先日、上京したとき、新宿紀伊国屋で『秀吉を襲った大地震~地震考古学で戦国史を読む』という本を見つけました。著者は(独)産業技術総合研究所の寒川旭さん。大震災から歴史を紐解くというタイムリーかつユニークな内容で、非常に興味深く読みました。
今まで本や映像を見てもあんまり意識してなかったんですが、秀吉は2度の大きな震災を体験していたんです。
1度目は天下獲り直前の天正13年(1586)に、中部地方と近畿東部を襲ったマグニチュード8クラスの『天正地震』。その10年後、朝鮮に出兵し京都に伏見城を築いた絶頂期の文禄5年(1596)に、当時の首都である京阪神を襲ったM7.5以上の『伏見地震』。・・・わずか10年のスパンで、日本の中心部をM8クラスの大震災が襲ったなんて、戦国時代って改めてスゴイ時代だったんですね。
『天正地震』のとき、秀吉は明智光秀の居城だった坂本城にいて、宣教師フロイスが「太閤はいっさいを放棄し、馬に飛び乗って大坂城へ逃げ帰った。余震が続いた4日間は奥方や側室を伴って御殿の中の黄金の屏風で囲まれた場所に身を隠した」と記録しています。
この地震で、長浜城にいた山内一豊は愛娘を亡くし、前田利家のおい秀継が木舟城(現・高岡市)で妻とともに圧死。
奥飛騨白川郷の内ヶ嶋氏理はさらに悲劇的で、秀吉の越中征伐で降伏寸前に和平交渉がまとまって、故郷の帰雲城に戻って領民とともに祝宴を上げている最中に地震が起きて、城の背後の帰雲山が崩壊して川を渡って城下をすべて呑み込んでしまったとか。史書には「高い山が一つ欠け落ちて、300余の家に落ちかかり、数百人の男女もろとも家も垣根も三丈(10メートル)ほど下に埋もれた。家々のあった場所の地面は草木もない荒れ山となってしまった。富山に行商に出ていた商人が白川に戻ると地形も変わり、自分たちが暮らしていた場所がどこかわからず、涙を流しながら富山に戻った」とあるそうです。
氏理のおいの新右衛門もちょうど郡上八幡に出掛けていて難を逃れたのですが、城下に帰ると土砂が埋もれて山のようになり、川はせき止められて満々と水を湛えていたので近づくことも出来ず、茫然とたたずむしかなかったとのこと。・・・ふだんなら、気に留めることもない地方史ですが、故郷の悲劇を目の当たりにした彼らの嘆きが、東日本大震災の生き残った被災者の姿に重なり、とてもリアルに感じられました。
秀吉は朝鮮侵攻時の文禄2年(1593)、講和交渉のため明から使節団が来ることになり、当時、隠居城として建設していた伏見城を天下人の居城にふさわしい豪華絢爛な城にしようと手を尽くし、翌年完成させました。さらに翌文禄4年には、4年がかりで造営していた方広寺の大仏殿が完成しました。
文禄5年6月に明から講和交渉の準備のため副使がやってきたときは、自慢の伏見城をみせびらかすように贅を尽くして饗応接待した秀吉ですが、同年9月5日、伏見の地を激震が襲ったのです。
伏見城は無残に倒壊し、城の周辺で急ピッチに開発造成された建造物も潰れ、多くの人命が失われました。秀吉が奈良の大仏を凌ぐ勢いで造った方広寺の大仏も大破。このとき大仏殿は残ったのに本尊の大仏が壊れたのを多くの人が怪しみました。
実は、本来なら数十年がかりとなる大仏建立を、数年で完成させようとして、金剛製ではなく木像の上に漆喰を塗って金箔をかぶせた“インスタント大仏”にしちゃったため。壊れた大仏を見た秀吉は「国家安泰のために造ったのに、役立たずめ」と大仏めがけて矢を放ったとか。・・・こういう主導者をトップに置かざるを得なかったこと自身、当時の日本の悲劇だったのかもしれません。
懲りない秀吉は、翌年には木幡山に新たな伏見城を造ります。さすがに互入式通柱構法という耐震性を強化した造り方だったそうですが、各地からかき集められ、昼夜を問わない過酷な労働を強いられた人夫たちは、視力を失ったり病を患って現場に行けなくなったりで、職を失った浮浪者が京の都に湧いて出たと伝わっています。・・・状況はまったく違うけど、現場の労働者がまともな扱いをされないという意味では原発事故の作業員を思い起こします。彼らは同じ二次被災者といえるのかもしれません。
明の正使との謁見は大坂城で行われ、交渉は決裂。大震災を理由に年号が「慶長」に改元され、慶長2年にはふたたび秀吉軍が朝鮮国を侵略します。翌慶長3年、秀吉の死去とともに侵略戦争は終わり、グダグダになった豊臣政権は慶長5年(1600)の関ヶ原で終焉を迎えます。
私は4年前に制作した映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』で、伏見城の痕跡を求めて山本監督と京都をロケハンしたのですが、絵になるような場所がなく、洛中屏風絵に描かれたそれらしき城で代用したのですが、朝鮮通信使と直接かかわりのあるエピソードではなかったため、伏見地震のことはよく調べませんでした。
大震災が豊臣政権の寿命を縮めたかどうかは、想像の域を出ませんが、日本という国が大きな自然災害に襲われたとき、確かなリーダーシップを発揮できる主導者を抱いていたかどうか、歴史を紐解くうえでも重要な視点のような気がします。この時代の天下人で、大震災に2度も見舞われたなんてのは秀吉だけで、信長や家康は直面しなかったんですよね・・・。まさか地球が、その地位にふさわしくない主導者の治世を狙って大震災を引き起こしているわけではないと思いますが。