新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月4日 その3 少しは新型コロナウイルスの話題から離れよう

2020-04-04 11:50:09 | コラム
私が推薦する英語の勉強法:

音読・暗記・暗唱の勧め:


私はこれまでに何度も「英語の勉強法」を語って来た。その度に強調して来たことは「教科書を、それも中学1乃至は2年程度で十分だが、繰り返し繰り返して音読・暗記・暗唱する事」だった。当然、それだけで英語が出来るようになり、外国人を相手にして会話などが出来るのか」という疑問を持たれる方がおられるだろう。しかし、私は現実にこの勉強法でそこまでの境地に到達できたのだ。そこで、ここにあらためて、どのような経過を辿ったかも振り返ってみよう。

私は我が国の英語教育では「答えは一つである」というように科学的であり(?)且つ数学の問題を解くのにも似た教え方をするので、教えられる方では常に絶対的に正しいと思われているようなたった一つの答えや表現なり話し方なりを選ぼうとしてしまうようになるのだと見てきた。私はそんなことはないと思う。例えば、日本語で同じ一つの事柄を10人に言わせれば、俗に言う「10人寄れば気は十色」とあるように、全員が違う表現になるだろうが、意味は通じるだろう。英語でもどれか一つだけが正解だなどということはあるまい。

私は持論である「音読・暗記・暗唱」の他にもう一つ重要な勉強法というか「教え方」として「正確で綺麗な発音」を加えたいのだ。私は幸運にも旧制中学1年の最初に敵性語である英語を教えて頂いた先生が両親の何れかがアメリカ人だったので、正確で美しいアメリカごと言って良いだろう発音を教えて頂けたのだった。何も分からない私は唯々先生の真似をしていただけだったが、何とかついて行けたので後々に分かったことだが、アメリカ人や英連邦の人たちにも十分に理解して貰える発音が出来るようになっていたのだった。ここで重要な点は「何とかして、模範となる先生の真似をする」である。これは反復して真似ている間に何とか身に付いてくるものだ。

私はこの「正解は一つ」という非常に厳格で不合理な縛りの中で「科学としての英語」を数学のように教え、それに基づいた試験問題を出してその採点をして、尚且つ5段階で査定していくのが我が国の学校教育における英語の教え方だと思っている。この方式で育って英語で自由自在に物事を考えられるようになって、英語を母国語とする外国人たちの思うように「会話」などが出来るようになれば、それは奇跡だと言っても良いと思っている。

それだから、中学に入って英語に接するようになった生徒たちに間に「英語とは窮屈なものだ。おかしな発音がある言葉だし、解りにくいものだ」という嫌悪感が発生したのも無理はないと思っている。それが今や文科省は小学校の3年生から教えようというのだから、論外だと思う。上記のような教え方を小学生の段階に下げて、効果が挙がると思っているのだったならば、自分たちの教え方の欠陥か問題点が分かっていないということに他ならない。しかも、その実用性に乏しい教え方の行く手にはTOEICだのTOEFLなどが待ち構えているのだから始末に困る。

私は中学生の頃に何の学問的な理屈も理論の裏付けがなくても、そういう学校教育の勉強の仕方や教えられ方を避けて、学校で何を教えられようと関係なく、自分勝手に最も楽な勉強法だった「音読・暗記・暗唱」だけを続けてきた。その音読の狙いは何十回でも音読し続けていれば、そのうちに一つの文章を何処で切るかや(pauseで良いだろう)、分からない単語があっても前後の関係で大凡の意味が推理出来るようになってくるのだ。重要な点は知らない単語に出会ったならば、その度毎に辞書を引くことを怠ってはならない点だ。この意味は「単語の意味をバラバラに覚えるのではなく、流れの中で覚えておくこと」であり、覚える方法が音読なのである。

その勝手なやり方でも何故か正しい読み方が出来るようになったし(切るべきところで切るようになるという意味)、文法的にも誤りがない正しい表現を記憶できるようになったし、「こういう時はこのように言えば良い」という表現の小引き出しがドンドン増えていったのだった。後難を恐れずに言えば「学校で教えられるやり方に真面目についていった者たちよりも、理解力も表現力も自然に身につけることが出来たという結果を生んでいた」のだった。

念の為に確認しておけば、音読・暗記・暗唱の他には「単語帳も単語カードも一切作らない」、「教科書でも何でも知らない単語に出会ったらその都度辞書を引いて意味を理解しようとした」、「教科書には一切書き込みをしない」、「英文和訳をして理解しようとはしないで英語のままで理解する」、「英語の文章を書く場合には、英語では何と言うかを、知っている限りの単語と表現を記憶の小引き出しから探し出して書いてみる」を実践していた。

その結果としては、旧制中学から大学の教養課程までの間に、英語の試験で90点を切ったのが2回しかなかったというところに到達していたのだった。信じるか信じないかは受け取られる方の勝手だが、この勉強法でそこまで行けたのは事実だった。現に、1972年からアメリカ人の会社に転進しても、勿論苦労はしたが、何とか不自由することなく仕事は出来ていたのだった。

即ち、高校1年の頃にはアメリカ人たちの中に入っても意思の疎通で何ら問題を感じたことがなかったし、アメリカ人の中で暮らしていても、“I know how to express myself well enough.”が出来ていたということだ。

勿論、高校の頃には大学受験を控えて佐々木高政氏の名作「英文構成法」で英作文の勉強を懸命にしていたのだった。この本で学んだことの効果は絶大で、W社の東京事務所の副社長補佐だった日系人でワシントン大学のMBAであるJ氏には有り難いことに「英文を書く基本は出来ている」と認めて貰えたのだった。

私は常に「音読・暗記・暗唱」を推薦し「単語カード」だの「単語帳」だの、「英文和訳」だの「英作文」だの「英会話」等々の勉強をしなかった回顧してみせるが、そこには何の理論的根拠はなかったし、これで行けるとの確信もなかったのだ。正直に言えば「英語の先生方が言われるような勉強の仕方をしなくても、英語だけは良い点数が取れた」というだけのことで、言うなれば「我流の手抜きで学校の教育に逆らったのだった」とでもなるだろう。

即ち、チャンと英語を指導要綱に従って教えておられた先生方から見れば、不真面目な生徒だったかも知れないのにも拘わらず、気が付けば高校の頃には「文法の達人」とも周囲にも認められるようにもなっていたのだった。それが偶然の産物だったのか、あるいはその「手抜きの勉強法」が良かったのかなどは未だに分からない。だが、それでも当時の湘南中学(高校)に無数にいた秀才たちとも英語の成績だけは何とかついていける力は付いていたにだった。そして、アメリカ人の中に入って「我々と変わらない英語力がある」と認めて貰ったことも会ったのだ。

しかし、大学に入って私などは到底及ばない凄い英語力を持った同級生に出会って、恐る恐る高校までの英語の勉強法を尋ねてみれば、何と私と全く同じだったのには感動した。彼は私とは違って全科目に優れていたので、3年になった時に大学の推薦で同じイエズス会系のアメリカの大学に留学に出て行った。ではあっても、私の勉強法が必ずしも誤りではなかったことが立証されたので、大いに意を強くしたのだった。

私には彼とも他の学生とも違っていた英語の勉強法に違いがあったことは認めておかねばなるまい。それは、終戦後直ぐからGHQの日系人の秘書の方に「英語を聞いた時に日本語にしようなどはせずに、英語のままで受け入れて理解死覚えておくようにする事」と「英語で話そうとする際に、先ず日本語を考えてそれを訳すようなことをしてはならない。飽くまでも英語だけで考えること」を厳しく言われたことが英語力を向上させる大きな力になっていたのは間違いないだろう。

私は大学の卒業を目の前にして「英語で仕事をする会社にだけは行きたくない」と固く心に決めていた。それは英語と日本語との違いを知っていただけに、仕事の面で英語を使う事がどれほど余計な負担になるだろうかと考えたからだった。また、新卒で採用して頂いた会社に勤務している間には、一度たりともアメリカの会社に転進することなど考えたことなどなかった。それが偶然の積み重ねで17年もお世話になった会社を離れて39歳にして現実のことになってしまったのだった。




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