ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

2013年7月15日の日本経済新聞紙朝刊の「フィリップス復活の教訓」を拝読しました

2013年07月16日 | 日記
 2013年7月15日発行の日本経済新聞紙朝刊の中面に掲載された記事「フィリップス復活の教訓 かつて 日の丸家電の最強ライバル」を拝読しました。

 日本経済新聞紙は、ここ数カ月間にわたって何回か、欧州を代表する電機メーカーのオランダのロイヤル・フィリップス(Royal Philips)の事業再編の記事を報道しています。

 関連する日本経済新聞の電子版では、7月15日に「フィリップスに学べ、日の丸家電復活への道 AV機器撤退・法人向け強化」「フィリップスCEO 感傷排し改革断行を」 という見出しの2本の記事に分割して掲載しました。





 最近、日本で巨額事業赤字を出しているシャープやパナソニック、ソニーなどの事業再編を推進する際に、ロイヤル・フィリップスの事業再編が参考になるという趣旨の記事を、日本経済新聞紙は時々、掲載します。今回も、その一環のようです。

 今回の記事によると、2001年12月期に26億ユーロ(約3400億円)の事業赤字を出し、事業再編に力を入れる経営改革に努めた結果、2012年12月期には2億ユーロの黒字を達成したといいます。その一方で、1998年当時は25万人いた従業員数が、現在は11万人強と半数以下になったと解説します。

 日本の大手電機メーカーにとって参考になるのではと伝える内容は、ロイヤル・フィリップスの事業再編の内容です。例えば、液晶テレビ事業を2011年11月に台湾の冠捷科技(TPVテクノロジー)が株式の過半数を握る、フィリップスとの合弁会社に委譲したり、携帯電話機事業を2006年11月に中国の中国電子信息集団会社(CEC)に売却したり、DVD・音楽プレヤーなどのオーディオ事業は日本の船井電機に2013年1月に売却することで合意するなど、AV(オーディオ・ビジュアル)系の家電事業のほとんどを売却する一方、自社が強い事業に技術や人材などの資源を集中する事業再編に踏み切っています。

 この結果、同社は社名を2013年5月に「ロイヤル・フィリップス・エレクトロニクス」から「ロイヤル・フィリップス」に変更しました。総合電機メーカーを辞めたからです。

 主力事業だったAV事業などの家電事業を売却する事業再編を断行した背景について、同社の社長兼COE(最高経営責任者)を務めるフランス・ファン・ホーテン氏は「AV市場が成熟し、アジア勢の企業との競争が激しくなり、十分な利益が出せる事業ではなくなったため」と説明します。

 ロイヤル・フィリップスの事業再編で強化している事業は、医療機器事業などです。あるいは、ロイヤル・フィリップスが事業再編する際に、力を入れたのはB to B(business to buisiness)事業の法人相手の事業です。

 社長兼COEのフランス・ファン・ホーテンさんは「新製品開発では以前は技術部門が主導権をとることが多かったが、最近はマーケティチング部門や各地域の営業部門が事業戦略面で大きな発言権を持つようになった」と解説します。

 今年の春に、日本の大手家電メーカーの技術部門の方、数人に対して、ロイヤル・フィリップスの事業再編についての評価を伺ったところ、「あまり参考にはしたくない」との返事の方が一番多かったです。一時は従業員が25万人もいたのに対して、事業再編とリストラを同時に進めた結果、11万人強の従業員数に留まっていることが、評価を低くしているよう感じました。各社ともかなりリストラを続けているからでしょうか。

 日本の家電事業を中心とする日本の大手電機がリストラ・事業再編を断行するには、まだ時間がかかりそうです。欧米の先輩格であるロイヤル・フィリップスと米国のゼネラルエレクロトニクス(GE)の2社は、AV事業などの家電事業を売却したり縮小したりして、医療機器事業に力を入れています。

 最近、医療機器事業の強化に本気で取り組む日本の総合電機メーカー(東芝と日立製作所は参入済み)には、医療機器特有の事業モデル(ビジネスモデル)に十分に智恵を絞って参入し、強化してほしいです。日本の電機メーカーの医療機器事業の成功を祈念します。

長野県佐久市にある佐久荒船高原では、ウバユリがつぼみを膨らませています

2013年07月15日 | 佐久荒船高原便り
 長野県佐久市の東側にある佐久荒船高原の森や草原は、暑い盛夏を迎えています。日中の日差しが厳しく、炎天下では当然、暑いです。

 早朝は佐久市側か群馬県の下仁田町側から朝霧などが上がってきて、薄曇り気味になり、涼しいです。午後になると、薄曇りの中から青空が見え始め、暑い感じです。

 夕方の日差しを浴びた荒船山(標高1423メートル)です。艫岩(ともいわ)が明るく照らされています。



 荒船山は、佐久荒船高原のすぐ真南にそびえています。

 佐久荒船高原の真東にある妙義山も夕日に照らされています。



 妙義山系の背後になる群馬県高崎市方面は雲が多い空模様です。

 佐久荒船高原は標高が1100メートルから1200メートルあるために、日差しが強い草原では、昼間は暑くなります。その一方で、葉が茂った森の中は、あまり暑くありません。森陰では、気温は26度(摂氏)以下です。森陰を抜けてくる風は涼しいです。

 森陰では、ウバユリ(オオウバユリ)のつぼみが膨らんでいます。



 来週には、開花しそうです。

 森陰で、タヌキの子供(あるいはハクビシンの子供)に出会いました。倒木の枝陰に隠れています。





 しばらくして、のろのろと動き始め、森の奥に消えていきました。



 盛夏を迎えた佐久荒船高原では、動物も植物も活動を活発化させています。

長野県茅野市にある横谷渓谷の乙女滝で、天然のミストシャワーに当たりました

2013年07月14日 | 旅行
 長野県茅野市の郊外にある横谷渓谷(よこやけいこく)の乙女滝は、天然のミストシャワー装置です。乙女滝が流れ落ちる途中で、水流が垂直に近い岩に当たってミストをつくり出します。

 岩の中から流れ出た水流が、落差約15メートルを勢いよく落下し、途中で垂直に近い岩に当たり、天然のミストシャワーをつくり出します。下側近くまで近づけるので、滝がつくる天然のミストシャワーを浴びて、涼しいです。

 乙女滝の上部と下部です。





 ミストシャワーといえば、有名なのが埼玉県熊谷市のJR熊谷駅などに設置されたものです。関東地方では、猛暑日の最高気温を記録する“暑い”地として、埼玉県の熊谷市は群馬県の館林市と並んでテレビニュースによく取り上げられる地域です。

 微細な水粒子のミストを空気中に散布し、その微細なミストが人間の肌などの触れて蒸発する時に、気化熱を奪って冷やします。微細なミストはすぐに蒸発するために、水分によるべたつき感はないそうです。

 最近は、ミストシャワー装置は高速道路の大きなサービスリアなどにも設置され、熱中症対策に貢献しています。

 茅野市北山という北八ヶ岳連山の山麓にある奥蓼科温泉郷にある横谷渓谷(横谷峡)は、信州の紅葉の名所として有名な渓谷です。冬には乙女滝の流れ落ちる水滴が凍り付き、その滝が凍結した景観を見る観光客が押し寄せるそうです。

 乙女滝までは遊歩道を6、7分ほど歩きます。その途中で、アサマフウロやキバナオダマキの咲き始めた花に出会いました。高原の夏を彩る野草たちです。





 連日続く猛暑日の酷暑を少し和らげる乙女滝のミストシャワーの恩恵を味わいました。


長野県佐久穂町の郊外にある麦草峠では、涼しい高原の風が吹いています

2013年07月13日 | 旅行
 長野県南佐久郡佐久穂町から北八ヶ岳山系の茶臼山山麓を抜ける麦草峠は、標高が2120メートルと、国道の中では、渋峠(群馬県と長野県の県境の峠、志賀高原横手山に入る)に次ぐ第二の標高の高さを誇る峠です。

 麦草峠は佐久穂町と茅野市の境にあり、最高の標高地点は、麦草峠を通る国道299号線の少し佐久穂町側にあるそうです。その標高は2127メートルだそうです。

 2013年7月7日に関東地区が梅雨明けして以来、関東地区以西は厳しい猛暑日が続いています。このため、この三連休は涼しさを求めて出かけることにしました。そして、標高が高い麦草峠は涼しいに違いないと考え、向かいました。

 7月13日午前は麦草峠付近は薄曇りで、小雨が時々、降りました。やや肌寒い感じです。

 麦草峠の茅野市側にある麦草ヒュッテに対して、国道299を挟んだ逆側の針葉樹林の端には、小さな茶水池があります。





 針葉樹林の端にある清らかな水源といった感じです。現在は、茶水池の水量が少ないようです。水辺の地面にはシカの足跡が多数が残っていて、シカが水を飲みに来ているようです。

 この茶水池から針葉樹林の奥に踏みいると、雨池に向かう山道か、茶臼山の山頂に向かう山道につながります。

 その針葉樹の森陰で、ギンリョウソウ(銀竜草)がひっそりと咲いています。



 麦草峠付近の国道299号線沿いの両脇には草むらが続いています。夏の野草のウツボグサが所々で花を咲かせ始めています。その中でも、ある草むらには赤紫色がひときわ鮮やかなウツボソウの群落がありました。





 ノアヤメも草むらの中で、所々で花を咲かせています。やはり密やかに咲いています。



 麦草峠付近は午後になると、少し薄日が差し、いくらか暑い感じになりました。でも、おそらく気温は30度(華氏)以下で、風が吹くと涼しさが強まります。

 国道299号線は麦草峠を通過すると、茅野市の広大な山麓の中を通ります。少し、夏休み風の雰囲気が強まっている茅野市側の避暑地に向かいました。

富士フイルムが銀塩写真フィルム事業から他分野事業に転換できた話を伺いました

2013年07月12日 | イノベーション
 2013年7月10日に開催された「第三回お茶の水コラボレーションセミナー」での講演内容は「富士フイルムの医療分野事業への進出」の経緯などの解説でした。

 同セミナー主催者は産学連携学会です。会場は東京都文京区の東京医科歯科大学構内です。



 このセミナーの参加者の多くは、銀塩系カラーフィルム市場で、一時は世界で数社に入るトップシェアを持っていた富士フイルムが事業転換し、医療事業などの六つの事業分野に事業展開することに成功した経緯に一番関心があったようです。講演後の質疑応答は、この点に集中しました。

 日本の富士フイルムとコニカの2社は、銀塩系写真フィルム事業の世界的なトップ企業でした。ところが2000年以降は、デジタルカメラの普及によって、従来の銀塩系フィルムのカメラを使わなくなり、銀塩系写真フィルム市場がほぼ消滅し、富士フイルムとコニカの2社は基幹事業を失いました。

 富士フイルムの講演者によると、2000年に銀塩系写真フィルムの売れ行きが頭打ちした結果、事業が成長しなくなりました。デジタルカメラが普及し、撮影した画像を磁気記録するメモリーに保存し、その画像データをパソコン画面などで見るようになり、写真を現像・焼き増しすることがなくなったからです。若い方の中には、銀塩系フィルムカメラて何?、「写るんです」使い捨てカメラて何?と、思う方が増えています。

 富士フイルムの講演者によると、2003年には銀塩系写真フィルム事業の売上げが3分の1も減り、同事業の存続見通しが危うくなりました。この時に、根幹事業である銀塩系写真フィルム・印画紙(紙焼き紙)事業が消滅するとの危機感を社員同士が共有できたのだそうです。2002年から2003年には、富士フイルムは会社の生き残り策を模索したそうです。

 富士フイルムは基幹事業の銀塩系写真フィルムなどで培った要素技術を基盤に、その周辺に染みだしていく“土地勘のある”事業を手がけることで、事業内容を変更していくという基本方針を打ち出します。とはいっても実際には、技術面でまったくの飛び地の事業はM&A(合併・買収)を積極的に進めたそうです。技術戦略会議という場で、新規事業の中身を議論したそうです。

 例えば、富士フイルムがテレビコマーシャルで宣伝している化粧品・ヘルスケア商品のルーツは、銀塩系写真フィルムに体積の半分も塗布していた“ゼラチン”を要素技術の一つにしたものです。ゼラチンとは、言い換えるとコラーゲンです。写真フィルムの厚さ100ミクロンのベースフィルム上に約20ミクロンの多層膜をコートする技術を持っていました。

 さらに、焼き増ししたカラー写真の印画紙のカラー画像が色あせないように、活性酸素をコントロールする要素技術を持っていました。この要素技術から、抗酸化力のあるアスタキサンチンという色素物質(キサントフィル類)の微細粒子が誕生しました。直径20ミクロン以下だと、アスタキサンチンの微粒子は皮膚から浸透するそうです

 こうした要素技術を束ねて、化粧品の「アスタリフト」「ナノフィルト」「ルナメア」の製品を産み出しました。しかし、富士フイルムは元々、企業に製品を販売するBtoBビジネスの事業しか手がけていませんでした。通常の化粧品メーカーのように化粧品店への流通・販売経路を持っていなかったのです。このため、当時盛んになり始めたWebサイトを利用するネット販売手法を採用しました。この結果、化粧品の「アスタリフト」のテレビコマーシャルを多く流しています。

 同様に、画像診断技術を要素技術として持っていたために、現在は医療・ライフサイエンス事業の中の「病院向けITソリューション」の画像診断システムとして成長しているそうです。画像を蓄えるサーバーなどのハードシステムから高速画像診断エンジンなど、一連のシステムとして病院などに販売しているようです。

 急成長し、かつ激戦市場である医療・ライフサイエンス事業の事業利上げ・利益は、富士フイルムは非公開だそうです。ただし、かなり稼いでいるそうです。

 富士フイルムは1934年に大日本セルロイドの写真フィルム部の事業を分離・継承して富士写真フイルムを設立・創業して以来の社名「富士写真フイルム」から“写真”をとり、2006年に新社名として“富士フイルム”に変更しました。同時に、ホールディングカンパニー傘下に事業会社を置く形になりました。さらに、この時に富士ゼロックスを傘下に入れています。

 富士フイルムのご講演者は、非公開資料などの資料を多く駆使し、かなりの速さで講演されたので、その時のメモは残念ながら不完全なままです。

 2006年に社名変更すると同時に、現在の新しい事業を展開するための技術基盤を築くために、同年4月に富士フイルム先進研究所を神奈川県足柄上郡開成町に設けました。



 富士フイルムが従来の基幹事業の銀塩系写真フィルム事業から現在の6事業部体制になぜうまく移行できたのかは、今回の講演からは、その成功要因などはあまり分かりませんでした。
 
 日本の富士フイルムとコニカの2社が銀塩系写真フィルム事業から他事業に巧みに無事に事業展開できたのに対して、米国のコダックはうまく事業転換できなかったようです。日本企業の強さの秘密が何かを考えています。