実務の世界での英語の力を上達させるためには:
先ず強調しておきたいことは、「英語を流暢に喋るとか、発音が綺麗で正確であるとか、文法を正しく守っているとかということは勿論大事だ。だが、頭の中を英語だけにするというか「英語脳」にして英語独特の理論的な考え方が出来るようになる必要があるのだ」という点だ。偶々先ほどから「英語力とは」を論じる機会があったので、振り返ってみたのだった。
何年か前に採り上げたことに触れていこう。それは、President誌での大手企業の人事部長さんたちの座談会で「当社にはTOEICの点数が低くても、海外で立派な業績を上げてくる者たちがいる。それは英語を操る能力ではなく、外国人を説得するような論旨を英語で組み立てられる能力の問題であるから」と言った方がおられたという話だった。私は誠に尤も至極な指摘だと思った。即ち、試験の点が良くても、そういう能力がなければ何にもならないということだ。
私は英語では発音が綺麗で文法が正確であルのは結構なことだと認めているが、話はそれだけでは終わらないと知るべしなのだ。即ち、「日本語とは思考体系が異なる英語では、相手というかnative speakerたちを説き伏せられるに足る論旨の組み立てが出来なければ意味がない場合が多々ある」と言いたいのである。
私がW社をリタイアさせられた3年後の64歳の時に、某商社の部門長のT氏が「我が事業部門に力を貸して欲しい」と同社への参加を依頼してくれた。彼は京大経済学部の有名なゼミで歴史始まって以来の秀才と言われた切れ者だった。彼の英語は決して流暢ではなかったが、少ない数の単語を組み合わせて素晴らしい説得力に富んだ論旨を組み立ててくるのだった。それには、我が方の遣り手たちもタジタジだったし、高い知性と教養を誇るMBAの秀才マネージャーですら「もう彼と議論して負かされるのには懲りた」と嘆いていたのだった。技術者たちは「何てシャープな奴か」と舌を巻いていた。
ここで強調しておきたい点は「如何にして英語での説得力がある論旨を組み立てるか」と「アメリカ人たちの弱点を突くdebateの能力を磨いておくか」なのだ。話は本筋から逸れるかも知れないが、それほどの秀才で切れ者でも、出世街道からは外れて出向して行ってしまった。彼と私は会社の垣根を越えた得がたい友人だった。私から言えば「私に総合商社の中で得がたい経験をさせてくれた貴重な交友関係だった」という事。持つべきものは良き友人だ。
私は生来余り深く物事を考えない粗忽者たが、英語という理屈っぽい言語の世界で20年以上も過ごしたので、知らず知らずの間に英語での思考体系に引きずり込まれていたようで、日本語ででも英語のような理屈っぽい表現になっていたようだった。他人様によれば、論理的な話し方をするそうなのだが、正直に申し上げて全くそんな自覚がない。複数の勉強会でも何人かの会員の方にそう指摘されたが、当人には全く自覚症状はなかった。思うに、今回例として取り上げた外務省の大使級を含めた高級官僚の方々は、そういう英語脳にはなるまでの英語の世界での激しく且つ厳しい論争の経験がないのでは。
我が国の某大手メーカーにはご自身では英語は話されなくても、会談の前に見事な論旨を組み立てて準備をされて、我が天才副社長との話し合いに臨んでくる方がおられた。この方は某私立大学弁論部の重鎮だった方で、それはそれは凄い論客で恐ろしい程の凄い論旨を日本語で展開されるのだった。流石の我が方の天才副社長も屡々言い負かされていた。私がその通訳を務めていたのだった。その論旨の構成には何時も身震いさせられていた。要するに「英語はペラペラになるよりも、論旨を如何に構築して討論できるようなになるか」が鍵を握っていることなのだ。
このような論旨を組み立てられる境地に到達する為には、英語そのものの能力を向上させるだけではなく、場数を踏む必要もあると言って誤りではないと思っている。
外務省の立派な官僚の方々や政治家たちがそういう命を賭けたような怖い交渉や会談を経験しておられたどうかは知らない。だが、私は何度も述べてきたように彼らアメリカ側の一員として、アメリカ側の利益のための厳しい激しい対日交渉(と言うのも変だが)を経験してきた。その場ではただ単に通訳だけではなく、その交渉の当事者としての発言を重ねてきたのだ。そこで役目を果たすためには、英語でだけではなく、自分の国の言葉である日本語ででも、立派に論旨を構築しなければならなかったのだ。アメリカ人たちはそのdebateの能力を学校教育で仕込まれてくるのだから怖いのだ。
先ず強調しておきたいことは、「英語を流暢に喋るとか、発音が綺麗で正確であるとか、文法を正しく守っているとかということは勿論大事だ。だが、頭の中を英語だけにするというか「英語脳」にして英語独特の理論的な考え方が出来るようになる必要があるのだ」という点だ。偶々先ほどから「英語力とは」を論じる機会があったので、振り返ってみたのだった。
何年か前に採り上げたことに触れていこう。それは、President誌での大手企業の人事部長さんたちの座談会で「当社にはTOEICの点数が低くても、海外で立派な業績を上げてくる者たちがいる。それは英語を操る能力ではなく、外国人を説得するような論旨を英語で組み立てられる能力の問題であるから」と言った方がおられたという話だった。私は誠に尤も至極な指摘だと思った。即ち、試験の点が良くても、そういう能力がなければ何にもならないということだ。
私は英語では発音が綺麗で文法が正確であルのは結構なことだと認めているが、話はそれだけでは終わらないと知るべしなのだ。即ち、「日本語とは思考体系が異なる英語では、相手というかnative speakerたちを説き伏せられるに足る論旨の組み立てが出来なければ意味がない場合が多々ある」と言いたいのである。
私がW社をリタイアさせられた3年後の64歳の時に、某商社の部門長のT氏が「我が事業部門に力を貸して欲しい」と同社への参加を依頼してくれた。彼は京大経済学部の有名なゼミで歴史始まって以来の秀才と言われた切れ者だった。彼の英語は決して流暢ではなかったが、少ない数の単語を組み合わせて素晴らしい説得力に富んだ論旨を組み立ててくるのだった。それには、我が方の遣り手たちもタジタジだったし、高い知性と教養を誇るMBAの秀才マネージャーですら「もう彼と議論して負かされるのには懲りた」と嘆いていたのだった。技術者たちは「何てシャープな奴か」と舌を巻いていた。
ここで強調しておきたい点は「如何にして英語での説得力がある論旨を組み立てるか」と「アメリカ人たちの弱点を突くdebateの能力を磨いておくか」なのだ。話は本筋から逸れるかも知れないが、それほどの秀才で切れ者でも、出世街道からは外れて出向して行ってしまった。彼と私は会社の垣根を越えた得がたい友人だった。私から言えば「私に総合商社の中で得がたい経験をさせてくれた貴重な交友関係だった」という事。持つべきものは良き友人だ。
私は生来余り深く物事を考えない粗忽者たが、英語という理屈っぽい言語の世界で20年以上も過ごしたので、知らず知らずの間に英語での思考体系に引きずり込まれていたようで、日本語ででも英語のような理屈っぽい表現になっていたようだった。他人様によれば、論理的な話し方をするそうなのだが、正直に申し上げて全くそんな自覚がない。複数の勉強会でも何人かの会員の方にそう指摘されたが、当人には全く自覚症状はなかった。思うに、今回例として取り上げた外務省の大使級を含めた高級官僚の方々は、そういう英語脳にはなるまでの英語の世界での激しく且つ厳しい論争の経験がないのでは。
我が国の某大手メーカーにはご自身では英語は話されなくても、会談の前に見事な論旨を組み立てて準備をされて、我が天才副社長との話し合いに臨んでくる方がおられた。この方は某私立大学弁論部の重鎮だった方で、それはそれは凄い論客で恐ろしい程の凄い論旨を日本語で展開されるのだった。流石の我が方の天才副社長も屡々言い負かされていた。私がその通訳を務めていたのだった。その論旨の構成には何時も身震いさせられていた。要するに「英語はペラペラになるよりも、論旨を如何に構築して討論できるようなになるか」が鍵を握っていることなのだ。
このような論旨を組み立てられる境地に到達する為には、英語そのものの能力を向上させるだけではなく、場数を踏む必要もあると言って誤りではないと思っている。
外務省の立派な官僚の方々や政治家たちがそういう命を賭けたような怖い交渉や会談を経験しておられたどうかは知らない。だが、私は何度も述べてきたように彼らアメリカ側の一員として、アメリカ側の利益のための厳しい激しい対日交渉(と言うのも変だが)を経験してきた。その場ではただ単に通訳だけではなく、その交渉の当事者としての発言を重ねてきたのだ。そこで役目を果たすためには、英語でだけではなく、自分の国の言葉である日本語ででも、立派に論旨を構築しなければならなかったのだ。アメリカ人たちはそのdebateの能力を学校教育で仕込まれてくるのだから怖いのだ。