新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月28日 その2 我が国とアメリカとの思考体系の相違点を考える

2021-06-28 16:30:55 | コラム
我が国とアメリカとの文化と物の考え方を比較すれば:

この事については、これまでに色々な形で取り上げてきた。だが、今回は先ほど空港における水際作戦においても現れた、我が国とアメリカとの思考体系の違いを取り上げたので、ここにより多くの例を挙げて、相違点を語ることで、なるべく多くの方々に理解して頂ければ良いがと考えた。確認しておくと、飽くまで相違があることを指摘したいだけで、両国間の優劣を論じているつもりはない。同時に、我々はアメリカという異文化の國と同盟関係にあり、世界のどの國よりもアメリカと親しい間柄にあることを忘れてはならないのだ。

*数量値引き契約を結ぼうではないか:
勿論、私の在職中の出来事。副社長とその時点では未だ発展途上であり、非常に意欲的な取引先に“incentive”を与えて一層奮起して貰おうと「数量値引き契約」を提案しようとしたときのことだった。副社長と「どのような値引きする数量の段階を設定するか」を打ち合わせた。私は「現状を100とした場合に、120と130くらいの段階を設定して150を限度としたい」と発議した。その案は副社長に一蹴され「300を最高到達点として、そこに至るまでの幾つかの段階を設けよう」と切り返された。

私は「300という最高到達点は余りにも現実離れしている」と否定してみた。ところが、彼は「では尋ねるが、もしも150を限度としておいて、300に達したらどうするのか。契約条項にないから値引きは出来ないと言えるのか」と切り込まれたのだった。何を言い出すのかと、些か毒気を抜かれた思いだった。

そして、副社長はダメ押しで「契約とはあり得ないということまで想定しておくべきものだと、考えておく必要があるのだ」と、言わば説教されたのだった。それで、その数量値引き契約書を提示すると「御社はここまで我が社の秘めたる能力を評価して下さったのか」と、その得意先は感激し、奮起したのだった。そして、私のリタイア後には見事に300を達成したそうだ。

*イチローの契約には「ホームラン王になったら」との項目が入っていた:
イチロー君がMLBに転出したのは2000年であるから、その活躍振りをシアトルで見たことは一度しかなかった。風の便りに、そのイチロー君は毎年の契約更改の際に「ホームラン王を取った場合の昇給額は・・・」を必ず入れていると聞いた。その根拠は「彼が打率を最優先にしなかった場合には、彼の能力ならば十分にホームラン王の可能性を秘めている。その条項を入れておかないと、万が一の時に査定の対象にならないから」だそうだった。上記の数量値引き契約の話から考えれば、極めて自然なことではあるが、矢張りアメリカらしい考え方だと印象的だった。

この話を2007年にシアトルとW社本社を訪問して、かの副社長や往年の同僚たちと旧交を温めた際に持ち出してみて「矢張り、アメリカらしい契約の精神だ」と礼賛してみた。ところがである、これを聞いてくれた全員が「その話の何処が珍しいのか。ごく当たり前のことで、契約書に盛り込むべき物の考え方以外の何物でもない」と言わば一蹴されてしまった。反省気味にいえば、少しでも感動した私が「文化の違いを忘れてしまったか」という事になってしまった。

*Contingency plan:
これも、これまでに何度も採り上げたこと。簡単に言えば「彼らは交渉の場に臨むときには先ず妥協することなく、自社の要求か主張を押し通してくる」のだ。だが、かと言って玉砕戦法は考えておらず、万一要求等を貫徹できない事態に備えて、妥協案ではない第2乃至は時と場合によっては第3案まで準備してくることすらあるのだ。その案を彼らは”contingency plan“と称しているのだ。これを準備してある意味は「もしも相手方を押し切れなかったことを想定して、代案を準備しておくのが普通である」ということなのだ。

フットボールではこの考え方から学んで、パスプレーなどの場合にそのフォーメーションに定めてあった最初からレシーバー(intended receiverなどと言うが)がマークされていた場合に備えて、二番手のレシーバーを必ず決めておくものなのだ。彼らはこれをsafety valveなどと呼ぶが、このような思考体系が、彼らの文化なのであるし、文化の違いだと思っている。


オリンピックの空港の水際作戦が修正された

2021-06-28 08:35:03 | コラム
空港でも濃厚接触者の判定を実行する:

私はこの修正は「文化比較論」の範疇に入るかと思うと同時に、論語の「過ちて則ち改むるに憚ること勿れ」に則って、各国の選手団が空港に到着した際の検疫(と言うか検査か)の手法が、ウガンダの選手団における言わば失態に懲りて、早速修正されたのは“Better late than never.”で、大変結構なことだと思う。即ち、新たに空港でも濃厚接触者の判定を下せるように改正したと、本日早朝のテレビのニュースで知った。

察するに、修正前の方式は「出発72時間前のPCR検査での陰性の証明書の提示、空港検疫での抗体検査の実施で陽性者が出ればその場で隔離、その空港から用意されたバスで合宿地等への直行」だったようだ。なお「到着後の毎日の検査で陽性者が出れば、地元の保健所が濃厚接触者の判定をする」となっていたそうだ。ここまでが大変結構な方式に見えるが、空港で濃厚接触者は判定しないように出来ていた。マスコミ報道では「濃厚接触者の判定は保健所の管轄であり、空港には保健所員は駐在していなかった」となっていた。

私はこの報道を聞いて「なるほど。如何にも我が国らしい方式を選んだものだ」と感じた。その根拠は「我が国とアメリカの文化と思考体系の違い」が現れたのだと解釈したからだ。それ故に、保健所員を空港に常駐させなかったことを「手落ちだ」と責める気はないという事。それは、我が国の考え方では「空港で濃厚接触者の判定が必要となる事態を想定せず」水際作戦を立てたのだろうと読んだからだ。アメリカ式の物の考え方では「濃厚接触者の判定が必要となる事態は想定できないが、万一を考えて保健所の出張員でも常駐させておこう」となったと思うのだ。

そういう思考体系の相違が、何と2番手(だったとして)でやって来たウガンダの選手団の場合に「万に一つかも」の事態が生じたのだった。それを「縦割り行政がどうの」などと非難するのは簡単だが、現時点ではそんなことにかまけている場合ではない。現実には間もなく、ウガンダの選手団の数十倍の選手とスタッフとやらが続々とやって来るのだ。そうであれば、濃厚接触者の判定を下す必要が生じると想定して、態勢を整えておくべきなのだ。最早「モグラ叩き」のような事後修正は許されないのだ。もしかすると「百万が一」の事態でも想定しておかねばならないのだ。

それは、ウイルス以外の病気の患者が到着して「医師の診察と診断を必要とする事態が起きないとは言えない」のではないか。またまたアメリカの例を挙げるが、フットボールの大型のスタジアムには万が一に備えて、外科医は勿論駐在しているしX線やCTの装置もあるし、内科医も用意されていると聞いている。選手だけではなく、観客の中からいつ何時心筋梗塞等の循環器系の病気が生じるかも知れないのだ。と言うことは、結局はどれほど投資をして備えておくかの問題でもあるのだ。組織委員会とかは、アメリカのそういう点まで視察でもしてあったのかと疑いたくなる。