杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

福島いわき・ほんとうの被害(その4)

2011-04-21 00:39:23 | 東日本大震災

 海に面し、津波で壊滅的な被害を受けた薄磯地区。山手のほうにある豊間小学校を訪ねました。避難所かと思って体育館に入ったら、床に敷かれたブルーシートの上に、ガレキの中から拾い出されたアルバImgp4303_2 ムや位牌など家族の貴重な品々が並んでいました。

 体育館の壁の、一見似つかわしくない紅白の横断幕。・・・おそらく卒業式の準備か何かをしていた、そのままの状態だったのでしょう。もうそれだけで胸が締め付けられそうな思いでした。

 

 

 

 

 入口近くで、子どもの絵日記らしいスケッチブックを見つけ、思わず手にした陽子さん。どうやら小学6年生ぐらいの女の子が、自分の12年間の出来事を紙芝居風に綴った成長日記のようなものでした。

 自分を産んでくれたお母さんへの感謝の言葉、幼いころの思い出、学校の出来事や友だちのこと・・・Imgp4302 陽子さんはご自分の娘さんも、小学校の卒業記念に、似たような成長日記を作られたそうで、目を真っ赤にしながらページをめくっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 古いセピア色の肖像写真から、つい最近、撮ったものと思われる家族旅行の写真まで、おびただしい写真の数々・・・。その数だけ、家族の歴史があり、残したい思い出があり、それが決してお金では買えないものだからこそ、ガレキの中から大切に取り出され、泥をぬぐわれ、ここに運ばれたImgp4304わけですね。

 

 

 

 

 

 

 写真といえば、以前、実家で、自分の赤ん坊の頃の写真をアルバムから取り外そうとしたら、母から「勝手に持ち出さないで」と怒られたことがあります。自分の写真をどこに持って行こうと勝手じゃないかと憤慨したのですが、私の赤ん坊時代の写真は、母の記憶の結晶であり、母にとっての宝物だったんだと後から気がつきました。

 娘さんの成長日記は、本人よりも親御さんにとっての宝物に違いない・・・陽子さんの涙を見ながら、改めて母の言葉を思い出しました。

 

 

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 陽子さんが覗き込んでいるのは、3冊並んだ母子手帳。3人のお子さんの誕生の記録であり、かけがえのない記憶です。

 

 

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 子どもの手形を見つけた吉野さん夫妻は、「うちの孫と同じ名前の子だ~」と目頭を押さえていました。

 

 

 

 Imgp4305 傍らでは、被災者と思われる女性が熱心に品々を見ていました。吉野さんが声をかけたところ、おばあちゃんの位牌を探しているとのこと。

 母子手帳から位牌まで、ブルーシートの上には実にさまざまな、人の一生の証しが並んでいました。・・・こういう光景からも、今回の犠牲者の年齢層の幅、そして残された遺族の哀しみの深さを実感します。

 

 

 

 

 次いで立ち寄った江名地区には、水産加工業を営む吉野さんの友人の家があり、ご家族がちょうど家の片づけをされていました。

 家屋の倒壊はまぬがれたものの、室内はメチャメチャ。途方に暮れていたとき、郡山の学校にALTとして勤めていたカナダ人とオーストラリア人の語学教師が、仲間とともにボランティアに来てくれて、2日がかりでガレキをすべて撤去してくれたそうです。奥さんは「ボランティアさんがあんなに有難いとは思わなかった。しかも遠い外国から来た人だよぉ。ホント、助かったよ~」と心底実感を込めていました。

 

Imgp4312  すぐ隣の家には、「壊していいです」の貼り紙が。その奥の家は「壊さないで」の貼り紙。Imgp4311 これまで立ち寄った被災地でも、家主が避難して留守になった家には、どちらかの貼り紙がつけられていました。

 

 

 

 その区域全部が「壊していいです」だったら、重機を入れてガーッと区画整理をし、早期に新しい都市計画づくりに着手できるのでしょうが、そうはなかなか行かないのが現実。都市計画といっても、「元の通りにしてほしい」という声と、「この際、まったく新しい防災都市にすべき」という相反する声が出てくると思います。

 

 被災者や避難民の「もう一度、故郷に戻るんだ」という強い意志こそが、復興の一番の原動力に相違ありません。そして、そういう人々の意志が削がれないような復興計画を立案し、実行していくのが政治家の努め。しかし、ときには心を鬼にしなければならない時も来るでしょう。

 「・・・政治家が本当に苦しむのはこれからだ」と吉野さんも陽子さんも真剣に語り合っていました。 

 

 

 

 江名の友人夫妻は吉野さんに、「放射能の差別がひどい。原発より南だから風の影響はそんなにないのに、いわきって口にしただけで相手の態度が変わるんだ」と訴えるように話していました。それに応えるかのように、吉野さんは「この人たち、静岡からわざわざ来てくれたんだよ、よく来てくれたよなぁ」と我々を紹介してくれました。

 

 

 実は、被災者の方々にお会いするたびに、少々バツの悪い思いをしていました。自分自身、義援金や支援物資を届けに来たわけでもなく、汗を流して救援活動をするわけでもなく、陽子さんの視察にくっついて来ただけで、ペットボトルの水1本、差し入れることも出来ません(陽子さんは静岡のスルガ甘夏ミカン30kgに手作りマーマレード、うなぎパイ等を差し入れ、別途ミネラルウォーター50ケースを送られました)。

 「何しに来たんだ?」なんて思われているんじゃないかと不安な気持ちになっていたんです。

 実際、同じいわき市内でもまったく被災しなかった地域から、“被災地見物”に来る人たちがいるらしいんです。そんな野次馬と同類に思われている気がして・・・。

 

 

 でもこんな役立たずの私でも県外から来たというだけで、差別を受けているこの町の被災者の方々にとっては、意味ある存在になっていたんですね。自意識過剰かもしれないけど、吉野さんと友人夫妻のやりとりを聞きながら、そう感じました。それほどまでに、この町のみなさんが傷ついているという現実も・・・。(つづく)