新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「8月15日」に思う

2020-08-15 08:48:16 | コラム
あれから75年を経ていた:

昭和20年は恐らく我が人生の中でも最も変化に富んでいたときだと思う。即ち、戦時中に憧れの湘南中学に入学できて、毎朝ゲートルを巻いて藤沢駅に集合した者たちを、最上級生(2年生か3年生だったと思うが)が指揮して二列縦隊に並んで学校まで行進していくのだった。今ではゲートルの巻き方の記憶などないが、上手く巻いておかないと行進の途中で解けるかずり落ちてしまうので大変だった。学校には未だ教練の為の将校が駐在していて、新入生にも厳しく軍事教練を指導されていた。

入学直後に東京の小石川区に何時でも帰れるようになっていた家が、13日にアメリカ軍の空襲で焼かれてしまった。(因みに、我が家は病弱だった私の為と疎開の目的で藤沢に転居していた)家の焼失は重大な事件だったはずだが、子供心には「そういうこともあるのか」という程度の受け止め方だった。当時は空襲の警戒警報が発令されれば授業は中止で帰宅するか、校庭に設けられた防空壕の中に待避して解除されるのを待つかの何れかで、何れにせよ満足に授業は受けられなかった。

それだけではなく、我々1年生にも勤労動員があって、今考えれば何の役にも立たなかったが、近隣の農家に派遣されて手伝っていたのだった。そのお陰で人生で最初で最後の田んぼに入って草取りだったかの作業をした。その楽しみは、帰りに「持って帰りなさい」と当時は貴重だった薩摩芋などを貰えて感激していたものだった。農村動員の後は鵠沼から辻堂の海岸にかけての防風林に入って戦闘機の燃料になるという松根油を取る為に、松の木の根を切り出す作業をさせられた。子供でも皆が「こんな事をしている状態で本当に戦争に勝てるのかな」と疑問に感じていた。

当時はごく普通にアメリカ軍の艦載機が襲ってきて機関銃(なのだろうか)で射撃してきた。私は学校からの帰りに襲われかけて危うく近くの松林の中に逃げて難を免れたことがあったが、同級生の1人は膝に弾が当たって大怪我をさせられた。今になって振り返れば嘘のような話かも知れないが、彼等は情け容赦なく機銃掃射して来たのだった。私はあるときに高射砲で撃たれたと聞いたB29が、真っ赤になって相模湾に落ちるのを夜間に見に行った記憶すらあった。

そんな状況の最中に8月になって何処からともなく「我が国は間もなく戦争に負けるのだ」という話がまことしやかに聞こえてきていた。その後に8月15日には「玉音放送」があるからと知らされて、当日は学校も休みで家にいて放送を待っていたと記憶する。あの日は何処までも抜けるような晴天だったのは忘れられない。玉音放送は謹んで伺っていた。正直な感覚では「あー、これで終わったんだ」というだけで、気が抜けたような状態だった。もう空襲も機銃掃射もなくなるのだと思った。

だが、その時でも相変わらず艦載機の掃射音がバリバリと聞こえていた。「何だ。終わってないのか」とも感じていた。「戦争に負けた」というよりも「もう、これで戦う為に何かしなくても良くなったのか」という安堵感だけが残っていた。同時に中学1年の子供と雖も、何ものにも例えようがない虚脱感に襲われていた。真っ青な空を見上げて、未だ続く艦載機の掃射音を聞きながら、ボンヤリとしていたのは未だに忘れていない。あれから75年も経ったのかと、時の経つ事の速さを感じている。

上記のように今回は戦争中の思い出を語ったが、私は有識者やマスメディアがあの戦争中のことを採り上げて語るのが気に入らないのだ。私は戦時中の我々の心理状態はとても正常とは思えないところに追い込まれていたと思っている。私は上記以外にも未だ未だ色々と記憶しているが、それらを思い出したり、詳細に語ろうという気になとてもならない。私は戦争反対論者でも何でもないが、あの頃の記憶は絶対に開けられない金庫の中にでも厳重に閉じ込めておきたいだけだ。