私を困惑させる合成語:
昨日もカタカナ語についてほんの少しだけ触れたが、私は何時の間にか漢字の熟語と合成されて、遍く我が国のマスコミ業界を始めとして処々方々に普及している合成語に惑わせられている。今回は批判でも排斥でもなく、そういう合成語を英語にして考えてみようと思うと、それが結構な難事業である点を嘆いてみたいのだ。そこで直ちに思いつく例を挙げてみよう。
コミュニケーションを取る:
これには常日頃困惑させられている。それは「何故もっと(私にも)解りやすい日本語で『意思の疎通を図ること』と言わないのだろうか」なのだ。もしかすると「これでは難しい漢字の熟語が二つも出てくるのが怪しからん」からなのかと思っている。Oxfordに出てくるcommunicationを使った例文は“Speech is the fastest method of communication between people”というのが出てくる。私はここには「どのようにして他者と意志疎通を図る」というか「如何にしてアイディアや感情や情報を交換するか」との手法が出てきていないと思った。
中々上手く表現できない恐れがあるが、敢えて我々というか私と言うが、他者と意見を交換し、情報を伝えるとかいう場合には“Let’s communicate with each other.”とは切り出さないものだった。直接に「この件について討論しよう」とか「あの問題について君の意見を聞きたい」または「あの会社の動静について何か新規の情報があれば聞かせて欲しい」というような言い方になったと思う。そして、こう切り出す前に“Let’s sit down to have a chat for a while.”と誘うことから入っていったのだった。
また、団体競技の選手たちが「チームメイトと良くコミュニケーションを取って」などと言うのも、私には解り難いのだ。それは「事前に十分に意見を交換して作戦を練ろう」であるとか「試合中に臨機応変に目と目で意志を確認しあって行こうではないか」辺りの意味だと思うのだ。もしもそうであれば、「コミュニケーション」で括らずにキチンとそう言えば良いと思ってしまう。英語という言語ではこのように細かく具体的な内容を伝えないことには、意思の疎通というか、意見や情報の交換が出来にくくなるように出来ているのだ。
自己ベスト:
この言葉にも困っている。これは主に個人種目の競技で使われている合成語だ。これについては既に何度か批判してあったことで、ベスト(best)は形容詞であるgoodかwellの最上級であって、通常は名詞形では使われていないと指摘してあった。こんな面倒くさい文法論は措くとしても、自己ベストでは最高か最善の何であるかが出てきていないのだ。その辺りを英辞郎で見れば“the personal best record”と出ている。問題はそこにあるのだ。即ち、「記録」が省かれていても、日本語の観念では十分に通じてしまうのだ。
恐らく、英語を母国語とする人たちに“This is my best.”と話しかけてみると“What do you mean by saying my best?”と切り返されることがあるかも知れない。英語というのは七面倒くさい言語であって、細部まで明確に言っておかないと、何が言いたいのか解って貰えないことになるのだ。私は経験からもそう言えると思っている。お断りしておくと、ここは飽くまでも英語で意志の疎通を図っている場合のことであり、我が国の中では十分に「自己最高記録」を意味していると万人が理解するだろう。
また、付け加えておきたいことは、英語の感覚では「自己」か「私的」はprivate(=プラベート)ではなくて、personalとする方が適切である点だ。故に、芸人の事務所が「プライベートは各人に任せてありますので」と言うのは純粋な日本語なのであると承知しておく方が良いと思う。私ならば“personal life”と言うと思う。因みに、Oxfordにはprivacyとは“the state of being alone and not watched or disturbed by other people”とある。これでも「私生活」のことにはならない。
英語という外つ国(トツクニ)の言語の煩わしさ:
日本語とは全く異なっている点は「以心伝心で通じる」はあり得ない点なのだ。だから、面倒だと思っても言葉(単語)を沢山使ってでも細かい点まで表現しないと、相手に完全に意志というか自分が言いたい事が理解されない危険性が高くなるのだと認識しておく必要があるのだ。だから「コミュニケーションを取る」という合成語では、具体的にどのような方法か手段で意見や意志や情報を交換するのかが明確に表されていないのだと思っている。
要するに「文化も思考体系も全く異なる国の言語である英語」で自分の思うところを的確に表現して相互に理解し合う為には、この点まで十分に認識しておくことが肝腎であると申し上げているのだ。更に言えば「英語を日本語の思考体系で考えてはならない」ということだ。
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