杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

暇なファミレスで・・・

2012-05-11 09:56:44 | 日記・エッセイ・コラム

 独り身の私は、ふだん、ファミリー向けの郊外型チェーンレストランを利用することは滅多にないのですが、夕べは知人と久しぶりに某店で食事しました。19時前だというのに大型の駐車場には車が一台もなく、店内は広くてお洒落な雰囲気なのに、いるのはホールスタッフさんだけ。外食産業は二極化してるって聞いていたけど、平日の夜ってこんなふうになっているのかと、あらためてビックリしました。

 

 

 10代後半か20代前半と思われる若いスタッフさんに席に案内された後、すぐにもう一組、お客さんがやってきました。広い広い店内なのに、そのお客さんが案内されたのは、すぐ隣の席なんですよね・・・。客席は隅から順に埋めろって教育されているんでしょうかね(苦笑)。で、我々の席はエアコンの風が直撃。風量調整をお願いしてもほとんど変わらず。

 

 料理が来ても、私の席に、スプーンやフォーク類がないのに気付かず、こちらから催促。テーブルの上にはキャンドルが置いてあって、隣の席のキャンドルは点灯しているのに、こちらは不点灯。一向に気づかないのでこれも催促してしまいました。料理を運ぶ手やしぐさも、いかにも不慣れで、今にひっくり返すんじゃないかとヒヤヒヤしました。

 

 

 

 

 そういえば、先日、リニューアルオープンしたばかりの某公共施設のレストランに入った時、連れの人が、慣れないスタッフに冷茶をひっかけられました。その店、席に着くと、お水じゃなくて冷茶が出てくるんですね。静岡らしくてなかなかいいじゃん、と思っていた矢先に、いきなり背広に冷茶を浴びた連れは、笑うに笑えず。しかも、客は我々一組なのに、コーヒーが出てくるまで10分はかかってました。さらにそのコーヒー、注いで10分は置きっぱなしだったんじゃないかと思えるぐらいぬるかった・・・。

 

 

 

 

 夕べのファミレス、料理は、最初からあんまり期待はしていませんでしたが、やっぱり調理済み加工総菜を温めたって感じでした。今、その手の食品はふつうにスーパーで買えるし、手作りか否か判りやすくなっていると思うんですが、こういう店を利用する人は別に構わないのかな・・・。結局、ディナータイムは我々を含めて2組だけでした。

 

 ・・・いずれにしても、こういうアンバランスな現状を見ると、外食産業の二極化=徹底したサービスやプロのホスピタリティを提供する高級店と、セルフサービスに近い低価格店しか生き残れないという世の流れを実感しますね。

 今、飲食店情報ってネットの口コミで誰でも気軽に発信&受信できる時代です。自分も初めての土地に行く時は、ネット情報を参考にします。二極化が進んでいるとはいえ、まだまだその狭間にある店は数では多数派だし、そういう店のサービスの在り方って提供する側も受ける側も考え方や感じ方がさまざまだから、ホント、難しい時代になったものだとつくづく思います。

 

 

 

 まあ、夕べ体験した程度のことは、飲食店ではよくある、ささいなことかもしれません。自分はふだん、行きつけの店しか利用しなくなったので、久々に、ちょっと大げさに感じてしまった、それだけかもしれません。でも立派な店構えなのに客が少なく、客が少ないのにスキル不足のスタッフにまかせっきりというのは、どうなのかなあ。

 

 休日はファミリーで満席だそうですから、採算はちゃんと取れているんでしょうけど、マネージャーには、暇なときほど気配りを厚くすれば、口コミ評価につながるし、スタッフの士気も上がるよって提案したいですね。店名を出して伝えたいところだけど・・・やめときます(苦笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 


宮古島生モズクヌーボー2012 in 藤枝

2012-05-08 18:24:54 | 地酒

 またまたGW前の古いネタですみません。4月28日(土)、おもひで横丁・藤枝市場で開かれた『モズク・ヌーボー2012』という試食会に参加しました。夕方の情報番組・静岡○ごとワイド(静岡第一テレビ)の秋本キャスターが取材に来ていましたので、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、沖縄県宮古島産の今年の初摘み生モズクを味見しようというイベント。なぜ藤枝で、というと、藤枝市の機械メーカー・西光エンジニアリングと宮古島漁協が新しいモズク処理工法を開発したご縁です。

 

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 モズクってほとんどが塩蔵タイプで、塩蔵から加工(酢漬け等)にしたものが一般的です。西光エンジニアリングさんも、もともと塩蔵モズクの全自動機械を造って漁協に納めていたのですが、塩蔵品はその名の通り塩分が高く、水洗いすると、抗酸化作用があるといわれる硫酸化多糖類・フコダイン(海藻等でおなじみヌルヌル成分)が一緒に流れてしまいます。

 モズク本来のヌルヌル栄養分&減塩食を必要とする消費者のために、なんとか塩蔵せずに生のまま商品化できないかと、メーカー&生産者(漁協)が試行錯誤をし、実現させたのが、『宮古島生モズク』だったんですね。

 

 

 

 生モズクは前年から保管していた種を11月下旬~2月にモズク網に種付けし、おだやかな苗床で芽出しを待って外海に出し、自然の海の中で70~80日成長させます。そして4~5月末に新芽を摘み取って商品化したのが、“初摘み生モズク=モズクヌーボー”というわけです。

 

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 今まで居酒屋さんの付きだしなんかで食べていたモズクは、ぬるぬるだけど水っぽくって、モズクってこんなもんか、と思っていたんですが、初めて食べた生モズク、そうめんのように付け汁でいただくんですが、本当に硬めにゆでたそうめんのように歯ごたえがあって新鮮な食感!塩蔵モズクとの成分比較表を見ると、フコダインは2~3倍、カルシウムは3倍、マグネシウムは12~13倍、カリウムは50倍と、ミネラル分が大幅に増えていることがわかりました。

 

 

 

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 西光エンジニアリングでは持ち前の技術を活かし、宮古島漁協と組んで、宮古島ならではの海の幸を鮮度を保ったまま全国へ流通させようと、窓口となる販売会社・沖友を設立。宮古島と藤枝の特産品を双方で販売するチャンネルを作りました。現在は海ぶどうの養殖プラントを造り、建設業から脱サラ転職した人々に“新たな糧”を与えているとのこと。今、全国で進められている農商工等連携事業=六次産業の成功例として、高く評価されています。

 

 

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 それだけではありません。モズクヌーボー2012には、宮古島市の長濱副市長、農林水産部の亀濱課長、観光商工局のスタッフ3人が、わざわざ駆けつけてくれましたが、藤枝市とすっかり行政レベルで連携が出来上がり、この日からスタートした藤枝蓮華寺池公園の藤まつりに、宮古島物産ブースを出展。さらには、藤枝市と宮古島市で防災協定を結び、大地震等で市役所の機能に障害が生じた場合のリスク対策として、重要な行政データのバックアップをお願いすることまで話が進んでいるそうです。

 

 

 地方の中小メーカーのビジネス交流が、ビジネスの域を超えて地域間連携にまで発展した、という意味では、非常に注目すべき事例ですね。この日は国の中小企業基盤整備機構、藤枝市、静岡県、県商工会連合会、県会議員、市会議員等をはじめ、この事例を学ぼうと浜松市役所や磐田信用金庫の職員、実際に宮古島生モズクの販売を始めたしずてつストアやKOマートのバイヤー等も集結。みなさん、ホント感心してました。

 私は静岡第一テレビの女性社員さんとともに地元呑ん兵衛代表?で加えていただき、貴重な初摘みヌーボーと、モズクを使ったエダバ(藤枝市場)の創作料理を堪能させていただきました!

 

 

 試食会がひと段落した後は、地酒を交えての交流会。宮古島独特の乾杯スタイル・オトーリを初体験しました。

 

 

 

 オトーリというのは“お酌”という意味だと思いますが、決まった作法があるんですね。まず親(宴会リーダー)が立ちあがって口上を述べて一杯グイッとやった後、同じ杯に酒を注ぎなおしてとなりの人に渡します。

 注がれたものは無言でその杯を飲み干し、無言で杯を親に返す。親は、返された杯に、再度酒を注ぎ、先程飲み干した人の次の人に杯を渡す。杯を渡された人は、同じように一口で杯を干し黙って親に杯を返す。杯が一巡するまで繰り返し、親一人手前の人が杯を干したら、その杯へ酒を満たし、親へ返杯する。

 

 親はその返杯を飲み干した後、自分に酌(オトーリ)最後まで付き合ってくれた礼を述べ、最初の「口上」で述べ足りなかったことがあれば付けくわえ、シメの挨拶を行います。・・・でこれで終わりじゃなくて、次の「親」を指名し、同じオトーリを繰り返す。そうやって延々呑み続けるわけです。親以外は黙って延々呑まなきゃならないというのが面白いなあwww しかも、ひとつの杯を回し呑み。酒に弱い人や女性にはハードルが高そうだけど、これも大家族や共同体での絆が強い島の暮らしの良さなんですね。

 

 

 「親」の番が回って、エラそうに「鮮度の良い生モズクは、軽快でフルーティーな静岡の地酒にぴったり」と講釈を述べ、エダバにある藤枝の地酒4種を宮古島の方に勧めたんですが、途中からチャンポンになってしまったwww  怖いけど一度、本場宮古島で体験してみたい! とりあえず今はいただいた宮古島観光資料を眺めてガマンです。

 

 

 宮古島生モズクはしずてつストアやKOマートで販売しています。数はそんなに多くないと思いますので、見かけた時はぜひお試しを!


朝鮮通信使の東海道難所越え(その2)~箱根峠

2012-05-06 12:58:10 | 朝鮮通信使

 薩埵峠をなんとか通過した朝鮮通信使一行ですが、さらなる難所・箱根峠が待っています。ここでまた北村先生が、通信使側の日記・使行録から、箱根峠越えの箇所をピックアップしてくれました。とくに注目すべき回を挙げてみると―

 

第3回(1624年12月10日通過) 「嶺の道は高く険しく、富士山と相対しており、天外の群峰は皆眼前にあった。細竹は山に満ち満ちてあり、喬木は天にまじわり、日本の大きな嶺である。麓から頂上まで四里を下らなかった。昨夜から雪が降り、嶺の道がひどくぬかるみ、竹を切って雪をおおったので、乾いた地を踏むようであった。一夜の間にこれを整えたが、たとえ命令が神速であるとはいえ、また物力の豊富な事がわかる。その道に敷いた細竹は、皆矢を作るものであり、嶺の上には人家が数十戸あった」

 

第5回(1643年7月4日通過) 「箱根嶺に到着した。すなわち富士山の東の麓で、日本で最も大きい嶺である。嶺の道は険しくて長く、時に長雨の季節なので泥土のぬかるみが脛までも沈めた。数里の間の行く道には、皆竹を編んで敷いてあったが、その尽力を多く浪費したことを見る事が出来る」

 

 

 

 この2回の記述で、峠道に竹を編んだカーペット?のようなものを敷き、仮の舗装をしたことがわかります。しかも前日に雪が降ったり雨でぬかるみになってから、ひと晩で敷き詰めたみたい。…大変な突貫工事だったことが想像できます。

 

 この竹は箱根山に群生するハコネダケといわれる細竹で、道に敷き詰めるには1万7千~8千束が必要で、しかも腐りやすいので毎年敷き替えなければなりません。敷き替えに投じられた人員は約3千人。工費は約130両。これを負担したのは、なぜか箱根からほど遠い西伊豆~南伊豆(今の宇久須・松崎・南伊豆・下田・河津)の85の村々でした。伊豆は三島代官の支配下にあり、東海道の整備に、いいように駆り出されていたんですね。

 数十年に1回の通信使通行の時だけならまだしも、東海道はふだんから参勤交代の大名行列や一般の人々も使います。毎年毎年の普請では負担が大きすぎるということで、延宝8年(1680)、石畳が敷かれることになりました。

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 石畳整備事業にかかる費用は、ざっと見積もって1400両。幕府は、伊豆の85ケ村に、竹普請を免除する代わりに向こう10年間で年100両ずつ支出せよと命じます。しかもうまく考えたもので、幕府は伊豆一国に年1割5分の金利で強制貸付をし、ここから工費1406両をねん出して工事を請け負った江戸の土建業者(今で言うゼネコンか?)たちに支払います。残金200両余りを原資として、「国中御貸付石道金」と称して金利年1割5分で国中に貸し付け、その利息によって石畳の維持管理を行ったのです。ざっくり考えれば、今で言う、目的税みたいなものでしょうか。

 

 

 石畳の工事ならびに箱根道の整備事業は、実際は駿東郡の村々が請け負ったと御殿場市史や小山町史に記されています。ちなみに駿東郡の村々は、宝永山の噴火(1707)で壊滅的な被害を受けました。

 

 

 

 

 さて、石畳が整備されて以降の使行録をピックアップすると―

 

 第9回(1719年) 「はじめて箱根嶺に及ぶ。嶺路は険にしてかつ峻、轎をかつぐ者は力を極めて登り、たびたび人をかえては休息する。それでもなお呼吸が喘急である。輿中から雨森東が下馬して歩行するを見る。余は笑いながら曰く「何ぞ白頭拾遺でも作るつもりか」。雨森曰く「この嶺は奇険、馬をもってすれば我を傷つけるを恐れ、輿をもってすれば人を傷つけるを恐る。みずから労するに如くはない」。かくの如くに四十里を行き、上頭に到る」

 

 雨森東というのは、朝鮮通信使ファンにはお馴染み・儒学者で対馬藩の外交官雨森芳洲のことで、第9回使行録を書いた申維翰とのやり取りの場面。芳洲が馬から降りて歩いて峠越えをしているのを見て、申維翰が「なんだ、白頭拾遺(杜甫の詩で、貧乏役人の悲哀を謳った一節)のつもりか?」とからかうと、「この峠道は危険で、落馬するかもしれないし、輿は他人を怪我させるかもしれない。自分が汗を流すほうがましだ」と応えた・・・というところでしょうか。互いの教養の高さもしのばれますね。

 

 

 

 

 第10回(1748) 「箱根嶺に至った。ぐるぐる折れ曲がって回り、ゆっくり登ったが駕籠かきの外にはまたその站(停留所)の日本人の壮丁(壮年の男)を出し、木綿で駕籠の担ぎ棒に結んで引っ張って上げる。嶺の上には村が時々在って板屋を設けて置き酒と茶を売る処も在ると言う。山中の村に至ると暫時休憩する所を準備して迎え入れた、即ち東月山宗聞寺であり、屏帳が皆整備されていて、茶菓を準備していた。庭の中には黄楊子二株を植えて銅の針金で枝と葉を結んで、或いは丸い扇子の形を作ったり、また暎山紅を手入れして角のある生け垣を作ったりして、花も真っ盛りで、珍木な樹木は生い茂り、変わった鳥達が清い声で囀り、此処は車を停めて楽しむべきところである」

 

 

 ここに出てくる東月山普光院宗閑寺というのは、徳川家康の祖母が眠る華陽院(駿府)住職の了的上人が建てた寺。かつて秀吉の小田原攻めのとき山中城の副将として戦い、戦死した北条家の家臣間宮豊前守康俊の娘(お久の方)はのちに家康の側室となり、家康に山中城三の丸址に亡父の菩提寺を建てたいと懇願。その意を汲んだのが了的上人というわけです。

 

 朝鮮通信使を招聘して日朝平和外交の基礎を築いた徳川家康ゆかりの寺院だけあって、迎える方も丁重だし、通信使側も満足していたようですね。厳しい峠越えと思われていた箱根路で、ほんのひとときでもくつろぐことができてよかったな・・・と思います。

 

 

 それにしても、竹道やら石畳やら、箱根峠道の整備事業には、今の静岡県東部~伊豆全域の民衆の労力が費やされたと思うと、大変な公共事業だったんですね。でも幕府に一方的に酷使されたわけではなく、民衆は「毎年の負担は大変なんです!」と言うべきことはきちんと言って、幕府側もそれに善処した形にもなっているわけで、徳川幕府が長期安定政権を築けた理由が垣間見える気がします。

 

 歴史から学ぶこと、本当にまだまだたくさんありますね。

 


朝鮮通信使の東海道難所越え(その1)~由比薩埵峠

2012-05-05 11:31:40 | 朝鮮通信使

 少し報告が遅くなりましたが、連休前の4月26日夜、静岡県朝鮮通信使研究会があり、北村欽哉先生から、朝鮮通信使の峠越えのエピソードをうかがいました。

 

 いつもながら北村先生の解説は、史料を徹底的に読み込んで比較検証する実にロジカルな解説で、大変勉強になります。先生からは、歴史というものに向き合う基本姿勢を教えていただけるようで、それだけでもこの研究会に参加する意義があると実感しています。これも、今の年齢になって理解できることかもしれません。中学や高校時代に北村先生の熱血授業を受けてもどうだったかなあ・・・。難しいですね、学習のタイミングって。

 

 

 それはさておき、今回は国賓の外交使節団・朝鮮通信使一行2000人が、東海道の難所である由比薩埵峠と箱根峠をどうやって越えたのか、というお話。2007年の映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の制作時に先生からレクチャーを受けていたので、おおよそのことは頭に入っていたのですが、今回、改めて、峠道を整備するという当時の土木プロジェクトの裏話を聞き、新東名を取材したばかりだったので、400年越しの比較が出来て実に面白かった!

 

 

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 まずは薩埵峠。東名高速・国道1号線バイパス、東海道線が並んで走る海岸沿いの要所で、渋滞や台風交通止めなんかのニュースで必ず耳にします。こういうところが通行止めになると日本の東西の大動脈が寸断されるため、山間部に新東名を作ってダブルネットワーク化を図った・・・というのは有名な話ですね。

 

 

 「庵原郡誌」によると、薩埵峠はその昔、“磐城山”と呼ばれていたそうで、万葉集に、

 「磐城山 直越え来ませ 磯崎の 許奴美の浜に われ立ち待たむ」(読み人知らず)

 と詠まれていました。この歌を素人が見せられても、静岡、ましてや薩埵峠を舞台にしているとは到底思えませんが、駿州名勝志という1786年に書かれた郷土史料によると、

 

 「いはき山は今の薩埵峠也。中古に地蔵菩薩の像、海人の網にかかりてあがる・・・故に薩埵山となづく、其以前は磐城山と云へるならん」

 とのこと。中古とは、北村先生によると、仏教が普及し、仏教関連の地名が増えてきた鎌倉時代ではないかとのこと。許奴美の浜とは、やはり駿州名勝誌の記述で、今の興津川河口付近を指すそうです。“興津の浜で待っているから山を超えて真っ直ぐ来てね”という女性→男性に宛てた恋歌なんですね。

 

 

 

 さて、その薩埵峠を超えるには、海岸の波打ち際を通る「下道」、途中から峠を越える「中道」、さらにその上の「上道」の3つのルートがありました。1732年に書かれた「東海道千里乃友」によると、

 

 「下道ハ親知らす子志らすなととて波打よする岩間づたひの難所也。今も塩干にハ人馬共に通る也。中道ハ明暦元年朝鮮人来朝の時開きたる道也。上道ハ天和二年に又朝鮮人来朝の節開かれ、今の往来する道なり」

 とあり、中道は明暦元年(1655)に、上道は天和二年(1682)に、朝鮮通信使のために開通させたことが判ります。

 

 

 

 では朝鮮通信使側の記録「使行録」では、この峠越えをどのように記述していたか。ここからが北村研究の真骨頂です。

 

第1回通信使(1607) 「(興津を)少し遅く発ち、海辺に沿って行くこと四里、藤川の浮橋を渡る」(副使慶暹著・海槎録より)

 

第2回(京都止まり)

 

第3回(1624) 「夜明けに出立し、海岸にそって道を換えて進んだ。海水が揺れ動いて雪のような波浪が岸を打ち、怒涛の音は萬馬が疾走するようであった。海辺の村舎が一里に渡って連なっており、皆塩を作る家であった。東に折れて富士山の麓を過ぎた」(副使姜広重著・東槎録より)

 

第4回(1636) 「平明発行。桟道若道。海濤噴薄。其下一夫荷戈」(副使金世濂著・海槎録より)、「平明発行。遵海岸過湯井機道。一辺海水春撞。雪浪噴激。一辺富士山麓桟道若線」(従事官プアンボ著・東槎録より)・・・夜明けに出発し、一本の線のような桟道(険しい場所に木をかけ渡した橋)を渡る。大波が噴水のように目の前を覆う・・・といった意味でしょうか。

 

5回(1643) 「寺を過ぎてからは道がだんだん険しくなり、海の傍らを行くと、波の花が降り注いだ」(癸未東槎日記より)

 

第6回(1655) 「一つの浜を過ぎるとそこには大海があり、その前を通る。朝日が初めてあがって赤い雲が取り巻いて、雪のような波が清らかで、帆かけ船を数えられるほどで、一筋の飛瀑が山麓から流れ落ちる。仰ぎ見ると富士山が馬首に圧し臨んでおり・・・。山の下を回って過ぎ、また富士川の浮橋を渡って・・・」(従事官南龍翼著・扶桑録より)

 

第7回(1682) 「・・・清見てらという。二里ばかり行き、九曲の大嶺を超えたが、名付けて薩埵山坂(此の地は駿河に属す)と言い・・・」(東槎日録ないし東槎録より)

 

第8回(1711) 「嶺を超えて海に沿って行くと・・・」(副使任守幹著・東槎録より)

 

第9回(1719) 「薩埵嶺を踰ゆ。嶺路から海を俯瞰し、ときありて風涛が崖谷にあたり、あたかも人を拍つが如くである」(製述官申維翰著・海游録より)

 

第10回(1748) 「寺の前の村の中に親不知、子不知という名称の二つの村があるが、其の名称が甚だ奇怪であり、此寺の僧が皆此れを隠していると言う。進んで一つの嶺を超えると、道は山頂を穿って出て、海が俯瞰されて甚だ危うい」(奉使日本時聞見録より)

 

第11回(1764) 「泥道を歩いて一つの険しい嶺を超えたが、此れが即ち薩陀岬である」(海槎日記より)

 

 

 

 ご覧の通り、第7回(1682)以降、「中道」や「上道」を通るようになったことがわかります。「中道」を作ったのは明暦元年(1655)、第6回のときのはずですが、通らなかったんでしょうか??

 

 

 

 そこで北村先生は幕府側の工事記録を再確認されました。「徳川実記」によると、

 

○寛永十一年(1634)正月25日に、仙石大和守久隆が道梁修築のため、駿州薩埵山と遠州本坂(姫街道)に派遣される。同年6月26日、徳川家光が30万の大軍を引き連れて京に向かう途中、蒲原御旅館(当時のVIP用の宿)を立ち、清水から久能山へわざわざ回って参詣をし、駿河に入った。

 

○明暦元年(1655)4月15日、小姓組柘植右衛門正直、江原与右衛門親全、佐藤勘右衛門吉次が韓聘(朝鮮通信使招聘)を目的に駿河薩埵峠道作奉行を命じられた。通信使一行は9月26日と11月5日に薩埵峠を通過した。同年12月11日、3名は薩埵山道整備の功績によって褒美をいただく。

 

○寛文二年(1662)8月4日、洪水で薩埵山が山崩れを起こす。8月26日、書院番柴田三左衛門勝興、佐野吉兵衛久綱が薩埵山修築奉行を命じられ、寛文三年(1663)10月26日に(工事が終了して)江戸へ戻る。11月18日に金と褒美をいただく。

 

 

とあります。つまり、薩埵峠は、通信使側の記録ではっきり山を超えたと判る第7回(1682)の前に、3度、工事が施されていたんですね。

 

 

 1度目(1634)はどうやら工期が半年かからない程度の簡単な舗装整備だったようです。そして目的は、家光が大軍を引き連れて京へ上洛するためだった。通信使は1607年、1624年にすでに通過していますが、いずれも海沿いの「下道」を通っています。

 

 

 2度目(1655)の工事は、ハッキリ“韓聘によって”と記されていますから、この年にやってくる通信使のために行ったのでしょう。しかしこのときも工期は5カ月足らず。前回の工事にちょこっと改修を加えた程度ではなかったでしょうか。しかし通信使の記録では峠を越えたという記述はありませんでした。

 おそらく、通信使一行は、行列の人員や荷物の多さもハンパなく、峠越えするよりも、天候が良ければ多少危険があっても景色が良くて歩きやすい海沿いの下道ルートを選んだ。明暦の工事は、万が一のためのバイパスを用意したものと考えられます。

 

 

 3度目(1662)は、山崩れという災害を受け、1年以上かけて、本格的な工事をしたと思われます。そして、しっかり整備された中道ルートを、第7回(1682)の通信使が使い、以降、海沿いを通ることはなくなりました。大人数で大量の荷物があっても、多少は歩きやすくなったんでしょうね。通信使が最後に通ったのは第11回(1764)のことでした。

 その後、幕末の1854年、安政大地震の後に海沿いの「下道」がふたたび一般に使われるようになりました。

 

 

 明治以降、東海道は国道1号線・2号線となり、明治22年(1889)に東海道本線の静岡県内区間も開通。昭和に入って高度成長期の1964年に東海道新幹線が、1969年に東名高速道路が開通し、今年2012年、新東名の県内区間が開通しました。今の薩埵峠はハイキングやウォーキングのルートとして親しまれています。

 

 長くなりましたので、箱根峠については次回。


ラジオシェイクでシンクロニシティ

2012-05-02 09:51:41 | 国際・政治

 昨夕(5月1日18時30分~)FM-Hiでオンエアされた『かみかわ陽子ラジオシェイク』では、日本の海洋資源をテーマに、「大陸棚」とか「排他的経済水域」といった小難しいキーワードを解説しました(こちらを参照)。上川陽子さんが議員時代に海洋資源の利活用について百年レベルの国家戦略をまとめ、ときの福田首相に提言をし、扇国交大臣から大陸棚推進連盟の事務局長を仰せつかっていた経緯があったからです。

 

 ラジオシェイクでは基本的に現在進行中の地域の課題をテーマにしているんですが、そもそもは、上川陽子さんという、日本でも極めて政策立案能力の高い政治家を、地元の人に正しく理解してもらおうという趣旨でスタートした番組。聞き手がプロのアナウンサーとか政治評論のできる識者なら、もっともっと陽子さんのクレバーな面を引き出せると思うんですが、私が相手では本当に役不足で申し訳ない限りです。

 それでも静岡の有権者にはイマイチ知られていない陽子さんの議員時代の地道な活動や、家庭を持つ女性が国政の場で実績を積むことの価値を伝えるお手伝いができればいいな、と、毎回必死に、陽子さんの“引き出し”からネタ集めをしています。

 

 

 海洋資源と大陸棚のネタは、打ち合わせの時、5月は金環日食があって静岡が絶好のビューポイントだというトピックスを取り上げ、それならば陽子さんが過去に関わった科学技術に関連した政策に話題を広げよう→陽子さんは海洋ネタの関わりが“深い”→大陸棚議員連盟時の仕事という、わりと単純な?ノリで取り上げました。

 ・・・といっても、「大陸棚」「排他的経済水域」等などのキーワード、尖閣諸島問題があったときは時々耳にしましたが、今はほとんど馴染みがないし、夕方のFMの番組で取り上げるには重すぎるかなあ~と若干不安ではありました。

 

 番組の収録は連休前に終わっていました。ところが4月28日(土)の新聞朝刊Img075一面トップの見出しに、なんと『日本の大陸棚拡大』。2008年11月に日本政府が国連に申請した大陸棚(7海域・約74万平方キロメートル)の拡大のうち、4海域・約31万平方キロメートルが認められたというニュースです。

 まだまだ認められない海域が半分以上残っていますが、それでも中国から「岩に過ぎない」とイチャモンを付けられていた沖ノ鳥島も、認定の基点として認められ(=島と認定され)、排他的経済水域200海里の外でも、公に、海洋資源の開発が出来るようになったわけです。長年、この問題に取り組んできた陽子さんは「本当に歴史的なこと…!」と感無量の表情でした。

 

 私は私で、国連の裁定がこの時期にあるとは知らず、さほど深く考えずにこの問題を番組で取り上げて、多少は基礎知識が付いたばかりだったので、このタイミングでこのニュースに接するなんて驚くべきシンクロニシティだとちょっぴり怖くなりました(苦笑)。惜しむべきは、番組収録前にニュースが届けば、本当にグッドタイミングな番組になったでしょう・・・。でも、このニュースは、陽子さんが種まきをし、芽がちゃんと育った証しでもあります。

 

 

 

 政治家はとかくキャラクターやパフォーマンスをとやかく言われることが多いけど、ちゃんと仕事をしている人かどうか見極めないな、とつくづく思います。もちろん、政治家も、自分の仕事や役割をきちんと伝える義務があります。そして広告業者も、国や行政の広報を請け負うときは、その財源が税金である以上、きちんと効果のある仕事をしなければいけない、と痛感します。

 

 

 この連休は、次回ラジオシェイクの台本作りで缶詰状態。お天気が悪そうで、お出かけ予定のみなさまはご愁傷さまです・・・。