この夏、映像の編集という未体験の作業を経験して実感したのは、作品を通して伝えたいものがしっかりあるか、それを伝える的確な構成が組めるか、ということ。脚本のないドキュメンタリーですから、とにかく撮った映像時間は膨大。そこから、自分のメッセージを表現してくれるカットを切り取るというのは、ある意味、恣意的であり、ドキュメントといっても、ようは作家の主観による創作なんですね。
被写体のすべてに、長い間、時間をかけて培ってきた人間関係があるだけに、自分の取捨選択が、撮った相手、撮らなかった相手にどんな思いをさせるかを考えたら、本当に眠れなくなります。
予告版では、せっかく撮らせてもらったのにほとんどカットしてしまったという蔵元もあります。今の段階では、自分のメッセージを伝えるだけの映像が不十分だと判断したからです。上映会の日が近づくにつれ、緊張と不安がますます?。でも、これは超えなければならない関門です・・・。
昨日(15日)は気晴らし&避暑に、静岡の映画館へ『ダークナイト』を観に行きました。全米興行成績でタイタニックを超えるかも、とか、ジョーカー役のヒース・レジャーの怪演がアカデミー賞モノだとの前評判で、ただのアメコミヒーロー映画じゃないとは思っていましたが、いやぁ、いわゆるハリウッド産の巨額バジェット作品でこんなに感動したの、「ロード・オブ・ザ・リング」以来です。
ネタバレになってしまうかもしれませんが、ジョーカーというヒールは、日本でも理解しがたい動機による犯罪や、犯罪そのものを楽しむかのような事件が増えていますが、その象徴みたいな存在で、しかも、一般大衆に、自己犠牲か自己保身かの二者選択を迫る。罠にハマって、正義の象徴だった検察官も徐々に狂気に陥る。主人公はヒール退治という大義名分のため、社会のモラルに反する行為に手を染める。しかもただの民間人である彼は、司法にも追いつめられる。映画のタイトルがバットマンではなく「ダークナイト(暗闇の騎士)」である理由もそこにあります。
重いテーマを複眼的に描き、しかも2時間30分の長さを感じさせずに圧倒させるのは、映像のテクニックはもちろんですが、見事な構成で組み立てられた脚本の力だと思いました。
監督・脚本のクリストファ・ノーランの作品は「メメント」「インソムニア」を観ていますが、2本ともインディペンデントの作風で、人間の狂気と深層心理を複雑な構成で描き、最初、この監督がバットマンを撮ると知った時はピンと来ませんでした。しかし前作の「バットマンビギンズ」で今までのバットマンシリーズとは違う兆しを感じ、本作では、監督の持ち味が全開したよう。この脚本でハリウッドスタジオを説得するのは大変だったらしいと製作裏話を知り、よけいに親近感が湧きました。
小規模であろうと大作であろうと、伝えるべき作家のメッセージと、それを伝える確かな構成力がなければ、映画は、ただ映像を羅列しただけのフィルムに過ぎません。映像を「作品」にするために、何が必要か・・・まさかバットマンの映画で教えられるとは思いませんでした。
アメリカの観衆はそういうことを直感的に理解し、こぞって劇場へ詰めかけてるのかなぁ。いくらアメコミヒーローものとはいえ、こんなに暗くて重い作品がタイタニックに迫る興行成績とは…。もともとバットマンがアメリカ人にとってどれだけ思い入れのあるキャラなのか、公開直前に急死したヒース・レジャーのネームバリューがどれほどあったのか、日本人にはピンとこないところもありますが。