「セルビアは本当のA代表か?」:
二男はこの見出しのような疑問を投げかけていた。親馬鹿のようなことを敢えて言えば、彼は中学までサッカーをやっていて高校からフットボールに転じて、日大フェニックではあの1990年までの3連覇の一員だった。私にもあのセルビアの選手たちが、幾ら当てにならないとは言えFIFAのランクが我が国の28位よりも上の25位とはとても見えなかったのだった。我が方では専門家が絶賛されても私にはそうとは思えない大迫は負傷欠場だし、吉田麻也も遠藤航も酒井宏樹もU-24に参加していたので、言わば1.5軍の感が否定できなかった。
ところが、先ほどYahooニュースを見ていたら、ストイコビッチ監督はBテイームも混ぜていたと語っていたのだった。何ということはない、両方ともBテイームの選手たちの力試しのようなことをやっていたのだった。私にとっては「だから詰まらない試合だったのか」と教えて貰えたに過ぎなかった。
正直に言って、何度か戯称したことがあった「石器時代」のサッカー選手の私にとっては、現代のサッカーは最早理解することも鑑賞することも放棄せねばならない程、面白くないのだ。具体的に言えば「昭和20年に湘南中学の蹴球部に入って徹底して基礎と基本技を教え込まれ、そのまま昭和23年の第3回国民大会に関東のサッカー協会の期待を担って出場し、決勝戦で広島師範附属高校に負けてしまったが、それなりに基礎からキチンと固めた蹴球をやって来たのだった。
ところがである、現在のサッカーではその頃の基本技は全てと言って良い程無視されていても、我々の時代には考えられなかった球扱いの上手さと、スキルと技術が進歩しているのだ。その辺りは、アメリカに行ってMLBに加わったダルビッシュが「何か異種の競技をやっているのかと思った」と驚嘆した程、野球とbaseballが違っていたのと同様に、今や「蹴球」と「サッカー」は別物の如くであると思わせられる。
現在のブラジル式とヨーロッパ式の折衷のような大袈裟いに言えば「超絶技術と技巧(skillと個人技)のサッカー」は、最早我々と言えば不当だろうから敢えて私とするが、私の理解などを遙かに超越した近代化を終えてしまっているのだ。分かって貰えるかどうか知らないが「持てる力を全て発揮して真摯敢闘して、相手を抜き去ろうとしてタックルされても負けないような当たり・当たられる練習をしたような精神は存在しないよう」なのだ。
兎に角ピッチ全体を広く使って前後左右に、特に後ろと横にパスを回している間に、相手の守備体系にほころびが出来るまで味方同士でボールを保持して、何とか隙を突けるまでジックリと待とう」という、間怠っこいサッカーになってしまっている。私には「相手に迫られそうになると惜しげもなくGKまでにもパスを回してしまうとか、折角フリーでいるからと縦パスを出すと、受け手は躊躇せずにまたフィードしてきた者に蹴り返してしまい、デイフェンスをフェイントをかけて抜き去ろうとの努力をしないこと」などは理解不能などを通り越しているのだ。
昨夜の試合では、ヨーロッパの強豪であるとアナウンサーも触れ込んでくれたにも拘わらず、セルビアも自陣でのパス交換等々による安全運転ばかりが目立って、白人たち独得の「目に物見せてやろう」という類いの個人の力を誇示する姿勢が最後まで見えなかった、消極的で詰まらない90分だったという以外の感想がなかった。いや、もっと後難を恐れずに言えば「何処が上手いのか」と言いたかった程「凄いな」と感じさせられる個人技も展開もなかった。我が方も相手の消極性に合わせたのかと言いたい程、目に物見せてくれなかった。
誰だったかが「サッカーは点が入らないので見ていて詰まらない」と指摘したが、その点では余程サッカーに精通していないと「何処が凄いのか、上手いのか」が見えてこないので退屈になってしまう嫌いがあると思う。その点では、甚だ遺憾ながら、マスコミが持ち上げるラグビーの方がトライの数が多くなるので面白い見物になるし、モメンタムのスポーツである野球やバスケットボールの方が面白くなってしまうのだ。私は最早フットボールの方に興味を感じているので、時にはサッカーの国際試合の中継があったとを忘れてしまうことすらある始末だ。
昨夜のように前半のあのCKからの1点だけで、綺麗に整ったフォーメーションから流れの中で取った点がないサッカーでは、幾ら我が代表が勝ってくれても、サッカーの人気が上記の競技に優る一般人の興味を引ける存在にならないのではないかと危惧するのだ。余計なことを付け加えれば、私には森保一監督さんは余りにも地味すぎるとしか思えない存在感、更に余計なことを言えば、昨夜でもナショナルテイームの監督さんにしては服装が一寸垢抜けしていなさすぎるのも、何とかして貰いたいと思って見ていた。
二男はこの見出しのような疑問を投げかけていた。親馬鹿のようなことを敢えて言えば、彼は中学までサッカーをやっていて高校からフットボールに転じて、日大フェニックではあの1990年までの3連覇の一員だった。私にもあのセルビアの選手たちが、幾ら当てにならないとは言えFIFAのランクが我が国の28位よりも上の25位とはとても見えなかったのだった。我が方では専門家が絶賛されても私にはそうとは思えない大迫は負傷欠場だし、吉田麻也も遠藤航も酒井宏樹もU-24に参加していたので、言わば1.5軍の感が否定できなかった。
ところが、先ほどYahooニュースを見ていたら、ストイコビッチ監督はBテイームも混ぜていたと語っていたのだった。何ということはない、両方ともBテイームの選手たちの力試しのようなことをやっていたのだった。私にとっては「だから詰まらない試合だったのか」と教えて貰えたに過ぎなかった。
正直に言って、何度か戯称したことがあった「石器時代」のサッカー選手の私にとっては、現代のサッカーは最早理解することも鑑賞することも放棄せねばならない程、面白くないのだ。具体的に言えば「昭和20年に湘南中学の蹴球部に入って徹底して基礎と基本技を教え込まれ、そのまま昭和23年の第3回国民大会に関東のサッカー協会の期待を担って出場し、決勝戦で広島師範附属高校に負けてしまったが、それなりに基礎からキチンと固めた蹴球をやって来たのだった。
ところがである、現在のサッカーではその頃の基本技は全てと言って良い程無視されていても、我々の時代には考えられなかった球扱いの上手さと、スキルと技術が進歩しているのだ。その辺りは、アメリカに行ってMLBに加わったダルビッシュが「何か異種の競技をやっているのかと思った」と驚嘆した程、野球とbaseballが違っていたのと同様に、今や「蹴球」と「サッカー」は別物の如くであると思わせられる。
現在のブラジル式とヨーロッパ式の折衷のような大袈裟いに言えば「超絶技術と技巧(skillと個人技)のサッカー」は、最早我々と言えば不当だろうから敢えて私とするが、私の理解などを遙かに超越した近代化を終えてしまっているのだ。分かって貰えるかどうか知らないが「持てる力を全て発揮して真摯敢闘して、相手を抜き去ろうとしてタックルされても負けないような当たり・当たられる練習をしたような精神は存在しないよう」なのだ。
兎に角ピッチ全体を広く使って前後左右に、特に後ろと横にパスを回している間に、相手の守備体系にほころびが出来るまで味方同士でボールを保持して、何とか隙を突けるまでジックリと待とう」という、間怠っこいサッカーになってしまっている。私には「相手に迫られそうになると惜しげもなくGKまでにもパスを回してしまうとか、折角フリーでいるからと縦パスを出すと、受け手は躊躇せずにまたフィードしてきた者に蹴り返してしまい、デイフェンスをフェイントをかけて抜き去ろうとの努力をしないこと」などは理解不能などを通り越しているのだ。
昨夜の試合では、ヨーロッパの強豪であるとアナウンサーも触れ込んでくれたにも拘わらず、セルビアも自陣でのパス交換等々による安全運転ばかりが目立って、白人たち独得の「目に物見せてやろう」という類いの個人の力を誇示する姿勢が最後まで見えなかった、消極的で詰まらない90分だったという以外の感想がなかった。いや、もっと後難を恐れずに言えば「何処が上手いのか」と言いたかった程「凄いな」と感じさせられる個人技も展開もなかった。我が方も相手の消極性に合わせたのかと言いたい程、目に物見せてくれなかった。
誰だったかが「サッカーは点が入らないので見ていて詰まらない」と指摘したが、その点では余程サッカーに精通していないと「何処が凄いのか、上手いのか」が見えてこないので退屈になってしまう嫌いがあると思う。その点では、甚だ遺憾ながら、マスコミが持ち上げるラグビーの方がトライの数が多くなるので面白い見物になるし、モメンタムのスポーツである野球やバスケットボールの方が面白くなってしまうのだ。私は最早フットボールの方に興味を感じているので、時にはサッカーの国際試合の中継があったとを忘れてしまうことすらある始末だ。
昨夜のように前半のあのCKからの1点だけで、綺麗に整ったフォーメーションから流れの中で取った点がないサッカーでは、幾ら我が代表が勝ってくれても、サッカーの人気が上記の競技に優る一般人の興味を引ける存在にならないのではないかと危惧するのだ。余計なことを付け加えれば、私には森保一監督さんは余りにも地味すぎるとしか思えない存在感、更に余計なことを言えば、昨夜でもナショナルテイームの監督さんにしては服装が一寸垢抜けしていなさすぎるのも、何とかして貰いたいと思って見ていた。