何と言っても余所の国の言葉だから:
始めに:
私は英語を教えるのであれば、最初に「これは文化(即ち歴史、言語・風俗・生活習慣・思考体系等)が全く異なる国の言語であること」から説き聞かせて置くべきだと考えている。簡単に言えば「ものの考え方が日本語とは違うのだ」という辺りから入っていく必要があるのだ。「一つの学科としての科学としての英語を、数学のように教えるのは好ましくない」と私は考えている。
しかし、学校教育では「単語」、「文法」、「英文解釈乃至は和訳」、「英作文」、「英会話」等々のように分解してバラバラにして教えているので、意志の表現というか伝達の手段にしか過ぎない言葉を無闇に難しくしてしまった為に、「英語嫌い」の児童・生徒・学生を次から次へと養成してしまったのである。
その結果で海外に留学や駐在員として出ていくと「そんなはずではなかった」や「何故通じないのだろう」と悩まされ苦しめられるほど、学校で学んできた、いや好成績だった英語が役に立たないのだ。そこで、ここでは何故そうなってしまう悩ましさを考えて見よう。
慣用句と口語体の存在:
実際にアメリカ人たちの中に入ってみると、日常的な会話や社内のリポート等に出てくる表現は学校教育で習い覚えてきた英語とはまるで違う表現ばかりで悩まされるのだ。その主たる原因は「単語」だけを覚えてきて「それが有機的に繋がったときにその意味がどのように変化してしまうか」を教えられていなかったし、覚えても来なかった事にあるのだ。
それはそこには「慣用句」(“idiomatic expression”)や「口語体」(“colloquialism”)が多用されているからである。いや、極端に言えば「日常会話などではそれ以外に何があるか」と言っても良いほどなのだ。私は未だにこの両者の間に自信を以て線引きが出来ないが、幾つか例を挙げてみよう。
Are you with XXX Company? =「貴方はXXX社員ですか」
Are you with me? =「貴方は私の話が解っていますか」となるのだが、これは前後の流れで判断する必要がある。“Are you following our conversation?”が意味が似ていると思う。
It’s your baby. =「これは貴方が責任を以てする仕事である」という意味だが、これも前後に流れから判断すべきこと。babyは「赤子」だけの意味ではない。
It’s a piece of cake. =「簡単にできること」で、同じような表現に It’s a cinch.というのもある。
Let’s play it by year =「出たとこ勝負で、その場で決めよう」とでも訳せば良いのかも知れない。実際は、皆で昼食に出掛けるのだが、何を食べるか決まっていなかったので、誰かがこう言えば「レストラン街に着いてから決めよう」となるのだ。
It does not ring my bell. =「そう言われても、私の記憶から呼び起こせない」というか「そう言われても、思い出せません」という意味。
He believes to be somebody. =「彼は何様にでもなったつもりでいる」というか「自分は一廉の者であると過信している」と批判していること。
どれ一つ採っても難しい単語などで来ないが、ほとんどがそもそもの単語の意味とかけ離れたことを表しているのが悩ましい点なのだ。だから「単語を覚えるのを止めて、流れの中でどういう意味で使われるかを音読して覚えなさい」と主張するのだ。
私は我が国では「何故、官民挙ってあれほど英語が良く出来て且つ話せるように教育しなければならないとか、外国人と英語で意思の疎通が十分に図れるようにしたいとしようとするのか」と疑問に感じている。勿論、国際化というかグローバリゼーション等という代物が無闇に広がりつつある現代では、高い英語能力が多くの場面で求められている。だが、上記の例文が示すように、学校教育の英語は「自分が思うこと、考えていること」を表現するのには余り有効ではないのだった。いや、中々通じなかったのだ。
私は通じないのもさることながら、我が国の学校教育の英語には問題であると思っている点がある。それは「発音」と聞き取りの能力である
「発音」の最大の問題点は「教えておられる英語の先生方に問題があると思うのだが、簡単に言ってしまえば『外国人離れしたカタカナ語のような、と言うかローマ字式な発音』しか出来ないようにしてしまった点だ。特に困ったことだと思っている点は、“a”や“i”や“o”の発音がローマ字式になってしまっている点だ。
例えば、RobertのニックネームであるBobは「ボブ」ではなく「バブ」であり、仕事の“job”は「ジャブ」なのだ。有名なホテルチェーンのHoliday Innはどの辞書を見てもOxfordでも発音記号は「ハラデイ・イン」としか読めない。Mission Impossible“という映画は「ミッシュン・インパーサブル」とする方が英語に近い。
これだけではなく、英語には連結音とr-linkingと言われている「前の単語の終わりの子音が、次に来る単語の最初に母音が来ると繋がって発音するというようになっている。私が簡単な例としてあげてきたのが“There is a small house.”という文章では「デアリズ」となるのであって「ゼア・イズ」ではないのだ。“r”も次に来る単語の最初の母音と繋がって発音されるのだ。これを絶対的に守れとは言わないが、これが出来ていないと「英語を知らないのだ」と思われてしまうのが悩ましいのだ。
本当の発音が出来てからにしよう:
ある近年かなり人気が高くなってきた都内の某私立大学の英文学の名誉教授が、アメリカに出張されて「ウオラー」という発音を聞かれたのが非常に印象的で「現地ではこういう発音になるのかと認識した」と語った。遺憾ながら「ウオラー」は上品な部類には入らない下層階級の者たちの発音なのである。支配階層というか、アッパーミドル以上ではこのように発音する者たちは滅多にいないと思っている。これは“water”の発音なのである。
私はこういう発音は絶対にお薦めしない。英語を勉強しようとされる方々には、絶対に真似て欲しくない品格に乏しい発音で、必ず「ウオーター」と発音して欲しいのだ
同様に、“twentyを「トウエニー」とか“thirty”を「サーリー」と発音するのも良いことではない。外国人としてはこのような品格に乏しい発音に飛び付いて真似をしないことだ
私は「Queen’s Englishとその発音を有り難がる傾向がある」のはおかしな事だと思っている。我が国では学校教育が至らないせいか、アメリカの英語と混同されている例が多いのを嘆いている。その極めて卑近な例にアルファベットの”c”の発音がある。これを「シー」とするのはUK式の Englishであり、アメリカ語では「スイ」なのである。同様に”z”を「ゼット」乃至は時たま「ゼッド」と言っているのもUKでの読み方で、アメリカ式は「ズイ」となるのをご承知か。
特に困ったなと思って見ているのは厚生労働省の英語表記では“Ministry of Health, Labour, and Welfare”となっていること。labour はUK式であってアメリカ語では“labor”なのだ。案保障条約で守っていただいている同盟国の発音をもう少し尊重すべきだし、教える方も、両国の英語の違いをキチンと教えておいて欲しい。
アメリカに行って悩まされること:
これは「聞き取り」とするか「聞き取れる能力」の問題だろう。我が国の英語の先生方の外国人離れした発音と連結音もなく、抑揚もなく、文章の何処を強調するか(sentence stress)を教えられず、何処で切るべきかをも知らされずに育ってきても、試験の点だけは良かった優秀な方々がアメリカ人に中に入って、先ず困ることが「相手の語りが何時何処から始まって何処で終わったかが全く判断出来ないことだった」と述懐された。
私はこれが我が国の学校教育の問題であると断じる。すると、その解決法としては「外国人というかnative speakerを招聘して教えて貰えば良いのでは」という意見が出てきそうだ。しかし、私はこれでは上手く行かないと思う。それは「外国人たちは自国語を上手く話せても、英語を良く解っていない日本人が如何なる問題で悩み苦しんでいるかは、おいそれとは分からない」のだから。
例えば、彼等は日本語には連結音がないと承知しているだろうかという問題である。意気揚々として「日本に行って英語を教えよう」という者たちが、例えば大学なり大学院などで「日本で英語教育をする」という単位を取っていたのだろうか。「日本人向け英語教育学」などという修士号があるのだろうか。私は「日本に行って正しく美しい英語を教えよう」などと真剣に考えている者など数多くいるかと疑っている。まともな能力と学歴があれば、国内でチャンとしたjobに付けるはずだ。日本までやってくる者たちは、その篩によってこぼれた来た者たちだと、私は看做している。
教えて貰う方が「この外国人教師の英語は無教養の下層階級の英語だからヤーメタ」というまでの判断力などある訳がないのだ。この辺りが究極的な悩ましさではないのか。
始めに:
私は英語を教えるのであれば、最初に「これは文化(即ち歴史、言語・風俗・生活習慣・思考体系等)が全く異なる国の言語であること」から説き聞かせて置くべきだと考えている。簡単に言えば「ものの考え方が日本語とは違うのだ」という辺りから入っていく必要があるのだ。「一つの学科としての科学としての英語を、数学のように教えるのは好ましくない」と私は考えている。
しかし、学校教育では「単語」、「文法」、「英文解釈乃至は和訳」、「英作文」、「英会話」等々のように分解してバラバラにして教えているので、意志の表現というか伝達の手段にしか過ぎない言葉を無闇に難しくしてしまった為に、「英語嫌い」の児童・生徒・学生を次から次へと養成してしまったのである。
その結果で海外に留学や駐在員として出ていくと「そんなはずではなかった」や「何故通じないのだろう」と悩まされ苦しめられるほど、学校で学んできた、いや好成績だった英語が役に立たないのだ。そこで、ここでは何故そうなってしまう悩ましさを考えて見よう。
慣用句と口語体の存在:
実際にアメリカ人たちの中に入ってみると、日常的な会話や社内のリポート等に出てくる表現は学校教育で習い覚えてきた英語とはまるで違う表現ばかりで悩まされるのだ。その主たる原因は「単語」だけを覚えてきて「それが有機的に繋がったときにその意味がどのように変化してしまうか」を教えられていなかったし、覚えても来なかった事にあるのだ。
それはそこには「慣用句」(“idiomatic expression”)や「口語体」(“colloquialism”)が多用されているからである。いや、極端に言えば「日常会話などではそれ以外に何があるか」と言っても良いほどなのだ。私は未だにこの両者の間に自信を以て線引きが出来ないが、幾つか例を挙げてみよう。
Are you with XXX Company? =「貴方はXXX社員ですか」
Are you with me? =「貴方は私の話が解っていますか」となるのだが、これは前後の流れで判断する必要がある。“Are you following our conversation?”が意味が似ていると思う。
It’s your baby. =「これは貴方が責任を以てする仕事である」という意味だが、これも前後に流れから判断すべきこと。babyは「赤子」だけの意味ではない。
It’s a piece of cake. =「簡単にできること」で、同じような表現に It’s a cinch.というのもある。
Let’s play it by year =「出たとこ勝負で、その場で決めよう」とでも訳せば良いのかも知れない。実際は、皆で昼食に出掛けるのだが、何を食べるか決まっていなかったので、誰かがこう言えば「レストラン街に着いてから決めよう」となるのだ。
It does not ring my bell. =「そう言われても、私の記憶から呼び起こせない」というか「そう言われても、思い出せません」という意味。
He believes to be somebody. =「彼は何様にでもなったつもりでいる」というか「自分は一廉の者であると過信している」と批判していること。
どれ一つ採っても難しい単語などで来ないが、ほとんどがそもそもの単語の意味とかけ離れたことを表しているのが悩ましい点なのだ。だから「単語を覚えるのを止めて、流れの中でどういう意味で使われるかを音読して覚えなさい」と主張するのだ。
私は我が国では「何故、官民挙ってあれほど英語が良く出来て且つ話せるように教育しなければならないとか、外国人と英語で意思の疎通が十分に図れるようにしたいとしようとするのか」と疑問に感じている。勿論、国際化というかグローバリゼーション等という代物が無闇に広がりつつある現代では、高い英語能力が多くの場面で求められている。だが、上記の例文が示すように、学校教育の英語は「自分が思うこと、考えていること」を表現するのには余り有効ではないのだった。いや、中々通じなかったのだ。
私は通じないのもさることながら、我が国の学校教育の英語には問題であると思っている点がある。それは「発音」と聞き取りの能力である
「発音」の最大の問題点は「教えておられる英語の先生方に問題があると思うのだが、簡単に言ってしまえば『外国人離れしたカタカナ語のような、と言うかローマ字式な発音』しか出来ないようにしてしまった点だ。特に困ったことだと思っている点は、“a”や“i”や“o”の発音がローマ字式になってしまっている点だ。
例えば、RobertのニックネームであるBobは「ボブ」ではなく「バブ」であり、仕事の“job”は「ジャブ」なのだ。有名なホテルチェーンのHoliday Innはどの辞書を見てもOxfordでも発音記号は「ハラデイ・イン」としか読めない。Mission Impossible“という映画は「ミッシュン・インパーサブル」とする方が英語に近い。
これだけではなく、英語には連結音とr-linkingと言われている「前の単語の終わりの子音が、次に来る単語の最初に母音が来ると繋がって発音するというようになっている。私が簡単な例としてあげてきたのが“There is a small house.”という文章では「デアリズ」となるのであって「ゼア・イズ」ではないのだ。“r”も次に来る単語の最初の母音と繋がって発音されるのだ。これを絶対的に守れとは言わないが、これが出来ていないと「英語を知らないのだ」と思われてしまうのが悩ましいのだ。
本当の発音が出来てからにしよう:
ある近年かなり人気が高くなってきた都内の某私立大学の英文学の名誉教授が、アメリカに出張されて「ウオラー」という発音を聞かれたのが非常に印象的で「現地ではこういう発音になるのかと認識した」と語った。遺憾ながら「ウオラー」は上品な部類には入らない下層階級の者たちの発音なのである。支配階層というか、アッパーミドル以上ではこのように発音する者たちは滅多にいないと思っている。これは“water”の発音なのである。
私はこういう発音は絶対にお薦めしない。英語を勉強しようとされる方々には、絶対に真似て欲しくない品格に乏しい発音で、必ず「ウオーター」と発音して欲しいのだ
同様に、“twentyを「トウエニー」とか“thirty”を「サーリー」と発音するのも良いことではない。外国人としてはこのような品格に乏しい発音に飛び付いて真似をしないことだ
私は「Queen’s Englishとその発音を有り難がる傾向がある」のはおかしな事だと思っている。我が国では学校教育が至らないせいか、アメリカの英語と混同されている例が多いのを嘆いている。その極めて卑近な例にアルファベットの”c”の発音がある。これを「シー」とするのはUK式の Englishであり、アメリカ語では「スイ」なのである。同様に”z”を「ゼット」乃至は時たま「ゼッド」と言っているのもUKでの読み方で、アメリカ式は「ズイ」となるのをご承知か。
特に困ったなと思って見ているのは厚生労働省の英語表記では“Ministry of Health, Labour, and Welfare”となっていること。labour はUK式であってアメリカ語では“labor”なのだ。案保障条約で守っていただいている同盟国の発音をもう少し尊重すべきだし、教える方も、両国の英語の違いをキチンと教えておいて欲しい。
アメリカに行って悩まされること:
これは「聞き取り」とするか「聞き取れる能力」の問題だろう。我が国の英語の先生方の外国人離れした発音と連結音もなく、抑揚もなく、文章の何処を強調するか(sentence stress)を教えられず、何処で切るべきかをも知らされずに育ってきても、試験の点だけは良かった優秀な方々がアメリカ人に中に入って、先ず困ることが「相手の語りが何時何処から始まって何処で終わったかが全く判断出来ないことだった」と述懐された。
私はこれが我が国の学校教育の問題であると断じる。すると、その解決法としては「外国人というかnative speakerを招聘して教えて貰えば良いのでは」という意見が出てきそうだ。しかし、私はこれでは上手く行かないと思う。それは「外国人たちは自国語を上手く話せても、英語を良く解っていない日本人が如何なる問題で悩み苦しんでいるかは、おいそれとは分からない」のだから。
例えば、彼等は日本語には連結音がないと承知しているだろうかという問題である。意気揚々として「日本に行って英語を教えよう」という者たちが、例えば大学なり大学院などで「日本で英語教育をする」という単位を取っていたのだろうか。「日本人向け英語教育学」などという修士号があるのだろうか。私は「日本に行って正しく美しい英語を教えよう」などと真剣に考えている者など数多くいるかと疑っている。まともな能力と学歴があれば、国内でチャンとしたjobに付けるはずだ。日本までやってくる者たちは、その篩によってこぼれた来た者たちだと、私は看做している。
教えて貰う方が「この外国人教師の英語は無教養の下層階級の英語だからヤーメタ」というまでの判断力などある訳がないのだ。この辺りが究極的な悩ましさではないのか。