塩竈神社にやって来ました。芭蕉さん一行も楽しみにしていた寺院です。
曾良の日記には 快晴 辰の尅、(午前6時頃)塩竈明神ヲ拝。と書いてあって早朝から参拝したみたいです。
陽暦6月25日 さて引続き秋の夜長です。
奥の細道(末の松山)の後半部分を読んでみましょう。前半は前回掲載済みです。
五月雨の空、聊(いささか)はれて、夕月夜幽かに、籬が島もほど近し。蜑(あま)の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」
とよみけん心もしられて、いとゞ哀れ也。
五月雨どきの空もやや晴れて、夕月がかすかに照らすなかに、歌枕としてしられるまがきが島もまじかに見える。漁夫たちの小舟が連ねて帰ってきて、
とった魚を分け合う声々を聞いていると、古人が「綱手かなしも」とよんだという、その心もおのずから思い知らされ、いちだんと深い感銘に打たれるのだった。
※「綱手かなしも」・・・古今和歌集(みちのくは いずくはあれど 塩釜の浦 漕ぐ船の 綱手かなしも)から引用
其夜盲法師の琵琶をならして、奥上るりと云ふものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど
さすがに辺土の遺風忘れざれるものから、殊勝に覚えらる。
その夜盲法師が琵琶をかき鳴らして、奥浄瑠璃というものを語るのを聞く。平家琵琶でもないし幸若とも違う。いかにも田舎びた調子を張り上げて語るのが、
枕元の近くにひびき、やかましくはあれど、考えてみれば片田舎に残された昔ながらの風儀を忘れずに伝えているものゆえ、奇特なことよ感ぜずにはいられなかった。
さて本塩釜駅を降りると綺麗に舗道が整備された塩釜海道に出ます。
登録有形文化財の丹六園 老舗が町並みをさらに盛り上げています。
昔この辺りは浜辺で芭蕉一行はここから船に乗り松島に向かったそうです。案内板だけですが。
海道を歩くと裏坂、七曲坂、そして表坂(表参道)と続きます。
せっかく元気なのだから表参道、202段の階段ですが何とか上りました。
古来より東北を鎮護する陸奥国一宮です。国の重要文化財です。
桜の名所でもあります。
パワースポットとしても注目されています。
文治神燈
奥の細道本文にも紹介されています。芭蕉もこれを見ているのです。感激。
舞殿
志波彦神社
一森山の麓に塩竈人神社に並んで祀られていて農耕・殖産を司られてきました。
境内からは「千賀の浦」がみえます。芭蕉は船に乗り松島を見学しました。
奥の細道碑 字がよく読めません。
塩竈神社博物館に入ってみました。
国指定重要文化財の太刀「来国光」「雲生」など光り輝いていましたが撮影禁止なので皆様には紹介できません。
芭蕉止宿の解説板
博物館を見学して裏坂を下ってくる途中です。「治兵(じへい)」という旅館だったとか。芭蕉が止まったというだけで旅館はなくなっても案内板まで出ています。ご隠居が東横インに止宿してもだれも気にもしませんが・・・
「翁、昨日は末の松山では感慨深そうでしたね」
「ウム。人の行く末はどんなに愛し合っても最後は同じだね」
「諸行無常の響きあり ですか?」
「曾良さんよ、福山雅治と吹石一恵だっていずれ夫婦げんかして最後は墓石の下に永眠してしまうのだよ」
「それを言っちゃ身もふたもないですよ」
「そうだね恋の真っ最中だと何も見えないからね」
「翁も深川の愛人と元気なうちは仲良くやってくださいよ」
「そんなのいねぇちゅうの!」
「ばかに塩竈神社に早く来てしまいました」
「期待した通りの素晴らしい所だね」
「少し時間がたったら茶店も開いてきました」
「お茶でも頂いていきましょうか」
「お茶だけとは言わずに団子でも。松島までには遠いので腹ごしらえしましょう」
「投資家のcisさん、あのジェイコム誤発注事件で注目され今や160億円の資産家だよ。彼でさえ昼はカップヌードルだそうです。昼に上天丼なんかでお腹が一杯だと相場観が狂うそうです」
「はいはい。翁はお腹減らしていないといい芸術はできないという主義でしたね」
「返事は一度でいいのです。ところで平成になって我々の足跡を訪ねているご隠居とはうっかり八兵衛とやらもこの茶店に寄ったのかな?」
「あいつらは団子食ったり大福ほうばったり、夜はホテルで大酒飲んでろくなもんじゃないですよ」
「それじゃ糖尿病でそのうちに死ぬでしょう」
「とりあえず芸術的なブログなんかはできないでしょう」
「美味しそうな三食団子ですね。ちょっといただいていきますか」
「さっきのお言葉とだいぶ違うような感じですが・・・・・・・」
「世の景気対策のために少しお金を使うのもいいかな」
「屁理屈は上手なんだから」
奥の細道(塩竈)
早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仭に重なり、朝日あけの玉がきをかがやかす。かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。
早朝、塩竃の明神に参拝する。この神社は、藩主政宗公が再建されて、社殿の柱は太く立派に、彩色を施した垂木はキラキラと美しく、石の階段は高々とつみ重なり朝日が朱塗りの玉垣を輝かせて、荘厳極まりない。このような道の奥、国土の最果ての地までかく神霊あらたかに鎮座しますこそ、わが神国の美風なのだと、いかにも貴く拝された次第であった。
神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に「文治三年和泉三郎寄進」と有。五百年来の俤(おもかげ)今目の前にうかびて、そぞろに珍し。
社殿の前に古い神燈がある。鉄の扉の表面に「文治三年、和泉三郎寄進」と彫ってある。五百年来の文字の跡に伝えられたその人の俤も今眼前に彷彿とうかんで、ただ無性に珍しく思われる。
※和泉三郎は藤原秀衡の三男。やがて行く平泉への伏線。
渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命今に至りて、したわずという事なし。誠に「人能道を勤め、義を守るべし。名もまた是にしたがふ」と云えり。
かれ和泉の三郎は、勇・義を兼ね備えた忠・孝両全の士である。その令名は、今日に至っても、これを慕わないものはいない。いかにも「人たる者はよく道を勤め義をまもらなくてはならぬ。名声はおのずからこれに伴うものである」と古語も行っている。
日既に午にちかし。船を借りて松島に渡る。其間二里余、雄島の磯につく。
日ははや正午に近い。そこで船を雇って松島に渡った。その海上2里余にして、雄島の磯に着く。