テレウワーキングやリモートの時代に思う:
武漢ウイルスの襲来以来、世の中はそれ以前には予想もできなかった、いや予想もしなかったような、目にも止まらない速度で変化している。特に1955年から職業欄に「会社員」と書くようになった私には到底耐えられなかっただろうとしか思えない変化が、企業社会で起こりつつあるようだ。これまでに読み且つ聞いてきたテレウワーキングやリモートの会議等のことを知れば知るほど「アナログ時代だけを過ごしてきて良かったなー」と痛感している今日この頃である。
特に私の場合は新卒で採用して頂けた会社(日本の会社である、念の為)では、配属された課の課長さんの思い違いで、3ヶ月の試用期間(教育期間のこと)を終えたと同時に営業担当にされてしまった。それ故に、所謂内勤や事務の経験が全くないままに1994年1月末でリタイアしたので、営業以外の経験は皆無と言って良い会社員生活だった。しかしながら、幸運というか何というか1972年に偶然の積み重ねでアメリカの会社に転進してしまったので、両国の企業社会の実態を経験できたのだった。
ここに私がわざわざ日本の企業社会の実態を語る必要もないと思うが、17年間もお世話になった日本の会社時代に学んだことを振り返ってみよう。あれは1957年のことだったが、私は非常に厳しいので誰も担当したがらなかった大印刷会社の担当を勝手に買って出たのだった。その会社の用紙課(現在は購買部になっていたと思うが)には常に同業者の一騎当千の営業担当者たちが、係の方と話し合える順番を待って部屋の片隅に屯していたのだった。
そこに待機していれば、他社の営業担当者が語りかけている内容が聞こえてくるのだった。それは製紙業界の市況の話や、何処の飲み屋が安いのなんのという他愛もないことばかりだった。用紙課の担当者が後に個人的に語られたことは「彼等は何を考えて俺に市況を語るのか。市況は我が国の最大級の需要家である我々が作っているのだ。そんなことも知らないのか」という誠に手厳しい内容だった。私は同業者の言うことを聞いていて「何か彼等と違うことを語らねば、担当者に売り込めないだろう」と思って、極力業界全体の流れや変化の度合い等を語ることを心掛けた。
換言すれば、担当者が如何なる情報を求めておられるかを短い時間の会話の中から探り出して、彼らの興味を引くような情報の提供に専念したのだった。更に別な言い方をすれば「我が社の取扱品を買って下さい」等というお願いは一切せずに、ただひたすら出来る限りの勉強をして、同業他社には出来ないだろうと思うような情報を提供して来たのだった。その為には、私独自の情報網を業界内に構築して、これと思う情報を収集し、情報源には何か見返りの情報を提供するように努めていた。
その点では試用期間中に指導された三井本社出身の課長代理に「情報というものの価値はその人によって異なるのだ。君の話している相手が何気なく語ったことが我が方にとっては重要なことだったりするものだ。君の判断でそれが重要だろうと思ったら、その場で会談を打ち切って帰ってきて私に報告しなさい。その情報の価値は私が判断する」と、情報収集の方法を教え込まれていた。更に「メモなど一切取るな。そう構えたら相手は警戒して何も語らなくなると心得よ」とも教えられた。これは訪問して面談するからこそ、情報は得られるのだという教えでもあった。
だが、目下広がりつつあるリモート会談では全て記録が取れるようになっていると思われる。それでは「この人ならば」と気を許してつい言わないでも良いことを漏らしてしまったというような事態は生じないのではないのかと思っている。リモートだか何だか知らないが、不自由な時代になったのではないのかと、独り密かにアナログ時代は良かったのではないかななどと考えている。しかも、PC等の画面を通していたのでは、相手の身体全体の動作の微妙な変化などは読み取りようがないのではないかと思わずにはいられない。
昨年だったか、何処かのテレビ局が特集していた番組の中で、語り合っている相手が固い姿勢で身動き一つせずに聞いていると、一方が「話し辛い」と言って悲鳴を上げたのだった。別の例では、聞き手は常にモゾモゾと動き、座り方を変えるとか顔を背ける等を繰り返すのだった。ところが、語り手には「この方が話しやすい」と言ってドンドンと乗っていくのだった。極端に言えば「言う必要もないような秘密情報の提供までしてしまう」のだった。そして「何故、こんな事を言ってしまったのかな」と不思議がるのだった。
実は、私は全く何ら意識することなく、生まれつき後者の方なのだった。即ち、対話中でも何でもというか、如何なる場合でも2~3分でも同じ姿勢を保っていられないのだ。しかしながら、何人かの方に「何で俺は君にこんな事まで打ち明けてしまったのだろうか」と不思議そうに言われた経験があるのだ。即ち、貴重な情報を期せずして入手できていたのだった。それは私の落ち着きのない「モゾモゾ」の効果だったようなのだ。だが、リモートにでもなれば、モゾモゾが効果を発揮するかどうかは極めて疑問だと思うのだが、どんなものだろう。端末には「顔」しか写らないのでは。
リモートの会議にも、全く何も分からず経験することもないだろう私に言わせて貰えば「非常の堅苦しい伸び伸びとは出来ないことになってしまうのではないか」と危惧している。そう言う根拠にW社の会議は如何なる代物だったかを、参考までに回顧してみよう。凡そ、日本の会社では考えられないような雰囲気で進行するのだった。今はなき本社ビルの各階には無数の大小の会議室があり、そこを秘書さんが人数によって予約するのだった。その際にはコーヒー、紅茶等の飲み物や、クッキー等が必要かどうかまで指定して、その会議室内に予め準備されていた。
会議の進行中に参加者全員は何時でも、好きなときに席を立ってコーヒーを取りにいっても良いのだし、何も着席して飲んでいなくても議長である副社長が「席に戻れ」などと命令することはない。その意味は「参加者全員が集中力を維持する為には何をしていても構わない」のだし、椅子を後ろ前にして背もたれに肘をついて座っていてもお咎めはないのだ。しかしながら、リモートで全員の顔が画面に写っているときに「気分転換に画面から暫時消えてコーラを飲んできます」と言って、我が国の会社で通用するだろうか。仮令1時間でも消えずに辛抱して集中力を維持できるのだろうか。
アメリカ式というかW社方式に慣れてしまった私では、現在のテレウワーキングやリモートの時代に、我が国方式の謹厳実直というか年功序列制が何とかかんとか維持されている会社では、到底務まらないと思う。中には「部長さんを画面の左上に出して、後は序列通りに右の方向に並べろ」という要求が出た会社もあったという記事も読んだ。何れにせよ、集中力の維持や気分転換などはおいそれと許されないような気がするので、全員が会議室の集まる方が良いという話に、何れはなりはしないかと感じている。
とは言ってみたが、全ては未だ始まったばかりで、何も固まっていないとは思う。だが、我が国の会社にとっても必要なことは「集中力の維持」であり、その為に何かを参加者に強いるのでは小田原評定になってしまうのではないかと思うのは見当違いか。私は全員が顔を揃えることも重要だが、参加者全員が事前にキチンと発表すべき内容を纏めて要領良く聞き手が集中するように語れるか否かが肝腎なことだと思っている。W社の会議では全員が集まったときに既に会議は終わったと思ったほど、事前の準備に時間を割いて集中していた。尤も、これ即ち「文化の違い」だと思うが。
武漢ウイルスの襲来以来、世の中はそれ以前には予想もできなかった、いや予想もしなかったような、目にも止まらない速度で変化している。特に1955年から職業欄に「会社員」と書くようになった私には到底耐えられなかっただろうとしか思えない変化が、企業社会で起こりつつあるようだ。これまでに読み且つ聞いてきたテレウワーキングやリモートの会議等のことを知れば知るほど「アナログ時代だけを過ごしてきて良かったなー」と痛感している今日この頃である。
特に私の場合は新卒で採用して頂けた会社(日本の会社である、念の為)では、配属された課の課長さんの思い違いで、3ヶ月の試用期間(教育期間のこと)を終えたと同時に営業担当にされてしまった。それ故に、所謂内勤や事務の経験が全くないままに1994年1月末でリタイアしたので、営業以外の経験は皆無と言って良い会社員生活だった。しかしながら、幸運というか何というか1972年に偶然の積み重ねでアメリカの会社に転進してしまったので、両国の企業社会の実態を経験できたのだった。
ここに私がわざわざ日本の企業社会の実態を語る必要もないと思うが、17年間もお世話になった日本の会社時代に学んだことを振り返ってみよう。あれは1957年のことだったが、私は非常に厳しいので誰も担当したがらなかった大印刷会社の担当を勝手に買って出たのだった。その会社の用紙課(現在は購買部になっていたと思うが)には常に同業者の一騎当千の営業担当者たちが、係の方と話し合える順番を待って部屋の片隅に屯していたのだった。
そこに待機していれば、他社の営業担当者が語りかけている内容が聞こえてくるのだった。それは製紙業界の市況の話や、何処の飲み屋が安いのなんのという他愛もないことばかりだった。用紙課の担当者が後に個人的に語られたことは「彼等は何を考えて俺に市況を語るのか。市況は我が国の最大級の需要家である我々が作っているのだ。そんなことも知らないのか」という誠に手厳しい内容だった。私は同業者の言うことを聞いていて「何か彼等と違うことを語らねば、担当者に売り込めないだろう」と思って、極力業界全体の流れや変化の度合い等を語ることを心掛けた。
換言すれば、担当者が如何なる情報を求めておられるかを短い時間の会話の中から探り出して、彼らの興味を引くような情報の提供に専念したのだった。更に別な言い方をすれば「我が社の取扱品を買って下さい」等というお願いは一切せずに、ただひたすら出来る限りの勉強をして、同業他社には出来ないだろうと思うような情報を提供して来たのだった。その為には、私独自の情報網を業界内に構築して、これと思う情報を収集し、情報源には何か見返りの情報を提供するように努めていた。
その点では試用期間中に指導された三井本社出身の課長代理に「情報というものの価値はその人によって異なるのだ。君の話している相手が何気なく語ったことが我が方にとっては重要なことだったりするものだ。君の判断でそれが重要だろうと思ったら、その場で会談を打ち切って帰ってきて私に報告しなさい。その情報の価値は私が判断する」と、情報収集の方法を教え込まれていた。更に「メモなど一切取るな。そう構えたら相手は警戒して何も語らなくなると心得よ」とも教えられた。これは訪問して面談するからこそ、情報は得られるのだという教えでもあった。
だが、目下広がりつつあるリモート会談では全て記録が取れるようになっていると思われる。それでは「この人ならば」と気を許してつい言わないでも良いことを漏らしてしまったというような事態は生じないのではないのかと思っている。リモートだか何だか知らないが、不自由な時代になったのではないのかと、独り密かにアナログ時代は良かったのではないかななどと考えている。しかも、PC等の画面を通していたのでは、相手の身体全体の動作の微妙な変化などは読み取りようがないのではないかと思わずにはいられない。
昨年だったか、何処かのテレビ局が特集していた番組の中で、語り合っている相手が固い姿勢で身動き一つせずに聞いていると、一方が「話し辛い」と言って悲鳴を上げたのだった。別の例では、聞き手は常にモゾモゾと動き、座り方を変えるとか顔を背ける等を繰り返すのだった。ところが、語り手には「この方が話しやすい」と言ってドンドンと乗っていくのだった。極端に言えば「言う必要もないような秘密情報の提供までしてしまう」のだった。そして「何故、こんな事を言ってしまったのかな」と不思議がるのだった。
実は、私は全く何ら意識することなく、生まれつき後者の方なのだった。即ち、対話中でも何でもというか、如何なる場合でも2~3分でも同じ姿勢を保っていられないのだ。しかしながら、何人かの方に「何で俺は君にこんな事まで打ち明けてしまったのだろうか」と不思議そうに言われた経験があるのだ。即ち、貴重な情報を期せずして入手できていたのだった。それは私の落ち着きのない「モゾモゾ」の効果だったようなのだ。だが、リモートにでもなれば、モゾモゾが効果を発揮するかどうかは極めて疑問だと思うのだが、どんなものだろう。端末には「顔」しか写らないのでは。
リモートの会議にも、全く何も分からず経験することもないだろう私に言わせて貰えば「非常の堅苦しい伸び伸びとは出来ないことになってしまうのではないか」と危惧している。そう言う根拠にW社の会議は如何なる代物だったかを、参考までに回顧してみよう。凡そ、日本の会社では考えられないような雰囲気で進行するのだった。今はなき本社ビルの各階には無数の大小の会議室があり、そこを秘書さんが人数によって予約するのだった。その際にはコーヒー、紅茶等の飲み物や、クッキー等が必要かどうかまで指定して、その会議室内に予め準備されていた。
会議の進行中に参加者全員は何時でも、好きなときに席を立ってコーヒーを取りにいっても良いのだし、何も着席して飲んでいなくても議長である副社長が「席に戻れ」などと命令することはない。その意味は「参加者全員が集中力を維持する為には何をしていても構わない」のだし、椅子を後ろ前にして背もたれに肘をついて座っていてもお咎めはないのだ。しかしながら、リモートで全員の顔が画面に写っているときに「気分転換に画面から暫時消えてコーラを飲んできます」と言って、我が国の会社で通用するだろうか。仮令1時間でも消えずに辛抱して集中力を維持できるのだろうか。
アメリカ式というかW社方式に慣れてしまった私では、現在のテレウワーキングやリモートの時代に、我が国方式の謹厳実直というか年功序列制が何とかかんとか維持されている会社では、到底務まらないと思う。中には「部長さんを画面の左上に出して、後は序列通りに右の方向に並べろ」という要求が出た会社もあったという記事も読んだ。何れにせよ、集中力の維持や気分転換などはおいそれと許されないような気がするので、全員が会議室の集まる方が良いという話に、何れはなりはしないかと感じている。
とは言ってみたが、全ては未だ始まったばかりで、何も固まっていないとは思う。だが、我が国の会社にとっても必要なことは「集中力の維持」であり、その為に何かを参加者に強いるのでは小田原評定になってしまうのではないかと思うのは見当違いか。私は全員が顔を揃えることも重要だが、参加者全員が事前にキチンと発表すべき内容を纏めて要領良く聞き手が集中するように語れるか否かが肝腎なことだと思っている。W社の会議では全員が集まったときに既に会議は終わったと思ったほど、事前の準備に時間を割いて集中していた。尤も、これ即ち「文化の違い」だと思うが。