「ウイズ・コロナ」って何のこと:
私は余りテレビは見ないと言ってはいるが、ニュースとスポーツ中継(お断りしておくが、相撲は興行でありスポーツの範疇には入れていない)は見ている。そこで気になって仕方がないことがある。それは、タレントと称されている連中は仕方がないとしても、結構なインテリであるはずの人たちが奇妙な言葉を使うのには落胆させられている点だ。インテリと看做す人たちの場合は概ねカタカナ語の乱れ打ちなので今更ここで云々するまでもないが、その他の連中の国語の乱れは誠に嘆かわしいのだ。しかも罪なき視聴者の中にはその乱れを真似る人が多いのも情けない話だと思う。
既に何度か例に挙げた言葉には「最高」というのがある。これは、何か景色を見ても、美味な食べ物に出会っても、何か良いことがあっても、試合を決めるホームランを打ってインタビューされても、トラックの種目で良い記録を出しても、タレントという連中や運動選手たちは「最高です」としか言えない表現力の欠如か、語彙の貧弱さを見せつけてくれるのだ。「何が、何処で、如何なる意味で最も優れていたか」や「どの食べ物の何処がこれまでに味わった中で、如何なる点で最も味付けが良かったか」や「新記録を樹立したことが何故良かったか」等が全て「最高」の一言で括られるのだ。
私は最早COVID-19乃至は武漢ウイルスの代名詞のようになってしまった「コロナ」も「言葉の誤用」という点では最悪だと見ているし、そのように指摘して来た。“corona”とは「光冠」という意味はあるが当たり前のことで「ウイルス」を表してはいない。私がこういう使い方をするのを聞いたのは、石原良純が最初だった。「おかしな言葉を使うな」と感じた。だが、それ以降マスコミも何も、老いも若きもマスメディアも政治家も皆「コロナ」であり、何処かの都知事が例によってしたり顔で“with corona”と言い出したのを聞いて「何て事だ」だとウンザリだった。
新聞の見出しの字数なら兎も角、テレビで「新型コロナウイルス」と言って何秒の時間が食い込むのか。私はこういう間違った言葉を恥ずかしくもなく使う誤りを即刻訂正すべきだと思っている。私は最早、アメリカ人との英語の会話中に通じるかどうかを試す機会が無くなったので断定はできないが、外国人というかアメリカ人が“corona”をウイルスの代名詞に使っているかどうかくらい確かめるのが、メディアの責務ではないのか。そういう意味では、私はここでは「コロナ」という誤ったカタカナ語を排斥していることになるが。
次はタレント用語というか、アナウンサーたちも平気で読み上げているというのか、知らずに使っている奇妙な日本を槍玉に挙げよう。先ずは、渡辺裕太(?)という両親が役者擬きの息子から。リポーターのような仕事を日テレにニュースでやっているが、画面に登場一番「どうも、今日は」と言うのだ。「どうも」は広辞苑には「全く。誠に。「―済みません」「―有り難う」とあり、(用法の後段を略したもの)感謝・祝辞・謝罪・悔やみなどの意で、口頭の挨拶に広く用いる語」となっている。従って「どうも。今日は」は意味を為していない。日テレは訂正させるべきではないか。
ウンザリするのがアナウンサーたちが無邪気に「後ろから追突」とか「二十日の日」とか「後で後悔した」とか「今現在」などとニュース原稿を読んでいる辺りだ。経験上も彼等が即興で語る訳がないと承知しているから、原稿を書いた奴らの顔が見たいのだ。これがおかしな日本語ではないと気が付かないような学校教育を経て、テレビ会社に目出度く就職できたのであれば、萩生田文科相は日本全国の国語教師たちに「まともな国語教育を施せ」と時を無駄にせずに指示を出して貰いたい。ところが「今現在」や「今の現状」等は専門家様たちの間でもご愛用だから怖いのだ。
私は某地方局で12年間ラジオコメンテーターをさせて頂いたが、(実は、こういう表現は好みではないが、嫌な言葉遣いの例として敢えて使っている)、担当のプロデューサーもデイレクターさんたちは実に厳格で、原稿も厳しく調べ上げて貰えたし、言い間違いなどは絶対にと言って良いほど許されなかった。私は「これがあるべき姿であり、国語を間違いなく使うのは、出演料を頂戴する以上当然だ」と認識していた。シナリオも何度も読み返してから送っていたものだった。これと比較すれば、テレビのキー局などは大宅壮一氏が指摘した「一億総白痴化」の極みではないか。
敢えて結論めいたことを言っておけば、「自分の国の言葉でさえ、誤ったというか、おかしな使い方をしている状況では、英語教育を小学校から初めて国民の英語力を高めよう」などと言うのは、単なる虚け者の文科官僚と、何とか委員会の戯言に過ぎないのだと分かる。先ずは「キチンとした国語で物事を表現出来きるような国語教育により国語力の充実を図るべきべき」ではないか。そうでないと、1994年7月にUSTRのカーラ・ヒルズ大使が「アメリかでは初等教育の充実と識字率の向上を図るべきだ」と言われたのを、笑えなくなりはしないかと本気で心配している。
私は余りテレビは見ないと言ってはいるが、ニュースとスポーツ中継(お断りしておくが、相撲は興行でありスポーツの範疇には入れていない)は見ている。そこで気になって仕方がないことがある。それは、タレントと称されている連中は仕方がないとしても、結構なインテリであるはずの人たちが奇妙な言葉を使うのには落胆させられている点だ。インテリと看做す人たちの場合は概ねカタカナ語の乱れ打ちなので今更ここで云々するまでもないが、その他の連中の国語の乱れは誠に嘆かわしいのだ。しかも罪なき視聴者の中にはその乱れを真似る人が多いのも情けない話だと思う。
既に何度か例に挙げた言葉には「最高」というのがある。これは、何か景色を見ても、美味な食べ物に出会っても、何か良いことがあっても、試合を決めるホームランを打ってインタビューされても、トラックの種目で良い記録を出しても、タレントという連中や運動選手たちは「最高です」としか言えない表現力の欠如か、語彙の貧弱さを見せつけてくれるのだ。「何が、何処で、如何なる意味で最も優れていたか」や「どの食べ物の何処がこれまでに味わった中で、如何なる点で最も味付けが良かったか」や「新記録を樹立したことが何故良かったか」等が全て「最高」の一言で括られるのだ。
私は最早COVID-19乃至は武漢ウイルスの代名詞のようになってしまった「コロナ」も「言葉の誤用」という点では最悪だと見ているし、そのように指摘して来た。“corona”とは「光冠」という意味はあるが当たり前のことで「ウイルス」を表してはいない。私がこういう使い方をするのを聞いたのは、石原良純が最初だった。「おかしな言葉を使うな」と感じた。だが、それ以降マスコミも何も、老いも若きもマスメディアも政治家も皆「コロナ」であり、何処かの都知事が例によってしたり顔で“with corona”と言い出したのを聞いて「何て事だ」だとウンザリだった。
新聞の見出しの字数なら兎も角、テレビで「新型コロナウイルス」と言って何秒の時間が食い込むのか。私はこういう間違った言葉を恥ずかしくもなく使う誤りを即刻訂正すべきだと思っている。私は最早、アメリカ人との英語の会話中に通じるかどうかを試す機会が無くなったので断定はできないが、外国人というかアメリカ人が“corona”をウイルスの代名詞に使っているかどうかくらい確かめるのが、メディアの責務ではないのか。そういう意味では、私はここでは「コロナ」という誤ったカタカナ語を排斥していることになるが。
次はタレント用語というか、アナウンサーたちも平気で読み上げているというのか、知らずに使っている奇妙な日本を槍玉に挙げよう。先ずは、渡辺裕太(?)という両親が役者擬きの息子から。リポーターのような仕事を日テレにニュースでやっているが、画面に登場一番「どうも、今日は」と言うのだ。「どうも」は広辞苑には「全く。誠に。「―済みません」「―有り難う」とあり、(用法の後段を略したもの)感謝・祝辞・謝罪・悔やみなどの意で、口頭の挨拶に広く用いる語」となっている。従って「どうも。今日は」は意味を為していない。日テレは訂正させるべきではないか。
ウンザリするのがアナウンサーたちが無邪気に「後ろから追突」とか「二十日の日」とか「後で後悔した」とか「今現在」などとニュース原稿を読んでいる辺りだ。経験上も彼等が即興で語る訳がないと承知しているから、原稿を書いた奴らの顔が見たいのだ。これがおかしな日本語ではないと気が付かないような学校教育を経て、テレビ会社に目出度く就職できたのであれば、萩生田文科相は日本全国の国語教師たちに「まともな国語教育を施せ」と時を無駄にせずに指示を出して貰いたい。ところが「今現在」や「今の現状」等は専門家様たちの間でもご愛用だから怖いのだ。
私は某地方局で12年間ラジオコメンテーターをさせて頂いたが、(実は、こういう表現は好みではないが、嫌な言葉遣いの例として敢えて使っている)、担当のプロデューサーもデイレクターさんたちは実に厳格で、原稿も厳しく調べ上げて貰えたし、言い間違いなどは絶対にと言って良いほど許されなかった。私は「これがあるべき姿であり、国語を間違いなく使うのは、出演料を頂戴する以上当然だ」と認識していた。シナリオも何度も読み返してから送っていたものだった。これと比較すれば、テレビのキー局などは大宅壮一氏が指摘した「一億総白痴化」の極みではないか。
敢えて結論めいたことを言っておけば、「自分の国の言葉でさえ、誤ったというか、おかしな使い方をしている状況では、英語教育を小学校から初めて国民の英語力を高めよう」などと言うのは、単なる虚け者の文科官僚と、何とか委員会の戯言に過ぎないのだと分かる。先ずは「キチンとした国語で物事を表現出来きるような国語教育により国語力の充実を図るべきべき」ではないか。そうでないと、1994年7月にUSTRのカーラ・ヒルズ大使が「アメリかでは初等教育の充実と識字率の向上を図るべきだ」と言われたのを、笑えなくなりはしないかと本気で心配している。