静岡県立美術館で開催中の『草原の王朝・契丹展』をやっと観に行きました。とても興味のある展覧会でしたが、契丹王朝についてはあまり詳しくないので、19日(日)14時から美術館講堂で開かれた講演会「契丹王族の仏教信仰」を受講し、ひととおりの歴史を頭に入れてからじっくり鑑賞しました。
世界初公開の門外不出の出土品がやってくるということで、県美でよく企画出来たなぁ(失礼・・・!)と思ったら、2011年9月から九州国立博物館、2012年4月から大阪市立美術館、7月から東京藝術大学大学美術館で巡回するそうで、各会場にはTBS系列の地元テレビ局が主催者に名を連ねていました。静岡の県美は静岡新聞とSBSの力で実現できたというわけですね、なぁるほど。
・・・なんて話はどうでもいいですよね。
講演会「契丹王朝の仏教信仰」の講師は、ユーラシア東方民族史が専門の古松崇志氏(岡山大学准教授)。20日付け静岡新聞朝刊にも紹介されていますね。遊牧民の歴史だけあって、現地調査に重きを置く“フィールド歴史学”を得意とされています。現代版のインディ・ジョーンズみたいな仕事かなあと羨ましく思いました。
契丹族というのは、もともと中央ユーラシアでは一番東にいた遊牧民で、北京の北方350㎞あたりのチャガン・ムレン河流域、ちょうど遊牧地帯と農耕地帯の境界あたりに住んでいました。そこそこ豊かな土地だったようですね。
今から1100年前、中国では唐王朝が滅んで国中がゴタゴタし、中央ユーラシアでは一大勢力だったウイグル族が弱体化した頃。契丹は第3の勢力として台頭し、907年、実力者・耶律阿保機(ヤリツアボキ)がバラバラだった諸部族を統一して「遼」を建国し、915年に国号を「大契丹」に。1125年に新興の女真族国家「金」に滅ぼされるまで、約200年間繁栄しました。
そうそう、「遼」とか「金」とかいろんな民族国家が乱立した・・・なんて記述が、高校の世界史教科書にあったような気がしますが、これだけでは、北方に一時期栄えた契丹の文物が、今の世でひとつの研究対象になり、展覧会の企画テーマになる理由がわかりません。
古松先生はまず「遊牧圏と農耕圏が共存していた地理的特異性を頭に入れて」と解説されました。耶律阿保機とその息子・耶律堯骨(ヤリツギョウコツ)は、唐滅亡後の中国本土へと勢力を広げていきます。唐王朝下で飯を食っていた人々は、当然ながら、「契丹へ行けば飯が食える」とばかり、北への人口移動が起こります。勢いのある集団や組織にすり寄る習性は、今の日本の政治と一緒ですね(苦笑)。
もともとが遊牧民である契丹族の人々ですが、中国本土から流入してきた各民族を「それぞれの習俗により治める」政策をとりました。「北面官」と「南面官」という官僚制度を整え、遊牧と農耕の2つの経済を発展させた。当然、漢民族が誇りとする唐の文化も破壊することなく活かしたんですね。これが、200年の歴史の中で類まれな文化財を残すことになりました。
契丹王朝は極めて厳格な書物出版規制を行い、中国歴代王朝も遊牧族への偏見からか、あまり記録に残していません。それゆえ、貴重な記録や文物が、1100年もの間、奇跡的に保護され、1930年代に日本が満州国を建設するために現地調査したときに、ようやく日の目を見た、というわけです。
今回の展覧会は、世界初公開50件、中国の国宝である第一級文物45件を含む127件が展示されています。中国の内蒙古博物院、内蒙古文物考古研究所、九州国立博物館等が2007年から2010年まで行った『トルキ山古墳文物の保護の修復』プロジェクトの成果を中心に展示するものです。トルキ山というのは契丹王朝の王族の墓があり、近年の中国遼代考古学の中でも最も重要な発見とされています。
日本ではちょうど源氏物語が書かれていた頃。広大な大陸を舞台に、遊牧と農耕が奇跡的に融合し、そこに仏教が彩りを加え、200年という凝縮された時の中で華開いた契丹文化。多文化共生という価値観が見直されている今、学ぶべきものがたくさんありそうな気がします。
長くなりましたので、契丹の仏教文化についてはまた。