何故カタカナ語を使いたがるのか:
私は1990年頃からの筋金入りのカタカナ語排斥論者だと自認している。そして「何か格好が良いとか、知性と教養があるように見えるだろうと錯覚して、本来のEnglishとは全く別個であるカタカナ語を使うのはご随意に」とは言ってきた。しかし、但し書きを付けて「その手の表音文字の英語の単語は、英語本来の意味とはかけ離れた意味で使われているとご承知置きを」とも指摘して来た。だが、私が何十年排斥しようと、上は大臣や国会議員の方々やテレビで専門家と定義された多くの分野の権威者でも、躊躇せずに言葉の誤用であるカタカナ語を駆使されているというお寒い状態だ。
私はそうなってしまった背景には戦後に文部省が漢字が難しすぎるとばかりに略字を普及させただけではなく、漢字の熟語をも排除してしまったので、その代替にとばかりに学識経験者までが英語の単語で漢字の熟語の代用として使い始めたと思い込んでいる。そこに某通信社が便乗して外来語ハンドブックまで編み出したので、カタカナ語の普及が止まらなくなってしまったのだと、私は悪意的に解釈している。何度も指摘して来たことだが、英語のアルファベットは表音文字であり、そこから派生したカタカナ語を見ただけでは直ちに意味が取れない性質なのだ。
これまでに繰り返してそういう言葉の誤用の例を挙げてきたが、事今日に至るとその「悪貨は良貨を駆逐する」勢いは止まるところを知らず、遂には英語を良く解っていたはずの私が「はて、この単語の本来のEnglishではどういう意味だったか」と迷ってしまう例が雨後の竹の子の如くに増えて、慌てて英和辞書やOxfordで確認しなければならない事態が多くなった。少しだけ例を挙げておけば「トラブル」は多くの場合に「揉め事」の意味に使われているが、Oxfordにはそういう解釈はない。「挑戦」という熟語は消滅して「チャレンジ」だけになってしまった。
毎回取り上げてきた「メジャーリーグ」、「メリット」、「デメリット」、「メインバンク」、「オープン」、「カジュアル」、「スタッフ」、「サポート」、「ドラスティック」、「フリップ」、「セキュリティー」、「パーテーション」などは最早救いようがないと思って、完全に諦めの境地だ。念の為に確認しておくと「これらをお使いになるのは勝手だし、阻止する気はない。だが、使う前に御用とお急ぎでなければ、一度で良いから辞書を引いて自分がおかしな言葉を使っているか否かをご確認願えれば幸甚なのだ」とだけは言っておきたい。
更に敢えて言っておきたいこと、即ち私が絶対避けたいこと、あってはならないことと考えているのが「カタカナ語の多用による日本語の表音文字化」なのだ。しかし、現実にはカタカナ語というか英語の単語をカタカナ表記して誤用する人と、ローマ字式に発音して使う人は増える一方なのだ。特に所謂有識者や文化人はこういう語法に頼ることを衒っているとしか思えない方々までテレビに登場されるのだ。簡単に言えば「日本式学校教育の英語の好ましくない成果が現れて、難しい単語を知っているとのひけらかしたい人」が増えているのは、私には嫌みにしか聞こえないのだ。
私はアメリカの会社に転進してからは表音文字の世界で読み書きせざるを得ない生活を続けた。英語の困ったことは表音文字である以上一目見ただけでは完全に理解出来ないということ。綴りを目で追って何という言葉かが解って、更に黙読か音読を進めて文章全体を読んで、初めてその文章の意味が把握できるのだ。具体的には、例えば会議に参加して配付された資料をその場で一読して内容を把握せねば、討論にも参加できない無意味な存在になってしまうのだ。また、日常の業務でも本部や工場等から送られてくる書類を即座に理解し反応できなければ、仕事にならず使い物にならないのだ。
表音文字の文章を素早く理解する為に、私が編み出した手法は先ず小さな声を出して読んでいくやり方だった、しかし、時が経つに目視に馴れてきて文字というか単語の形を見ただけで如何なる意味かを認識出来るようになり、文章の全体を見ただけで内容を兎に角把握できるように自分を訓練していったのだった。そこまでに到達するのに何年かかったかの記憶はないが、言うなれば私なりに英語を素早く読むことに馴れて、速読術が身に付いたのだった。何が言いたいかといえば、カタカナ語を多用すれば、何時かは速読術と即理解力を養わねばならなくなるという事。
即ち、英語の世界に馴染む為に必要なことは「与えられた文書を瞬間的に如何なる単語が使われているかを知って、前後の流れを把握し理解せよ」ということになるのだ。換言すれば「表音文字の世界に馴れるのは容易ではないと理解せよ」であるし「我が国の固有の文化である表意文字である漢字の文化を尊重し維持せよ」なのだ。しかも、英語では表音文字でありながら、同じ単語でも前後の流れ次第では全く異なる使われ方をするので、単語帳的な偏った知識で接していると、流れの中で意味を取り違える危険性が高いと知るべきなのだ。
ハングルのように「金正恩」の「キム」と「キムチ」の「キム」が同じ形の字だというの混乱させられると思うが、英語にはこのような危険性は極めて低いのだと思う。私はカタカナ語を使いたくなくて、時には英語のままで書く事もあれば、忌み嫌っている「セキュリティ」ではなく元の英語の発音に近い「セキュアラテイー」のようにする場合もある。だが、これが所詮は無駄な抵抗で、私が目指している「セキュリティ」のような「原語に不忠実なカタカナ表記」の改革にまでは中々至らないのが遺憾千万である。
私がW社に転身した頃にいた、東京事務所にいたワシントン大学のMBAだった日系人BJ氏はは「日本語で話している時に英語を英語の発音のままで使うのは最低で最悪。日本にいる以上、矢張り日本式のカタカナ表記の発音で言うべきだ」と言っていた。流石の私もこれには賛成だ。だが、私は死んでも「セキュリティ」とは言わないし書かないだろう。同様に「メジャーリーグ」もあり得ないし、「自己ベスト」のような漢字交じりも嫌悪している。何故素直に「自己最高記録」と言えないのだろう。矢張り、非難すべきは学校教育の英語の在り方か。
意味不明な英語擬きを使って格好を付けるのは、小池百合子都知事だけにお任せしたらどうだろうか。
私は1990年頃からの筋金入りのカタカナ語排斥論者だと自認している。そして「何か格好が良いとか、知性と教養があるように見えるだろうと錯覚して、本来のEnglishとは全く別個であるカタカナ語を使うのはご随意に」とは言ってきた。しかし、但し書きを付けて「その手の表音文字の英語の単語は、英語本来の意味とはかけ離れた意味で使われているとご承知置きを」とも指摘して来た。だが、私が何十年排斥しようと、上は大臣や国会議員の方々やテレビで専門家と定義された多くの分野の権威者でも、躊躇せずに言葉の誤用であるカタカナ語を駆使されているというお寒い状態だ。
私はそうなってしまった背景には戦後に文部省が漢字が難しすぎるとばかりに略字を普及させただけではなく、漢字の熟語をも排除してしまったので、その代替にとばかりに学識経験者までが英語の単語で漢字の熟語の代用として使い始めたと思い込んでいる。そこに某通信社が便乗して外来語ハンドブックまで編み出したので、カタカナ語の普及が止まらなくなってしまったのだと、私は悪意的に解釈している。何度も指摘して来たことだが、英語のアルファベットは表音文字であり、そこから派生したカタカナ語を見ただけでは直ちに意味が取れない性質なのだ。
これまでに繰り返してそういう言葉の誤用の例を挙げてきたが、事今日に至るとその「悪貨は良貨を駆逐する」勢いは止まるところを知らず、遂には英語を良く解っていたはずの私が「はて、この単語の本来のEnglishではどういう意味だったか」と迷ってしまう例が雨後の竹の子の如くに増えて、慌てて英和辞書やOxfordで確認しなければならない事態が多くなった。少しだけ例を挙げておけば「トラブル」は多くの場合に「揉め事」の意味に使われているが、Oxfordにはそういう解釈はない。「挑戦」という熟語は消滅して「チャレンジ」だけになってしまった。
毎回取り上げてきた「メジャーリーグ」、「メリット」、「デメリット」、「メインバンク」、「オープン」、「カジュアル」、「スタッフ」、「サポート」、「ドラスティック」、「フリップ」、「セキュリティー」、「パーテーション」などは最早救いようがないと思って、完全に諦めの境地だ。念の為に確認しておくと「これらをお使いになるのは勝手だし、阻止する気はない。だが、使う前に御用とお急ぎでなければ、一度で良いから辞書を引いて自分がおかしな言葉を使っているか否かをご確認願えれば幸甚なのだ」とだけは言っておきたい。
更に敢えて言っておきたいこと、即ち私が絶対避けたいこと、あってはならないことと考えているのが「カタカナ語の多用による日本語の表音文字化」なのだ。しかし、現実にはカタカナ語というか英語の単語をカタカナ表記して誤用する人と、ローマ字式に発音して使う人は増える一方なのだ。特に所謂有識者や文化人はこういう語法に頼ることを衒っているとしか思えない方々までテレビに登場されるのだ。簡単に言えば「日本式学校教育の英語の好ましくない成果が現れて、難しい単語を知っているとのひけらかしたい人」が増えているのは、私には嫌みにしか聞こえないのだ。
私はアメリカの会社に転進してからは表音文字の世界で読み書きせざるを得ない生活を続けた。英語の困ったことは表音文字である以上一目見ただけでは完全に理解出来ないということ。綴りを目で追って何という言葉かが解って、更に黙読か音読を進めて文章全体を読んで、初めてその文章の意味が把握できるのだ。具体的には、例えば会議に参加して配付された資料をその場で一読して内容を把握せねば、討論にも参加できない無意味な存在になってしまうのだ。また、日常の業務でも本部や工場等から送られてくる書類を即座に理解し反応できなければ、仕事にならず使い物にならないのだ。
表音文字の文章を素早く理解する為に、私が編み出した手法は先ず小さな声を出して読んでいくやり方だった、しかし、時が経つに目視に馴れてきて文字というか単語の形を見ただけで如何なる意味かを認識出来るようになり、文章の全体を見ただけで内容を兎に角把握できるように自分を訓練していったのだった。そこまでに到達するのに何年かかったかの記憶はないが、言うなれば私なりに英語を素早く読むことに馴れて、速読術が身に付いたのだった。何が言いたいかといえば、カタカナ語を多用すれば、何時かは速読術と即理解力を養わねばならなくなるという事。
即ち、英語の世界に馴染む為に必要なことは「与えられた文書を瞬間的に如何なる単語が使われているかを知って、前後の流れを把握し理解せよ」ということになるのだ。換言すれば「表音文字の世界に馴れるのは容易ではないと理解せよ」であるし「我が国の固有の文化である表意文字である漢字の文化を尊重し維持せよ」なのだ。しかも、英語では表音文字でありながら、同じ単語でも前後の流れ次第では全く異なる使われ方をするので、単語帳的な偏った知識で接していると、流れの中で意味を取り違える危険性が高いと知るべきなのだ。
ハングルのように「金正恩」の「キム」と「キムチ」の「キム」が同じ形の字だというの混乱させられると思うが、英語にはこのような危険性は極めて低いのだと思う。私はカタカナ語を使いたくなくて、時には英語のままで書く事もあれば、忌み嫌っている「セキュリティ」ではなく元の英語の発音に近い「セキュアラテイー」のようにする場合もある。だが、これが所詮は無駄な抵抗で、私が目指している「セキュリティ」のような「原語に不忠実なカタカナ表記」の改革にまでは中々至らないのが遺憾千万である。
私がW社に転身した頃にいた、東京事務所にいたワシントン大学のMBAだった日系人BJ氏はは「日本語で話している時に英語を英語の発音のままで使うのは最低で最悪。日本にいる以上、矢張り日本式のカタカナ表記の発音で言うべきだ」と言っていた。流石の私もこれには賛成だ。だが、私は死んでも「セキュリティ」とは言わないし書かないだろう。同様に「メジャーリーグ」もあり得ないし、「自己ベスト」のような漢字交じりも嫌悪している。何故素直に「自己最高記録」と言えないのだろう。矢張り、非難すべきは学校教育の英語の在り方か。
意味不明な英語擬きを使って格好を付けるのは、小池百合子都知事だけにお任せしたらどうだろうか。
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