昨日(1日)は『朝鮮王朝の絵画と日本』展を開催中の静岡県立美術館で、公開ワークショップ「朝鮮時代の絵画とその周辺―時代背景への視点」が開かれ、13時30分から17時30分まで、まるまる4時間、ほとんど休みなく、どっぷり朝鮮絵画史の世界に浸かってきました。
今回の講座がユニークだったのは、4人の講師が美術の専門家ではなく、歴史学者だったこと。文部科学省の特定領域研究の助成を受けている「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成~寧波を焦点とする学際的創生」というちょっとおカタイ名前の研究グループとの共催です。
歴史学では文献史料を重視し、絵画に描かれた情報は事実性や客観性に欠けるという理由で研究主体にはならなかったのですが、日本の伝統文化に影響を与えたのは中国ばかりではなく朝鮮の存在も重要だという視点と、当時の社会実態を描写した絵画史料にも新たな発見や文献の裏付けになる情報があるはずだという視点を汲み込んで、新しい歴史学の研究・検証スタイルを追求されているようです。
◎朝鮮時代の政治・文化と絵画 (六反田豊氏・東京大学大学院人文社会系研究科准教授)
六反田先生は東アジア政治史の専門家。朝鮮絵画が生まれた当時の政治制度について、わかりやすく解説してくれました。
歴史の授業でも習った朝鮮の官僚制度=両班(ヤンパン)。東班(文官)と西班(武官)から成り立ち、それぞれ階級が正一品・従一品・正二品・従二品…従九品まで分かれています。最高位の正一品から従二品までは、東班(文官)しかいなくて、西班(武官)は正三品でやっと「折衝将軍」という位が登場します。
私、『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の脚本で、通信使の性格を「第一級の文化知識人を派遣することで、サムライが統治する野蛮な国日本とは違い、文人が統治する先進国であることを示したかった」と書いたのですが、こうして階級を細かく検証すると、なるほど、文官のほうが格上なんだということが一目瞭然です。
正一品から正三品の通政大夫(東班)・折衝将軍(西班)までが堂上官といわれる超高級官僚。正三品の通訓大夫(東班)・禦悔将軍(西班)から従六品までが堂下官の参上官(中級官僚)、正七品から従九品までが堂下官の参下官(下級官僚)となります。ややこしい書き方で申し訳ありませんが、ようするに、官僚にも上・中・下の差がしっかりあるわけです。今の官僚・公務員制度に近いんですね。
絵画担当の官庁は「図画署」といい、スペシャリスト(デザイナーや画家)とゼネラリスト(事務職)に分かれています。階級はトップクラスでも従六品で、スペシャリストの多くは従九品という最下位官僚。出世に縁遠い芸術家たちの置かれた立場がなんとなく分かります…。
◎風俗画に見る朝鮮時代の経済と社会 (須川英徳氏・横浜国立大学教育人間科学部教授)
須川先生は東アジア経済史の専門家。「僕らに美術を語らせようなんて無謀な企画」と苦笑しながらも、たくさんの図録コピーを用意し、風俗画に描かれた庶民の暮らしぶりから、文献史料では読み取れない朝鮮の18~19世紀の社会の断面を解説してくれました。
先生が紹介した画員(絵師)のうち、趙栄祏(1676~1759)の俗画スケッチには、馬を世話する人や牛の乳を搾る人が描かれています。馬の鐙は、日本の鐙(スリッパのようにつま先を突っ込むだけの簡単な構造)とは違い、かなり頑丈に出来ています。こういう鐙だからこそ、馬上才(馬乗り曲芸)のような武芸が発達できたんですね。
また牛乳は当時の朝鮮では飲む習慣がなかったため「搾ったあとどうするのか、私ではわかりません」と須川先生。食文化の研究家に訊けばわかるかもしれません。歴史というのは、政治・経済・美術・食文化などの専門家が分野横断的に集まれば、もっと当時に肉薄できるんだと実感します。
一方、金弘道(1745~1815)の風俗画からもさまざまな情報が読み取れます。彼の自画像の背景には、日本製と思われる和時計や二こぶの瓢箪、中国製の青銅骨董壺、東アジア南方沿岸部でしかとれないサンゴの枝などが描き込まれ、弓矢の訓練を受けている武人を描いたスケッチでは水牛の角で出来た弓が描かれています。
水牛の角は朝鮮では入手できず、中国も武器輸出制限で不可。どこから手に入れたかといえば、武器市場を持っていた日本(対馬)の商人が中国から仕入れ、それを朝鮮に売っていたというわけです。正規の取引なのかヤミ取引なのかわかりませんが、対馬というのが改めて中国・朝鮮・日本の貿易圏で重要な位置にあったことを実感します。
◎朝鮮通信使の遺したもの (長森美信氏・天理大学国際文化学部専任講師)
講義の前、韓国MBSが制作した「朝鮮通信使」特番の一部を見せてもらい、CG加工で通信使行列の巻物が浮き上がってくる画にびっくり。わが『朝鮮通信使』では、予算がなくて巻物の人物画を垂れ幕にコピーして黒子エキストラに持ってもらうという苦肉の演出。…比べる必要もないのですが、「日本と韓国では未だに文人への待遇に格差がある」なんてひがんでしまいました(苦笑)。
馬上才の実写映像にはさらにぴっくりで、馬場のサークルを猛ダッシュで疾走する馬の上で倒立したり、体操競技のあん馬みたいに馬の胴体の左右に身体を振ったりして、これを実際に観た江戸時代の人はさぞかし驚嘆しただろうと思いました。
長森先生のお話で印象に残ったのは、朝鮮が中国へ定期的に派遣していた朝貢使「燕行使」と、日本へ不定期派遣した「朝鮮通信使」の違いでした。
燕行使の派遣回数は清王朝期の1645~1876年間に計612回(年平均2.65回)。1回の費用は約11万両かかっていました。一方、朝鮮通信使は江戸時代の1607~1811年間に計12回で、1階の派遣費用は約3万両。対馬に派遣していた問慰使も56回(4年に1回)でした。
会場からは「朝鮮通信使は歴史上大して重要じゃないんじゃない?」という質問も出ましたが、そもそも日本からの要請があって、将軍継承時の祝賀イベントとして招かれた朝鮮通信使と、中国からなかば強制的に呼ばれ、新年のあいさつ、皇帝の誕生日、冬至のあいさつ(翌年の暦をもらう目的もあった)に出向かざるをえなかった燕行使では、おのずと性格が違います。
朝鮮通信使は1~3回まで「回答兼刷還使」と呼ばれ、文禄慶長の役の戦後処理的派遣でした。4回以降は友好使節団としての性格が全面に出て、同行した書家や絵師が各地でサインを求められるなど文化先進国としての体面が保たれたことでしょう。
ところが、長森先生のお話では「1763年の派遣の折、国王英祖が都を発つ正使に“二陵松柏”の詩を読んで嗚咽した」とのこと。二陵とは、文禄慶長の役で日本の賊が荒らした宣陵と靖陵という2つの王墓で、犯人を見つけて差し出さなければ国交回復はならぬと、徳川家康に突きつけた経緯は、『朝鮮通信使』の中でもしっかり描いています。160年近く経っても屈辱の思いは王家に連綿と続いていたのですね。
中国からはつねに大国の圧力を受け、日本には先進国のプライドと過去の国辱が交錯する朝鮮王家の複雑な心情がしのばれます。
この後、ワークショップコーディネーターの森平雅彦氏(九州大学大学院人文科学研究院准教授)の「絵画に描かれた朝鮮時代の水辺風景」を聴講し、終了しました。
心地よい疲労感のあと、一緒に聴講した京都高麗美術館の片山真理子さん、李白恵さん、李須恵さんをJR静岡駅までお送りし、新幹線の時間まで、「魚河岸大作」で駿河湾の地魚と地酒・満寿一を味わっていただきました。
帰り際に偶然、「大作」に森平先生や長森先生ほか講師ご一行が入ってきて、思いがけず名刺交換。おいしい魚と酒に満足された片山さんたちを笑顔で見送り、頭の疲れがスッキリ癒されました。