キリスト教の文化を経験して:
Healing ministry:
1973年の未だM社に所属していた頃の経験だった。ジョージア州アトランタで週末を1人で過ごすことになった。退屈なので何気なく地下に降りてみた。そこでは所謂宴会場のような大広間で多くのキリスト教の信者が集まって集会が開催されていて、外からでも覗けるようになっていた。見るともなく見ていると、牧師が語っていたというか説教だったのだろう。やがて「悩みや病を治したい者はは前に進み出なさい。私がこの場で治してあげる」というようなことを言うや否や、かなりの数の人たちが続々と進み出た。
その牧師が何をしたかというと、一人ひとりから悩みなどを聞いてから何かを唱えて頭の上に手をかざしたのだった。そこから先には驚きというか異常な展開となって、その人たちがバタバタと倒れてしまったのだった。そこには何時の間にか介添え役がいて倒れてしまう前に支えて床に寝かせるのだった。そして、暫くすると何名かは立ち上がって牧師に礼を言って席に戻っていった。私にとっては全く信じられような光景なので、唯々呆気にとられて見ていた。
すると、受付にいた数人の婦人に「貴方が信者でなくても良いから、中に入って手かざしを受けてみたらどうか」と声をかけられた。そこで、質問があると「あの方は一体如何なる牧師さんなのか」と尋ねてみた。答えは”reformed Jew“と言ってユダヤ教から改宗された牧師様で、あのような何人も治癒してしまう能力を備えておられるお方だ」だった。勿論、とても信じる訳には行かないので、謹んで辞退して自室に戻った。だが、暫くはその不思議な光景の残像が残って落ち着かなかった。
週が明けて事業部に出勤して同僚にあの何と形容して良いかも解らない経験を語ってみた。すると本部の人たちは誰も驚く様子もなく「それは”healing ministry“と言って、そういう治療をするプロテスタントの牧師の職務の一つだ」と解説して貰えた。それはそれで解ったが、あれではプロテスタントというのは、我が国にも良くある新興宗教のようなものか、あるいはキリスト教と雖も初期には新興宗教的な色彩があり、今でもその形があのように残っているのではないのか。また、それに簡単にかかって倒れるような単純素朴な人たちがアメリカにはいるのかと、大いに考え込まされた。
復活祭のミサに参加して:
これは2000年4月ことで、リタイア後に初めてアメリカの空港の入管で”Pleasure trip.“と申告して入国した旅での経験だった。この際も週末の土・日にぶつかってしまった。すると、永年苦労を共にしてきたCustomer service担当でマネージャーの肩書きを持つLindaから「”Easterのミサに参加しないか」と誘われた。彼女は私が信者ではないことを承知しており「その点は関係ないから是非参加してみなさい。その後で両親と夕食会をするから」と薦めるので。お言葉に甘えることにした。
正直なところ、同じキリスト教でもカトリックとは異なってプロテスタントはそれほど形式を重んじないと聞いていたので、何事も経験かと思って教会に案内されてみた。そのミサも協会内の雰囲気も決して形式を重んじていないどころではなく、卒業後に何度か参列したことがあったあの四谷のイグナチオ教会で執り行われた葬儀とそう変わらないくらいの荘厳さだったので、先ず圧倒された。この点は予期した以上に非常に印象的だった。
そこから先は予想もできなかったことになって、参加者全員が”Happy Easter!“と言って、涙を流す者もいる状態で、誰彼の区別なく抱き合って祝福し合うのだった。私もその祝福の渦の中に巻き込まれたのだった。そして、その雰囲気にも圧倒されて気が付けば涙を流して誰彼ともなく抱き合っていたのだった。80年代にアトランタで経験したあの”healing ministry”の光景も思い浮かんできた。正直に言えば、招待してくれたLindaには心の中で感謝していた。この辺りが宗教の持つ凄さと、そう言って良いのか知らぬが、魔力のような物があるのかとも感じていた。
話は変わるが、これまでに何度もアメリカの共和党や民主党の大会を見ていると、良くあれほど大勢の支持者たち(人たち)が一堂に会して、個人が主体の国であるにも拘わらず、一致団結してあれほど盛り上がる精神構造には、あの復活祭のミサに見たキリスト教の集会的な何かがあるのではないかとすら感じさせられていたのだった。我が国のような物静かな民族性とは異なって、何事でもお祭り騒ぎのように賑やかに騒ぐアメリカとの文化と考え方の違いすら感じたキリスト教(プロテスタント)の経験だった。
そういう観点からすれば、あのバイデン氏を指名した民主党のリモートでの党大会が、如何にCOVID-19の蔓延の最中とは言え、盛り上がらなかったのは当然だったと思うし、バイデン氏を全国に印象付け損なったかのような気がするのだ。その点では、トランプ大統領というか共和党が同時期に開催した集会の方が巧みだったのではないのか。
Healing ministry:
1973年の未だM社に所属していた頃の経験だった。ジョージア州アトランタで週末を1人で過ごすことになった。退屈なので何気なく地下に降りてみた。そこでは所謂宴会場のような大広間で多くのキリスト教の信者が集まって集会が開催されていて、外からでも覗けるようになっていた。見るともなく見ていると、牧師が語っていたというか説教だったのだろう。やがて「悩みや病を治したい者はは前に進み出なさい。私がこの場で治してあげる」というようなことを言うや否や、かなりの数の人たちが続々と進み出た。
その牧師が何をしたかというと、一人ひとりから悩みなどを聞いてから何かを唱えて頭の上に手をかざしたのだった。そこから先には驚きというか異常な展開となって、その人たちがバタバタと倒れてしまったのだった。そこには何時の間にか介添え役がいて倒れてしまう前に支えて床に寝かせるのだった。そして、暫くすると何名かは立ち上がって牧師に礼を言って席に戻っていった。私にとっては全く信じられような光景なので、唯々呆気にとられて見ていた。
すると、受付にいた数人の婦人に「貴方が信者でなくても良いから、中に入って手かざしを受けてみたらどうか」と声をかけられた。そこで、質問があると「あの方は一体如何なる牧師さんなのか」と尋ねてみた。答えは”reformed Jew“と言ってユダヤ教から改宗された牧師様で、あのような何人も治癒してしまう能力を備えておられるお方だ」だった。勿論、とても信じる訳には行かないので、謹んで辞退して自室に戻った。だが、暫くはその不思議な光景の残像が残って落ち着かなかった。
週が明けて事業部に出勤して同僚にあの何と形容して良いかも解らない経験を語ってみた。すると本部の人たちは誰も驚く様子もなく「それは”healing ministry“と言って、そういう治療をするプロテスタントの牧師の職務の一つだ」と解説して貰えた。それはそれで解ったが、あれではプロテスタントというのは、我が国にも良くある新興宗教のようなものか、あるいはキリスト教と雖も初期には新興宗教的な色彩があり、今でもその形があのように残っているのではないのか。また、それに簡単にかかって倒れるような単純素朴な人たちがアメリカにはいるのかと、大いに考え込まされた。
復活祭のミサに参加して:
これは2000年4月ことで、リタイア後に初めてアメリカの空港の入管で”Pleasure trip.“と申告して入国した旅での経験だった。この際も週末の土・日にぶつかってしまった。すると、永年苦労を共にしてきたCustomer service担当でマネージャーの肩書きを持つLindaから「”Easterのミサに参加しないか」と誘われた。彼女は私が信者ではないことを承知しており「その点は関係ないから是非参加してみなさい。その後で両親と夕食会をするから」と薦めるので。お言葉に甘えることにした。
正直なところ、同じキリスト教でもカトリックとは異なってプロテスタントはそれほど形式を重んじないと聞いていたので、何事も経験かと思って教会に案内されてみた。そのミサも協会内の雰囲気も決して形式を重んじていないどころではなく、卒業後に何度か参列したことがあったあの四谷のイグナチオ教会で執り行われた葬儀とそう変わらないくらいの荘厳さだったので、先ず圧倒された。この点は予期した以上に非常に印象的だった。
そこから先は予想もできなかったことになって、参加者全員が”Happy Easter!“と言って、涙を流す者もいる状態で、誰彼の区別なく抱き合って祝福し合うのだった。私もその祝福の渦の中に巻き込まれたのだった。そして、その雰囲気にも圧倒されて気が付けば涙を流して誰彼ともなく抱き合っていたのだった。80年代にアトランタで経験したあの”healing ministry”の光景も思い浮かんできた。正直に言えば、招待してくれたLindaには心の中で感謝していた。この辺りが宗教の持つ凄さと、そう言って良いのか知らぬが、魔力のような物があるのかとも感じていた。
話は変わるが、これまでに何度もアメリカの共和党や民主党の大会を見ていると、良くあれほど大勢の支持者たち(人たち)が一堂に会して、個人が主体の国であるにも拘わらず、一致団結してあれほど盛り上がる精神構造には、あの復活祭のミサに見たキリスト教の集会的な何かがあるのではないかとすら感じさせられていたのだった。我が国のような物静かな民族性とは異なって、何事でもお祭り騒ぎのように賑やかに騒ぐアメリカとの文化と考え方の違いすら感じたキリスト教(プロテスタント)の経験だった。
そういう観点からすれば、あのバイデン氏を指名した民主党のリモートでの党大会が、如何にCOVID-19の蔓延の最中とは言え、盛り上がらなかったのは当然だったと思うし、バイデン氏を全国に印象付け損なったかのような気がするのだ。その点では、トランプ大統領というか共和党が同時期に開催した集会の方が巧みだったのではないのか。