こちらにきて、相手の思うようにしてあげることが、大事だと考えるようになった。
自分の基準ではなく、相手の基準に合わせる。
ところが、これが難しい。はっきりと、こうしたい と意思を表明してくる人なら、その人の真意にも添えるが、これがはっきりしないと、まるっきりなんにもできない。
何にもして欲しくないと思っている人ならいいけど、何かしらの助けが欲しいと思っている人なら、申し訳ない。
私にも苦い経験がある。引越しの掃除を手伝うからね。何人もの人から声をかけられたのに、大丈夫だから・・・・。と、遠慮して答えた。内心は、それでも、誰か来てくれるに違いないと思っていた。
誰も来なかった。いったい、あなたは友人のひとりも居ないの?と、来てくれた親戚に言われた。・・・・・。
日本人は奥ゆかしいのよ。
親身になって考えたり、親切にしたいと思っているけど、それはあくまで自分の価値判断だから、難しい。
しかし、親身になるとは、親の身になって考えることか。親切とは、親を切ること?ちょっとどういうこと?
親切とは・・・(ちょっと拝借)
親切」の語源について調べてみますと、元々は中国の言葉で「親」は親しい人、「切」は刃物が肌に直接当たって肌身に応えるという意味で使われ、身近にいてぴったりとくっついている人という意味があったようです。
また、「切」という字には、我々が通常使う“切る”という意味と同時に、声に出るほど「切切」と胸に迫るという意味もあるとの事で、論語や漢詩の中で感情を強調するときに好んで使われていたそうです。このため、親のように親身になった扱いを「親切」と言ったとの事です。
老子は「親切」について、『本当の親切とは、親切にするなどとは、考えもせずに行われるものだ』と言っています。
何のことはない、同じ意味だった。それでは、標題にした意味がないではないか。
自分の薄学に恥じ入るべきですね。
しかし、親切は難しい。相手の立場に立つのも難しい。何事も批判せず、受け入れればいいのだろうが・・・・こちらの身ももたない。