が望んでいることは、新生児のお世話をしてあげることだった。

私は、最初は新生児のお世話は経験もあるし、容易にできることと考えていた。しかし、実際に日本でならまだ病院にいる新生児(米国では健康であれば母子とも2日間入院、最近は1日で退院させようとする)を手に抱いて見ると、正直なんともいえない恐ろしさがあった。呼吸も下手で、吸うだけ吸って、吐けないときの赤ちゃんの形相は、私を震え上がらせた。もし、この子になにかあったら・・・・。

おまけに、頼まれもしないのに、相手を慮って、自分の予定の大部分をキャンセルしたから、ドタキャンへの申し訳なさもあって、疲労感は相当なものだった。頼まれもしないのに、見かねての行動だから、自分で判断した行動だ。すべてが。

友人曰く、ボランティアでは無理をしてはいけない。自分ができることだけをしないと、見返りを求めるし、恩を着せたくもなるから。

それはそう。わかるし、納得できる。でも、目の前に困っている、泣いている人がいたらそうできるだろうか。私は、今日は予定があるから、できません。そう言えるだろうか?

ただ、他の方法を探す努力はしなかったかな。他の方法はあったのだろうか・・・。

公共の交通機関もないこの地で、車の運転もできず、英語をまったくしゃべれない人が、どうやって新生児の面倒を見ながら、娘の介護をしに、高速で30分も離れた病院にいけただろうか・・・・。それでも、できることだけを、自分に合わせてしてあげればよかったのだろうか。と、考える。

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