矢張り切り取り報道だったようなのだが:
先ほど、何処のテレビ局かは失念したが、真鍋淑郎氏がプリンストン大学における記者会見の中のようで「日本に帰りたくない。何故なら日本では周りの人に迷惑をかけないように気を遣わなければならないから」という字幕を出して“I don’t want to go back to Japan. As I don’t want to do anything which is disturbing to other people.”(だったと思うのだ)との音声を流していた。
私は驚きと共にやや複雑な気持ちで聞いていた。「複雑な気持ち」を英語にすれば“mixed emotion”になると思うが。複雑だという意味は「公開の席でよくもそこまで思い切ったことを言われたな」という点があった。同時に「我が国の会社組織の中では、確かに周囲を気にするのだが、アメリカでは略(ほぼ)というか、先ずそういう気遣いはしないで済んでいたな」と同感だったし「迷惑をかけないような気遣い云々」はその通りかと感じていた。
そこで、ここに取り上げる前に、先ずどういう状況での発言だったかを検索してみた。すると、質問は「何故アメリカ国籍を選んだのか」だった。それに対する真鍋氏の答えを要約してみると「(前略)私の上司は寛容であらゆるコンピュータを買ってくれて、好きなように使わせて貰えた。それにここでは日本のように周りの人たちの邪魔をしないように気を遣う必要がないのだ。だから私は日本に戻りたくないのだ」となるのだ。決して爆弾発言のように聞こえる「日本には帰りたくない」と言われたのではないようだった。「巧みに切り取ったのだな」と感じた次第だ。
マスメディアの例によって例の如き手法だなとは思うが、ここではそれを批判するのではなく、真鍋淑郎氏の発言を私自身の経験に基づいて少し解説してみようと思う。「周囲に気を遣わないで済む」はその通りだと言える。それは「ジャブ(job)型雇用」からも感じ取れると思うことで「即戦力として(中途)採用された者は飽くまでも個人が主体で仕事を進めるのであって、周囲に気を遣うことなど先ずあり得ない」のである。
それは、周囲にいる者たちは皆異なる「職務内容記述書」に従って仕事をするのだから、他人の協力を期待することも、また援助もする訳がないのだ。真鍋淑郎氏の研究にしても、上司から十分な予算を与えられ、それこそ必要にして十分なコンピュータを与えられ、真鍋氏自身がやりたいと企画された研究に没頭しておられたのであろう。言うまでもない事だろうが、その研究を進める過程で周囲の誰かに気を遣う必要は生じないのだろう。その裏の意味は「日本に戻れば、そうは行かない」となってしまうのではないだろうか。
私の場合は言うなれば「本部から日本市場に派遣され、日本市場における全てを任されたマネージャー」である以上、あらゆる手法を駆使して責任を全うせねばならないのである。その“job”は部内の誰とも重複していないのであり、誰にも気を遣うことなく(と言っても、生殺与奪の権を握っている副社長兼事業部長には、これでもかという程遣うが)与えられた職務を自分の力だけで達成せねばならないのだ。真鍋淑郎氏はそういうアメリカにおける研究の在り方を好まれたのであろうし、それが真鍋氏に適合していたのだろうと察した。私とても同様だったと思う。
私は今日までに機会ある毎に繰り返して「我が国とアメリカの企業社会における文化と思考体系の違い」を語って来た。その間に「もしかして」と危惧していることがあった。それは「彼はアメリカの企業社会の在り方を礼賛しているのだ」と見られているのではないかという点だ。断言して置くが「優劣を論じてはいない。飽くまでも比較論である」だけのことだ。私をMeadに転出する機会を作って頂けたGN氏が指摘された「君は日本の会社組織には向いていない」というようなことを表しているのだ。
真鍋淑郎氏はその能力と個性に相応しいというか適切だった場所を探し当てられたのだろう。人にはその人次第で「向き・不向き」があるというのが結論だ。
先ほど、何処のテレビ局かは失念したが、真鍋淑郎氏がプリンストン大学における記者会見の中のようで「日本に帰りたくない。何故なら日本では周りの人に迷惑をかけないように気を遣わなければならないから」という字幕を出して“I don’t want to go back to Japan. As I don’t want to do anything which is disturbing to other people.”(だったと思うのだ)との音声を流していた。
私は驚きと共にやや複雑な気持ちで聞いていた。「複雑な気持ち」を英語にすれば“mixed emotion”になると思うが。複雑だという意味は「公開の席でよくもそこまで思い切ったことを言われたな」という点があった。同時に「我が国の会社組織の中では、確かに周囲を気にするのだが、アメリカでは略(ほぼ)というか、先ずそういう気遣いはしないで済んでいたな」と同感だったし「迷惑をかけないような気遣い云々」はその通りかと感じていた。
そこで、ここに取り上げる前に、先ずどういう状況での発言だったかを検索してみた。すると、質問は「何故アメリカ国籍を選んだのか」だった。それに対する真鍋氏の答えを要約してみると「(前略)私の上司は寛容であらゆるコンピュータを買ってくれて、好きなように使わせて貰えた。それにここでは日本のように周りの人たちの邪魔をしないように気を遣う必要がないのだ。だから私は日本に戻りたくないのだ」となるのだ。決して爆弾発言のように聞こえる「日本には帰りたくない」と言われたのではないようだった。「巧みに切り取ったのだな」と感じた次第だ。
マスメディアの例によって例の如き手法だなとは思うが、ここではそれを批判するのではなく、真鍋淑郎氏の発言を私自身の経験に基づいて少し解説してみようと思う。「周囲に気を遣わないで済む」はその通りだと言える。それは「ジャブ(job)型雇用」からも感じ取れると思うことで「即戦力として(中途)採用された者は飽くまでも個人が主体で仕事を進めるのであって、周囲に気を遣うことなど先ずあり得ない」のである。
それは、周囲にいる者たちは皆異なる「職務内容記述書」に従って仕事をするのだから、他人の協力を期待することも、また援助もする訳がないのだ。真鍋淑郎氏の研究にしても、上司から十分な予算を与えられ、それこそ必要にして十分なコンピュータを与えられ、真鍋氏自身がやりたいと企画された研究に没頭しておられたのであろう。言うまでもない事だろうが、その研究を進める過程で周囲の誰かに気を遣う必要は生じないのだろう。その裏の意味は「日本に戻れば、そうは行かない」となってしまうのではないだろうか。
私の場合は言うなれば「本部から日本市場に派遣され、日本市場における全てを任されたマネージャー」である以上、あらゆる手法を駆使して責任を全うせねばならないのである。その“job”は部内の誰とも重複していないのであり、誰にも気を遣うことなく(と言っても、生殺与奪の権を握っている副社長兼事業部長には、これでもかという程遣うが)与えられた職務を自分の力だけで達成せねばならないのだ。真鍋淑郎氏はそういうアメリカにおける研究の在り方を好まれたのであろうし、それが真鍋氏に適合していたのだろうと察した。私とても同様だったと思う。
私は今日までに機会ある毎に繰り返して「我が国とアメリカの企業社会における文化と思考体系の違い」を語って来た。その間に「もしかして」と危惧していることがあった。それは「彼はアメリカの企業社会の在り方を礼賛しているのだ」と見られているのではないかという点だ。断言して置くが「優劣を論じてはいない。飽くまでも比較論である」だけのことだ。私をMeadに転出する機会を作って頂けたGN氏が指摘された「君は日本の会社組織には向いていない」というようなことを表しているのだ。
真鍋淑郎氏はその能力と個性に相応しいというか適切だった場所を探し当てられたのだろう。人にはその人次第で「向き・不向き」があるというのが結論だ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます