ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

奥の細道旅行譚(五大堂など)

2015年10月21日 | 旅行

松島海岸駅です。石巻に石ノ森漫画館があるせいか電車もカラフルです。

しかし仙石線は読みにくい駅名が多いようです。

榴ケ岡駅(つつじがおか)下馬駅(げば)東名駅(とうな)野蒜駅(のびる)など。

今回は塩竈から松島港に着いてからの散策です。

観光船発着場から海岸線を歩いてみましょう。

みやげ物屋さんが立ち並び松島でもかなり賑やかな場所です。

五大堂です。

五大堂にかかる透かし橋は縁結び橋ともいわれています。

日本全国いろいろ行くと何処にも縁結びの何とかというのがあります。

若い人はスマホにラインにツイッター、パソコンあやつっていても縁だけは神頼みということでしょうか。

五大堂は807年坂上田村麻呂の創建と伝えられています。

その後、慈覚大師が五大明王像を安置したことから五大堂と呼ぶようになったそうです。

現在の堂は1604年に伊達政宗が再建したものだそうです。

東北地方最古の桃山建築です。

反対側を振り返ると松島湾が綺麗に見えました。

さて奥の細道にも記載されている雄島です。

芭蕉さん一行は塩竈からここに到着したようです。

海を見ながら松島グリーン広場を通って雄島までは気持ちの良い散策コースです。

途中にイカの焼く、いいにおいがしていたり、ソフトクリームも美味しそうな売店が並んでいます。

夕方です。ここで何か食べると夜の酒が不味くなるので我慢しました。

赤い渡月橋を渡ります。大震災で流され2013年に再建。コンクリートです。

「悪縁を絶つ縁切り橋」とも言われてそうです。

また 縁 がでてきましたね。

芭蕉の句碑なども経っています。

雲居禅師の座禅堂

中世から「奥州の高野」ともいわれ僧侶や巡礼者の修行上となっていたそうですよ。

雄島は海岸から橋ひとつある突き出た島です。

したがってどこからも松島湾が良く見えます。にほんはこういう島影の風景は本当に多いみたいです。

松島はもっとゆっくり散策したいところです。

曾良の日記によれば最初、雄島に到着。茶を飲んだあと、瑞巌寺、雄島、五大堂など見学したことになっていますが芭蕉は塩竈神社と瑞巌寺の記事が続くことを避け独立性を持たせたようです。

それではまた奥の細道を読んでみましょう。しつこいけど。

奥の細道(松島)後半部分

雄島が磯は地つづきて海に出でたる島なり。雲居禅師の別室の跡、座禅石など有。将(はた)松の木陰に世をいとふ人も稀まれ見え侍りて、落穂・松笠など打ちけふたる

草の菴(いほり)閑(しずか)に住なし、いかなる人とはしられずながら、先ずなつかしく立寄るほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。

雄島が磯は、地続きに海に生まれ出た島である。雲居禅師の別室の跡、座禅石などある。また松の木陰に世のわずらいを避け隠居している人の姿もまれにみえて

落ち葉や松笠を焼く煙がうっすらとただよっているようす、いかにも閑静に住みなしている様子、どういう素性の碑とかわからないけれど

何より先に心を引かれて立ち寄るうちに、いつしか月が上がって海上に映えて昼の眺めとは違った景観だ。

江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ

海辺に帰って宿をとると海に面して窓をひらき二階造りになっていて大自然の風光のただ中に身を置いて旅寝するようで気持ちがいい。

予は口をとじて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるる時、素堂、松島の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解きて、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり

自分は待望の絶景に接しても、句を読むどころではなく、句作を断念して、眠ろうとしたが感激して眠れない。

旧友素堂が松島の詩を作ってくれ、原安適が松が浦島の和歌を贈ってくれた。頭陀袋をひもとき、それらの詩歌を取り出して今宵の心を慰め友とする。杉風や濁子のほくってくれた発句もあった。

コメント
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