続・日本語を乱すのは誰だ!
私は以前にも「ウイズ・コロナ」(“with corona”)では意味不明ではないかと指摘した。どうしても、何処かの都知事のように英語の言葉を使いたいのならば、“We have to live with the Corona virus for the time being.”とでもすれば意味を為すだろうとも言った。厳格に言えば“We have no choice but to live with the Corona virus.”とまで言わねばならない気がする。確かに、ジーニアス英和に“with”の意味としてはいきなり「[随伴・同伴]と共に、・・・と一緒に」と出てくるので、「光環と共に」という解釈も成り立つかも知れない。でも、光環はウイルスの意味ではない。
1972年8月に私は初めてアメリカに行き、最初の日の真夜中ににアトランタのホテルに恐る恐るチェックインした。そこで「予約があるはずだが」と言うと、receptionの係員に“Are you with Mead?”と切り返された。「ミードと共にある」とは何だと一瞬迷わせられた。だが、ここでは withは「雇われている」か「所属している」という意味かと解釈した。Oxfordにはかなり後の方に“employed by ~”というのが出てくる。こういう使われ方もあるのだ。だから無闇に単語帳的知識で、英語をカタカナ語化するなと言いたくなるのだ。
Oxfordの解釈を応用すると、“with Corona”では「コロナウイルスに雇用されている」という解釈まで成り立ってしまうのだ。思うに、この標語を言い出した方は、今後は「コロナと共存する」と言いたかったのだろうとはお察しする。そうならば「共存」の意味がある“coexist”という単語が思い浮かんできた。だが、“live with”の方が適切なように思えてならない。何れにせよ、何で「ウイズ・コロナ」などという意味不明に近いカタカナ語を使う意味があるのだろうか。万人が理解すると勝手に決めつけないで欲しい。ここは日本国だ。
私は何処の何方が「ウイズコロナ」等と戯けたことを言い出したのかには関知しないが、“with”には意外に応用範囲が広いようなのだ。ジーニアス英和には2番目に「[所有・所持]があって、「・・・を持っている、・・・がある」という解釈が出てくる。何れにせよ、格好を付けて、簡単な言葉のようで、実は多くの意味がある英語の単語をカタカナ語ななどにして使うのは、決して賢明なことではないのだ。現に、私はこのように「日本語を乱す」と言って貶しているではないか。
私は以前にも「ウイズ・コロナ」(“with corona”)では意味不明ではないかと指摘した。どうしても、何処かの都知事のように英語の言葉を使いたいのならば、“We have to live with the Corona virus for the time being.”とでもすれば意味を為すだろうとも言った。厳格に言えば“We have no choice but to live with the Corona virus.”とまで言わねばならない気がする。確かに、ジーニアス英和に“with”の意味としてはいきなり「[随伴・同伴]と共に、・・・と一緒に」と出てくるので、「光環と共に」という解釈も成り立つかも知れない。でも、光環はウイルスの意味ではない。
1972年8月に私は初めてアメリカに行き、最初の日の真夜中ににアトランタのホテルに恐る恐るチェックインした。そこで「予約があるはずだが」と言うと、receptionの係員に“Are you with Mead?”と切り返された。「ミードと共にある」とは何だと一瞬迷わせられた。だが、ここでは withは「雇われている」か「所属している」という意味かと解釈した。Oxfordにはかなり後の方に“employed by ~”というのが出てくる。こういう使われ方もあるのだ。だから無闇に単語帳的知識で、英語をカタカナ語化するなと言いたくなるのだ。
Oxfordの解釈を応用すると、“with Corona”では「コロナウイルスに雇用されている」という解釈まで成り立ってしまうのだ。思うに、この標語を言い出した方は、今後は「コロナと共存する」と言いたかったのだろうとはお察しする。そうならば「共存」の意味がある“coexist”という単語が思い浮かんできた。だが、“live with”の方が適切なように思えてならない。何れにせよ、何で「ウイズ・コロナ」などという意味不明に近いカタカナ語を使う意味があるのだろうか。万人が理解すると勝手に決めつけないで欲しい。ここは日本国だ。
私は何処の何方が「ウイズコロナ」等と戯けたことを言い出したのかには関知しないが、“with”には意外に応用範囲が広いようなのだ。ジーニアス英和には2番目に「[所有・所持]があって、「・・・を持っている、・・・がある」という解釈が出てくる。何れにせよ、格好を付けて、簡単な言葉のようで、実は多くの意味がある英語の単語をカタカナ語ななどにして使うのは、決して賢明なことではないのだ。現に、私はこのように「日本語を乱す」と言って貶しているではないか。