ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

朝日新聞紙のBEの中に掲載された「おくのほそ道(山形県)」を拝読しました

2016年07月31日 | 日記
 2016年7月30日に発行された朝日新聞紙朝刊に付いてくる土曜版BEの中のコラム「みちものがたり」として掲載された「おくのほそ道(山形県)」を拝読しました。

 この解説記事の冒頭は、山形市郊外にある立石寺(りっしゃくじ、通称は山寺)での俳句の投句会の話から始まります。

 松尾芭蕉(1644年から94年)が立石寺で詠んだ「閑(しずか)さや岩にしみ入蝉の声」を取り上げています。

 各「道」を基に解説するこのコラムは、朝日新聞紙の朝日新聞DIGTALにも見出し「おくのほそ道(山形県) 長さは短編小説並み」と載っています。



 松尾芭蕉は327年前の7月13日(陰暦の5月27日)に立石寺を訪れたそうです。現在の立石寺では登山口から石段を800段上がると、標高約400メートルの場所に岩からせり出した「五大堂」があり、周囲からセミの声が聞こえるそうです。

 この立石寺の第70代住職によると、セミの鳴き声は「ジィージィーと聞こえたでしょう」といい、「午後遅くからはニイニイゼミで、周囲の雑音を消すように鳴くので閑(しずか)さなんだと思います」と解説します。実は、このセミがニイニイゼミかアぶラゼミかを推定する文壇での論争もありました。

 松尾芭蕉が弟子の河合曾良(そら)を伴って、江戸を出たのは1689年5月16日です。それから全行程約240キロメートルを約150日かけて歩いたのだそうです。当時の東北の道は実際には大変な道だったことと推定できます。

 そして、亡くなる1694年まで、、「おくのほそ道」に収められた各俳句の推敲を重ねたのだそうです。このため、「おくのほそ道」は、死後8年後に刊行されたそうです。この、「おくのほそ道」の評判を聞くことなく、松尾芭蕉は亡くなっています。

 昔、高校の古文の授業では「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」と「五月雨を集めて早し最上川」を習いました。

 筑波大学で近世の俳諧を研究されている清登典子教授は「芭蕉がいなければ、現在の私たちが日々の暮らしで当たり前のように感じている季節感や美の感性も育っていなかったかもしれません。芭蕉は日本人の美意識の変革者ともいえます」と解説されます。

 「日本の上流階級の和歌や連歌、漢詩などが目を向けなかった庶民の日常生活にある美や詩情を見いだし、俳句という新しい文芸を生み出したのです」と語ります。

 松尾芭蕉の代表作の「古池や蛙飛び込む水のおと」という作品は、弟子たちを驚かせたそうです。これまでは、カエルは鳴き声を歌に詠むという和歌の世界のルールを破り、「飛び込む音」という斬新な表現を明らかにしたからだそうです。

 こうしてみると、松尾芭蕉が推敲を重ねて出した「おくのほそ道」の美意識のDNAはいくらかは現代人に伝わっていると感じました。

 現在の短編小説並みの短さの「おくのほそ道」は実際の旅から帰ってから、長年かけた虚構の中で素晴らしい美意識に昇華しているようです。

 今回、この解説の見出し「おくのほそ道(山形県) 長さは短編小説並み」を読み始めたきっかけは、山形市郊外にある立石寺(山寺)での思い出です。若い当時は、この天台宗の立石寺に仙山線に乗って行き、あの800段の石段を簡単に上り、岩からせり出した「五大堂」から周囲の山々を眺めました。ところが、数年前に山形市市内から車で向かい、再び800段の石段を上ると結構、きつく感じました。やはり、歳をとったと感じました。

 現在、立石寺は年間に65万人から70万人が訪れる観光地になっています。混み合うのは、山形県でサクランボが収穫できる6月です。サクランボ狩りとのセットの観光で立石寺を訪れる方が多いそうです。また、紅葉の季節も多くの方が訪れるそうです。