芭蕉さん一行は多賀城跡を見学したのち野田の玉川・沖の石・末の松山を訪れたことになっています。
しかし現在においては実につまらない所です。
時間がなかったのでタクシー飛ばして見て回ったので省略するのももったいないので簡単に紹介します。
わざわざ行くような場所ではありません。
野田の玉川です。
以前は小川が流れていたそうですが見てのとおり、コンクリートの溝渠となってしまいました。
300年もの昔、芭蕉がこの流れのほとりに佇み何を思ったのでしょうか。
ゆうされば 潮風こ越して みちのくの 野田の玉川 ちどり鳴くなり 能因法師
(夕方になって潮風が海の方から吹いてきて、この奥州の野田の玉川では千鳥が鳴いているようだ)
沖の石です。
住宅地の真ん中に小さな池があり中に岩があり松が生えていました。
この情景は昔と変わらないのかな。
昔からの歌枕で江戸時代には番人も置かれていたそうです。
わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそしらね かはく間もなし 二条院 讃岐
(私の袖は、潮が引いても見えない沖の石のように、あの人は知らないがいつも涙で乾くことはありません)
末の松山です。大きな2本の松(恋する男女か)が生えていました。
裏がお寺になっていて墓石群があります。ここも全くつまらない。
この案内文に
「愛」の歌枕から玄宗と楊貴妃の故事を彷彿とさせ、すべてを無常に沈潜させていく手法は美事(みごと)である。
芭蕉の感動は「末の松山」のもつ歴史の重さを無視しては考えられないが、同時に「おくの細道」のこの行文は「末の松山」の歴史に新しい一ページを加えました。
とあります。
君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波も越えなじ
(末の松山は丘になっているので絶対に波は来ない
そこで あなた以外の人を好きになったらあの末の松山を波も越えてしまう)
どの歌をとってもあまりピントきませんよね。現在の朝日歌壇の恋歌の方がよっぽど面白い。時代が違いますね。
なにはともあれ歌枕には、古人の風雅の歴史が秘められています。
芭蕉はその歴史の跡を慕いながら「おくの細道」の旅を重ねていったようです。
ただ実際には多賀城跡から塩釜を先に行き、その後このコースをたどったみたいです。それの方が文脈が良くなっているそうです。
おくの細道(末の松山)前半部分
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造りて末松寺といふ。松のあひ々皆墓はらにて、はねをかわし枝をつらぬる契の末も、
終にはかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。
そこから野田の玉川・沖の石などの歌枕を尋ねる。有名な末の松山は、寺を建てて末松山(まっしょうざん)といっている。松の木立の間々はみな墓原で「末の松山波も越えなむ」
と誓いあった比翼連理の契の果ても、ついにはみなこのように墓石と化してしまうのかと思えば、懐古の念の上に無常の思いも加わり、悲しみの情も
ひとしおさまって、やがて恋の歌・無常のの歌で知られる塩釜の浦に出ると、おりしも無常のひびきを伝えるかのように、寂しい夕暮れの鐘の音が聞こえてきた。
(確かに末の松山で男女の恋の将来を無常に感じてから塩釜の鐘が寂しく聞こえたという方が文脈がいいですね。紀行文と言っても編集が大事です)
新暦6月24日のことです。