新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月2日 その2 「我が国は専制政治体制ではないので」との訂正版

2023-04-02 16:56:23 | コラム
自主性に任せてもらえたのは有り難いことだが:

マスク着用の判断:

岸田総理の大英断?で、先月の13日からは「マスクを着用するかどうかは個人の判断」に委ねられた。一昨日は高田馬場駅のバス停留所で5分ほど行き交う人々を観察していたが、この辺りではよほど花粉症の人が多いのか、マスク無しの若者を1人だけ発見できた。バスには相変わらず日本語と英語で「マスクをして乗ること」と掲示されていた。

我が国民は未だCOVIDを警戒しているのか、習い性となってマスクを外せないのかの何れだろうが、法的根拠がなくてもマスク着用を続けていた。最早、マスク警察もいないだろうし、同調圧力がかかっているわけでもないと思うが、思えば一寸不思議な現象かと受け止めた。先週共に過ごしていたYM氏などは、新型コロナウイルスの観戦が最悪だった時期でも平然とマスク無しで動き回っても、ついぞ感染しなかったと振り返っていた。こういう例もあるのだ・

自転車のヘルメット着用の努力義務:
専制政治体制ではない有り難さというか生温さというか、昨日からヘルメットをかぶって自転車に乗っている者は見かけていなかった。確かに、路上では警察官の指導はあるようだが、罰則がなければ民主主義国家の恩恵に浴している我が国民は、ヘルメットへの投資はしないのではないかと危惧している。現に、売る方でも「それほど買う人が増えていない」と言っていると報じられていた。ヘルメットを着用していない場合の事故死は着用していた場合の2.3倍とニュースで強調されていたが、人々は事故に遭うのは自分ではないとでも甘く考えているのだろう。


ヘルメット着用の有無も問題だろうが、それよりも何よりも無茶苦茶に自転車を乗り回す老若男女の無法者どもを、道路交通法違反で取り締まるのを強化して欲しいのだ。彼らは法律の規制があるとは知らないようで、通行区分は守らないし、当然の権利のように歩道を疾走して高齢者の生命を危険にさらしている。最も恐ろしいのが電動アシスト付き自転車だ。あれに子供を2人乗せて走れば100kgを超える重量だろう。そんな物体にもしも衝突されれば命を失うだろう。規制すべきではないのか。

ではあっても、我が国は民主的法治国家であり、何処かの大国のように専制君主の独裁の下にあるわけではないのは大変有り難い。だが、規制されて然るべき事まで「個人の判断」や「努力義務」に任せていては宜しくないように、超後期高齢者は不満に思うのだ。間違っているだろうか。我が国民の自主的判断能力はそこまで成熟しているかは疑問に感じている。この点を岸田さんに伺ってみたいと思うのは、当方だけか。

4月2日 その2 我が国は先生政治体制ではないので

2023-04-02 13:57:21 | コラム
自主性に任せてもらえたのは有り難いことだが:

マスク着用の判断:
岸田総理の大英断?で、先月の13日からは「マスクを着用するかどうかは個人の判断」に委ねられた。一昨日は高田馬場駅のバス停留所で5分ほど行き交う人々を観察していたが、この辺りではよほど花粉症の人が多いのか、マスク無しの若者を1人だけ発見できた。バスには相変わらず日本語と英語で「マスクをして乗ること」と掲示されていた。

我が国民は未だCOVIDを警戒しているのか、習い性となってマスクを外せないのかの何れだろうが、法的根拠がなくてもマスク着用を続けていた。最早、マスク警察もいないだろうし、同調圧力がかかっているわけでもないと思うが、思えば一寸不思議な現象かと受け止めた。先週共に過ごしていたYM氏などは、新型コロナウイルスの観戦が最悪だった時期でも平然とマスク無しで動き回っても、ついぞ感染しなかったと振り返っていた。こういう例もあるのだ・

自転車のヘルメット着用の努力義務:
専制政治体制ではない有り難さというか生温さというか、昨日からヘルメットをかぶって自転車に乗っている者は見かけていなかった。確かに、路上では警察官の指導はあるようだが、罰則がなければ民主主義国家の恩恵に浴している我が国民は、ヘルメットへの投資はしないのではないかと危惧している。現に、売る方でも「それほど買う人が増えていない」と言っていると報じられていた。ヘルメットを着用していない場合の事故死は着用していた場合の2.3倍とニュースで強調されていたが、人々は事故に遭うのは自分ではないとでも甘く考えているのだろう。

ヘルメット着用の有無も問題だろうが、それよりも何よりも無茶苦茶に自転車を乗り回す老若男女の無法者どもを、道路交通法違反で取り締まるのを強化して欲しいのだ。彼らは法律の規制があるとは知らないようで、通行区分は守らないし、当然の権利のように歩道を疾走して高齢者の生命を危険にさらしている。最も恐ろしいのが電動アシスト付き自転車だ。あれに子供を2人乗せて走れば100kgを超える重量だろう。そんな物体にもしも衝突されれば命を失うだろう。規制すべきではないのか。

ではあっても、我が国は民主的法治国家であり、何処かの大国のように専制君主の独裁の下にあるわけではないのは大変有り難い。だが、規制されて然るべき事まで「個人の判断」や「努力義務」に任せていては宜しくないように、超後期高齢者は不満に思うのだ。間違っているだろうか。我が国民の自主的判断能力はそこまで成熟しているかは疑問に感じている。この点を岸田さんに伺ってみたいと思うのは、当方だけか。


高校野球は我が国の「文化」の一つである

2023-04-02 08:19:52 | コラム
甲子園の野球を我が国の文化としてみて見ていた:

昨4月1日の選抜野球の決勝戦は非常に興味ある試合だった。そこで、私独特の視点からの高校野球の見方を紹介しておこう。面白いというか変わった見方をすると思ってお読み頂ければ幸甚である。

ハッキリ申し上げておくと、当方は今を去ること40年ほど前から、甲子園の野球も含めて「高校の全国大会の開催」には否定的なのである。その根拠は今日までに繰り返して主張してきたので、本稿では展開しない。

名前:
これには文化論としても非常に興味深いのだ。偽らざるところを言えば「我が国の命名(名前をつけること)の歴史と文化は、現在の高校生たちの親御さんたちの世代では取り返しが付かないところまで変化されてしまった」のである。確認しておくと、ここに言う「名前」とは「下の名前」のことなのである。当方は先ず試合開始とともに守備位置に散っていく選手たちの名前に注目するようにしている。それは、そこには明らかな名前の文化と時代の変化が読み取れるからだ。

具体的に言えば、彼らの名前の90%には珍しい漢字、例えば普通の(在来の)漢字に冠や偏をつけてあるとか、当て字が使われている等々の為に解読不能なのだ。また必ず誰か1人は翔の字が使われているのも特徴だ。2文字目に斗、希、大、平、太、輝が使われていることが非常に多いのも時代の変化だ。このような「新時代を象徴するかのようなきらきらネーム的な命名は、地方に行くほど多くなる傾向が認められる。特に「翔」が多用されるのは大谷君に肖るのではなく、漫画の悪影響ではないかと疑って嘆いている。

日本高野連の非常識:
「非近代性」でも良いかもも知れないとすら考えている。NPBでも近年は先発投手交代の目安が100球のようである。先日のWBCでは「65球」、「85球」、「96球」だったかに制限され、所謂「ワンポイント」が禁じられていた。あの場に登場する投手たちは鍛え上げられた大人の「プロ」である。

一方の高校生たちは成熟する前で鍛え上げられていないのは明らかだ。その生徒たちに100数十球も平然と投げさせて、何試合も連投させて恬として恥じない。間違っていると思わない精神構造を疑う。

こういう無茶苦茶な「勝利の為には如何なる犠牲も厭わない」という使い方がどれ程非合理的かは、ここに論じる必要はないだろう。私だって昭和23年に国体の決勝戦まで行った経験があるので、「全国制覇」がどれ程の夢であり大目標であるかは承知している。

だが、その為に、高校生の野球選手としての将来を危うくして良いものかどうかは考慮しても良いのではないかと考えている。「子供たちに勝たせてやりたい」と願う大人たちの勝手な願いではないのか。

優勝した山梨学院の林投手は6試合全部投げ抜いたそうだが「疲れは感じない」と言っていた。だが、あるスポーツの通は「彼を大学かプロが投手としては取らないだろう」と厳しい見方をしていた。林君は高校の野球部員としては最高の名誉を獲得したが、もしかするとここまでで投手としての身体能力を使い果たしてしまったかもしれないのだ。彼にはそれが高校生としての大目標だったのならばそれでも良いだろうが、運動選手としての将来は別問題ではないのかと言いたい。

偏差値の問題:
実は、何時でも対戦する両校の偏差値を調べるようにしている。そこに見えてくる傾向は、低く出ている学校の方が勝つことである。昨日の山梨学院高校対兵庫県の報徳学園は全く同じの48―59だった。その点からは優劣が認められなかった。という次第だったから、試合開始前には「どちらが勝つか」の「閃き」が来なかったので、どのような展開になるかとの興味を持って観戦していられた。理屈では「大阪桐蔭をひっくり返した報徳に勢いが付いているかな」という程度に見ていた。

だが、山梨学院のあの1回で7点を取ってしまった攻めは見事だったと褒めてあげたい。だが、報徳学園の監督さんはあれほど良く投げていた間木という珍しい名字の投手の交代の時期が一人遅れた為に、山梨学院を勢いづかせる結果になってしまった。

野球は「モメンタムの競技」であるのだから、波に乗ってしまった相手は食い止めようがないと、残酷なまでに監督の逡巡が墓穴を掘ってしまった事を見せていた。でも、明らかなことは「勝った方が強いのだ」という紛れもない事実。

7対3と4点は開いたが、偏差値が並んでいたことが示したように、実力が拮抗した良い試合だった。実は、9回に山梨学院が2アウトを取るまでは報徳学園の反撃がありはしないかと密かに期待して見ていた。矢張り、一人で林投手の9回投げきった精神力を賞賛してあげねばなるまいと思う、仮令、高野連の時代遅れの指針に阿ることになるかも知れなくても。高野連が何時かはこの事態遅れの」「文化」を改革すべきであると指摘して終わる。