いわき市の久之浜を後にして、海沿いを南下し、次いで訪ねたのは四倉(よつくら)港。道路沿いに、『道の駅よつくら港』という看板が見え、鯉のぼりが悠々と泳いでいました。
道の駅の建物は、見 たところ半壊状態。しかし店舗の一角には出店や農産物市のブースが出ていて、軽快な音楽が流れていて、地元のみなさんで賑わっていました。陽子さんも私も、開口一番「いやぁ~おかあさんたち、たくましいなぁ!」。
物品は確かに数も種類も少なかったけれど、売り子のおかあさんたちの表情は、どこか吹っ切れたように明るいんですね。「きゅうり1本20 円、サービスサービスだよ~」と鐘を鳴らして客 寄せをする農産物ブースに、あっという間にお客さんが集まってきました。
ドリンクコーナーではガレキの中から掘り出した缶コーヒーや焼酎が「震災缶コーヒー」「震災酒」として売られていました。被災された酒屋さんの心意気を感じます!
その前のランドセルコーナーは、たぶん支援物資として送られてきたものな んでしょうね。
道の駅よつくら港には、いわき市と姉妹提携を結んでいる会津の三島町から大勢のボランティアがスコップ持参で駆けつけて、ガレキの片づけをしてくれて、こうして店頭売りが出来るまでになったそうです。
福島県は静岡県と同じで、広い海岸線と内陸部を共有する県。海の町と山の町が日頃から交流し合い、助け合う。・・・友好姉妹提携って何も海外や県外の遠く離れた町同士じゃなくても、互いに補完し合えるものがあれば有効だし、同県民同士、そのむすびつきは強固でスピーディーで、いざという時はホントに頼りになるんだろうと思いました。
さらに南に続く新舞子浜を進み、塩屋埼灯台の近くまでやってきました。途中で見かけた防風林は津波の勢いを低減させたようで、内側に広がる田畑の中に は放射線の土壌汚染チェックもパスし、新たな作付けができるところも。
「・・・でも野菜作っても売れるアテがないからなぁ」とため息をつく吉野さん。ついさっき、道の駅で対面したおかあさんたちの風評被害をもろともしない笑顔が、地元圏内だけに許されるものだという現実に気づかされ、切なくなりました。
新舞子浜の防風林の中には、潮をかぶった針葉樹が早くも変色し始めている箇所もありました。道路は液状化し、そのあとに砂が覆って、 液状化した箇所をハッキリと示していました。
途中、吉野さんの携帯電話がひっきりなしに鳴ります。ある電話は、いわき市内の貸アパート空室照会の依頼。「被災者の住まい、双葉郡から避難してきた人の住まい、急きょ稼働させることになった火力発電所の臨時作業員用の住まい。この3つを探さなきゃならないんだ~」と、市内の不動産賃貸業者に問い合わせをしまくったという吉野さん。アパート探しまで頼まれるとは、代議士の先生ってイザというとき、やっぱり頼りにされるんだな~と感心してしまいました。
いわゆる落下傘候補じゃなくて、地元にちゃんと根を下ろした政治活動をされているからなんですね。
通行止め。周辺を、佐世保ナンバーの長崎県警のパトカーが巡回していました。福岡県警、兵庫県警のパトカーも見かけました。
・・・思わず、「静岡県警は来てますか?」と吉野さんに訊ねたら、「心配すんなって、ちゃ~んと来とるよ~」と笑われました。
ホッとしたのもつかの間、塩屋埼灯台の手前・薄磯地区は、ガレキ一面の無残な姿をさらけ出していました。
ここには家があったようで、なぜか風呂場のタイルとバスタブだけが残っていました。
奥に見える、横倒しになった冷蔵庫の中には、卵のパックらしきものが・・・。ここがゴミ処理場ではなく、ふつうの暮らしが存在していたまぎれもない証拠です。
持ち主がわかるトロフィーなのに、こうして置かれているのは、持ち主が行方不明だということでしょうか・・・。
この地区だけで100人が亡くなったそうです。いわき市全体では300人が亡くなり、まだ70~80人の行方がわからないとのこと。警察や消防の捜索活動もなかなか進まず、生き残った住民は、ゴルフのアイアンクラブなど、とりあえず手元にあった棒状のものでガレキをかき分けながら行方不明者を探しているのだとか。
今、自分が立っているこの場所を、そんな悲劇が現在進行形で覆っているのかと思ったら、急にふるえが来て、無性に涙がこみ上げてきました。(つづく)